猫がくる
※
赤い血が石段に流れる。あれは、晴代のものだった。
そう、あれは、晴代の……。
私のせいで、死んだ晴代の……。
「うそつきっ」と走り出した春香は誰にも秘密にしていた仔猫を探しに、神社へ走り出していた。石段を上り、鳥居をくぐり、境内の裏にあるご神木の影になる、茂みの中。仔猫を入れた段ボール箱が、春香の目に飛び込んできた。
大人に知られてしまった、ということは、この仔猫が危ない。保険所へ連れて行かれるか、川に流されるか、……彼女に待っているものは死しかないのだ。
だって、この花柳町では、とくに旧花柳村だったここ周辺では猫は不吉なのだから。
春香は息も絶え絶えになりながら、その段ボールの前で膝を付き、一度呼吸を整えた。声はしない。もしかして、もう……。春香はもう一度息を止め、その段ボール内を覗き込んだ。
「……はるか、ちゃん」
後ろから親友の声が聞こえたが、その声に振り向いた春香の目は赤く、鋭くその親友を睨み付けた。
「大っ嫌い」
箱の中には仔猫はいなかった。春香はそのまま立ち上がり、仔猫を探そうと走り出す。晴代はその春香を今度は追い着くように、必死になっては追従する。そして、春香の腕を掴んだ。
ちょうど石段の所だった。
「私、」
「放して、探さなくちゃ」
「私…」
乱暴に振り解かれた手に、晴代の体がバランスを崩し、春香が気づいた時には既に石段の下まで転がってしまった後だった。
……言ってないから。
後になって晴代の言っていたことが本当だったと分かった。『猫は不吉』に踊らされてしまっていたのは、春香一人だったことも。
親たちが、二人がこそこそしていることに気付いたことは、ごく自然なことだった。二人の様子がいかにも不審だったからだ。
こそこそ冷蔵庫を探る。
こっそりタオルを持って行き、持って帰ってこない。
『猫』という言葉に過剰に反応することもあった。
しかし、そんな迷信よりも子どもたちの優しい気持ちを尊重しようと見守ろうとしていたことを、春香はお葬式が終わって、四十九日が終わって、中学卒業の頃に知ることになる。
あの時仔猫は、ちょっと大きくなってきていて、ちょっと遊びに出掛けていただけだったのだ。現に、晴代が転がり落ちて、春香が泣きながら立ち尽くしているその足元で、心配そうに二人を交互に見ていたのだから。
猫は不吉。大人達はそう言って、春香を慰めた。猫のせいなんだ、と。
長野春香はそれをずっと抱えて生きていた。そこに、あの猫がやってきた。
「もういいやろって。猫が来てん。きっと……」
「もう、長野さん、そんなことないですよ。だってまだまだ若いじゃないですか」
「でもな…………そうやなぁ、広崎ちゃんも早くいい人見つけな。猫が来るで」
長野さんが茶化すように笑った。そうそう、ペットを飼ったら結婚できないっていう、あれ。寂しさが埋まるから。
でも、長野さんの場合は違った。
――猫が来たんだ。長野さんのいる場所に。
ふと足が痛むことに気がついた。
私、歩いていたの?
と。
そして、歩いていた自分の足が止まったことにも、意識が向く。
気が付くと足に更なる痛みが走った。履きなれたパンプスなのに、靴ずれができていて、立っているのも辛い。日は暮れかかっている。一体何時間くらい過ぎたのだろう。私は一体何をしていたのだろう。
鈴の音が一度、遠くで聞こえた気がしたが、実際に耳に飛び込んできた音は携帯の呼び出し音だった。
鈴の音などではない。
ショルダーバックから響く着信音が私を現実へと引き戻そうとするが、体中が気怠くて、指一本ですら動かしたくなかった。
足はただアスファルトの上にある棒きれのようで、腕は、肩からぶら下がる大縄のような。
――ここはどこだろう……。
やっと意識を向けることができた現実は、自分がどこにいるか、ただそれだけだった。
どこかぼんやりとする私は、いつのまにか着信音が消えたことにも気づけなかった。
そう、何か鳴っていた、たぶん、電話。
そのくらいの意識だった。
やっと、目の前にあるものがはっきりしてくる。夢と現実の境界があるのだとすれば、今、私の意識は現実側にいる。
そこは長野さんのハイツ前だった。闇と太陽が混ざり合い、空を朱と紫に染めている。そんな背景にハイツは以前よりもずっと重苦しく見えた。一体、私はどうやってここまで来たのだろう。パンプスの足がもう一歩も動きませんとがくがくする。それなのに、頭は進めと命令するようだ。もしかしたら、そんな繰り返しをしながら、ここまで歩いて来たのかもしれない。朝から、夕方まで、私のマンションから長野さんのハイツまで、距離と時間が全く合わない。そして、意志に反して、私は一歩一歩長野さんの部屋へと近づいて行く。ハルカちゃんを預かってくれている三号室の女性の部屋を通り過ぎ、あの薄っぺらい部屋の前へ。そして、そっとそのドアノブへと手を伸ばす。開けてはならない、と意識は囁くが、止められない。心臓の拍動が激しくなる。開ければ、おしまい。
