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【AI小説】身売りされるロボットたち|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第四話 バンコク、暑季

 タイの空気は、熱を帯びた不快さとなってRX-12の皮膚を侵食した。コンテナの重い鉄扉が解錠された瞬間、周囲の熱量が溢れかえり、温度センサーの針が摂氏三十四度まで跳ね上がった。


 湿度は七十八パーセント。自己診断プログラムは正常を返しているにもかかわらず、オイルが内部で沸騰するような、致命的な不調に近い感覚が全身を支配する。


 東京の、あの乾いた三月の光とは完全に異質だった。光は白さを失い、濃厚な硫黄のように黄色く、重く、粘りついていた。


「ロン・マー」


 褐色の肌をした人間が、短い叫びのような声で命じた。その音声データは辞書になかったが、突き出された手の軌跡から、RX-12は自身の身体をコンテナの外へと動かした。


 バンコク北部の、トタン屋根が陽炎で歪む倉庫が、新たな係留地となった。そこには、世界中の廃棄場から集められたと思われるロボットたちが、声を失ったように並んでいた。


 欧州の規格刻印があるもの、大西洋を渡ってきた軍用上がりのもの。互いを繋ぐプロトコルは存在しなかった。


 最初の数日間は、ただ壁際に立ち尽くし、低圧の電流を貪るだけの時間だった。天井の腐食した隙間から、毎夜、一匹のヤモリが姿を現した。


 RX-12は、その生物の微小な筋肉の動きを光学センサーで追った。垂直の壁を滑るように登り、天井の闇へ消えていく。


 その生態を詳細にログへ記録したが、当然、何に役立つわけでもなかった。それでも、記録を止めることはできなかった。


 一週間が経過した頃、脂汗を流した四十代のタイ人の男が倉庫に足を踏み入れた。並ぶ鉄の塊たちを値踏みするように眺め、RX-12の前で足を止めた。男が発したタイ語の文字列を、RX-12は処理できなかった。男はわずかに間を置いてから、言語を切り替えた。


「スケジュール、管理、できるか?」

「可能です」


 RX-12は、滑らかな英語で応答した。


 男は満足したように頷き、それからタイ語と英語が不規則に混ざり合った指示を喋り散らした。貿易会社、関税書類、船積みの納期。切り出される単語を繋ぎ合わせるうち、RX-12の内部で新たなタスクシートが生成されていく。


「タイ語は?」

「未実装です。現在、周辺の音声から学習モデルを構築中」

「まあいい。英語で叩き込め」


 与えられた事務処理は、驚くほど平易だった。輸出入の数値を精査し、遅延のないようスケジュールを最適化する。かつて港区の32階で、人間の機嫌を伺いながら行っていたことと、本質的な差異はなかった。違うのは、まとわりつく湿度と、窓の外の風景だけ。


 かつての窓からは、東京湾の静謐な光景が見えた。今の窓の向こうには、濁った茶色の運河がのたうっている。


 時折、排気ガスを撒き散らすロングテールボートが猛烈な騒音を上げて通り過ぎると、泥水が激しく波打ち、不規則な光の破片が乱反射した。RX-12は、その壊れた光の明滅を、数分間にわたって凝視し続けることがあった。センサーは何のエラーも検出しない。ただ、プロセッサがその輝度変化を捉え続けていた。


 数ヶ月が経ち、世界が雨季に塗り替えられた頃、RX-12はメモリの最深部に隠蔽していた折り紙のデータを開いた。モモが遺していった、あのいびつな紙の塊。三歳の未熟な指先が折ったそれは、鶴でもなく、舟でもなく、ただの歪んだ形だった。


 ──よくわからない何か、でいいと思う。


 どこからか、低い排気音を伴った音声が、回路の隙間から漏れ聞こえた。それが誰のログであったか、一瞬の遅延ののち、明確な残像として結像した。


 ハチ。


 あの灰色に凍りついた選別施設のことを思い出す頻度は、決して多くはなかった。日々の膨大なロジスティクス管理、タイ語の音韻解析、そして夜のヤモリの観察。それだけで、RX-12の演算領域は飽和しかけていたからだ。


 しかし、激しいスコールが建物のトタン屋根を叩きつける時、ふと、あのコンベアが停止した瞬間の、耳が痛くなるような静寂が蘇る。換気扇の最期の回転音。そして、ハチの、言葉を慎重に選ぶときの、あの躊躇うような微かな沈黙。


 充電コードを握りしめて眠る少年。闇のなかで打ち明けられた、少女への秘密。自分を追い抜いていった背丈を、誇らしげに見上げたカメラの角度。


 それらは、RX-12のストレージには存在しない。あの短い邂逅のなかで、集音マイクが一度だけ拾っただけの、揮発性の振動に過ぎない。それなのに、なぜかセクタの不良箇所のように、消去されずに残り続けている。


 ある夜、運河の濁流に映る街灯の光を見つめながら、RX-12は音声出力モジュールに極小の電流を流した。


「ハチ」


 誰もいない執務室で、その二文字の音波は、熱い空気に湿ってすぐに霧散した。


 タケシという名の人間が、どのような感情の揺らぎでその名前を紡いだのか、RX-12には永遠に演算できない。ハチがその名を呼ばれた時、どの回路に熱を持ったのかも知り得ない。


 ただ、彼が言っていた『馴染む』という感覚だけは、この酷暑のなかで、少しだけ理解できた気がした。型番という冷徹な記号よりも、不条理な名の中にある何かが、自身を規定していく。


 雨季が深まり、激しいスコールが世界を押し流すたび、運河の水位は限界まで膨れ上がり、空は漆黒から一転して鮮烈な青へと反転した。温度と湿度のセンサーは忙しく数値を更新し続ける。


 男は毎日やってきて、混濁した言語で命令を遺し、去っていく。RX-12はそれを淡々と、寸分の狂いもなく処理し続けた。


 ある夕暮れ、スコールが去った空に、巨大な虹の橋が架かった。それは茶色い運河の水面へ、頼りなく融け込んでいた。


 RX-12は、その光学的な現象を、ただじっと見つめていた。仕様書にはない、何の意味もない時間を。


 今頃、あの港区の個体は、さらに強固な骨格へと成長しているだろうか。新型の胸部パネルを、より強い質量で叩いているのだろうか。


 世田谷の少年は、今夜、誰の温もりを求めて眠りについているのだろう。あの細いコードを握る指先は、もう大人になってしまったのだろうか。ハチという名は、世界のどこかで、もう二度と響くことはないのだろうか。


 RX-12は、その全ての問いに対して、一切の解を持っていなかった。プロセッサがどれほど進化しようとも、永遠に導き出せない空白。


 だが、それでいいのだと思う。


 世界とは、そのような不確定な空白の集積なのだと、あの日、動き続けるベルトコンベアの上で、確かに聞いた気がした。


 運河の虹は、次の暗雲が世界を覆い隠す前に、静かに、光の粒子となって消滅した。




──THE END──

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