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灰色の境界  作者: 宵時
第四章「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」 「〝英雄(ヒーロー)〟とは言わないのだな」
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4-41 TRUE&BLUE

 少女も青年も、当たり前の日常として目の前に広がる惨劇の森を目にしている。

 俺自身にしてもそうだ。死の淵から救い上げられた形で、俺と小百合が生き残るためにたくさんの人間が死んだ。一方的に、抗いようのない異能で鏖殺(おうさつ)された。

 足の力が抜けていく。汚れなど気にも留めずに膝を折り、床に座り込んで手をついた。

「こんなの、ただの殺戮(さつりく)じゃないか」

 言葉と共に熱くなった目頭から雫がこぼれ、床に落ちて砕け散る。

 傍の、比較的綺麗な床に安置された小百合は未だに血を流し続ける傷を手で抑えながら、短く早い間隔で呼吸を繰り返していた。

 彼女は生きている。生き続けようとしている。

 だが、今ここに広がる光景を前に俺は余りにも無力だった。

 結果的に何もなせず、小百合に致命の傷を負わせるだけで和久を謝罪させることも、久音に然るべき罰を与えることもできなかった。

 地を滑り、水音を立てて近付く存在。足を止めた者が上方から声を落とす。

「何を嘆く。誰のために涙を流す必要がある」

「千影さん……」

青璃(せいり)。今しかないんだ。選ぶ瞬間は、今だけなんだよ」

 心配げな青璃の声は断ち切られ、少し離れていった。

 心なしか、離れる前に見えた機械天使メタトロンに繋がる鎖の姿が薄まっている気がする。

 見間違いだろう。顔を振って涙を飛ばし、毅然(きぜん)とした態度で挑もうと顔をあげる。

 出迎えた千影は悲哀の混ざった笑顔を浮かべていた。

「言ったはずだ。貴様の正義を示せ、と」

「言ったよな。だったら、なんで最後まで見届けてくれなかったんだ!」

「最後? 貴様が死ぬまでか。その少女が殺されるまでか」

「それ、は」

「貴様も理解していたはずだ。

言葉は通じる者と通じない者がいる。

薄々察していたはずだ。常倉一派に言葉など届かない。

殺し潰すしか道はない。そう思ったはずだ」

「違う! 俺は、こんな結末なんか望んじゃいなかったっ」

 叫ぶ。否定し、自らの奥底に眠る感情を散らせる。

 殺されていく黒服を見て何を感じたのか。愉悦たっぷりに、余裕をもって構えていた富豪達が逃げ惑うさまを見てどう思ったのか。精神の底に沈んでいた黒い影が鎌首をもたげる。

「醜かっただろう? 金持ち共も自分の命が惜しい。

だが、どれだけ富んでいても優雅たる階級にいようと

私の前には同じ。断ち切るべき罪を分けて考えることはない」

「でも、何も殺さなくても……無力化するだけ、で」

「どうなると思う。仮に連中を全て捉えて警察に引き渡したとして、だ」

 混濁する頭で必死に思考する。本能が目の前に立つ存在に畏怖し、一分一秒一刻でも長く生存したいと望み、願って会話による時間の引き伸ばしをさせていた。

 考えろ。考えるんだ。思考を止めてしまえば、終わってしまう。

 常倉一派は地元警察を金の力で掌握していて、その資金源は富豪達であって。

 富豪達の口ぶりを思い出す。彼らの言う宴を続けるためには、新しく同様の輩を雇うよりも既に一定の人脈ができている常倉を使う方が早い。

 導き出される結論を、口にすることはできなかった。下唇を噛む。

「そうだ。保釈され、判決を操作されて何事もなかったかのように舞い戻る。

その礼として新たな生贄が捧げられ、連中の言うショーが繰り返されていただろうな」

「それでも、捕まったことに懲りて考え直すことだって、あるかもしれない」

「〝かも〟しれないな。が、諦めずさらに体制を強化した場合はどうする。

誰が責任を取るのだ。捕縛した者か? 裁いた人間か?

