4-37 絶望輪転
俺は何も変わっていない。誰かの助けを待ち、起こりもしない奇跡に縋りついて祈り跪いていた頃と変わらず無力なままだった。
自覚している、常人よりも秀でた力は攻勢面では全く生かされていない。周囲の存在を感知し、回避することには長けていてもいざ踏み込むとなると躊躇する。
何故なのか。自問する。
暴力を振るえば、武に訴えれば連中と同じ闇へ堕ちる。
だが、目の前に広がる現実は暴力を否定してはくれない。和久は当初言葉を操り、脅した者達を手足として精神を削り取ろうとした。実を結ばず、焦れて力に訴えた。それらを掻い潜ってここまで来たが、分かったのだ。理解してしまった。
脳内で繰り返し響く。この世界には、どうしようもなく言葉での殴り合いでは解決しない巨悪が存在している。彼らは暴力を肯定し、卑劣な行いを抱きながらも生きるためには仕方がないと正当化する。
武をもって対峙するのだから、最初から対話など望めるはずもない。
挑んだ結果がこれだ。
先手を打たないから、連中の好きなように踊らされている。
――往くがいい。その正義を示すために、な
藍色の鞘に収まる日本刀を携えた若い女、九龍院の言葉が俺の精神をさらに深い場所まで抉り切る。笑みと共に放たれた言葉は、この結末を予測していたのかもしれない。
頭を振って耳奥に残り響く声を払う。
常倉に雇われている以上、九龍院も向こう側の人間なのだ。
自ら選択した悪辣さであり、他を食い貪ることを何とも思わない非道悪鬼の集団。では、俺は何故同じく武をもって立ち向かおうとしなかったのか。
理由は噛み砕かれ、脳内に広がっている。逃れようもなく染み込んで、全身へと広がっていく。最後の部分で壁を作り、拒んでいる。
ただ、認めたくないだけなのだ。
視界の端に見える大画面にまたオッズが表示される。殺害された中年男を除き、若い男二人と俺と啓志……そして小百合が謎の少女としてクレジットされた。
「はいはい、順当な賭け率ですねー。
瀕死でも三倍付いちゃうのは流石警察官ってことかなぁ?
若いお二人は先程と乱闘での様相からつけられた数字に不満のご様子ぅっ!
いいや、それよりも来々木くんと魔訶不思議なお嬢様よりも
下なのが気に食わないのかっ! 白熱しそうですねーっ!!」
荒ぶり熱をあげて実況を気取る和久の声が遠い。
オッズを確認する気にもならない。
視界が霞む。何によって歪められているのかも分からない。罅割れた世界で人影が動く。視覚が働いていなくとも触覚が迫る物体を、聴覚が風切り音を捉えて体が条件反射に動かされる。リング上を転がっていき、数秒遅れて元いた場所で金属音が響く。
「チッ……餓鬼から狙う方が楽だったってのに」
「おい、あの拘束具つけられた子も標的にしていいのか?」
理解するよりも早く体が動く。腕で目をこすり、無理矢理に視界を開けて捉える。小百合がリング上に転がっていた。足に拘束具はないものの、両腕は後ろ手で縛られている。口には発声を封じる器具をはめられたままだった。
「当然っ! ルールは簡単ですよー。リング上に残った一人だけが勝者です。
勝者には賭け金の一部に加えて我が常倉組に参加できる栄誉もついてますよっ」
「勝手な約定を……」
戦闘に前向きな若い男二人に和久が答えるも、久音は苦い反応を示していた。本来であれば久音が取り決めた事柄を和久が伝えるスタイルなのだろう。そんな裏事情はどうでもいい。男達の動きを警戒しつつ、転がっていたナイフを手にとって小百合のいる場所へと急ぐ。
だが、進行方向を拳にバンテージを巻いた男が塞いできた。
「おっと、獲物の横取りはいけないよな。いや、助けたいのか?」
「…………無意味だ。こんな、見世物の闘いなんて」
「おい小僧。さっきの話とか、下で起きたこととか頭に入ってないのか? 従わなきゃ蜂の巣になってお陀仏だ。折角生存条件提示してくれてんだ。だから、」
「脳味噌置き忘れたか殴られた衝撃で細胞が死んでるのか知らないけれど、相当めでたい頭をしているよ。連中がそんな約束なんて守ると本気で思っているのか」
言葉を遮って俺は荒々しく予測を吐き捨てる。ほぼ間違いなく約束は守られない。劇中でも現実でも決まって悪の出す条件は対等ではなく、引き換えとして提示されるものは薄氷を砕くよりも簡単に無意味とされる。
