前科82:虚無の玉座
相馬道征は戦争の魔剣に走る亀裂を見て、静かに息を吐いた。
吐いた、というより胸の奥の苛立ちを無理矢理押し出しただけだった。
──あまりに不甲斐ない。
どれも本来なら、ここまで魔剣を傷めるような相手ではなかった。
まとめて踏み潰して終わる程度の雑音でしかない。なのに、現実にはこうして、己の魔剣にヒビが入っている。彼女の人生において、恐らく最大級のあり得ない失態だった。
「……反吐が出るってこういう気持ちですか」
道征は低く呟いた。
戸山団地を見下ろす屋上は、もう屋上の体を成していない。
給水塔は千切れ、床は抉れ、鉄筋が骨みたいに剥き出しになっている。棟というよりはもはや瓦礫が近い。その頂点に、黒龍が立っていた。先ほどまでの巨大な竜の形態からは変化し、人間の輪郭を残しながら、その内側に竜を押し込めたような異形となっている。黒龍の顔には余裕すら浮かんでいる。この体たらくなら当然だ。だが──
気に入らない。
その顔が。
その立ち方までもが。
自分を喰う側だと決めつけた、その余裕が。
その感情に呼応するように戦争の魔剣が魔力を喰らい始める。道征に取れる戦術は一つしかない。──最初から限界突破。
「だから──教えてやるよッ!!!」
戦争の魔剣を地面に突き立て、人剣一体の魔術印を展開。
道征の背後に、赤い霊体が無数に立ち上がる。老若男女、人種も年齢も違う。道征が殺してきた凶悪な魔術師たちだ。数十を超え、数百。霊体は屋上だけでは収まらず、宙へ折り重なるように浮かび上がった。
掌に火炎を宿す者。
背後に雷雲を従える者。
指先から黒い霧を垂らす者。
視線だけで空間を歪ませる者。
一人で都市区画を壊滅させた者もいる。
一国の軍隊を相手に、三日三晩殺し続けた者もいる。
「征け」
重力が瓦礫を押し潰し、不可視の斬撃が空間を縦横に裂く。
黒い霧が生き物のようにコンクリートを這い、触れた場所を黒く腐らせていく。個々の魔術をただ放っただけではない。炎を風が加速させ、雷が金属片へ誘導され、全方位へ分岐する。空間を固定する拘束魔術の内側へ、圧壊と腐敗の術式が幾重にも重ねられる。殺した魔術師たちの技を、戦争の魔剣が一つの戦術として編み上げていた。
「──────!!!!」
応じるように黒龍が吼える。
同時、複雑な魔術印が複数現れた。人類には理解できず、そして到達できぬ速度での展開。そして、魔術が発動し世界の法則が塗り替わった。火炎は燃えるという役割を奪われ、黒煙へと変化した。雷は落ちるべき座標を失い、夜空を這い回った末に消滅する。空間を縛っていた魔術は、細かく砕けていく。圧壊も、腐敗も、不可視の斬撃も例外ではない。死者の軍団が放った全ての魔術が未知の魔術によって書き換えられた。
「その程度か」
道征の軍勢の大半が消失した。
だが、相馬道征は焦らない。軍勢はまだいる。道征は軍勢に紛れて移動を開始。黒龍は特にそれに動じた様子もない。接近戦に長けた死者たちが、一斉に黒龍へ襲いかかる。剣士。槍術使い。全身を鋼鉄へ変化させた魔術師。獣の肉体を取り込んだ異形。生前、数え切れないほどの人間を殺した者たちが、四方から黒龍へ殺到した。だが、届かない。黒龍が腕を振る。ただそれだけで、正面にいた霊体がまとめて砕け散った。
一歩踏み込む。瓦礫が沈み、衝撃だけで周囲の死者たちが弾け飛ぶ。背後から振り下ろされた大剣を片手で受け止め、そのまま剣ごと霊体を振り回して潰す。鋼鉄の肉体を持つ魔術師は胸を殴られただけで粉々になった。圧倒的だった。鍛え上げた技術も。その数も。人生の大半を費やした殺しの経験さえも。完成された竜種──黒龍の前では、何の意味もない。
(……白い方より強いじゃん)
白龍より強い。交戦してみてそれはすぐに分かった。白龍とは違い、道征がかつて見た本物の竜種に限りなく近い。
「数を増やしたところで同じだ」
黒龍が赤い霊体の頭を掴み、瓦礫へ叩きつける。
「ええ。そうでしょうね」
道征の声がすぐ近くから聞こえた。黒龍が振り向く。死者の軍勢に紛れ、道征が既に懐まで入り込んでいた。後手に回っていたが、相手の反応が早い。だが、道征は驚かなかった。それよりも、注目したのは黒龍の所作。
(──想定内ッ!)
