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猫がくる


 赤い血が石段に流れる。あれは、晴代のものだった。「うそつきっ」と走り出した春香は誰にも秘密にしていた仔猫を探しに、神社へ走り出していた。石段を上り、鳥居をくぐり、境内の裏にあるご神木の影になる、茂みの中。仔猫を入れた段ボール箱が、春香の目に飛び込んできた。


 大人に知られてしまった、ということは、この仔猫が危ない。保険所へ連れて行かれるか、川に流されるか、……彼女に待っているものは死しかないのだ。


 だって、この花柳町では、とくに旧花柳村だったここ周辺では猫は不吉なのだから。


 春香は息も絶え絶えになりながら、その段ボールの前で膝を付き、一度呼吸を整えた。声はしない。もしかして、もう……。春香はもう一度息を止め、その段ボール内を覗き込んだ。


「……はるか、ちゃん」


後ろから親友の声が聞こえたが、その声に振り向いた春香の目は赤く、鋭くその親友を睨み付けた。


「大っ嫌い」


箱の中には仔猫はいなかった。春香はそのまま立ち上がり、仔猫を探そうと走り出す。晴代はその春香を今度は追い着くように、必死になっては追従する。そして、春香の腕を掴んだ。


 ちょうど石段の所だった。


「私、」

「放して、探さなくちゃ」

「私…」


乱暴に振り解かれた手に、晴代の体がバランスを崩し、春香が気づいた時には既に石段の下まで転がってしまった後だった。


……言ってないから。


 後になって晴代の言っていたことが本当だったことが分かった。『猫は不吉』に踊らされてしまっていたのは、春香一人だったことも。


 親たちが、二人がこそこそしていることに気付いたことは、ごく自然に二人の様子が不審だったから。猫という言葉に過剰に反応することもあった。しかし、そんな迷信よりも子供たちの優しい気持ちを尊重しようと見守ろうとしていたことを、春香はお葬式が終わって、四十九日が終わって、中学卒業の頃に知ることになる。


 あの時仔猫は、ちょっと大きくなってきていて、ちょっと遊びに出掛けていただけだったのだ。現に、晴代が転がり落ちて、春香が泣きながら立ち尽くしているその足元で、心配そうに二人を交互に見ていたのだから。


 猫は不吉。大人達はそう言って、春香を慰めた。猫のせいなんだ、と。


 長野春香はそれをずっと抱えて生きていた。そこに、あの猫がやってきた。


「もういいやろって。猫が来てん。きっと……」

「もう、長野さん、そんなことないですよ。だってまだまだ若いじゃないですか」

「でもな…………広崎ちゃんも早くいい人見つけな。猫が来るで」


暗かった長野さんの表情が茶化すように笑った。そうそう、ペットを飼ったら結婚できないっていう、あれ。寂しさが埋まるから。


 でも、長野さんの場合は違った。猫が来たんだ。長野さんの所に。


 歩いていた自分の足が止まったことに私は気が付いた。気が付くと足に痛みが走る。履きなれたハイヒールなのに、靴ずれができていて、立っているのも辛い。日は暮れかかっている。一体何時間くらい過ぎたのだろう。私は一体何をしていたのだろう。


 ショルダーバックから響く着信音で辺りを見回す。最初、ここがどこか分からなかった。辺りが暗かったということと、私自身の記憶があまりにも曖昧だったせいだろう。何コールかした後、着信音が消えた。


 ここは長野さんのハイツ前だった。闇と太陽が混ざり合い、空を朱と紫に染めている。そんな背景にハイツは以前よりもずっと重苦しく見えた。一体、私はどうやってここまで来たのだろう。ハイヒールの足がもう一歩も動きませんとがくがくする。それなのに、頭は進めと命令するようだ。もしかしたら、そんな繰り返しをしながら、ここまで歩いて来たのかもしれない。朝から、夕方まで、私のマンションから長野さんのハイツまで、距離と時間が全く合わない。そして、意志に反して、私は一歩一歩長野さんの部屋へと近づいて行く。ハルカちゃんを預かってくれている三号室の女性の部屋を通り過ぎ、あの薄っぺらい部屋の前へ。そして、そっとそのドアノブへと手を伸ばす。開けてはならない、と意識は囁くが、止められない。心臓の拍動が激しくなる。開ければ、おしまい。


 再び、着信音がけたたましく響く。はっと意識が現実へと帰ってくる。必死になってその音の在り処を探そうと、私はしゃがみこみ、カバンの中を漁る。鈴の音がした。鍵に付けたお守りだ。そして、光っている画面が目に飛び込む。縋るようにそれを手にする。スライドさせる。そして、私が返事をする前に大きな声が聞こえてきた。


「広崎、お前、今どこにおんねん。みんな心配してるで。実家の方に連絡しても知りはれへんかったし、何しとんねん」


梁坂係長の声だ。


「それが、長野さんの部屋の前に……よく分からないんです」


気持ちが保ってられたのは、きっと梁坂係長がいつもの調子だったからだ。


「……分かった。とりあえず、駅まで、戻れるか? 駅で待ってるんやで。迎えに行くから。あ……あのお守り持ってるんやったらとりあえず握っとけ。ご利益あるかも知れへん」


さすが、猫は不吉情報源である。今の私の状況をいち早く察してくれたらしい。私は言われるままにそのお守りを握りしめた。


「あとな、ご両親には適当になんか言い訳付けて、おったって連絡しといたって」

「適当にって……金井分かるか?」

「無茶ぶりっていうねん、それはあんた。急に思いつくわけないやん」


どうも、電話口には梁坂係長以外にもいるらしい。


「誰かおられるんですか?」

「あぁ、横井と金井がおる。だから、理由は何でもいいって。ご心配お掛けしましたって、ほら、……なんて言っておいて欲しい?」


なんてって。結局自分でも思いつかなかったらしい。その係長らしさに、その騒がしさにさっきまでの不安が吹き飛びそうだ。いや、さっきまで感じていた恐怖が茶番である方が何倍もありがたい。私は、ただ、そう……。夢の中にいて、今、起こされたんだ。


「じゃあ、不眠で睡眠薬を飲んだら起きれなかったって」

嘘を吐く時は事実を混ぜておいた方がいいらしい。というか、横井チーフと金井さんにはなんて言っているのだろう。猫の不吉を語ったのだろうか。それとも、適当なことを言ったのだろうか。


「よっしゃ、分かった。じゃあ、駅で待ってろよ」


ここまで迎えに来てくれようとせず、無情にも通話を切ろうとする係長に私は慌てて嘆願した。このままこの通話が切れてしまったら、またあの扉を開こうとするかもしれない。今もなんとなく、この外廊下自体が不穏なのだ。空気が澱んでいるというか、五号室の人の気配もないし。幸運にも私の周りだけが明るくなっているだけなような。

「あぁ、あっ、あの、あの。このまま通話しててください。なんか、変なんです」

「いいけど。電車乗るまでな」


係長は今のこの私の状況を分かってくれているはず、と思っていたが、実際は分かっていないのかもしれない。なんて非情な人なのだろう。しかし、そんなぁ、と言い合うほどの仲でもないし、それは諦めよう。とにかく、通話が切れるまでに、少しでも駅に近付こう。私は意識をしっかり持った。


「……はい」

「何や、不服か? たぶん、諦めへんかったら大丈夫や」


横井チーフではあるまいし、怨念とか幽霊とかにその概念が通じるとは思えなかったが、私は素直に「はい」とだけ返事を返した。


「それと、何があっても振り返るなよ」


このときの私には知る由もなかったが、きっとそれが明暗を分けたのだ。





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