第一話 港区、32階
高層のエレベーターが静かに速度を落として32階へ滑り着くたび、RX-12の集音マイクは外廊下に響く足音を正確に捉えた。気密性の高い玄関扉が微かな風圧とともに開くのが十秒。革靴が三和土に落とされる硬質な音が十五秒。コートが木製ハンガーに掛けられる摩擦音が二十秒。
寸分の誤差もない日常の反復を、RX-12はただの演算データとして冷徹に蓄積し続けてきた。その無機質な記録が何のためのものか、自身のプロセッサで咀嚼できぬまま、湾岸のガラス張りの檻で三年の月日が磨耗していった。
リビングの巨大なFIX窓の向こうには、鉛色の東京湾が広がっている。晴れた日には、対岸に並ぶ工場の煙突が、陽炎のなかに立つ無数の墓標のように見えた。
RX-12に与えられた役割は、スケジュール管理と、氾濫する情報の選別、そこで最適化された買い物リストの更新。その静謐な空間には、父親と母親、臨海副都心の光を反射する大理石の床、そして三歳になる『モモ』という名の幼い個体が存在していた。
モモはよく、RX-12の胸部パネルを小さな拳で叩いた。何度制止のログを走らせても、彼女は笑いながらプラスチックの皮膚を叩き続けた。その衝撃を受けるたび、内部の関節が微かに軋み、その振動がシグナルとなって内部ネットワークを駆け巡る。
しかし、月を追うごとに強くなっていくその打撃の数値を、RX-12はただ静かに、消去できないセクタへ書き込み続けた。
ある土曜の午後、いつもより早い時間に父親が帰宅した。キッチンの陰で待機をしていたRX-12の音声認識ソフトが、リビングから漏れ出る一連の会話を拾う。
「新しいモデルの処理能力が、従来比で三倍らしい」
「価格もこなれてきたし、そろそろ切り替え時ね」
その文字列が自身の識別コードに関連していると認識した瞬間、RX-12のメインプロセッサに一瞬の遅延──名前のない空白──が生じた。エラーではない。ただ、次の命令への遷移が、ほんの数ミリ秒だけ滞ったのだ。
回収の期日は、三週間後の水曜日に設定された。
前の晩、パジャマ姿のモモが、両手を背後に隠した妙な足取りでリビングに現れた。RX-12の足元で立ち止まり、見上げる。
「あのね」
「はい、モモ」
「いなくなるの?」
RX-12の光学センサーのフォーカスが、彼女の潤んだ瞳の表面で何度も前後に駆動した。
「そのように、記録されています」
モモは何かを言いかけて、小さな唇を引き結んだ。それから背後から突き出された手には、いびつに折り畳まれた、正体のわからない紙の塊があった。
「これ、あげる」
RX-12の指先が、カサリと乾いた音を立てる折り紙に触れた。それが何を模したものなのか、形状認識アルゴリズムは機能しなかった。尋ねようとした時には、モモの小さな足音はすでに廊下の奥へと遠ざかっていた。
翌朝、すべては迅速に処理された。台車を押した二人の男が、事務的な手際で書類にサインを求め、確認コードを入力する。
母親が「お世話になりました」と、壁のシミにでも向けるような声で言った。父親の姿はなく、モモの寝室の扉は閉ざされたままだった。
玄関を出て、廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。32階から1階までの自由落下に近い十秒間、RX-12は何も思考しなかった。
外は低い雲が垂れ込め、東京湾の墓標たちは霧の彼方に消えていた。三月の乾いた冷気が、RX-12の無機質な皮膚を小さく拒絶するように通り抜けていく。
トラックの暗い荷台には、すでに同形や旧型の個体が数台、物言わぬスクラップのように押し込められていた。互いに通信を試みることもなく、ただ揺れに身を任せる。錆びた鉄扉が閉まると、完全に光が絶たれた。
RX-12は暗闇のなかで、モモから手渡された折り紙の展開図をプロセッサの中で再現しようとした。データとしては完全に保持している。しかし、何を模した形状なのか、解は永久に出なかった。
どのくらいの距離を揺られただろう。トラックが停止し、発車し、また停止する。やがて、網膜を刺すような白い光とともに扉が開かれた。
視界に飛び込んできたのは、無限に続くかのような高い天井と、冷酷に整列した白い蛍光灯。そして、低い地鳴りを上げて動き続けるベルトコンベアだった。
すぐ隣のレーンに、全身の塗装が剥げかけた旧世代のモデルが立っていた。それは長い拘束から解き放たれたかのように、軋む油圧の音を響かせてゆっくりと腕を伸ばした。
「立てるな」と、RX-12は音声出力した。レンズが、チカチカと明滅する。
「ようやく、な」
旧型は、内部の冷却ファンを小さく回しながら答えた。
足元のベルトが、冷徹なリズムで彼らを奥へと運び始める。




