花柳村の化け猫
「広崎ちゃん……」
遠く向こうで声がした。その後で係長の声が追いかける。
「広崎、絶対に振り返るなよ」
声は遠くのようで近くから。歩かなくちゃ。振り返らずに。
意識して景色が見え始めた頃に、私は駅前にいた。
多分、係長と金井さんが一緒に迎えに来てくれていて、……。私は彼らの顔を見て視界を失った。
まるで長い夢から覚めたような心地で目が覚めた。朦朧としていた頭が嘘のよう。ぼんやりとベッドから起き上がって、カーテン越しに外を見つめる。雀の声が耳に微かに届く長閑な朝だった。当たり前のいつも通り。
だけど、そうじゃない。あれから一週間が経ったのだ。ただそれだけのことで。とりあえず、私への関心は消えたのだろう。昨夜からぴたりと猫の声が聞こえてこない。
あの日、縋るようにして駅まで歩いて行った私を見つけた係長は、まず私に声を掛けたそうだ。だけど、私は何も答えずにただ一心不乱に頭を振っていたらしい。
次に記憶があるのは、ファミレスの中。金井さんが隣に座っていて、前に係長がいた。私の前にあるホットコーヒーがまだ湯気を立てていた。
「なにがいいか分からんかったから、……」
少しだけ居心地悪そうにする係長が呟いた。金井さんに思い切り叱られたのだろうか?
その時はそんなことしか思えなかった。しかし、今から思えば二言三言文句でもつけてやればよかった。そう思えるほど、あの時の出来事は私の中で『夢』になってきているのだ。しかし、夢ではないことは確かなようだ。そう認識した途端、何故か胸騒ぎがした。そして、ラインを開いた私の目には『既読』の二文字が映った。
そして、係長が言った言葉を思い起こす。
「とりあえず、一週間や。猫の声に耳を貸すな。放っとけば一週間で飽きてどっか行きよるから」
『どこか』私の元ではないどこか。だから、私は花柳市にある猫魂神社へと足を延ばしていた。名目上お礼参りだったが、係長が口を割らない『呪い』を知りたかったのだ。
花柳市は大阪市から県外へと続く私鉄沿線にある小さな衛星都市である。そこには猫を祀る猫魂神社という由緒ある神社があった。夢の通り石段を昇ると、狛猫が参拝する者を出迎えた。
社務所には平安絵巻の様な絵が描かれている欄間があり、花柳村での化け猫伝説が描かれている。十二単を着て、血を流す女性の傍に大きな三毛猫が舌を伸ばしている。これが最初。猫は彼女の恨みを引き取って、化け猫となった。彼女の無念は罪を擦り付けられた主の無念を晴らせなかったこと。
二枚目には猫の耳をはやした旅装束の女性が鹿の皮を腰に巻き、弓を持つ男性に手を伸ばしている。猫に化かされているとは知らずに、男性はその手を取るのだろう。
三枚目は寝所にて。血を噴き出しながら男性の頭が吹っ飛んでいて、首のない体を巨大な猫の手が押さえている絵。
なかなか凄まじい絵なのだが、平安絵巻様なので、気色悪いということはない。あんまり熱心に見ていたものだから、社務所の巫女がにっこり笑いながらその話を教えてくれた。
「平安時代のお話なんですって。でも、この絵巻には続きがあって」
猫は次々と人の魂を食べ、化け猫としての力をどんどん蓄えはじめた。猫は最初の奥方の時のように人が思い残したことを食べることで、存在を大きくしていくのだが、その度に人の味も覚えていった。
魂を喰らわれた人は腑抜けとなり、簡単に喰われてしまう。化け猫は猫の容をしていたり、喰った人の容を真似ていたりした。村人たちはどこにいるか分からない化け猫を退治するために村中の猫を殺した。
それによって化け猫はいなくなったが、殺された猫の怨念が残った。その猫が第二の化け猫になることを、大いに恐れた。
恐れた村人たちによって建立されたのがこの猫魂神社である。猫の魂を鎮めるための神社。
「花柳村も昭和の初めに町になって、平成で統合されて花柳市になって、今やそんな迷信信じている人の方が少ないんですけど、お年寄りたちは今も猫は不吉だって、猫に近付こうともしないんですよ」
バイトだろう若い巫女は、そう言って、お守りの入った袋を渡し、にっこりと微笑み、お決まりの言葉をきれいに伝える。
「よう、お参りくださいました」
お参りの後のその足で、私は長野さんのハイツへすぐさま向かった。環状線に揺られながら、スマホを開く。
『ハルカちゃんは三号室の人が預かってくれているらしいですよ。みんな心配しています。連絡ください』
私が送った最後のメッセージ。私が見ていた夢の続きを考える。長野さんは猫になったハルヨを受け入れていた。
もちろん、あの猫が長野さんの失踪理由かどうかは分からない。ハルカ、今となってはその名前で呼んでいいものかどうかも分からないのだけれど、あの猫がターゲットを変えて、またどこかへ行ってしまったのかも分からない。そもそも、ハルカちゃん自身が化け猫である確証もない。
「それにしても、そのおばさんが飼ってたって言うのに、なんでお前に憑いて来ようとしたんやろな」
係長にとっては『そのおばさん』は見たこともない架空の人物くらいの重みしかなかったのだろう。しかし、私は彼女と会話を交わした一人だ。それは大きな事実だった。
最寄り駅からもう迷うことなく歩き出した私は、歩きながらもう二度とこの道は通らないだろうなと思った。拓けたポーチの古びた共同玄関ポスト。ペット可の貼り紙。どれも変わらない。私はそれらを瞳に移しながら、一つ扉の前に立つ。
3号室前。あのおばさんの部屋だ。
「こんにちは」
私の声だけがひっそりとしたその場所に響いていた。
「あの、いらっしゃいませんか?」
猫の声は聞こえない。あのおばさんの気配もない。
「あの、いらっしゃいませんか?」
もう一度声を掛ける。日曜日の午後だ。出かけていたとしてもおかしな時刻ではない。
そして、手帳を一枚ちぎって、書き込む。
もし、あなたが何か、猫の恐怖を感じているのなら、一週間猫の声を無視してください。決して振り返らないでください。諦めないでください。
何かの役に立つかもしれないと、花柳町の猫魂神社で買ったお守りの袋とそのメモを3号室の郵便受けに入れ、ハイツを後にした。
私はその後『既読』になっていたラインのメッセージと『長野さん』を削除した。
小学生の間、花柳市だけで流行る都市伝説がある。それは、『猫は不吉』というもの。ベースには『花柳化け猫伝説』があるようで、猫に魅入られるとその猫に喰われるという結末である。
この伝説を聞いた後、もし、通り道、猫の視線を感じて、その猫と目が合ってしまったら発生する呪いである。
しかし、回避方法は存在する。
一週間の間、猫に呼びかけられても決して振り返らないこと。最近ではブームに則り、飼い猫は含まないなんてご都合主義も加えられ、素性の分からない猫限定になっている。
そして、諦めずに続けること。小学生の中には振り返ってしまってからも、諦めずに続け、呪いを回避しているものも多くいる。猫は好奇心旺盛なもの。面白そうな獲物がいれば、動かなくなったそれよりもそちらに移る。
だから、決して諦めないで欲しい。
この物語はフィクションです。登場する会社、化け猫の呪いは創作ですので、無闇に猫を怖がらなくても大丈夫です。化け猫の部分は佐賀県の鍋島化け猫騒動を参考にしております。




