ハルヨ
就寝準備を終えた私は、コップ一杯の水と青い箱を持って、ベッドの上で正座していた。ある意味、人生の難所を通り抜けるような心持ちで、その青い箱とにらめっこを続ける。
寝不足対策で睡眠薬、正式には睡眠薬ではなく、睡眠改善薬らしいのだが、そのパッケージ裏に書いてある説明を読みながら、一つずつレ点をつけるようにして、チェックしていく。
『音夢レール』
胡散臭いネーミングだ。しかし、薬剤師が一時的な不眠に対してのおすすめ薬として私に渡したものだから、信用しないこともない。ただ、睡眠薬は初体験である。緩いものだろうけれど、意外とその一歩を踏み出しにくいものなのだ。しかし、説明のチェックの結果も心配ないようだ。これでぐっすり眠れるのなら、と私は一錠その薬を飲みこんだ。
夢は決して悪夢ではない。ただ係長の言葉が悪いだけで。猫が不吉だなんて先入観があるから、寝不足になるくらいで。今は長野さんのことが気になるから、長野さんの夢を見るだけで。
そんな風に言い聞かせて、私はぐっすりと眠りに落ちていた。夢の中で長野さんがハルカちゃんを可愛がっている。
「ハルちゃんはいい子やな」
目を細め、膝の上で丸まる黒白猫を優しく撫でる。撫でられたハルカちゃんは呼ばれた?とばかりに頭を起こし、長野さんを見つめ目を細め、また眠り始める。
あぁ、長野さんは本当にハルカちゃんのことが好きなんだな、と思わせる夢だった。そして、ハルカちゃんがもう一度頭を起こし、長野さんを見つめると、長野さんが呟いた。
「ハルヨ……どうしたん?」
『ハルヨ』と呼ばれた猫が「にゃあう」と答え、長野さんがその声に寂しそうに頷いた。
「ハルちゃんごめんね」
久し振りによく眠れたものの、不思議な夢に頭の中はすっきりしなかった。それでも、体は随分と軽くなっている。隈も薄くなっただろう。もう一度伸びをした私はゆっくりと朝の支度を始めた。
朝のパンを食べる。あれ、とベランダに目を遣る。今朝は声がしないのだ。
無性に気になってベランダに出てみるが、いつも目の前にある電線に止まっている雀がいない。別に懐いていた訳でも、可愛がっていた訳でもないが、その『いない』という事実だけが氷を抱いたような凍えを私にもたらした。
いない……。
嫌な予感がした。ここにいてはいけないような。そうだ、早く出勤してしまえば、いいんだ。行く当てなんてそこくらいしか思いつかない。早く誰か生きた人間と関わりたかった。化粧もおろそかに、髪を梳かし、一つにまとめる。ショルダーバックを肩に引っ提げ、玄関を開ける。
何かを引き摺った後がつく。赤く縮れた羽根がそれにへばり付いている。
猫って飼い主を喜ばせようとして、ネズミとか虫とか自分の好きなものを飼い主に獲ってくる習性があるんやよね。
はた迷惑って思ってるでしょう? でも、そういうものなんやって。嫌がっちゃあかんよ。だって、それは、猫の愛情表現だから。猫が傷付いちゃう。
玄関を閉めた私は、その獲物を見て、弱々しい悲鳴が我知らず喉の奥から発せられていた。
雀が死んでいた。首が、取れていた。引き摺ったせいじゃなくて。
猫って、ちゃんと致命傷を知っていて、どこを狙えばいいかちゃんと知ってるんやって。本能ってすごいよね。
長野さんが教えてくれた猫情報が頭の中に巡り、浸透していく。そして、頭の中で繋がる言葉。あの子の声だ。きっと。
「じゃあ、全部諦めがついた時でいいから、代わってね」
「それで、許してくれるの?」
友達が頷くと、長野さんが「ありがとう」と呟いた。長野さんはそれを受け入れた。
私は自然な拒絶を覚えた。