第35話:冬将軍の到来と、震える学者
季節は巡り、時は流れる。
木々を鮮やかに彩っていた赤や黄色の落ち葉はすでに枯れ果てて地面に還り、異世界ファルマ大陸の深い森には、本格的な『冬』が到来していた。
ヒュオォォォォォ……。
葉を落とした広葉樹の枝の間を、刃物のように鋭く冷たい北風が吹き抜けていく。
金曜日の夜に現実世界からやってきた千秋のキャンプサイトの周辺も、土曜日の朝を迎える頃には、見渡す限りの銀世界……とまではいかないまでも、地面には真っ白な霜が分厚く降り、水たまりには分厚い氷が張るほどの厳しい寒さに包まれていた。
吐く息は真っ白に染まり、素手を外に出していれば数分で感覚がなくなってしまうほどの低気温。気温は間違いなく氷点下を下回っているだろう。
「うー、さむっ! でも、このピリッとした空気がたまらないんだよねぇ」
完全防寒装備に身を包んだ千秋は、愛用の焚き火台の前で、満足げに白い息を吐き出した。
上は発熱素材のインナーに極厚のフリース、さらにその上から防風・難燃素材の冬用ダウンジャケットを羽織っている。下は暖パンの上にダウンパンツを重ね履きし、足元は冬用の防寒ブーツに分厚いウールの靴下という、まさに『歩く寝袋』とも言える鉄壁の布陣である。
そして、彼女の目の前には、夏場や秋口とは比べ物にならないほど大量の薪が組まれ、轟々(ごうごう)と特大の炎を上げて燃え盛っていた。
キャンパーの中には、「キャンプのハイシーズンは冬である」と断言する者が数多く存在する。千秋もその一人だ。
虫がいない。空気が澄んでいて星が綺麗。そして何より、圧倒的な寒さの中で感じる『火の温もり』と『温かいご飯の美味しさ』が、他の季節とは全く比較にならないほど五臓六腑に染み渡るからだ。
現代の進化したキャンプギア(防寒着や暖房器具)を駆使して、あえて過酷な自然環境に挑み、その中でいかに快適に過ごすか。それが冬キャンプの最大の醍醐味なのである。
「よし、焚き火も安定したし、お湯も沸いた。朝のコーヒーにしようっと」
千秋は焚き火の熱を全身に浴びながら、チタンマグにお湯を注いだ。
立ち昇るコーヒーの香ばしい湯気が、冷たい空気に溶けていく。
今日はまだ誰もやってきていない。ジンツやリネットたちも、さすがにこの寒さでは朝早くから森に出向くのは辛いのだろう。街の酒場やギルドの暖炉の前で暖をとっているのかもしれない。
千秋が一人でのんびりと静かな冬の朝を満喫していた、その時だった。
――ザクッ、ザクッ、ザクッ。
霜柱を踏み砕く、不規則で重い足音が森の奥から近づいてきた。
「ん? 誰か来たみたい」
千秋がマグカップを片手に視線を向けると、葉の落ちた木々の隙間から、フラフラと覚束ない足取りで近づいてくる一つの人影が見えた。
見覚えのある、長身に銀色の髪。そして、尖った長い耳。
オースの街で植物学の教授をしているエルフの学者、ロイドである。
「おはよう、ロイドさん。朝早くから……って、うわっ!?」
千秋は笑顔で挨拶をしかけたが、結界の中に入ってきたロイドの姿を間近で見て、思わず悲鳴のような声を上げた。
ロイドの様子が、明らかに『異常』だったのだ。
「ガチチチチチッ……! チ、チアキ殿ォ……。お、おはよう……ガチチチチッ!」
ロイドの顔面は、真っ白な霜よりもさらに青ざめ、完全に血の気を失って土気色になっていた。
美しいはずの銀髪は乱れ、細いフレームの眼鏡の奥の瞳は焦点が定まっていない。さらに、薄い外套に包まれたその長身は、まるで生まれたての小鹿のように、あるいは猛烈な吹雪に晒されたかのように、ガタガタと制御不能なほど激しく震え続けていた。
上下の歯がカチカチとぶつかる音が、数メートル離れた千秋の耳にまではっきりと聞こえてくる。
「ちょ、ちょっとロイドさん! 顔色ヤバいよ!? 唇なんて完全に紫色になってるじゃない!」
「ガチチチッ……! だ、大丈夫だ……。これしきの、気温の低下など……ガチチッ! 私の、学者としての使命感に比べれば……!」
ロイドは強がりを言いながら、千秋のキャンプサイトの中心――いつも彼が定位置としている、ポータブル電源やLEDランタンが置かれているアルミテーブルの方へとフラフラと歩いていこうとした。
しかし、その足取りは完全に千鳥足であり、今にも雪の上に倒れ込んでしまいそうだ。
エルフという種族は、森の精霊に愛され、高い魔力と長寿を誇る高貴な存在である。
しかし、その一方で、彼らには致命的な弱点があった。
エルフは『寒さに極端に弱い』のだ。
彼らの肉体は、温暖な気候の深い森で過ごすことに特化しており、脂肪が少なく痩せ型であるため、自ら熱を生み出す能力が人間や獣人に比べて著しく劣っている。
冬の魔の森など、エルフにとっては文字通り「足を踏み入れただけで命を削られる」絶対零度の地獄に等しい環境なのである。
