花柳村の化け猫
※
夕闇の中、歩き続けた。道はおそらく合っている。ハイツを背後にずっと歩いて、そう、あの高架を目指せば駅に着くのだから。
振り返らない。
背中に何かがねっとりとへばりついてきそうでも、長野さんの声が聞こえたような気がしても。
――広崎ちゃん……
遠く向こうで声がした。その後で係長の声が追いかける。
――絶対に振り返るなよ
声は遠くのようで近くから。歩かなくちゃ。振り返らずに。時々パンプスの踵がアスファルトに削れる音がするが、足が痛いことを理由に立ち止まるわけにはいかなかった。目指している高架から目を逸らしたくもなかった。
外灯の光に照らされた高架下を潜る。
駅前の賑やかさが耳に伝わり始める。
意識して景色が見え始めた頃に、私は駅に辿り着いたことに気づいた。
梁坂係長と、金井さんが私に手を振っていた。
そして……。
だから、あの夜、金井さんが私を連れて帰ってくれて、今現在、仕事の帰りは、遠回りになるくせに最寄り駅まで梁坂係長と金井さん、今村さんが一週間送ってくれた。
さすがに朝はひとりで出社だったけれど、門番のように横井チーフが私の出社を確かめてくれて。
一週間の業務とでも言わんばかりの連係プレー。やはり、私はとても変わった会社に勤めているのだな、と改めて感じた一週間だった。
※
新しい朝がきたのだ。
まるで長い夢から覚めたような心地で目が覚めた。体の疲れもすっかりない。
なんと言っても、今まで朦朧としていた頭が嘘のように晴れている。
ぼんやりとベッドから起き上がって、カーテン越しに外を見つめる。雀の声が耳に微かに届く長閑な朝だった。当たり前のいつも通り。
だけど、そうじゃない。あの日から一週間が経ったのだ。今日が八日目の朝。
ただそれだけのことで。
私への猫の関心は消えたのだろう。昨夜からぴたりと猫の声が聞こえてこない。
あの日、縋るようにして駅まで歩いて行った私を見つけた係長は、まず私に声を掛けたそうだ。だけど、私は何も答えずにただ一心不乱に頭を振っていたらしい。
次に記憶があるのは、ファミレスの中。金井さんが隣に座っていて、前に係長がいた。私の前にあるホットコーヒーがまだ湯気を立てていた。
「なにがいいか分からんかったから、……」
少しだけ居心地悪そうにする係長が呟いた。金井さんに思い切り叱られたのだろうか?
その時はそんなことしか思えなかった。しかし、もしかしたら、金井さんに猫の呪いから何から何まで喋ってしまったのかもしれない。だから、今から思えば二言三言文句でもつけてやればよかった。そう思えるほど、あの時の出来事は私の中で『夢』になってきていることも確か。
しかし、夢ではないことは確かなようだ。消してしまった方が良いのだろうかと、長野さんのラインを開いた私の目には『既読』の二文字がはっきりと映ったのだから。
係長の言葉が思い起こされる。
「とりあえず、一週間や。猫の声に耳を貸すな。放っとけば一週間で飽きてどっか行きよるから」
『どこか』私の元ではないどこか。
だから、私は花柳市にある猫魂神社へと足を延ばしていた。名目上お礼参りだったが、係長が口を割らない『呪い』を知りたかったのだ。
これ以上、付き纏われることも、さらには『私』に飽きた猫が別の獲物にターゲットを移してしまうことも、避けたかったからだ。
頼みの綱は、悔しいが梁坂係長の『猫魂神社』のお守りしかなかった。
花柳市は大阪市から県外へと続く私鉄沿線にある小さな衛星都市である。そこには猫を祀る猫魂神社という由緒ある神社があった。夢の通り鳥居まで延びる石段を昇ると、狛猫が私を出迎えた。
社務所には平安絵巻の様な絵が描かれている欄間があり、花柳村での化け猫伝説が描かれている。十二単を着て、血を流す女性の傍に大きな三毛猫が舌を伸ばしている。これがはじまり。猫は彼女の恨みを引き取って、化け猫となった。彼女の無念は罪を擦り付けられた主の無念を晴らせなかったこと。
二枚目には猫の耳をはやした旅装束の女性が鹿の皮を腰に巻き、弓を持つ男性に手を伸ばしている。猫に化かされているとは知らずに、男性はその手を取るのだろう。
三枚目は寝所にて。血を噴き出しながら男性の頭が吹っ飛んでいて、首のない体を巨大な猫の手が押さえている絵。
なかなか凄まじい絵なのだが、平安絵巻様なので、気色悪いということはない。あんまり熱心に見ていたものだから、社務所の巫女がにっこり笑いながらその話を教えてくれた。
「平安時代のお話なんですって。でも、この絵巻には続きがあって」
猫は次々と人の魂を食べ、化け猫としての力をどんどん蓄えはじめた。猫は最初の奥方の時のように人が思い残したことを食べることで、存在を大きくしていくのだが、その度に人の味も覚えていった。
