猫
靴音とICカードの音が靄のように地下鉄改札天井に溜まっている。賑やかなホーム案内を耳に溜め、鬱陶しい頭のまま地下鉄に押しこめられた。ちょうど扉の真ん前だった。真っ暗な景色の向こうに私の顔が映っている。
冷房は効いているはずなのに、その湿度のせいで汗が背中を伝う。
例えるならぬっぺり。今の気持ちはぬっぺりだ。まだ固まらないキャンディーをへばり付けられたのだ。きっと。
さかりでもついたのだろうか、なぜか昨夜から猫がよく鳴く。別に今までなかった事象ではない。しかし、その声が尋常でないほどはっきりと聞こえてくる。
音は上へと抜ける。確かにそうなのだけれど。マンション四階、それなりの防音もあって、窓を閉めていたにもかかわらず、あんなにはっきりと聞こえて来るなんて。
あの夢も気になる。
Tシャツの女の子二人が、神社で他愛のない話をしている。そして、秘密で猫を飼うのだ。しかし、一人がその秘密を漏らしてしまった。本当か嘘か分からないが、その子はそれを否定し、もう一人は「うそつき」だと叫ぶ。
走り出した先には二人が最初に雑談していた神社があった。大きくはない神社だった。石段があって、朱塗りの鳥居があって、境内に向かう道には狛犬の代わりに白い石で出来た狛猫が二匹、夢の中の私とその女の子を迎える。狛犬同様一匹は口を開け、もう一匹は口を閉ざしていて、両方とも内側の手を招いているのだ。女の子はそのまま境内の裏手へと走り去り、段ボール箱を抱える。中には小さな猫が入っているのだ。少女二人が秘密で飼っていた仔猫。
色のはっきりしない夢の中でもその猫の色ははっきりと頭の中に彩られていく。
『ハルカ』と呼ばれたあの猫と同じだ。
女の子は何かを振り切るようにそのまま踵を返し石段を降りる。しかし、一人が足を踏み外してしまう。一〇段以上転げ落ちた女の子はそのまま動かない。仔猫がにぃにぃ鳴きながら彼女に近付き、彼女の傷口を舐めていた。
女の子は死んでしまったのだ。
葬式の最中、誰も気付いていない。しかし、私には聞こえていた。
猫が鳴いていたのだ。お経に混じって、猫の声があの和室にはあった。
タイムカードを切ると背後から明るい声が聞こえた。横井チーフのものだ。
「広崎、おはよ。どうしたん? なんか、顔色悪いよ」
振り向いた私を見つめていつも明るいチーフの声がトーンを鎮めた。
「ちょっと、寝不足で」
「体調気ぃつけや。寝不足は万病の元やで。長野さんのこともあるし」
「長野さんっ?」
私の思わぬ大声にチーフの瞳が丸くなった。
「どしたの?」
「あっ、いや、その。長野さん、何か分かったんですか?」
チーフは訝しげに私を見ていたが、すぐに答えた。
「長野さん体調不良やろ? 一人欠員の上に広崎ちゃんまで体調崩したら大変やん」
長野さんの行方が分かった訳ではなさそうだ。期待し損というところだ。何か分かっていればよかったのだけれど。そして、視線は自然と長野さんのデスクへと向かう。しかし、猫の夢を見るまでそれ程気にもしていなかったような気もする。弁当仲間と言っても、それだけの繋がりだった。友達というものでもなければ、家族でもない。いなくなれば心配だけど、自ら動いて探すかといえば、係長がいなければ動いて無かったような気がする。
そして、目の前のクールビズスタイルのチーフを眺める。きっと、猫の夢を見る前の私は彼と同じ場所にいた。長野さんが体調不良でも行方不明でも。欠席しているという事実しか見ていなかったに違いない。
「忘れるとこやったわ。係長が呼んでるで。あっちで。なんかしたん?」
チーフの指さした方向は応接室。要するにその他の人には聞こえないようにしたいのだ。
「なんもしてませんよ」
何かしてくるのは係長の方だ。お陰で私は寝不足だというのに。
そんな思いは深いため息になって現れ、そのまま言葉にならずに消えて行った。
応接室といっても、ついたて一つ立ててある向こうに安物の黒いソファとそれなりに見えるダークブラウンのセンターテーブルがさもあらんと幅を利かせているようなものだ。ついたての向こうに入る前に振り返るとチーフが少し心配そうな視線を飛ばしていて、その向こうで営業部の小坂さんと新人の有森さんまでこちらを眺めていた。こんな小さな会社だとちょっとしたことが大事として捉えられる。
それに対して疲れた微笑みを返す。
「失礼します」
「おぅ。入って」
梁坂係長の声はいつも通り、気さくなおっちゃんだ。
「おはようございます」
「おはよう。まぁ、座って」
既に座っている係長の向かいのソファに座った私に係長が白い細長い封筒を差し出した。朱印でお守りと押してある所を見ると、お守りなのだろう。しかし、その神社の名前、猫魂神社。最近猫ばかりだ。これもまた不吉なんじゃないだろうか。そんなことを思ってしまう。全部二日も見たあの夢のせいだ。
「広崎にはいろいろ迷惑かけてるしな。猫魂神社のお守りや……一応な」
「ありがとうございます。花柳まで行ってらっしゃったんですか?」
素直に受け取った私に、しかし、係長は唸った。
「日曜日にな。やっぱり心配やしな。それに、長野、実家にもおらんかって。叔母さんから警察に連絡することになってる。でも、事態が分かるまでは、しばらくの間は病欠扱いになる」
「叔母さんですか?」
「あぁ、ご両親は二人とも他界してらっしゃってな、一人っ子やったし」
つくづく、私は長野さんについて何も知らない。そして、落胆以外の何物でもないものが、係長の背中に乗っかっている。
「早く帰って来てくれるといいんですけどね」
「ほんまになぁ。まぁ、悪かったな。ありがとうな」
頭を下げた私は『ハルカ』のことを考えていた。あの猫。お隣さんに伝えておいた方がいいのかもしれない。捨てられることはないと思うが、ちゃんと飼ってあげて欲しいのは確かだ。
本当に長野さんはどこへ行ってしまったのだろう。でも、これで私は御役御免である。それはどこか、私に安寧を齎した。