4-35 君臨する悪意
二階に踏み入った途端、様々な方向から音が叩きつけられた。
背後で扉が閉められる。振り返ると退路を断ったのは先程、九龍院と呼ばれていた女だった。俺と小百合を見て、女が艶然と笑う。ゆっくり歩を進め、扉に近い椅子へと腰を落とす。手元には藍色の鞘の日本刀を携えている。
「往くがいい。その正義を示すために、な」
そう女の唇が動いたように思えたが、声は部屋中に響く電子音にかき消されて届かない。希望的観測に基づく幻聴だろう。偶然が重なるということもある。
体から力を奪う強烈な圧迫感を与えてくる赤黒い視線から逃れて背を向ける。
部屋を見渡す。入口近くにはメダルゲームが複数設置されている。落としたメダルの質量で商品を落とし、取り出すタイプでガムや飴類とスナック類とチョコレート類に分けられていた。
室内を構成する壁は全て黒く塗られ、照明がところどころ落とされている。一部に天井からのスポットライトが当てられ、壁や機器に反射した光がここまで届いていた。足元には赤や紫や青、緑や橙の輝きが折り重なって黒へと吸い込まれ沈む。
床も黒曜石のように暗い輝きを宿していた。また視線をあげる。
様々な年代の黒服を着込んだ男達が忙しなく歩いている。大量のメダルが入った箱を抱える者、ぬいぐるみを運ぶ者。キャスターつきの台を押している者。台上にはジュラルミンケースが鎖で雁字搦めに縛られていた。恐らく売上金なのだろう。
右へ視線を移すとスロットが並んでいた。椅子から尻肉がはみ出るほど肥え太った中年男が台を叩いて喚く。黒服の一人が肩を回しながら近づいていき、軽く肩を叩いて振り返らせると顔面へ拳を叩き込んだ。一発で意識を飛ばした中年男が引きずりおろされ、二人がかりで運ばれていく。他の台に座る者達は嘲笑と共に見送っていた。
左側からも怒号が聞こえてきた。見ると、アーケードゲームが並ぶ一角で若い男同士が殴り合いを始めていた。殴り飛ばされた男がクレーンゲームの台にぶつかり、大きく筐体を揺り動かす。景品がスポットに入る寸前で衝撃を受けたせいで、機器がエラーを吐き出し不正行為を辞めるよう促す電子音声とけたたましい警告音が鳴り響く。
クレーンゲームを操っていた若い男がこめかみに青筋を立てて叫び散らす。殴り飛ばされた男ではなく、殴った男へ向かって大声と共に疾駆し、拳を振るう。少し離れた位置で恋人らしい女性が心配そうに手を胸の前で組んでいた。
騒ぎを聞きつけて黒服が数人やってくる。仲裁に入った黒服の若い男が裏拳を喰らって卒倒する。さらに多くの黒服が投入され、発端となった二人の男を袋叩きにする。
周囲の客は、それも見世物であるかのように大いに騒いで口笛を吹き鳴らす。
散々に痛めつけられ、気絶した客の男を担ぎ上げ、黒服が向かうのは先程中年男を運んで行った方向と同じ、部屋の奥の方だった。乱入した三人目もついでのように運ばれており、恋人の女が慌てて後を追いかけていく。
最奥では一際大きな歓声があがっていた。鼻先に鉄の味が掠める。嫌な予感がする。背筋に冷たいものが流れ、全身を震え上がらせる。
それでも、手には確かな感触。
「小百合、本当に……大丈夫なのか」
「亮こそ、大丈夫なの?」
「……大丈夫、だ」
退路はない。退く理由もない。元より、あの女の近くにいたくなかった。
行き交う黒服の間を抜け、左右から体に打ち付けられる大音声に耐えながら歩く。奥へ奥へと進むと鉄柵で区切られたステージが見えてきた。
部屋の最奥にある壁は一面が映像を映し出す大画面になっている。映し出されている光景は否応なく視界に入り、俺の足を止めさせた。
鉄柵の前には映画館にあるような観客席が並んでいる。席についている面々は年齢も性別も様々だが、豪華絢爛な装飾品と華美な装いから上流階級の人間だと伺い知れた。
全員が揃って仮面をつけていて素顔は見えない。
くぐもった笑声が連声に響く。
ステージは銀色のシートがひかれ、さながら総合格闘技のリングのようになっている。リングの上に立つのは覆面をした半裸の男が三人。全員がハーフパンツを穿き、拳に棘つきのグローブを嵌めている。そのレスラー風の男に囲まれているのは、くたびれた灰色のコートに同色のズボンを赤黒く染めた男だった。
「とう、さん……」
呟く。幼き声は大歓声にかき消された。観客達が口々に叫ぶ。
「おいおい、もうグロッキーじゃねぇか」「全然動かないわよ。もう死んでいるのかしら」「ワンサイドゲームじゃつまらないからねぇ」「残った男のヒトで絡みヤってもいいのよぉ?」「もっと血肉沸き踊る激しいの見せろや!」「そうだそうだ! こちとら退屈してんだからよっ」