魂を喰らわれた人は腑抜けとなり、簡単に喰われてしまう。化け猫は猫の容をしていたり、喰った人の容を真似ていたりした。村人たちはどこにいるか分からない化け猫を退治するために村中の猫を殺した。
それによって化け猫はいなくなったが、殺された猫の怨念が残った。その猫が第二の化け猫になることを、大いに恐れた。
恐れた村人たちによって建立されたのがこの猫魂神社である。猫の魂を鎮めるための神社。
――人間など、勝手なものだ。
どこか冷めた思いで、そんな風に思ってしまう。
その勝手さに、幼い長野さんは巻き込まれたのだから。
それなのに、誰もこの呪いの結末を知らないのだ。
「花柳村も昭和の初めに町になって、平成で統合されて花柳市になって、今やそんな迷信信じている人の方が少ないんですけど、お年寄りたちは今も猫は不吉だって、猫に近付こうともしないんですよ」
バイトだろう若い巫女は、そう言って、お守りの鈴が入った袋を渡し、にっこりと微笑み、お決まりの言葉をきれいに伝える。
「よう、お参りくださいました」
その穏やかな声は、本当に呪いなどないように思わされてしまうよう。まるで、全ては夢だったんだと諭されているような気すらしてしまう。だけど、皮膚が泡立つ。まるで猫によって油断させられているような気がしてしまう。
私はそれを体験しているのだ。それは、夢でもなんでもなく、事実として。
だから、お参り後のその足で、私は長野さんのハイツへすぐさま向かった。第二の目的だ。
環状線に揺られながら、スマホを開く。
『ハルカちゃんは三号室の人が預かってくれているらしいですよ。みんな心配しています。連絡ください』
私が送った最後のメッセージ。私が見ていた夢の続きを考える。長野さんは猫になったハルヨを受け入れていた。
もちろん、あの猫が長野さんの失踪理由かどうかは分からない。ハルカ、今となってはその名前で呼んでいいものかどうかも分からないのだけれど、あの猫がターゲットを変えてしまっているかもしれない。
そもそも、ハルカちゃん自身が化け猫である確証もない。
どこまでも、梁坂係長の言葉が引っかかってくる。
「それにしても、そのおばさんが飼ってたって言うのに、なんでお前に憑いて来ようとしたんやろな」
今だから思える。
長野さんは、私の年齢の頃、まだ『自分』を諦めていなかった。だからこそ私を選んだ。諦めた長野さんではなく、まだ自分の人生を諦めることなく、生きていた年頃の私を。
人間なんて都合のいい者を、都合よく扱う。だから、猫もそれに倣ったのかもしれない。
大好きな飼い主を準えるようにして、その者になって願いを叶えようとするかのようにして。
始めはあのおばちゃんだったのかもしれない。だけど、晴代が生きたかった人生を、春香の代わりに与えようとしていたのかもしれない。
そう、どうしても、あの平安絵巻と、花柳の猫の呪いを重ねてしまうのだ。
ひとり暮らしの諦めがまだつかない年齢の女性の私。長野さん、いや猫は、そこに長野さんを見たのだろう。
長野さんを喰らったのかもしれない晴代の怨念を舐めた猫。だけど、まだ足りずにいる。それほどに、飢えていたのだとしたら。
軽い口調で、そんなことを言っていた係長にとってはその『おばさん』は見たこともない架空の人物くらいの重みしかなかったのかもしれない。いや、本当に恐れているから、軽口を叩いているのかもしれない。だけど、私はそのおばさんと会話を交わした一人だ。それも大きな事実だった。
最寄り駅からもう迷うことなく歩き出した私は、もう二度とこの道は通らないだろうなと思った。拓けたポーチの古びた共同玄関ポスト。ペット可の貼り紙。どれも変わらない。私はそれらを瞳に移しながら、一つ扉の前に立つ。
3号室前。あのおばさんの部屋だ。
「こんにちは」
私の声だけがひっそりとしたその場所に響いていた。
「あの、いらっしゃいませんか?」
猫の声は聞こえない。あのおばさんの気配もない。
「あの、……お留守でしょうか?」
もう一度声を掛ける。日曜日の午後だ。出かけていたとしてもおかしな時刻ではない。
そして、手帳を一枚ちぎって、書き込む。
もし、あなたが何か猫の恐怖を感じているのなら、一週間猫の声を無視してください。決して振り返らないでください。諦めないでください。
何かの役に立つかもしれないと、花柳町の猫魂神社で買ったお守りの袋とそのメモを3号室の郵便受けに入れた。これ以上は振り返らない。そう決めて、『既読』になっていたラインのメッセージと『長野さん』を削除した私は、ハイツを後にした。




