4-39 狂城崩壊
苦しんでいるかのように浮遊する銀の球体が蠢く。
波打って揺らめき、無数の凹凸が生まれては弾ける。
この世に生まれることを望んでいるようで、願われず拒絶され続ける。
肯定と否定の狭間に囚われ、絡みつく鎖から逃れられない。
出現したものの一向に攻勢を示さない不可思議な球体を前に、拳銃を構えたままの久音が小さく笑う。
「マジックショーは早々に幕引きかねぇ」
「慌てるな。私も〝まだ扱いに慣れて〟いなくてな」
「減らず口を……お前達っ!」
久音の呼びかけに応じて黒服達が銃器を手に包囲網を展開する。
顔には二色の恐怖が入り混じる。久音に従わぬことで訪れる罰に対するものと、圧倒的な力を示した千影に立ち向かわねばならない現実に対するもの。
無数の銃口を向けられた千影は、あくまで床に突き刺した黒刀の柄頭から手を離さない。まるで彫像のようにただ立って、銀の球体の変化を待っていた。
黒服達の唇から抱えた恐怖が漏れ出していく。
「こいつに銃なんか効かないんじゃ……」「馬鹿野郎、弱音吐いてると粛清されるぞ!」「で、でも炸裂弾も防いだんだろ? 人間じゃねぇよ」「なんだぁ、やる前に諦めるのかよ」「久音様の命に背けば殺す前に殺されるぞ!」「どうせやられるならよ……」「はっ、はははあぁ、死ぬんだ。どうせ死んじまうんだっ」「間抜け、やめろっ」
生への渇望と死への畏怖。同類の凄惨な死を前に動揺を抑えられず、一度流れ出た感情は同様の願望を精神の海に湛える者達を刺激していく。
「ふん、愚か者共め。世迷言を吐く暇が
あるなら、さっさと逃げておくんだったな」
「どちらが、戯言を並べ立てているのかねぇ……」
「貴様だよ、常倉 久音」
千影の宣告を耳にして久音の表情が凍り付いた。
同時に、銀の球体が爆音を立てて弾け飛ぶ。
銀の飛沫をあげ、球体だったものが上空へ散っておく。
「なんだい、季節外れの花火を打ち上げて終わりかい?」
「いいや。タイムオーバーだな」
「そうだねぇ、いい加減堪えられそうにないよっ!」
斉射の合図と思しき久音の叫びと銃声に重なるように地鳴りが響いた。
建物そのものが振動し、地震が起きたような圧迫感に襲われる。轟音と共に天井が崩落し、三階部分の床が瓦礫の雨と化して降り注ぐ。黒服達の一部は自らの命を優先して逃げ出し、一部は久音を守ろうと肉壁を志願し、残りは破壊を前に茫然と立ち尽くしていた。
俺自身もまた動けない一人であった。鮮血を流し続ける小百合を置き去りにはできなかったし、また俺一人で逃げ延びる選択肢など頭になかった。
そんな当人の思惑を無視して、浮遊感に襲われる。小百合を抱きかかえたままの俺が、さらに別の存在によって運ばれていく。
部屋の隅まで移動させられ、俺と小百合の体は羽毛よりも軽やかに優しく床に降ろされた。染み一つない床を中心として円状に見えない壁があるように、降り注ぐ瓦礫が俺達を避けていく。
違う。守られているのだ。開かれた視界の端に羽が見える。ただし、鳥のような柔らかさはなく無数の金属板が折り重なって形成された青白い機械の翼だった。
「さ、ここならもう安全だよ」
頭上から声が落ちる。が、声の主を確認するよりも目の前に広がる光景に目を奪われていた。光幻瞬く幽世の世界が顕現している。
逃げ惑う黒服達は瓦礫に潰されるよりも先に輝く銀の槍に貫かれていた。 頭から尻まで、或いは斜めに突き抜けて床に突き刺さっている。
無数の磔刑が執行されていた。
串刺しになっただけではない。体の内側から無数の矛先が突き出て、遺体を紅に染め上げていく。銀の枝を持つ赤い樹木が乱立し、林を形成している。
逃げ遅れた観客の富豪達も煌びやかな宝飾品を添えて森林の一角を担っていた。
「ば、化け物め……」
瓦礫の雨から逃れ、致命の一刺しをも回避した久音が悪態をつく。
言葉とは裏腹に顔には刷毛で塗ったような恐怖が貼りついている。
この世界にあらざる力と異様な光景に総身を震わされているのだ。
一方で、和久は他の黒服が先立った末路を追って鮮血色の華を咲かせていた。
「げべっ、えほっ、ごほっ……」
「ハッ、坊や。坊やああぁぁぁっ!」
「ま、ま」