好き勝手に観客達が喚く中、ステージの隅がスポットライトで照らされた。
仮面をつけた観客達の視線が一点に集まる。
異様な者達の中でも、注目された人物は一際異彩を放っていた。
星や月で装飾されたピエロマスクに幾何学模様のぴっちりとした服を着込んでいる。マスクの顎部分は薄めで二重顎が見えていた。でっぷりと膨れ上がった腹も衣装を押し出して今にも張り裂けそうになっている。ボンレスハムが直立し手足を生やしているようだった。
「お静かに……皆さん、新たな闘技者を投入しますからねー」
軽い調子で言い放つと、ピエロマスクが周囲の黒服へ手で指示を出す。
ステージ両脇の鉄柵が開き、黒服によって男達が担ぎ込まれてきた。
荷物を扱うように丸い体が放り投げられる。
転がっていき既に広がっていた赤黒い液体へ触れた。
「ひぃああああっ……つ、つべたいっ」
「ありゃりゃ、何を餓鬼みたいな反応かましてるんですかー」
「だ、だまれっ!」
「そんな恰好で粋がられてもねぇ」
ピエロマスクの嘲笑に続き、観客席からも笑声が漏れて重なっていく。中年男は気絶させられた時に服も脱がされたらしく、シャツと股引姿だった。腹巻に締め付けられ、こちらも負けず劣らずのぎちぎち具合で、とてもじゃないが戦えるさまではない。
続いてアーケードゲームで喧嘩していた若い男二人が投げ入れられ、同じように転がっていくも反動を利用して立ち上がる。
「いてて……糞が、なんで喧嘩してたくらいで」
「大体てめーらには関係ないだろうがよ」
「そもそもお前がチキンプレイすっから悪いんだろうが!」
「あぁ? 知るか。勝ちゃあいいんだよ、勝てば官軍の世の中ってなぁ!」
「幼稚な喧嘩に巻き込まれた身にもなれや」
「あんだって?」「やんのか? おお?」
最後に投入された、クレーンゲームをしていた男が息巻くと若い男二人が気炎をあげる。揃って身に着けていた装飾品や貴重品を奪われ、下着のシャツとズボン姿だった。
「はいはい、勝手に始めちゃわないようにねー」
ピエロマスクが手を叩いて全員の注目を集めた。
手の動きに合わせて場にいる者の視線が一点に集められる。
「君達は迂闊にもこの場でルール違反を犯してしまった。だけど一人だけ助けてあげよう。ルールは簡単だ。このリングで生き残った一人だけ助けてあげよう」
「……何言ってんだこいつ」「イカれてんのかクソが」「おふざけが過ぎるな」「馬鹿馬鹿しい……何の権限があって――」
三人の若い男達と中年男が不平を漏らすが、最後まで言い切れず大音声にかき消された。観客席から歓声が沸き上がり、リング上の反論を消し去ったのだ。満足したようにピエロマスクが頷く。
「はいはーい。観客の皆様はどうぞ、誰が生き残るか賭けちゃってくださいねー」
軽い調子で告げたピエロマスクの手にはリモコンがあった。スイッチを押して大画面が切り替えられる。画面に新たに映し出されたのはリングへ押し上げられた者達のプロフィールとオッズだった。俺の周りの観客達がざわめきだす。
「ぬふふ。次の勝負は頂きますぞ」「いえいえ、今度も私の勝ちですよ」「あの不動という青年、空手部所属のようですな」「いやいや、遣り合ってた平君もボクシングジム通いだそうで」「その拳を受け止めた不動氏が順当でしょうなぁ」「待て待て、あの福原という親父も柔道の有段者のようですぞ」「だが、あんなだらしない体じゃダメじゃのう」「いえいえ、動ける者は動けるのですわよ」「そんな安い誘導には引っかかりませんよ。クレーンゲームを駆る宮内くんこそ大本命!」
観客達が席に付属している端末を操作していく。大画面に表示されたオッズが変化していく。ピエロマスクは変動していく数字を眺めていた。
今、この場で賭け事が行われている。
馬やボートレースではなく、生身の人間の生き死にを賭博に用いている。
周囲を囲む護衛の黒服達の表情に変化はない。まるで、この光景が当たり前であるかのように何食わぬ顔で各々の持ち場につき、業務を継続している。
男が観客席の間を縫って客へカクテルを配っていく。
大画面の一部が切り替わり、これまでのハイライトが流れる。血まみれの男を取り囲む三人の覆面レスラー達。腕が、足が振るわれ血まみれの男に吸い込まれていく。ボールのように三人の間を行き来して反撃どころか苦鳴をあげる暇すら与えてもらえない。殴られ、蹴られ叩き伏せられ血反吐を吐き、リングに沈む。
結末はもう目の前に晒されている。
