後編 綿毛の色は白い色
急に冷え込むようになってきたある夜。
ルベルは唸り声のようなものが聞こえた気がして、目を覚ました。寝巻のまま、おそるおそる自分の部屋を出る。
最初は何かの獣かもしれないと思ったルベルだったが、その声は、すぐ隣りのフラーウスの部屋から聞こえてきていた。
震える手でランプに灯りをうつし、隣りの部屋に飛び込むと、寝台に横たわったフラーウスが顔をゆがめて唸っている。額に手をあてると、熱があるようだった。
水でぬらして絞った布と湯ざましを手早く用意して、フラーウスの横にかがみこんでその手を握ると、唸り声はやみ、彼女がうっすらと目を開けた。
「ルベル・・・。起こしてしまったのかい。ちょっと悪い夢を見ていたようだよ。亭主が生きていた頃の・・・」
詳しい話は知らないが、フラーウスの結婚生活は、決して幸せなものではなかったらしい。
「大丈夫よ。少し熱があるみたいだけど、わたし、ここについているから。安心して。吐き気なんかはどう?」
しかしフラーウスは、ルベルの問いかけに答える前に、再び眠りに落ちていった。
熱はそれほど高くない、大丈夫だと、ルベルは半ば自分に言い聞かせるようにしながら、いつのまにか自分も、フラーウスの寝台につっぷしてうとうとし始めた。
ほどなくして、ルベルは自分の背中をやさしくさする手を感じ、目が覚めた。
「ルベル。あたしにかまわず、幸せになっておくれ」
フラーウスがルベルの背中をさすっていて、ルベルは自分が涙を流していたことに気がついた。
「何言ってるの。わたしは十分幸せなのに。おかあさんこそ、わたしを一人にしないでよ」
「だって、おまえは本当なら・・・。どっちにしたって、あたしはあと2年、3年じゃ死ぬ気もないけど、20年、30年は生きられないよ。どうしてあの騎士様ではだめなんだい? 結婚の申し込みを断ったって、本当かい?」
「プレウスさんから聞いたのね。あんなの冗談に決まっているじゃない。こんなわたしが、騎士様の妻なんて許されないでしょう。それにわたしはもうすぐ29、彼はまだ27で、今が一番いいときだし。彼の相手なんか、よりどりみどりで笑っちゃうぐらいでしょ」
ルベルは寝台につっぷした姿勢のままで、そう答えた。
「まあ、それは分からないけどね。でも、後悔しないようにしておくれよ。あたしはおまえの足枷になんか、なりたくないんだから」
「おかあさんの思考回路って、ほんとに謎ね。何をどうしたら足枷になるのかしら。おかあさんはわたしのたった一人の家族で、わたしを一人で育ててくれたんじゃないの。ほらもう、さっさと寝てちょうだい」
それはルベルの本心だった。それに、百歩譲って生家に戻るにしても、何かの間違いでプレウスとどうにかなっていたとしても、フラーウスを足枷だなんて思うはずもない。それなのに、そんな考えを抱かせてしまっていたことが、ルベルにとってはショックだった。
身を起こしたルベルがフラーウスの手を握ると、彼女は口元をゆるめてまたまどろみ始めた。
おかあさん。最近よく体の調子を崩すだけでなく、ずいぶん気も弱くなってしまった。心配かけてばかりでごめんなさい。でも、そんなにすぐに、わたしを一人にしないでよ。
ルベルはフラーウスの部屋で一晩を過ごした。翌日の昼にはフラーウスの熱も下がり、食欲もいつもと変わらないほどに回復していて、ルベルはようやく安堵した。
その日の夕方、ルベルが前庭でハーブの手入れをしていると、プレウスが通りかかって声をかけた。
「ルベルさん、こんにちは。あれ・・・なんだかやつれていませんか。ひょっとして、道ならぬ恋に破局が訪れたんですか」
「だから、道ならぬ恋なんてしてませんから。ちょっと母の具合が悪かっただけです。そうだ、プレウスさん。お願いがあります」
「とうとう来ましたね。どうぞ、なんでもお願いしてください」
プレウスの涼しげな目もとに早くも涙がもりあがる。
「母が動揺するので、もう家の中に入って来ないでくださいませんか。いろいろ気遣っていただいておいて、こんな言い方して申し訳ないんですが」
「なんだ、そんなお願いですか。しかたがないですね。では中には入らないようにしましょう」
あっさり承諾されて、ルベルはホッとすると同時に、心をすっと冷たい筆でなぞられたような気がした。
「それでは、プレウスさん。お鍋を火にかけたままなので、失礼します」
「また鍋ですか。ちょっとお待ちなさい。どこにしますか?」
プレウスは目に涙をためたまま、むっとしたような顔をして聞く。
「え? 何がどこですか?」
「家の中でなければ、どこで会えますか? まさか、私にだけ譲歩を求めるつもりですか? そういうのを世間では、自分勝手と呼びますね」
「でも、プレウスさん。なんでもお願いしてくださいって」
「言ってません」
うわ、嘘ついた。しかも断言。
「とにかく、お鍋を火にかけたままなので」
「嘘ですね」
「プレウスさんも、嘘ついたでしょう?」
不毛だ。
