203X年9月 高雄/サンノゼ/東京
203X年9月
中華民国/台湾・高雄市前鎮区 高雄港
台風の接近を予感させる湿った熱風が、台湾最大の貿易港、高雄の広大なコンテナターミナルを吹き抜けていた。バシー海峡から黒潮の分流が流れ込む紺碧の海面に巨大なガントリークレーンの赤い鉄骨が幾何学的な影を落とし、重油と潮の香りが混じり合った独特の熱気が、遮るもののない埋立地に澱んでいる。
ターミナルの管制棟で初老のエンジニアが、コンソールに表示された簡体字中国語のエラーメッセージ―ーこのクレーンの制御システムは、コストパフォーマンスに優れた大陸地区(中華人民共和国)企業の製品が、競争入札により調達されている――を凝視していた。
「……また止まったのか」
「原因不明です。油圧系統も電力供給も正常なのに、クレーンの制御システムが突然フリーズしました。再起動しても、数分と経たずに再びコマンドを受け付けなくなります」
「クレーンだけじゃない。コンテナのタグ識別システムも不具合を起こしている。ヤード内のどこにどの荷物があるのか、データが整合性を失っているんだ。これでは荷役作業が完全にストップしてしまう」
エンジニアは窓外に目をやった。港の入り口を挟んで対岸に位置する観光名所、旗津島のシルエットが波の向こうに低く沈んでいる。動かなくなったクレーンの下で、コンテナを積んだトラックの列が巨大な蛇のように滞留し、物流という台湾経済の血液が、港という心臓部で凝固し始めていた。
アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンノゼ市
米国そして世界のハイテク産業の心臓部、シリコンバレーを包み込む湿った夜霧は、悪趣味な電飾が輝く数キロ先の「スカイX」社本社ビルを不透明な帳の向こうへと隠していた。ダウンタウンの喧騒から少し離れたダイナーの片隅、スカイX社のチーフ・エンジニアであるデビッド・ミラーは冷めきったコーヒーのカップを震える指で握りしめていた。
デビッドが担当しているのは、衛星通信網「スターネット」の運用管理だ。数千機の小型衛星が複雑な軌道を描きながら網の目のように地球を包み込み、フェーズドアレイアンテナを用いて、地上端末との間の通信周波数を動的に制御するこのシステムは、物理的な破壊にも、大規模な電波妨害にも耐えうるはずだった。事実、2022年にはロシアの侵略を受けるウクライナの通信を確保し、2026年、イランの独裁政権が通常のインターネット接続を遮断した時も、全土に広がる反政権デモの熱狂とイスラム革命防衛隊による弾圧の真実を外界へ伝え続けた。その実績を見た諸国――ことに台湾や日本など、中国の軍事的脅威に晒される国々――においてスターネットは、既存の通信インフラが破壊された際の命綱として、数億人の市民と軍に利用されている。
「……予定より5分遅いですよ、デビッド。奥さんに疑われたのですか?」
正面の席に、アジア系の風貌をした禿げ頭の男が座った。男は「ウォン」と名乗っていたが、それが偽名であることはデビッドも理解していた。ウォンは穏やかな笑みを浮かべ、ジャケットの懐から1本の銀色のUSBメモリを取り出した。
「あなたが求めていた半分は、ここに。残りの50万ドル分は約束の口座に送金済みです」
デビッドは喉を鳴らし、男の手元を凝視した。そのUSBにはデビッドの輝かしいキャリアと家庭を一瞬で灰にする、若すぎる愛人とのモーテルでの密会映像、そして会社からの金銭着服の証拠が収められている。
「……約束、通りだろうな。管理者用ルートのバックドアと、周波数ホッピング(妨害回避のための周波数自動調整)を強制停止させるためのマスターキーだ。これを使えば、スターネットの防御層を特定の時間、特定の地域で『盲目』にできる」
デビッドは、自身のノートPCから抜いた別のUSBメモリを、震える手でテーブルの下でウォンに手渡した。
「良い判断です。世界がどのように変わろうとも、あなたは愛する家族と、潤沢な資産とともに生き残ることができる。……それが一番重要なことでしょう?」
ウォンは満足げに頷き、USBをポケットにしまい込むと、音もなく席を立った。デビッドは1人残され、ダイナーの窓を打つ雨音を聞いていた。
日本・東京都
9月に入ってもなお衰えぬ残暑の空気は、スマートフォンの画面から溢れ出す憎悪と、ここ数週間続く重苦しい曇天によって塗り潰されていた。アスファルトからは湿った熱気が立ち昇り、街全体が巨大な温室のように息苦しい。
朝の通勤時間、いつものように殺人的な混雑のJR山手線車内。ほとんど身動きが取れず吊り革を掴む会社員の男は、右手にかろうじてスマートフォンを握りしめ、親指で画面をスクロールしていた。短文投稿型SNSのトレンド欄には、殺伐とした文言が並ぶ。
『#岸山辞任を求める』
『#米兵暴行事件を許すな』
『#国民皆殺しの緊縮増税』
『#大泉内閣即時退陣』。