胸に腹、股の間と両方の手足から血塗れの枝を生やす和久が死の痙攣を起こす。
複数の臓器を損傷し、告げられたように医師の助けも望めぬ環境では終わりの結末を避けることはできなかった。
各所で貫かれた者達が身を震わせ、すぐに動かなくなる。
抜けた天蓋から雪が舞い落ちる。磔刑に処された者達の震えは寒さではなく、この世界に残した最後の意思表示だった。無意識に体を震わせる。
俺を襲った寒気も気温変化からではなく、目の前の光景から引き起こされた。
一瞬で久音を除いた関係者を殺害した千影に対して純然たる畏怖を抱いている。
殺戮を行った張本人はようやく瞼を開き、黒刀を引き抜いて虚空を切り裂いた。
「ふむ。ブリュン・ボルクとでも名付けておくか」
「名前つけても二度目使うことはないんじゃないですかねー」
「それもそうか。特性上、また出るとも限らないからな」
俺の背後に立つ人物が間延びした声で千影と会話を交わす。恐らく、いや問うまでもなく千影の仲間なのだ。背中からも強烈な意志の波動を感じる。
千影が目を細めて眺める中、久音は身内を失った慟哭に打ち震えていた。血に濡れる和久の瞳は暗く濁っている。遺体に縋りつき泣き叫ぶ母親の姿を見ても、俺は何も感じていなかった。すぐ近くにある恐怖に耐えるため、精神があらゆる情動を感じ取る機能を遮断しているのかもしれない。
「あー、もしかしてキミが殺りたかったのかなー?」
また頭上からの声。振り返るのが怖い。
それでも、今更どこに逃げようと言うのか。
縋るように小百合を抱く手に力を込める。小百合は、瞼を閉じて短い間隔での呼吸を繰り返していた。流れ出る血は留まり、青白い光が矮躯を包み込んでいる。
「どんなに大事でもあんまり抱きしめちゃ駄目だよー。
あくまで、応急処置に過ぎないから。優しく、ね」
「あ、あの……あなたは、」
「ん。どうしたのかなー」
背伸びをするようにして声の主を視界に収めることはできたが、続く言葉を失ってしまっていた。俺の背後に立っていたのは千影と同年代くらいの青年。
肩口まで伸びた藍色の髪にライトグリーンの瞳。だが、片方だけで右目は淡い輝きを放っていた。本来、眼球のあるべき位置に意匠化された文字の浮かぶ球体がはまっている。
さらに背後には青白い機械の翼の持ち主が荘厳たる姿を魅せていた。
顔に当たる部分はフルフェイスマスクに覆われ、目や口のある中心部に十字架のスリットができている。奥からは幽鬼のような蒼い炎の一つ目が見えた。
翼を持った騎士甲冑のような要望だが、剣も盾も佩いていない。代わりに体の至るところから鎖が伸び、床に繋がっていた。建物が完全に崩壊しないよう支えているようにも見えたし、制御するため地面へ拘束する縛鎖にも見えた。
機械天使を背に従える青年が柔和な笑みを見せる。
「ボクは天海 青璃って言うッス。
あ、このごっついのはボクが招いた天使メタトロンね」
「は、はぁ……」
「あー、呼び難かったら〝セイリス〟って呼んでもいいッスよ?」
「そ、そういうことではなくてっ!」
従えている天使らしきモノや、名前や愛称のゴリ押しとかはどうだっていい。
小百合を守り、維持してる力もメタトロンとやらの力なのか。応急処置だというのであれば根本的な治癒、もっと言えば傷を塞ぐ力ではないのか。
元より久音に雇われ傭兵として動いていたはずの千影が何故叛旗を翻したのか。
久音が痛烈な口調で問うていたが、俺自身も千影に問いただしたい気持ちでいっぱいだった。
「あー、うん。大体キミの言いたいことは分かる。でもねー」
告げながら、青璃が俺の手に触れる。暖かい。空から降り注ぐ雪と入り込んだ外気のせいか、余計に人肌の温もりを感じた。そんな優しさを覚えさせられている間に小百合を抱いた手が引きはがされていた。
青璃はゆっくりと抱えた小百合を床に安置する。背後に付き従うメタトロンは一言も発さず、甲冑に包まれた体を動かすも全くの無音。
この世界に実体がないような、夢現に住んでいるようだ。
いや、メタトロンという存在を確かめるよりも青璃だ。
小百合を抱いていた手を、青年の手が掴む。
「キミは見届けなければならないんだ。今から起きる、全ての出来事を」