再び、着信音がけたたましく響く。はっと意識が完全に現実へと帰ってきたことを感じた。この一瞬を逃してはいけない。本能的に感じた。だから、必死になってその音の在り処を探そうと、私はしゃがみこみ、カバンの中を漁った。
あるはずなのに、指先にも触れないスマホを懸命に探す。
どうして、ないの。
着信しているスマホって光るよね。
どうして、見つけられないの。
そう、鞄の内側に広がる深淵が、私を呑み込もうとしているのだ。自分の周りを見渡す勇気も出なかった。ただ、スマホという光源を探すことだけが、命綱のような気がしたのだ。
指に何かが絡まった。
鈴の音だ。あの鍵に付けたお守り。そして、鍵が何か硬いものにぶつかる音。その先には青白く光る画面が。『梁坂係長』の文字が目に飛び込む。
縋るようにそれを手にする。スライドさせる。そして、私が返事をする前に無頓着に響く大きな声が私の耳を醒ました。
「広崎、お前、今どこにおんねん。何回電話したと思ってるねん。みんな心配してるで。実家の方に連絡しても知りはれへんかったし、何しとんねん」
それは、梁坂係長の声だ。
「それが、長野さんの部屋の前に……よく分からないんです」
気持ちを保っていられたのは、きっと梁坂係長がいつもの調子だったから。
「……分かった。とりあえず、駅まで戻れるか? 駅で待ってるんやで。迎えに行くから。あ……あのお守り持ってるんやったらとりあえず握っとけ。ご利益あるかも知れへん」
私の説明に、なんの疑問も抱かない返事は、さすが猫は不吉の情報源であると思えた。頼もしいとさえ、思えた。彼は、今の私の状況をいち早く察してくれたらしい。私は言われるままにそのお守りを握りしめた。
「あとな、ご両親には適当になんか言い訳付けて、おったって連絡しといたって」
「適当にって……金井分かるか?」
「無茶ぶりっていうねん、それはあんた。急に思いつくわけないやん」
どうも、電話口には梁坂係長以外にもいるらしい。
「誰かおられるんですか?」
「あぁ、横井と金井がおる。だから、理由は何でもいいって。ご心配お掛けしましたって、ほら、……なんて言っておいて欲しい?」
なんてって。結局自分でも思いつかなかったらしい。その係長らしさに、その騒がしさにさっきまでの不安が吹き飛びそうだ。いや、さっきまで感じていた恐怖が茶番である方が何倍もありがたい。私は、ただ、そう……。夢の中にいて、今、起こされたんだ。
「じゃあ、不眠で睡眠薬を飲んだら起きれなかったって」
嘘を吐く時は事実を混ぜておいた方がいいらしい。というか、横井チーフと金井さんにはなんて言っているのだろう。猫の不吉を語ったのだろうか。それとも、適当なことを言ったのだろうか。
「よっしゃ、分かった。じゃあ、駅で待ってろよ」
ここまでお節介をしておいて、どうして突き放すのだろう。だから、迎えに来てくれようとせず、無情にも通話を切ろうとする係長に私は慌てて嘆願してしまった。このままこの通話が切れてしまったら、またあの扉を開こうとするかもしれない。今もなんとなく、この外廊下自体が不穏なのだ。空気が澱んでいるというか、五号室の人の気配もないし。幸運にも私の周りだけが明るくなっているだけなような。
「あぁ、あっ、あの、あの。このまま通話しててください。なんか、変なんです」
「なんでや、まぁ、いいけど。電車乗るまでな」
係長は今のこの私の状況を分かってくれているはず、と思っていたが、実際は分かっていないのかもしれない。なんて非情な人なのだろう。だが、もうそれは諦めよう。とにかく、通話が切れるまでに、少しでも駅に近付こう。私は意識をしっかり持った。
「電車で通話してて、変に絡まれたらそっちに行かれへんやろ?」
確かにごもっとも、なのだが。気持ちがついていかない。だけど、縋る相手でもない気がしてきたのも確かだ。
「……はい」
「何や、不服か? たぶん、諦めへんかったら大丈夫や」
横井チーフではあるまいし、怨念とか幽霊とかにその概念が通じるとは思えなかったが、私は素直に「はい」とだけ返事し、完全に梁坂係長という人物を完全に諦めた。
「あぁ、……それと、広崎、絶対に振り返るなよ」
――念のためや
この時の私には知る由もなかったが、きっとそれが明暗を分けたのだ。