それとも息の根を止めなかった者か。誰が贖うのだろうな」

「極論、だ。改心しないからといって、殺していい理由にはならないっ!」

「そうだな」

 あっさりと告げて千影は瞑目し、すぐに(まぶた)を開いた。

「問おう。全て、貴様の言う通りに争いなく進んだとして貴様自身は(ゆる)せたのか?

自らを虐げ、友人を殺害した者を駆逐したいと一瞬でも心に抱かなかったと断言できるのか」

「……俺、は。俺は」

 すぐに答えることはできなかった。不快感を覚えないはずがない。

 憤怒が良心を焼かれないはずがない。

 それでも、ただ暴力に訴えることだけは避けていた。

 避け続けていた。その理由も、本当は理解できている。分かっていても遠ざける。

「言葉の刃は、相手よりも優位に立って初めて有効に機能する武器だ」

「だから、あなた達は圧倒的な武力で殺し尽くしたのかっ!」

「そうだ。連中に更生の道はない。その心構えすらない。

更生の誓いを立て、破った輩を吐いて捨てるほど見てきたし、

その連中は揃って自らが抱く(けが)れた欲望に染まっていた。

染められていたが故に、悪逆たる道に走るしかなく、また

戻るという選択肢を捨ててしまった。常倉にしても同じだ」

「違う……違う。彼らも、被害者で――」

「何度も繰り返させるなよ。確かに、連中は一時迷える者を救い、道を示したのかもしれない。

だが実態は自らの欲求を満たすべく、都合よく手駒として扱えるよう基盤を作ったに過ぎない。

代価として警察機構を支配し、操っていた惨状には申し開きのしようもないだろうが」

「それでも」

 それでも父親は、来々木 啓志は真正面から向き合おうとしていたはずだ。

 命を奪うという最悪の選択を取らずに、言葉の力を信じて魂の底に呼びかけた。

 結果的に届くことはなかったが、善性を信じ抜いた意志を否定することなど許せない。

 唾を飲み込む。思考をまとめる。

 いざ、啓志の抱いた想いを吐き出そうとした時、千影は眩しそうに眼を細めて俺を見ていた。

「駄目だな……この期に及んで、祈りや願いなどという幻想を信じているようでは、な」

「ま、だ何も言って、ないの、に」

「分かるさ。貴様の目は理想主義者の意を宿している」

 背筋に冷たいものが流れ、落ちていく。首筋に鋼の感触すら覚えさせられていた。

 対峙する者として立ったからこそ分かる。人の(ことわり)から外れた者の中でもさらに異質。

 だからこそ異能を操る者達を率いて、悪と断定した存在に立ち向かえるのだと。

 千影の瞳が放つ輝きは、そのまま相手の精神を刻む斬撃となる。

「断言しよう。貴様の父親の願いは尊く気高いものだった。

だからこそ、下劣な連中にとっては何の役にも立たなかった。

武力が支配する世界に丸腰で飛び込んでも、ただ生餌となるだけだ」

「届くと、信じていたんだ。だって、願いも祈りもないなら、この世界は

ただ強い者が弱い者を食べ尽くす原初のルールに縛られたままじゃないか!」

「その通りだよ」

 澱みなく、竹を割るように千影は言い切った。

「どのようなお題目を並べても力は他よりも圧倒的な強さを持つ。

人は己という存在を維持するために、弱者たる他生物を飼い慣らして

食料とし、日々を生きる。常倉にとって、暴力に支配される者達は

さながら豚や羊程度としか認識していないだろう」

「違うっ! 俺も、父さんも町の人達も家畜じゃない!」

「抗わず、ただ存在しているだけなら置物と変わらんな。

屠殺(とさつ)される順番を待つ家畜よりも価値なき存在か?」

「……そうやって、周りを下に見て! ただ殺人を正当化したいだけなんじゃないのかっ」