今度は語尾を伸ばすことなく、真剣な表情で語りかけてきた。
青璃の視線が動き、俺も後を追う。千影と久音は変わらぬ位置で、それぞれの状態を保っていた。雪が舞い落ちて和久の死体に触れて溶け消えていく。
喪失の慟哭を叫び、悲哀に打ち震える久音を千影はただ見つめるだけだった。
そこに慈愛や自らの行いを悔いる素振りはない。啓志に化け、俺を殺そうとしていた男と同じ、虫を見下ろす下等生物への軽蔑が視線に込められていた。
「ああ、ああ……どうして、こんなことにぃっ!」
「気は済んだか」
「……何、なのです。貴女も同じように言うのですか」
「何の話だ?」
奪われ、憎悪に打ち震える感情を堪えて問う久音に対し、千影の応対は淡々としていた。今まで何度も繰り返してきたような作業感すら覚える。
俺の隣に腰を下ろした青璃は説明することなく、二人の動向を見守っていた。
久音の精神に沈殿した燃料に火が点き、一気に燃え上がっていく。泣き腫らした真っ赤な瞳で、流した涙の跡も消さずに感情を吐き出す。
「あの餓鬼と同じ、法律を盾にして正道を並べ立て
正義を気取るのかって聞いてんだよぉっ!」
「はっ……何かと思えば、そんなことか」
「まともな支援も寄越さない、腐った政府の代わりに救ってやったんだ!
右も左も分からない、失って何も行動する気力を持たない。
動こうにも手のひらには何もない。そんな愚図共に当面の目標を与えて
動かしてやったんだ。言うなれば舎弟に抱え込んでやったのと一緒なんだ。
自分のものなんだから、どうしようが勝手だろうが!」
「ごちゃごちゃと煩い奴だな。知ったことか」
「なん、だって?」
再び表情を凍り付かせて久音が問い返す。
対する千影の瞳が宿す色は変わらない。
変わらず久音を羽虫以下のゴミクズだと見做している。
「貴様が何をやったとか、誰を助けただとか、そんなことに興味はない。
現実に抑圧と恐怖に苦しめられ、自由を欲する者達がいる。
彼らを縛るゴミが沸いている。ゴミは取り除かれなければならない。
元々貴様らに近付いたのも正確な勢力を把握するためで他意はないよ」
「……最初から、こうする、つもりで」
「阿呆にも分かりやすく言ってやろう。
勢力さえわかればさっさと消し飛ばすつもりだった。
が、あの小僧が正義を示したいという。
どんなものかと見届けてやったらなんてことはない、
力もないのに好き勝手に夢想論を説くコドモダマシだったわけだ。
いや、子供なんだから児戯に等しい戯言でもいいのか」
「そう、でしょう。私達は正しい。ならば、どうして邪魔立てを……」
「頭の足りん奴だな。貴様の初期行動は確かに被災した者達を救っただろう。
生きる希望を与え、役割を与えて働かせたのはいい。その労力に
見合う対価を得るのも、調子付いて恐喝し過分に奪い取るのも別にいい。
が、何を勘違いしたのか人命を弄び始めた。それじゃあ駄目だな」
千影が黒刀の切っ先をあげる。向けられたのは大画面のあった場所。
今は崩落し、外側に瓦礫が崩れてなだらかな坂になっていた。
「正義だとか悪とかはどうだっていい。
そんなもの、見る側によってどうにでもなる。
よくあるヒーロー物でも最後は敵対勢力を親玉ごと叩き潰して終わりだ。
途中で話し合いとやらによるやり取りや、和解やら裏切り者の粛清やら
あっても結末は変わらない。結末に据えられる場面は実にシンプルだ。
正義の旗の下に、悪だと決めつけた存在を殲滅するだけなんだよ」
「……何が、言いたいのです」
「力なき者に正邪の道は語れない。だから私が説いてやるのだよ。
無意味な殺人を繰り返し、これからも遊びのように犠牲者を
生み出す〝悪〟を放逐することはできない」
「だから、殺す……と?」
「貴様らだって延々とやってきたことだろうが。
単に、今回は殺され滅ぼされる側に回っただけという話だ。
そんな単純なことも分からんのか、大虚けが」
「ふざける――」
千影の言葉に怒りのボルテージをあげ、掴みかかろうとした久音の声が途切れた。信じられない、という風に自らを貫く黒刀へと視線を下ろす。
正面から突っかかった久音の心臓を無慈悲な処刑の刃が貫いていた。