「プレウスさん。わたしだってちょっとは辛いんですよ、今みたいな中途半端な状態は」
ルベルはプレウスの目を見て言った。
「それはどういう意味ですか。あなたは私の結婚の申し込みは断った。でも私を嫌ってはいない、違いますか?」
「それは、・・・違いませんけど」
「そうでしょう? 私だって、別にルベルさんと結婚したいわけじゃありません」
「はい? やっぱり冗談だったんですか」
「その言われようは心外ですね。私はあなたに出会う前から、誰かと結婚するつもりはありませんでした。家の方の後継者候補は争いがおきるほどで間に合ってますし、騎士の仕事も世襲じゃありませんから。もちろん妻帯も義務付けられていません。家庭環境のせいか、身分と結婚するのが面倒なのか、私と同じ考え方の兄弟は他にもいます」
プレウスが吐き出すようにしゃべっているが、その内容は、半分ほどしかルベルの耳に届かなかった。わたしだって少しは、いや正直言ってかなり、悩んだのに、やっぱりからかわれていたのかという思いが耳をふさいでいた。
「ただ、道ならぬ恋に対抗するなら、正当な方法でというのが基本でしょう? だから、一応、念のため、申し込んでみたんです」
「はい? 一応、念のため、何ですか?」
「ですから、一応、念のため、正当に結婚を申し込んでみただけで、ルベルさんが私だけを見ててくれるなら、あとは形なんか何でもいいんですよ」
「あの・・・プレウスさん、今かなり恥ずかしいことをおっしゃっていますが、わかってますか?」
そう聞いたルベルの顔は真っ赤だった。
「わかってますよ、とんだ羞恥プレイですね。まあでも、ルベルさんも今、かなり恥ずかしいんじゃないですか」
そう言っている割に、プレウスは恥ずかしげな様子もなく、顔を赤くしたルベルをじっと見ている。
「そうですね。この歳になってこんな思いをするというのは予想外でした」
「それはよかった。何事も一人より二人ですね」
「そう・・・ですね。ちょっと待ってください、プレウスさん。要するに、何も状況は変わっていないということでいいですか?」
「ルベルさん。その細い首の上にのっている頭を使いましょうよ。私たちはたった今、相思相愛の誓いを立てたのです。私だって騎士ですから誓ったりするわけだ。結婚という枠組みがない分、私たちが進む道は厳しい道のりになりますよ。一緒に乗り越えていきましょう」
「そうですか。気をしっかり持たねばなりませんね。ではプレウスさん、お鍋を火にかけたままなので、失礼します」
あまりの羞恥プレイを打ち切る所存でルベルは言った。
「鍋は禁止です。いいですか、ルベルさん。今度から何かあったら、私のこの胸で泣くんですよ?」
ルベルがそのセリフを聞いたのは、いったい何度めだったか。少なくとも、それを実行にうつしたのは今度が初めてだった。
ルベルはプレウスの胸に顔をうずめると、ぽっちりと二粒ほど、涙をこぼした。最初はルベルの振る舞いに驚いていた泣き虫騎士様だったが、すぐにルベルをその腕におさめると、やっぱり涙を流した。
「騎士の仕事というのは、危ないんでしょうか」
腕の中からルベルが尋ねる。
「そうですね。まあ私の場合は、だいたい大丈夫ですよ」
「かなり大丈夫なように、お願いしますね」
「それよりルベルさん。あなたが泣くのを初めて見ました。見ているのは、なかなか辛いものがありますね。私ももう、泣くのをやめようかな」
ルベルは顔をあげると、プレウスの顔を引きよせて、涙をのせた目じりのあたりにキスをした。
プレウスがルベルの栗色の髪に手を差し入れて、その唇にキスを返すと、どこかそのへんで猫がにゃあと鳴き、二人を祝福した。
季節はめぐり、やがてルベルは、輝くような女のあかちゃんを授かった。その子が走り回るようになった頃、フラーウスは眠るように息を引き取った。ふたたびルベルは、二人暮しの生活へと戻る。フラーウスの愛情が染み込んだ小さな家で、今度は愛しい娘との二人暮らし。
腕の立つ騎士様は、並外れた昇進もしないかわりに、大きな怪我もしなかった。ルベルの家からそう遠くない場所にあった別邸に手を入れて、そこそこな感じに仕上げて住まいとした。ルベルと娘がそこを訪ねていって、三人で仲睦まじく過ごす姿がよく見られた。
姪っ子に大甘の伯父からのプレゼント攻撃と、それに対抗心を燃やした騎士様からのプレゼント攻撃は、娘の悩みの一つだったとか。それらの贈り物はいつのまにか姿を消して、かわりに娘の通った糸紡ぎ作業場の設備がどんどん立派になっていったという。
若草のように成長した娘は、少しずつ自分の世界をひろげていった。自分が見聞きしたあれこれを目をかがやかせてルベルに話すとき、娘の喉をうるおすのは、もちろん林檎の皮のお茶だった。
それからさらに季節はめぐり、騎士様とルベルの髪の色は、もう金色でも栗色でもなく、いずれも見分けのつかない綿毛色になっていた。
それでも二人が腕を組んで散歩をする姿はよく見られ、騎士様の目はやっぱりたびたび、潤んでいたという。
おわり
ありがとうございました!