 弱いことは罪なのか。強くなければ存在することすら許されないのか。

 間違っている。そんな、武力だけで生き残るというのであれば法の治世など無意味になる。法律という善悪を分かつ枠組みこそ価値を失ってしまう。

 これまで、信じていた世界が外枠を砕かれ崩壊していく。

 千影の赤黒い瞳が揺れる。

 他者を見下す侮蔑の視線ではなく、悲哀の色を滲ませた嘆きの色合いだった。

 じくり、と胸が痛む。血が踊りうねって、管を内側から破らんとするも、すぐに収まった。

 代わりに擦り剥いたような、断続的な痛みに苛まれる。

 ほぅ、と千影が小さく息を吐いた。

「いつまでも貴様と正義理論をぶつけても仕方ない。

互いの根幹が違う以上、絶対に交わることはない。

私は力を持ちながら行使しなかった貴様を許せないし、

貴様もまた殺人という罪で人を裁くことをよしとせず、

我らを許さないだろう。分かり切っていたことだが、な」

「当然、だ。お前たちなんか、まとめて絞首台に送られればいい」

「できうるなら、逃れたいものだ。どうせ、後数年の命だからな」

「…………は?」

 間の抜けた言葉が漏れ出す。何を言ってるんだ。

 なんてくだらない言い訳をしているんだ。

 多くの人間を殺しておきながら、然るべき罰を逃れて、どうせ死ぬから関係ないと?

「なんだそれは、ふざけてるのか。そう言いたげだな」

「戦隊モノの悪役でも、まだマシな言い訳をすると思うよ」

「そうだろうな。あれは〝正義〟に〝悪〟が駆逐されるのだから、悪は明確な敵意と

害意を持って立ち向かわねばならないし、正義は必ず悪を根絶やしにせねばならない」

「刑罰逃れの与太話じゃなかったら、なんだっていうんだっ!」

「……貴様は、そこの娘が何故死なないのか疑問に思ったことはないか」

「一体、何を――」

 言っているのか。いや、待て。

 何故千影が俺達を救ったのか。

 どうして小百合は俺の前に立ち塞がって体を盾にし、守ったのか。

 集う狩人たる少年少女と、青年の持つ異能。小百合の持つ異能。

 十代後半と思しき千影が見せた圧倒的な異能。

 俺は既に見ている。小百合という、人のくくりを越えて境界を切り拓いた存在を目の当たりにして、異能の実在を身をもって感じ取っている。

 異常な光景が、異質な力が全て同じ場所へ帰結し、生まれいづるのだとすれば。

 全身が震える。畏怖に歯を打ち鳴らす。噛む。それでも口にせねばならない。

「……お前たちも、全員が(いわ)われた、存在なのか」

「イエス、でありノーでもあるな。私は〈呪われし忌子達(クラッドチルドレン)〉と呼び、自称している」

「クラッド、チルドレン……」

「そう。貴様の思考が至る通り、貴様もそこの娘もクラッドチルドレンだ」

「俺が、小百合と同じ……?」

 馬鹿な。俺が、小百合と同じ不死に近い存在なら何故守られたのだ。

 守る必要などなく、傷を負っても無事だったのではないのか。

 (ある)いは、何らかの異能が働いて防げたのではないのか。


――意味なく小百合に致命傷を負わせただけなのではないのか。


 左胸に激痛が走る。傷口に刃を突き立て、抉るような痛みが連続する。

 苦痛から逃れるように血と汚泥の染み込んだ床に手をつき、立ち上がって走り出す。

 大仰に空間に姿を見せている機械天使メタトロンの下へ駆けていく。

 浮かぶ機械天使は幻影のように揺らいで薄れつつあった。自らと床とを繋ぎ縛っていた鎖も失われている。消えない左胸の(うず)きを抱え、焦燥感に焼かれ滑り込むように小百合の下に辿り着く。