黒龍は動じない。後手に回っても人の域を超えた反応速度と膂力で道征を迎え撃つ。ここにこそ、勝機があった。道征が、戦争の魔剣との融合の深度をここで更に深くした。融合深度2割から一気に4割強へ。魔力が膨れ上がり、戦争の魔剣が激しく揺れる。急に膨れ上がった魔剣の威力に、黒龍の放った拳は耐えられなかった。
「がッ――!」
魔剣使いを侮るな──。黒龍はかつて教訓にした筈だったが忘れていた。
関東銀泉会組長と戦った時もただの人間だと侮っていて瀕死の重傷を負わされた。黒龍は瀕死。だが、向こうの魔剣は何とか破壊した。あんなもの、この世にあっていい強さの魔剣ではなかった。対峙する魔剣も、それに匹敵する凶悪な魔剣だ、と認識を改める。
「古竜魔術:ヴぉg▲ぐぇらふ■クァ」
黒龍の背後に魔術印が現れる。一つではない。二つ、十、百。大小無数の魔術印が夜空を埋め尽くし、それぞれが複雑に重なり、巨大な一つの術式を形成していく。
次の瞬間、世界が黒龍を中心に潰れた。
(――これが、古竜魔術か)
上も下もない。前も後ろもない。道征を含め、その場に存在する全ての物体へ、全方向から同時に圧力がかかった。瓦礫が潰れ、鉄筋が捻れ、残っていた赤い霊体たちは一瞬で原形を失う。魔術で強化された者も、鋼鉄の肉体を持つ者も、巨大な獣へ変貌した者も、平等に、呆気なく、何かに握り潰されたように消滅した。道征の身体が軋む。骨が折れ、血管が破裂し、口から血が溢れた。それでも膝はつかない。
「……いいですねぇ」
道征が笑った。融合深度は四割強。
既に魔剣は右腕の大部分を侵食している。指と柄の境界は曖昧になり、赤黒い亀裂が皮膚の下を這っていた。そして、道征には分かっている。戦争の魔剣にはこの先がある。深度五割。人間として戻ってこられる、最後の境界。
それ以上は──正確には、ある。
だが越えれば、もう相馬道征という人間には戻れない。戦争の魔剣に蓄積された無数の死者。魔術。殺意。記憶。その全てに自我を喰われ、自分が自分でなくなるという確信がある。だから五割が限界だった。その間にも、黒龍の古龍魔術が道征を押し潰そうとする。左腕が折れ、肋骨が砕け、片膝が瓦礫へ沈んだ。
それでも道征は笑っていた。
「それでこそ十億です」
戦争の魔剣を握り締める。深度は四割強。まだ足りない。黒龍を殺すには届かない。道征は息を吐いた。
「なら――」
戦争の魔剣が、鳴いた。再び赤い霊体が召喚され、一斉に道征へ顔を向ける。次の瞬間、その身体が崩れた。剣士が。魔術師が。殺人鬼が。異形が。道征に殺され、死してなお使役されてきた者たちが、次々と赤い光へ変わり、戦争の魔剣へ吸い込まれていく。戦争の魔剣が変形した。刀身が左右へ裂け、内部から赤黒い刃がせり出していく。剣というには歪で、槍というには巨大すぎる。先端には複雑な凹凸が刻まれ、その姿は巨大な鍵にも見えた。
同時に、異変は道征の右腕にも起きる。柄から溢れ出した赤黒い物質が、右手を覆った。まるで生き物のように這い上がり、瞬く間に右腕全体を異形の装甲へと変えていく。そして、その腕と巨大な鍵型の魔剣は、完全に繋がっていた。
「……人間をやめるつもりか!」
黒龍が吼えた。
道征の変化がそこで、止まった。これ以上は進めない。進めば戻れない。人間ではなくなる。道征は自分の右腕を見る。そして、誇らしげに笑った。人殺しぐらいにしか役に立たないこの魔剣が、己の全てだから。
「馬鹿言わないでください」
道征は血に濡れた顔で笑う。
「化け物なんて、あなた一人で十分でしょう」
軽口の先にあるのは、お互いの全力だった。黒龍は気づいてしまった。あの赤い魔剣の一撃は危険すぎる。回避するのが正しい。竜種としての本能がそう告げている。避ければ勝てる。だが、その先に何が起きるかも理解していた。あの一撃は、この団地ごと貫く。
(……駄目だ)