約束を交わすこと自体が間違っている。それくらいは心を覗けなくても分かる。
黒く渦巻き囁きかけていた声が現実へ侵蝕し、照らしあわされる。
知っている。いや、分かっていた。理解していながら、俺はそうではない、そんなはずはない良心が残されている正義を信奉する者は必ずいる。
信じてきたし、信じたかった。ただ現実は残虐かつ無慈悲に利益のみを追求した悪を顕現させただけだ。ボクサースタイルの男が吼える。
「じゃあ何か? 最初から俺達は殺されるってのかよ? ざけんなよ。
なんだってそんなことになるんだよ。俺達が何したってんだ!」
「不興を買ったから殺される。別に、何も不思議な話じゃない」
「……この餓鬼も相当狂ってやがるぜ」
男がインファイトに持ち込むべく踏み込んでくる。相手の距離に収まらないよう、離れるのが上策だが男の視線が持つ意味を考慮しないほど愚かではない。
背後へ引いていくのではなく、横へと円を描くようにステップを踏む。刀を振り下ろすかのように右上方からの重い一撃はマットを叩き虚しく音を響かせるだけ。
体を翻し、正面に金属バットを手に固定した男とボクサーの男を捉える。俺の背後には小百合が横たわり、戦闘態勢を維持している男達の後方では啓志が放心したかのように両手と両足を投げ出している。傍には中年男の遺体。
こんな戦いに意味はない。ないと分かっていても、男達は信じるしかない。
他に方策がないのだ。
俺も理解しているし、恐らく父親である啓志も察している。
リングの外には常倉の息がかかった者達が控えている。
たった一人で彼らを倒し切れるはずがない。
常人よりも優れた力をもっていても一騎当千の武者になれるなど思えない。
そんなイレギュラーさは御伽噺の中でしか存在し得ない。
眼前で俺と向き合い拳を胸前に掲げたボクサー男の隣に金属バットの男が並ぶ。
「モノは相談なんだが、先に連中を潰さないか?」
「一時休戦ってことか。そう見せかけて、てめぇが俺を襲う可能性は?」
「馬鹿が。何のメリットがあるんだよ。あんな死に損ないと餓鬼抱えてよ」
「潰しやすく美味しい獲物を後にとっておくんだろ?」
「……さっきの、餓鬼の話もあるしよ」
「あ? それだって策略かもしれないだろうが」
対決姿勢は崩さず、言葉だけで牽制し合っている。
無意味だ。連中が言葉に意味を持たせ、真っ当な取引を行うならばそもそもこんな事態には陥っていない。最初から、富豪共の慰み者になるために在るのだから。
久音には仲間意識すらないのかもしれない。あるのは必要なのか、そうでないかという単純な二元論だけ。一瞬前まで味方だった者に殺された階下の者達が放った怨嗟と慟哭は想像するのも心苦しい。
残った構成員達は死の恐怖に怯えて強固になる。
次は自分もああなる。あんな結末は嫌だ。こんなところで終わりたくはない。
誰もが死にたくないと願い、生きたいと望む。その根源的欲求ですら久音と和久が演出する最悪の舞台上に吊るされたニンジンだと知りもせず、或いは知って理解していながらも本能で喰いついてしまう。
そう、誰だって死にたくはない。進んで死に突き進む者などいるはずがない。
俺は他者を食い潰してまで、この者達が生きる道理が通るのか疑問だった。
観衆の野次がやかましい。口論に発展しかかっている男二人に、死に瀕している啓志と身動きすら取れない小百合、そして不戦の構えを示す俺では〝試合〟として盛り上がりに欠けるからだろう。
「知ったことか」
呟いて、滑るようにリングの上を駆ける。仮にこの場で勝者となっても無事に脱出できる可能性はゼロに等しい。そもそも和久は俺を消したいはずであって、救済の道を用意する理由がない。
公開処刑場として機能するはずが、思惑通りにいかずに不快感を覚えているだろう。歪んだ顔を拝む暇すら惜しい。
瀕死の啓志と共に脱出するには小百合の異能に賭けるしかない。
どんな理由で行使しなかったのか分からないが、絶体絶命の包囲陣から抜け出すためには他者の認識を書き換える〈幽世絡繰り糸〉が要る。
――逃げるのか? 何もできず、変えられないままどこへ行くのだ?