前の民自党総裁にして内閣総理大臣である高石佐奈子は、「初の女性総理」を旗印に熱狂的な支持を集めた。しかし、「責任ある積極財政」という美名の下で歯止めを失った大盤振る舞いは日本経済に深刻な後遺症を残した。国債の乱発は急激な円安、債券安、株安のトリプル安を招き、輸入物価の暴騰が大衆の生活を直撃して実質賃金は下がり続けた。さらに口を開けばタカ派的な勇ましさを誇示する高石だったが、北方領土やウクライナ情勢を巡るロシアへの対応等で実態を伴わぬ弱腰を露呈し、保守層の失望を買う。結果として前回の参議院選挙で与党・民自党は惨敗を喫し、国会は衆参のねじれへと転落。高石は政権を放り出すように退陣を余儀なくされた。
その後を受けて誕生したのが、かつて高石内閣で防衛大臣を務めたこともある若きサラブレッド、戦後最年少の内閣総理大臣となった大泉進太郎の政権だった。外務大臣には数代前の総理経験者である長老・岸山筆雄を据え、防衛大臣には国防族の重鎮、小野山陸典を再登板させるなど、重量級の超ベテランで脇を固めてねじれ国会の荒波を乗り切ろうとした。しかし前政権が積み上げた巨額の財政赤字と、底割れ寸前の日本国債を冷淡に見つめる海外投資家、そして同盟国・米国からの財政健全化圧力は待ったなしだった。大泉内閣は発足早々、消費増税の前倒し、高齢者向け社会保障給付の削減、そして防衛費増額のための「防衛増税」という、痛みを伴う緊縮・財政再建パッケージを打ち出さざるを得なくなったのである。
その反動が、いま制御不能な憎悪となって渦巻いていた。
数日前から拡散されている動画がある。神奈川県横須賀市の裏路地、暗がりのなか、グリーンの迷彩服を着た大柄な男たち3人が英語で何事かを叫びながら、泣き叫ぶ黒髪の日本人女性を引きずり回している。画質は粗いが、男の肩には星条旗のパッチが見える。投稿には「米海軍兵士による集団暴行事件発生。大泉首相は米軍の機嫌取りのため完全黙殺中!」という扇情的なテキストが添えられ、すでに数百万回再生されていた。
「またこれか……。社会保障は削られ、税金ばかりむしり取られて、国民の命は守る気ゼロかよ」
男は小さく舌打ちをした。実際には、在日米海軍司令部と神奈川県警が「該当する事件の発生は確認されていない」と異例の速さで否定声明を出していた。映り込む看板の文字に不自然な形の崩れがありAI生成動画ではないか……といった冷静な指摘も上がっていたが、生活苦と増税への憤りに燃える群衆にとって、真実など二次的な問題に過ぎなかった。
国民の怒りに油を注ぐように、小野山防衛大臣が防衛産業最大手「極東重工」の幹部と会食を重ねていたとする怪文書までネットメディアに流出し、政権の防衛増税は「軍需利権へのばらまき」だとする激しいバッシングが吹き荒れていた。
「……高石のバラマキのツケを払わされ、大泉の増税で首を絞められ、結局痛い目を見るのは俺たち庶民だけだ」
国会議事堂へと続く永田町1丁目の交差点。
「増税亡国の大泉政権を打倒せよ! 緊縮財政で日本を干からびさせる気か!」
「アメリカとグローバリストの言いなりになって消費税を上げる売国奴!」
「岸山外相は辞任しろ! 日本国民の血税を外国に差し出すな!」
拡声器から響く野太い怒号。街宣車の屋根に立ち、日の丸と16条の旭日旗を掲げて気炎を吐くのは、近年躍進する極右ポピュリズム政党「日本主権同盟」の支持者たちだ。彼らのシンボルカラーであるパープルのジャンパーが、雨に濡れて鈍く光っている。
警視庁第1機動隊の規制線を挟んでそのわずか数十メートル先では、色とりどりのプラカードを掲げた集団がこれまた拡声器でがなり立てていた。
「戦争反対! 憲法改悪と軍拡増税を絶対に許すな!」
「生活を破壊する社会保障費削減を即時撤回せよ!」
「皆さん! 大泉内閣は、アメリカ軍産複合体の手先です! 国民の福祉を奪ってミサイルを買い、若者を戦場に送る軍国主義政権を倒しましょう!」
こちらは極左暴力集団から派生した左派ポピュリズム政党「やまと真選組」の支持者だ。
「売国奴!」
「緊縮の手先!」
「どっちもどっちだろうが!」
罵声が飛び交い、誰かが投げたペットボトルが、じっと持ち場に立ち続ける警視庁機動隊員の透明なポリカーボネート製の盾に当たって弾け飛んだ。
かつては「泡沫」と切り捨てられていた極端な主張を持つ政治勢力が、SNSを駆使した組織的な世論操作によって議席を伸ばし、ねじれ国会となった参議院でキャスティングボートを握りかけている。民間のサイバーセキュリティ企業やシンクタンクからは、海外IPアドレスを経由して短文投稿型SNSや動画共有アプリ上に開設された膨大なボット群が、極左と極右双方の極端なハッシュタグを機械的に大量リポストし、日常的にトレンド入りさせて世論の分断を煽っているという分析レポートも発表されていたが、増税と物価高に疲れ果てた国民にとってはどうでもよいことだった。
与野党の妥協が成立しないまま、議場では品性を欠く罵詈雑言が飛び交い、国会審議は連日のように空転と停止を繰り返している。
冷たい雨粒が永田町の濡れたアスファルトを叩きつける中、立ち往生する国家の混迷を映すように、灰色の霧が国会議事堂の尖塔を深く覆い隠していった。