リングの上でただ一人喋ることもできず手と足を投げ出して座る男、俺の父親である来々木 啓志が血に濡れた顔をあげた。腫れ上がった唇が痙攣しながらも開く。
「まだ、私は生き、ている……ぞ」
「あいあい、なんか言いましたかねぇ」
「私の目の黒いうちは、誰も殺させんと言ってるんだ。小僧っ!」
啓志が叫ぶと同時に殴打音が響いた。血まみれの体が揺らぎ、自らが流した血の海に倒れる。近くにゴングが転がっていた。
ピエロマスクが荒い呼吸を繰り返し、息苦しくなったのかマスクを脱ぎ捨てる。
「なんだ、マジに餓鬼じゃねぇか」
「おいクソガキャ、俺にこんな真似してどうなるか分かってんだろうな」
「子供の遊びに付き合ってる暇はないぜ」
「だまれぇぇぇっ!」
リングにあげられた男達が三者三様に口にするのを、ピエロマスクを脱いだ和久が一喝した。予め行動予定を伝えられていたのだろう、黒服達が動いて運び込んできた鉄柵を閉めて逃げ道を塞ぐ。
俺は小百合と共に前へ進む。
対峙すべき人物を認めて、観客席の間を縫っていく。
「いいか、ゴミ共! ここじゃ俺様が王なんだよっ!」
「何を訳の分からないことを」「はあ?」「ざけんなクソガキ」「親の権力を笠に着るクズがよ」
「うるさいうるさいうるさいうるさいっ!」
叫ぶ和久は、見たまま幼い子供だった。中年男も含め、リング上の男は呆れ顔を浮かべる。喚き散らし、荒々しく呼吸して酸素を貪る和久。
胸が熱くなる。感動ではない。腹から生まれ、全身を焼き焦がす黒い情動が噴出している。観客席の最前列で、俺は両手で手すりを掴んでいた。
「常倉、和久……」
静まり返った空間に俺の声が落ちて、響いた。全員の視線を一点に集める。
当然だろう。彼らにとって、俺は突然この場に現れたのだ。何が起こったのか分からない。誰もがそう感じているはずなのに、和久だけは違っていた。
「おぉ、来々木くんじゃあないか。一体どうしたんだい?」
「どうしたもこうしたもない。君の罪を数えるべきだ」
「僕の罪? やだなあ。何を言ってるんだ、藪から棒に」
「ふざけるなよ……」
感情が沸騰する。黒い感情が脳を焼いていく。
最初から目つきや言動、態度に息遣いまで全てが不快だった。
他者を見下し、自らを高い位置にいるものと信じ込み、権力を振りかざし意のままに動くことがなければ辺りに喚き散らす。
奥歯を軋らせる。今すぐ乗り込んで殴り飛ばしたい。転がった樽のような体を踏みつけ、腹に蹴りを叩き込み顔面へ爪先を埋めて血反吐を散らせたい。髪を掴んで顔をあげさせ、何度も何度も膝蹴りを見舞ってから謝罪の言葉を吐かせたい。
黒く赤く激しく殺人衝動の炎が燃え上がる。
「何故……堀川君の家族を殺した」
「へ? 殺したって、誰が何を?」
「とぼけるな。常倉一派が事故に見せかけて焼き殺したんだろうがっ!」
腕を掲げ、和久を指差す。暴力ではなく言葉で罪を示す。ブチのめし叩き潰したい感情を押し殺し言葉で追い詰めていく。瀕死の父親、啓志が俺を見ていた。
多分、凄絶な悪鬼の顔を浮かべているのだろう。和久が俺を嘲笑う。
「怖いねぇ……何を根拠に言ってるんだい?」
「今、リングの上にいる人達に向かって、やらかした仕打ちは明らかな傷害行為だ。それを見世物にするのも、ここで傍観している連中も、助けないのであれば同罪だっ」
「ふーん。それが? どうかしたのかい?」
「…………は?」
間の抜けた問いが漏れていた。和久の声に揺らぎは感じられない。虚飾で覆い隠しているのではなく、心の奥底から疑問に思っているようだった。
「まったく、遊戯の邪魔をしおって……どこの子だ?」「常倉のご子息を困らせている厄介者ではないですかな?」「ああ、あの……」「リングで血だらけになってる叔父様でしょう?」「まさか、この地で親子そろって常倉に反逆するとはなんと愚かな……」
和久の答えに呼応するかのように観客達が語り合い、視線を向けてくる。俺に突き刺さるのは侮蔑、憐憫、嘲笑、僅かな憤怒。負の感情が折り重なり太い槍と化して貫く。
俺の、空の手が泳ぐ。柔らかい感触を掴みとることができない。
「騒々しい。何事ですか」
雷鳴のような声が響いた。左奥の一角へと視線が集まる。垂れ幕で遮断され、見えなかったが黒塗りの階段があり、三階部分へと繋がっているようだった。硬い靴音を鳴らし、降りてきたのは黒地に菊を散らした着物をまとう妙齢の女性。口元を隠す扇子には孔雀が描かれ、両翼を広げている。記憶に新しい意匠だった。
「常倉、久音……」
「呼び捨てとな。嗅ぎ回る狗の子らしい物の知らなさだねぇ」
不快そうに吐き出す声にすら艶がある。粘性の悪意が降り立った。