誰かが問う。内側から疑念の刃を突き刺してくる。
生きねばならない。再起を図るには、まず出直さねば……。
――不要だ。今この場で、終わらせる。
声は近い。周囲の雑音にかき消されても、俺にだけは何故か聞こえていた。
思考の狭間で俺の目は俊敏に動く人影を捉える。致死量の血液を垂れ流し、動き回るどころか立つことすらままならぬであろう重傷を負った男が動く。
立ち上がった啓志がリングに投げ入れられていたナイフを手に、口論を繰り広げる男達の方へ賭けていく。歓声と熱気がこの場に起こり得ない異常を覆い隠し、リングでの変化を若き男達への伝達経路を塞いでいた。
「かっ……」「げべっ」
短いものと、間の抜けたもの。二つの断末魔がリング上に落ちて砕けていった。
二条の線が走り抜け、軌跡を辿るように紅の傷が開き、鮮血を噴出させる。
ボクサーの男の体が揺らぎ、倒れた。顔には何が起こったのか分からない、と去った世界へ向けた疑問に染まっている。白いバンテージが紅に侵蝕されていく。
数秒遅れて金属バットの男が崩れ落ちた。先に倒れた男に折り重なるようにして地に伏し、腹辺りを転がって広がる血の池に突っ伏す。
固まった顔はボクサーの男に対する怒りを叫ぶ咆哮で時を凍らせていた。動力を失うまで繰り出される心臓の脈動に合わせて血が吹き出し、血の池に混ざってさらに広げていく。
「な、なんたる……いや、なんて、ことを、しやがったコイツっ!」
マイク越しに叫んだ和久は理解不能を示す青ざめた表情だった。
観客の間に恐慌が走ることはない。悲鳴や怒声もなく、ただ全身を打ち震わす喝采が鳴り響く。聞こえすぎる感覚器官よりもなお強く、俺自身は激震していた。
「どうして、父さんが……」
疑念が流出する。啓志の手が血塗れのナイフを投げ捨てた。ゆっくりと歩を進め、腰のベルトから棒状の物体を手に取る。黒塗りの柄から銀色の細長い円筒が連なる。
啓志が自らの血に濡れた手で柄を握り込み、虚空を切り裂くように振った。
鋭い音で風を切り裂き円筒が伸長した。
警察官や執行員、警備員が使う特殊警棒だった。
今、初めて声に気付いたように啓志が俺を見る。
が、向けられた視線は子の無謀さに憤るものでも、巻き込んだ悲劇に嘆くものでもなく、底の見えない暗黒の意志が宿っていた。
「どうして、そんな目で俺を……見るの?」
もう一度問う。抽象的な投げかけではなく、明確な答えを求めて繰り出した言葉に対する返事はリングを蹴る足音だった。
肌でインパクトの瞬間を察知して跳ぶ。寸前までいた場所に無慈悲な鉄槌が振り下ろされ、特殊警棒の先端がリングを叩く。白光が瞬き、爆ぜた音が響いた。リングを覆うシートに焦げ跡が残っている。ただ対象を打ちのめすための道具ではないらしい。
「この男は不死身なのかぁっ! 死に最も近いと思われた男が立ち上がり、一瞬でひよっこ二匹を瞬殺っ! その爪牙は残る獲物を狩るべく動くぅっっ!」
「まさか、あの出血で動けるとは思わなんだのぅ」「公権の野良犬も存外しぶといしぶとい」「あのポリこんな殺し合いなんかやらないって言ってなかったっけ?」「どうでもよい。血飛沫をあげ、我らの目を愉しませてくれればいいんじゃ」「いいですわ、実に素晴らしいですわ! この醜き争いの中で飛び散り流れ出る命の紅さっ」
歓声があがり、周囲を加熱させる和久の実況声が鳴り渡った。うるさい。やかましい。鬱陶しい。俺に侵入しないでくれ、染み込もうとしないでくれ。
意識を閉ざす。好き勝手に喚く観客共の声も遠ざかり、閉塞した自分だけの内在世界が生まれる。俺の世界には、俺と守り救いたい存在しかいなかった。
啓志が俺を見ている。地を蹴り、跳躍して竹刀の打ち込みの要領で特殊警棒を叩き込んでくる。狙いは俺なのか小百合なのか。殺された男達と同じく、無価値な勝利者を望むのであれば排除しやすいものから倒すか。
「……どうして、戦う必要が、あるのですかっ!」
太刀筋を予測し、直撃する寸前で線をずらす。烈風が駆け抜け、警棒の先端が地を叩き紫電を迸らせた。そのまま横に薙いだ一閃を横転して回避。起き上がりを狙った蹴りを両腕を交差させて防御、勢いを殺し切れず吹き飛ぶ。
「かはっ……」
コーナーポストに叩きつけられ、肺から一気に空気が抜ける。追撃の振り下ろしを横転して回避し、勢いのままリングの上を転がって行く。
「逃げてばかりでは、守れないぞ」