竜種である自分だけなら生き残れる。だが、人間は違う。誰一人生き残れない。
黒龍の視線が、ほんの一瞬だけ団地へ向く。もはや数時間前までの原型はそこになかった。それでも、まだあそこには守りたい人たちがいる。
勝つためなら避けるべきだった。だが、その勝ち方だけは選べなかった。ここは、自分が守ると決めた場所だから。自分を救ってくれた場所だから。己のDNAに刻まれた、誰からも教わっていない魔術印が黒龍の身体を覆い始める。
人類の魔術とは似ても似つかない、人智を超えた術式だった。こんな強さ、要らなかった。空を飛べる翼も。鉄骨ですら引き裂ける力も。人類には届かない古竜魔術も。そんなものは、何一つ欲しくなかった。欲しかったものは、全部、この団地にあったのだ。
──だから、守る。
黒龍が飛び出すと同時、道征が戦争の魔剣を両手に構えて振り下ろした。
赤い閃光。だが、その光にはありとあらゆる魔術が含まれていた。戦争の魔剣で命を奪った数百の人間達の最強の一撃。その全てをその身一つで受け止める。避ければ、この団地が消える。それほどの威力だった。
「ォオオオオオオオオオオッ!!」
古竜魔術が全身から噴き上がる。
黒龍の両腕が、真正面から赤い斬撃を受け止めた。衝撃だけで屋上が崩壊し、団地の上層階がまとめて吹き飛ぶ。赤と黒、二つの魔術が激突し、世界そのものを揺らした。それでも、黒龍が一歩踏み込む。だが、その瞬間だった。赤い閃光が、黒龍を食い破った。
「――がッ!」
黒龍の両腕が砕ける。
そのまま斬撃は胸を深く裂き、黒龍の体に大きな穴を空けた。
同時に、戦争の魔剣も限界を迎える。戦争の魔剣が悲鳴のような音を立て、右腕の装甲が砕け、剣身に無数の亀裂が走って砕けた。道征は、全身から血を流しながら、それでも口元だけは壊れたように笑っていた。
「……ざまぁ、みやがれ」
中指を立て、その一言を絞り出した瞬間。道征の瞳から光が消えた。膝から力が抜け、崩れ落ちる。同時、足場も砕け、支えを失った身体は瓦礫と共に階下へと落ちていった。
「…………」
道征が居なくなった空間を黒龍は言葉も発せず見ていた。浮かんでいる感情は、安堵。攻めてきたヤクザも半分以上殺した。そして、向こうの切り札である魔剣使いも倒した。
(……守れた)
言葉を発する余裕すらない。回復する事もできず、血がとめどなく溢れる体を見つめ、大の字に倒れた。
──もう、助からない。
それでも不思議と恐怖はなかった。
空を見上げていると、誰かが来た。もう、体が動かない。視線だけを送ると、見知った顔だった。
「随分な姿だな」
白龍の姿があった。まさか来てくれるとは思わなかった。人間の優しさを知った自分と、優しさを知らず、ただ人間への八つ当たりのように暴力を振りまく兄とは道を違えてしまったから。黒龍が返事をしないでいると、白龍はそれを悟ったようで淡々と続けていく。
「この団地はもうダメだ。捨て置く。お前は一旦、本国へ戻って体を治せ」
その言葉に黒龍の心が大きく揺れた。
ダメだ。今ここを離れたら、生き残った子供達はどうなるんだ。ここでしか生きていけない子ばかりなのに。黒龍は命を振り絞って言葉を絞り出した。
「お願いだ……。この団地を守って……。あの子達の居場所を…………」
白龍の顔が歪んだ。
泣きそうなのか、怒りなのか、どちらとも言えない複雑な表情だった。しばらく黙った後、白龍も絞り出すような声を上げた。
「…………わかった。後の事は任せろ」
「ありがとう……兄さん……」
安心したようにそう呟き、黒龍の命の灯が消えた。強靭な肉体の全ての生命活動が停止している。白龍はそれを目に焼き付けるように見つめている。
「最後まで、お前は俺を選ばなかったんだな」
一言呟く。続いて、決壊したように言葉が漏れていく。
「俺は何もできなかった」
拳が震える。惨めで美しい記憶が脳裏をよぎる。
「一番弱かったのは俺だ」