 降り続く雪に重みを足されていてもなお、小百合の体は軽かった。

 抱きかかえる腕が感覚を失ったかのように存在を感じられない。

 それこそ、消え逝く運命にある雪の結晶を掴み手中に収めるべく足掻(あが)く行為だった。

 左腕だけで抱いて、少女の白磁のような肌に触れる。雪に濡れ、凍える大気に晒され冷たい。

 人間的な温かみを持たず、生者たる暖かさもない。

 渇きかけた血の痕をなぞり、手を掴む。温度を感じられない。存在を確かめられない。

 手から離れ空へと昇る喪失感が痛む胸に新たな棘を突き刺していく。

 足音が響く。彼らが、千影達が近付いているのだ。

 静かに、一定の間隔で刻まれる音は死を司る神の足音にも思えた。

「小百合」

 呼びかけるも反応はない。眠っているかのように瞼を伏せたままだった。

 手を握る。握り返して来る力はない。さらに力を込めていく。

「小百合っ!」

「……いたい、よ」

 薄らと瞼が開かれる。揺れる瞳の焦点は合わず、俺の姿を捉えられないようだった。

 見えなくてもいい。聞こえなくてもいい。痛いと言われても、なお手に力を込める。繋がっている箇所が、掴む感覚だけが俺と小百合を世界に繋ぎ止める実在の証明だった。

「だから、いたい、って」

「小百合……助かる、んだよな? 大丈夫なんだよなっ」

「どうして、そんな顔してる、の? 勝ったんでしょ。もっと、シャキッとしなさい、よ」

「……俺は、何もできなくて、ただ、小百合に怪我させて」

 不死だったはずの少女は死に瀕している。

 俺の手を握り返す小百合の手は、箸ですら満足に支えられないほど弱々しいものだった。

 俺の視覚が脳へ伝達する。出血量はとうに人命を維持できぬレベルであり、この場この状況で流出した命を戻す術はない。聴覚は判断を下す。脈打つ心臓の鼓動は少しずつ弱まっており、直に活動を止めてしまう。触覚は冷酷に語る。失血と寒さで体温は奪われ、不死めいた傷跡はなく、肉体の損傷が再生される様子もない。

 嗅覚は濃密な血臭で機能を奪われ、ただ死の気配を伝えていた。

 抱いた小百合へとゆっくり顔を近付けていく。

 触れるか触れないかの、ほんの一瞬だけ。口の中に鉄の味が広がる。

「どう、したの? ホントに……変な、の」

「……ごめん」

「謝るなら、最初からしちゃダメ、だよ」

「すまない」

「それじゃ、同じだって」

 小百合が苦笑する。多分、俺も泣き出したいのを堪えて無理に笑っているのだろう。

 余りに冷たく、触れた距離に反して埋められない溝を痛感させる感触だった。

 近付いてきた足音が止まる。視線をあげると、悲哀に揺れる千影の瞳に出迎えられた。

 隣には青璃が小刻みに鼻をすすりながら、必死に堪えている。撤退を命じられたはずの二人の少女、神坂 八千翔(やちか)と切田 (うい)も得物を置いた丸腰で青璃の傍に控えていた。