覚悟を決めた男の声だった。手をつき、立ち上がる。手元にある武器はナイフだけ。特殊警棒を受け切る能力はない。そもそも、何故戦わねばならないのか。
「顔に出ているな。恐怖と、疑念が。何を迷う必要がある。連中がリングの上でただ一人生き残った者を救うと言っているのだ。そのために行動して何が悪い」
「父さんは、本当に奴らが約束を守ると思っているのですか」
「逆に問おう。何故約束が反故にされると断言できるのだ」
「それ、は……」
言葉に詰まりかける。確かに予測に過ぎない。だが、常倉の者達にとって自らの勢力に与しない勢力を生かす理由がない。取り込めないのであれば始末するだけ。
腐った富豪層への見世物にする、という目的がなければ話し合う余地すらなく殺されていたのだろう。和久も、久音も他者の命を奪うことに何ら躊躇していない。
啓志の視線は真っ直ぐに俺を貫いている。
「亮、私の役に立ちたいというのであれば大人しく死んでくれ。
そうすれば、私は生き延びることができる。久音様に仕えることができるのだ」
「馬鹿、な。父さん、本気で言っている……の?」
「私は死にたくない。間違っていたのだ。常倉の者達は、手段は
多少問題あるかもしれないが行政の代わりに人々の生活を守ってきた。
死の淵を彷徨っていた者達を救い導いてきたのだから、所有物だと
言い張ってもいい。個人の持ち物をどうしようが、個人の勝手だ」
言葉の一つ一つが重く圧しかかる。
まるで精神操作されているかのような口ぶりだった。
絶対におかしい。正義であることを尊び、必要とあらば家庭をも犠牲にし、越境行為に手を染めてまで悪を追い続けてきた啓志が吐くはずのない言葉が並ぶ。
「お前は何もできない。何も生み出すことができない。
結局、私にとって何の役にも立たなかったのだ。
常倉一派を怒らせ、無用な犠牲を生んだ。ただの害悪だっ!」
「う、あ……」
迫り来る。逃げるように俺の足は後退していく。
啓志は悪を、常倉を滅ぼすため降り立ったはずだ。ミイラ取りがミイラになる。目先の金銭に買収されるような男ではない。そんな矮小な存在ではない。
「亮、お前も死ぬのは怖いだろう。だが安心しろ。苦しまず一瞬で仕留めてやる。あのくだらない餓鬼共のように、首を掻っ切れば一撃だ。
それとも一緒に来たお友達が心配なら先にあの娘から始末してやろうか?」
啓志の顔には陰湿な笑みが貼りついていた。
こんな表情を見せるはずがない。いつだって厳格で、揺るぎなく真っ直ぐ正義を貫いてきた。切り出した岩のような、愛想の欠片もない真面目一徹の男だ。
有り得ない。一度たりとも笑った姿を思い出せないのだ。
一歩ずつ後退していく俺を、啓志は愉しむようにゆっくりと追う。
新たに投げ入れられた日本刀を受け取り、ゆるりと白銀の刃を世界に晒す。ただ傷つけるだけでなく、命を刈り取る明確な殺意を露わにしていた。
完全に勝敗の決まりきった、弱者を喰らう強者の構図が出来上がっている。
思考が回る。俺が殺されれば動けない小百合もすぐさま後を追わされる。
死を回避するには戦うしかない。戦う? 誰が、誰と何のために?
迫る啓志の目は腹を空かせた肉食獣の獰猛さを宿していた。説得は不可能だ。
いや、そもそも俺の中の父親はそんな台詞を吐くはずがなく、俺が思い込み信じていても現実の啓志は毒を吐き出し続けていて……。
戦って、勝てるはずがない。だが守らなくては。小百合を救わなければ。
自らに宿る力を信じる。目の前に迫る恐怖を振り切るように、背を向けて走り出す。手に握ったままのナイフは誰かを殺傷するためではなく、誰かを救うために。
状況を叫ぶ和久の声も、急変する事態を嘲笑う久音の姿も、崩れ去った理想の権化である啓志も全て目に映らず思慮の外側へと追いやった。
この身、この力は小百合を救うためだけに全力を発揮する。
寝転がったままの小百合に近付き、手を縛る縄を切断。続いて声を塞ぐ拘束具を除去する。後は、小百合が能力を使って――。
「 」
「えっ……?」
拘束から解き放たれた小百合が、何かを告げた。
瞬間、世界が白く塗り潰された。意識が途切れる。感覚が失われる。
どれくらいの時間が経ったかは分からない。俺が〝俺〟を取り戻した時には景色が変わっていた。俺の前には小百合がいて、リングの上に沈んでいるはずで。
そのはずが、俺がリングに手をついていて小百合が立ち上がって、十字架となるように両手を広げて鬼面で迫る啓志の前に立ち塞がっていて。
俺の目の前で啓志の握る処刑の刃が左上から右下へと振り下ろされた。