人工竜種。何体も生まれ、その全部が殺しあった。その中で最後まで生き残ったのが、自分たち双子の兄弟だった。
「俺は、生き残るために食った」
「力が欲しかった」
「お前みたいになりたかった」
「何匹食っても、何人食っても、お前には届かなかった」
だが、黒龍は全部理解していた。
自分が何を望み、何に苦しみ、何を選べなかったのか。そして、最後まで言葉にしなかった。そうするしかない状況だけを残した。
「──俺に食えってことだろッ!」
怒りに任せて巨大な竜へと姿を変えた白龍は、その大きな咢で、黒龍を呑み込む。生きる為に何度も体験してきた感覚。だが、今回のものは桁が違った。凄まじい力が漲ってくる。押さえつけられない程だ。悲鳴のような叫び声をあげて、白龍は団地の上空へと飛翔した。
「ァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
悲鳴とも咆哮ともつかない叫びが夜空を震わせる。鱗が砕け、新たな鱗へと生え変わる。角が伸びる。翼が広がる。完全な竜種。ずっと求め続けた力。だが、本当に求めていたものはこれだったのか。相反する感情に振り回され、白龍が眼下の団地を睨みつけた。
「こんな場所に、何の価値があるって言うんだ……っ!」
全てを吐き出すように赤い巨大な魔術印が展開した。そして、戸山団地に無数の赤い雷が嵐のように吹き荒れ、黒龍が命を懸けて守った場所は、その夜、跡形もなく消え去った。
●
──翌日。
歌舞伎町地下。この街の顔役達が普段は会合を開いているその場所。
巨大な地下空間には、重苦しい静寂だけが流れていた。昨日までそこにあった豪奢なインテリアは全て消え去っていた。唯一存在するのは、最奥に据えられた玉座のような椅子。そこへ白龍が深く腰掛けていた。
その前には数人の龍頭の幹部達。誰も顔を上げない。生気を失った目をしていた。
だが、白龍が指を振ると脳に何か打ち込まれたかのように震えた後、
「ご報告します」
「歌舞伎町全域の制圧が完了しました」
「各拠点への人員配置も終了しております」
「薬物工場、資金源、物流経路、全て掌握しました」
「現時点で抵抗勢力は確認されておりません」
報告は淡々と続く。白龍は一度も顔を上げなかった。
「以上です」
地下空間へ静寂が戻る。誰も動かない。命令を待っている。
「……下がれ」
白龍が発したのは短く、その短い一言だけだった。
「はっ」
幹部達は一礼すると静かに地下空間を後にした。重い扉が閉まる。白龍だけが残った。
「…………」
静かだった。
歌舞伎町の掌握。これで、龍頭はまた一つ大きくなる。全て手に入れた。かつて失敗した京都侵攻への大きな一歩だ。昨日までなら、笑っていただろう。だが、何も感じない。完全な竜種になった。もう発作にも悩まない。ずっとこうなりたかった。全部、手に入れた。そして、全部壊して捨てた。
──なのに、どうしてここまで虚しいのだろうか。
「……くだらん」
小さく吐き捨てる。肘掛けへ置いた手に力が入る。その時だった。地下空間の巨大な扉が、静かに開く。部下達ではない。迷いのない足音が、一つだけ響いていた。入ってきたのは──
「おっす」
純黒の魔剣を肩に担いだ金髪の男、伊庭八代だった。八代は辺りを見回して、王のように座る白龍を見据える。
「思ったよりショボい玉座だな」
白龍の瞳が少しだけ揺れた。驚き、そして口元がゆっくりと吊り上がる。この男と戦えば、少しぐらいはこの虚無感も晴れるだろうから。
「何をしに来た? 銀泉会に恩義なんかあったか?」
「特にないけど──強いて言うなら、僕の後輩、めちゃくちゃ泣いてたからさ」
「それだけか。バカな奴だ」
「それ以上いる?」
──一瞬の間。同時、二人は魔剣と魔術印を展開した。
この暗い話もあと2話で終わりです。
これが終わると、30年前の話まで暗い話をやらずに済むのでほっとしています。