 まだ俺は思考する。小百合の命を繋ぎ止める方策を探す。

 千影が久音を貫いた後、青璃へ命じた言葉を思い出す。推察が間違っていなければ、機械天使メタトロンが保有する〝繋ぐ〟力はあらゆるものを現世へ固定することができる。

 例えば、人の命であっても繋ぎ止めることが、できる。

 縋るように頼み込もうとした視線も、青璃が瞼を伏せたことで拒絶されてしまった。

「残念ながら、顕現制限を超えた。

それに、メタトロンの力も一時的なもので、キミの大切な人は

傷を負った時点で既にクラッドチルドレンたる資格を失っていたんだ」

「……憑き物が、落ちたということ、か」

「命の流出は不可逆のものなんだ。それでも、ボクにとっては、」

 軽薄さすら感じさせる口調を封印し、真っ直ぐ答えた青璃が咳き込む。

 心配そうな顔で八千翔と初が傾ぐ青年の体を支えようとするも、当人が拒絶した。

 口元を抑えていた手を背中に隠すも、手のひらに付着した鮮血を見逃すことはなかった。

 あれだけの力を、代償なしに行使できるはずもない。

 千影がポケットから眼帯を取り出し、見もせず青璃へと投げる。

 受け取った青璃が何事もなかったかのように綺麗になった手で右目を眼帯で隠す。

 いつの間にか、メタトロンは現世から消滅してた。

 手に微かな感触。視線を戻すと、小百合が小さく咳き込みながらも微笑んでいた。

 視界が歪む。目の前に映る像が揺らぐ。

「……亮。ヒトは、いつか必ず、死んで、しまうもの、なの」

「分かってる。だけど、今じゃなくてもいいだろ? こんなに、早くなくてもいいだろ!」

「ううん。私は、ここまで。ずっと前から〝そう決まっていた〟から」

「……分からない、よ。俺には、小百合が何を言っているのか、分からないっ!」

 何故小百合が死ななければならないのか、理解できない。

 どこにも死ぬ理由なんて見当たらない。

 違う。俺のせいだ。俺が選ばなかったから、倒せるだけの力があったのに拒絶したから。

 常倉と同じ暴力を振るい武でねじ伏せる行為を否定したから。

 学校で命を狙われた時、追われて街中で殺されかけた時。もっといえば教室で支配者然としていた時。武力を肯定し、行使するタイミングはたくさんあったはずだった。

 否、それでも選ぶことはできなかっただろう。

 何もないと自らを否定し、内面を見つめることなく遠き幻想を追いかけ、叶うはずのない願いを抱いてただただ闇の中を走り続ける道を選択してしまった。

 俺は何かになろうとしていたのではなく、幻想に重なることを夢見ていただけだった。

 唇を噛む。絞り出すように、肺の空気と一緒に精神の底に抱いたものを吐く。

「間違っていたんだ。最初から、連中と話し合う必要なんか、なかった」

「それは、違うよ。亮。だって、自分で、辿り着けたのだから、ね」

「でも、無理だ。こんな世界、俺は……」

 信じていたセカイは砕けて散って逝った。

 悪と悪が喰い合い、より強く禍々しきものだけが残るのであれば、どこにも正義などない。

 幼い頃にテレビ越しに憧れ、思い描いた理想のヒーローなど、この世界のどこにも存在しない。

「ダメだよ。生きなきゃ。死んじゃったら、何もできないんだよ?」

「……じゃあ、小百合だって! 生きたいだろ? 死にたくなんかないだろっ」

「いたい、よ」

「痛いだろうさ! だって、生きているんだからっ」

「……ね。お願いだから、やくそく、して」

「嫌だっ! そんな、別れの言葉みたいなこと」

 視界の歪みが現実を隠そうとする。振り切り、視界を確保する。

 否定してはいけない。目の前の事実を受け止めなければならない。

 だが、現実を受け入れたくはない。小百合は死んではいけない。生きなければならない。

 それとも、小百合は俺に自らを殺した罪過を背負って生きろというのか。

 小百合を殺した現実に立ち向かっていけというのか。

 小さく、本当に僅かに首を動かして小百合が俺の言葉を否定した。

「いきて、いれば……かならず、いいことが、あるから」

「ない、よ。小百合のいない世界に、俺は何を望めばいいんだっ!」

「まだ、たどりつけて、ないと、おもうなら、めざさなきゃ」

「……俺は、父さんのようになりたくて、だけど、なれなくて」

 小百合の首が動く。ゆっくりと、右へ傾けられた。

 さらに左へ傾けられていく。余りにも緩慢に過ぎる否定の仕草であった。

「だったら、ならなくちゃ。どんなかたちでも、いのりを、かたちにかえる――」

 〝    〟に、ならなくちゃ。

 意味を、込めるべき願いを与えられず空白のまま、最後の言葉が世界に零れていった。

 聴覚は感じ取った。痩せ細った少女の肉体から、命の脈動は聞こえない。視覚は捉えた。安らかな死に顔を見せる少女を。触覚は悟らせた。二度と温度を取り戻さぬ、遺体に宿る冷たさを読み取って魂まで凍り付きそうだった。

 ゆっくり、ゆっくりと息を吸って、吐く。

 あの甘く柔らかい香りは、もう感じ取れなかった。

 抱え続けたものを溜めたまま、空を見上げる。

 はらり、はらりと雪が舞い踊って死の運命を抱えながら地を目指す。

 落ちていく結晶は空気中の水分を吸って潰れ、雫へと変わって落下する。

 流れゆき、切れ間を見せない曇天を眺め続けていた。

 同じ境遇に陥り、同じものを見て、同じ世界を歩いて、同じ場所に生き続けるはずだった。

 少女と少年は決定的に分かたれ、違う道を歩き始めるしかなかった。

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