微睡み
通勤で使う地下鉄は座れることが少ない。大阪の主要線は吊革にもぶら下がれないのが日々だ。それなのに、優先座席でもないのに座席が空いていた。ちょっぴりの幸せを感じながら、スカートが広がらないように、お尻を撫でて着座する。思わず大きな息を吐く。今日は何だか疲れた。長野さんの病欠が正式に発表されるや否や、え、どうしたん? とみんなが私に尋ねるのだ。係長ではないけれど、私と長野さんは相当親しい中だと思われていたようだ。その度に「詳しいことは分からないのだけど……」と前置きをしてから、体調が悪かったみたいだと告げる。自分の知らないことを、しかも行方不明だということを隠しながら話すということは結構神経を使うものだった。
一息ついて係長からもらったお土産の白い袋を開けると、そこには『タマちゃんストラップ守り』と書かれた三毛猫のキャラクターが出て来た。赤い根付けにちりめんの三毛猫が白いお守りを抱えている。三毛猫の首には、小さな鈴が縫い付けられていた。
どうも係長は私のことを中学生か高校生くらいに思っているらしい。しかし、もらった以上しばらくは付けていないと色々な詮索を周りにされそうだ。
最終は「嫌われてるんかなぁ」と落ち込む必要のないところで落ち込みそうな気配すらある。
それにしても、どうしてあの梁坂係長は、トレンドを飾ろうと不審な動きをするのだろう。
あの人ほど火のないところに煙を立たせようとする人はいないだろう。
いや、彼の性格を知っている人たちばかりだと、煙すら立たない……から治らないのかもしれない。
しばらく悩んだ結果、鍵にしようと思った。鍵ならいつもはカバンの中。誰かに見せることもないし、失くさないよう鍵にキーホルダーを付けている人は、いる。
違和感はないはずだ。
それに、どこに付けているのか尋ねられれば、いつでも取り出せるもの。
私は早速鍵の頭にある穴に、根付を通してお守りをぶら下げた。
細い赤糸で目を引かれた三毛猫が、私の目の前でぷらぷら揺れていた。
三毛猫って、縁起が良かったっけ? 黒猫は不吉なイメージだけどね。
そんな風に思うと、ほっと気が抜けた。
それに、付けてみると意外としっくりと納まったように見えてくるのだから、不思議なものだ。鍵にキャラクターキーホルダーなんて何年振りだろう。
本当に長野さんはどこへ消えてしまったのだろう。実家にも連絡しないで。あんなに可愛がっていたハルカちゃんまで放り出して。
私は私の見解で長野さんを考えてみる。女四十になれば、色々諦めることも出て来るだろう。諦めがついて、新しい一歩もあるだろう。良い方に考えるならば、様々なしがらみを手放して新境地で過ごすのだ。
新しい人間関係に新しい生活。長野さんのつつましやかな生活を考えれば、貯金だってそこそこ溜まっているはず。自然豊かな悠々自適な生活だって夢じゃないと思う。四十まで私の時間はまだあるけれど、結婚せず子どももいない自分が案外想像できていない。キャリアウーマンでも専門職でも、夢を追いかけている人間でもないのだ。働くだけ働いて、定年。そして、親が死んで、一人静かに……。漠然とした自分の将来に慌てて頭を振ったが、漠然と当たり前すぎていて、何が嫌なのかも分からない。
一人静かに、って気楽なのかな。それとも寂しいものなのかな。
それすら、どこか夢物語だ。一人静かに田舎暮らし。
事件、事故。係長が心配したように長野さんの身に何か起きた方がしっくりと頷ける。ハルカちゃんを置いて行った理由も。
地下鉄を出た後は環状線に乗り換える。毎日同じ道。ほぼ同時刻。今晩のおかずは何にしよう。お惣菜を買って帰る方がいいかもしれない。今日は何だか本当に疲れている。地下鉄の改札を出て、さらに環状線の改札をくぐる。アナウンスが聞こえる。
「到着の列車は環状線内回り、京橋、大阪方面行です。列車が到着します、ご注意ください」
近所のスーパーで何か見繕うことにしよう。ショルダーバックを背負い直した私は、そのまま列車に乗り込み、またもや幸運にも空いている場所を見つけたのだ。意外とお守り効果があるのではないだろうか、なんて思いながら、うとうとと微睡む。アナウンスが耳に届く度に微睡みから覚めて、もう一度目を瞑る。案外それだけなのに、乗り過ごさないものなのだ。ほんの数分の乗車なのだから。
ほんの数分。
しかし、閉じていた目を開けると、いつもと違う景色が視野に飛び込み、慌てて電車を飛び降りた私の血の気は、完全に引いていた。
ここ……どこ?
私よりも先に降りていた人の流れが、階段へと吸い込まれていく。扉が閉まる油圧音と発車の音楽と笛の音。
車両が流れてしまうと、反対側のホームが見えた。
駅名掲示もはっきりと。
長野さんの最寄り駅だ。
いつの間に乗り過ごしてしまっていたのだろう。長野さんの事ばかり考えていたせいだろうか。
でも、こんなにも乗り過ごすなんて。そう思うと微妙な恥ずかしさに襲われて、そのまま反対側のホームへと向かう階段を駆け下りていた。ふっと猫の声が聞こえたような気がしたが、私は振り向くことなく先を急いだ。