「ちょ、ちょっとストップ! とりあえず焚き火の前に来て! そんな薄着で冬の森を歩き回るなんて、自殺行為だよ!」
千秋は慌ててマグカップを置き、ロイドの腕を引っ張って、燃え盛る焚き火のすぐそばのローチェアに無理やり座らせた。
「ガチチチッ……! す、すまないチアキ殿……。ひぐっ……あ、温かい……。火の精霊の、いと尊き恵みよ……」
ロイドは焚き火の炎に両手をかざし、涙目で火の温もりを貪り始めた。
それでも、彼の身体の激しい震えは全く収まる気配がない。芯まで完全に冷え切ってしまっている証拠だ。
「なんでそんなになるまで無理して来たの!? エルフが寒さに弱いって、自分で一番よくわかってるんでしょ!?」
千秋が呆れ半分、心配半分で問い詰めると、ロイドはガタガタと震える手で、懐から分厚い革表紙の手帳を取り出した。
彼が千秋のキャンプサイトに通い詰めるようになった最大の理由。現代のキャンプギアをスケッチし、その謎を解明するための観察日記である。
「ち、知的好奇心は……寒さなどには負けん……! ガチチチッ! 先週、貴様が使っていた『ガスばーなー』という魔力ゼロの炎発生装置……! あれの、燃焼効率と、金属の筒(ガス缶)の内部構造に関する仮説が……あと少しで、完成しそうなのだ……!」
ロイドは震える指先で羽ペンを握り、手帳を開こうとした。
しかし。
ガクガク、ブルブルと腕全体が激しく痙攣しているため、羽ペンの先が手帳のページに当たっては弾かれ、まともに文字を書くことすらできない。
それどころか、インク瓶の蓋を開けることもままならず、カチャカチャと虚しい音を立てるばかりだった。
「だ、だめだ……! 手が……指先が、完全に凍りついて、動かん……! ガチチチチッ!」
「当たり前でしょ! この気温でそんなことしてたら、凍傷になっちゃうよ!」
千秋はロイドの手から羽ペンと手帳を取り上げ、テーブルの上に置いた。
エルフの学者の、異常なまでの知的好奇心。
千秋の持ち込んだ「LEDランタン」「ポータブル電源」、そして「シングルバーナー」。これらの魔力ゼロで光や熱を生み出す現代のオーパーツたちは、異世界の植物学者であるロイドの常識を完全に破壊し、彼の人生のすべてを懸けた『研究対象』となってしまったのだ。
彼にとって、週末の千秋のキャンプサイトを訪れることは、極寒の吹雪を越えてでも果たさなければならない至上命題となっていたのである。
「ち、チアキ殿……。お願いだ……手帳を返してくれ……。私は、あの『がす』という未知のエネルギーが、どのようにして圧縮されているのかを……」
「ダメダメ! まずは体温を戻すのが先! そんな顔色で死なれたら、私のキャンプ地が事故物件になっちゃうじゃない!」
千秋はキッパリと拒否し、焚き火にさらに太い薪をくべて火力を上げた。
しかし、焚き火の熱だけでは、エルフの冷え切った身体の「芯」まで温めるには時間がかかりすぎる。前面は温かくても、背中からは容赦なく氷点下の北風が吹きつけ、ロイドの体温を奪い続けているのだ。
「ううぅ……。寒い……。母上……太陽の精霊よ……私を、どうか温かい光の御許へ……」
ついにロイドの口から、走馬灯を見ているかのような譫言が漏れ始めた。
顔色は土気色を通り越して、ほんのりと青白く透き通ってきている。限界突破どころか、完全に生命維持のレッドゾーンに突入しつつあった。
「あー、もう! 面倒くさいエルフだなぁ!」
千秋は頭をガシガシと掻いた。
本人は「知的好奇心のためなら死んでもいい」という悲壮な覚悟で来ているのかもしれないが、千秋にとってこの週末の時間は「のんびりと癒やされるためのもの」である。目の前で異世界人が凍死していくのを眺めながらコーヒーを飲む趣味はない。
それに。
キャンパーたるもの、過酷な自然環境に打ち勝つための『最強の防寒アイテム』は、常に万全の状態で準備しているものだ。
「仕方ない。ロイドさんには、現代の冬キャンプにおける『究極の温もり』ってもんを教えてあげるよ」
千秋は立ち上がり、テントの入り口付近に置いてあった黒鉄のダッチオーブン(お湯を沸かすために火にかけてあったもの)へと向かった。
中には、たっぷりの熱湯がグラグラと煮え滾っている。
そして千秋は、コンテナボックスの中から、ある『金属の塊』と、分厚い布製のカバーを取り出してきた。
「火魔法も魔力結晶もいらない。ただのお湯と、カガクの力だけで……エルフの身体の芯まで、熱々に溶かしてあげるからね!」
千秋の手にあるのは、小判型をした銀色の金属容器。
現代日本の家庭でも愛され続ける、冬の最強エコ暖房器具。
凍えるエルフの学者を救うための、千秋の冬キャンプ防寒術のお披露目が、今まさに始まろうとしていた。




