1.
特待生として、名門と名高いブランシエラ校に入学することが決まったとき、僕は跳び上がらんばかりの気持ちだった。
努力が認められたこともそうだけれど、何より家を出られることが嬉しかったからだ。
婚外子である僕にとって、実家は住みよい場所とは言えなかった。
豪奢だがどこか寒々しい屋敷。僕に全く興味を示さない父と魔女のような継母、どこか余所余所しい使用人たち。
唯一異母姉だけは僕に優しかったけれど、いつも懐かしかったのは幼い頃の母との暮らし。
本邸に入る前まではこじんまりとした小さな家で母とばあやと3人で生活していた。
覚えていることはあまり多くはないが、母に抱きしめられた温もりは今でも記憶に焼き付いている。
柔らかい髪からは花の香がして、ふんわり笑った母の顔はまるで少女のようだった。
可憐で表情がくるくると変わり、怒って、笑って、そして、よく泣いていたのを覚えている。
今ならわかる。あの涙は父のせいだ。
今は離れて暮らしているが、いつか僕が家業を継いだあかつきには、きっと母を迎えに行く。そして父の代わりにこの僕が、母を幸せにするのだ。
それが11年間生きてきた僕の、何よりの望みだった。
「着いていらっしゃい」
諸々の手続きを終えた僕に、寮母を名乗る初老の婦人がそう言った。
寮母は背中に金属板でも入れているんじゃないかと思うほど姿勢正しく、きびきびと歩いた。
容赦ない足取りに僕は内心、この人は僕が荷物を持っているのを忘れているのではあるまいかと愚痴をこぼしつつ、大きなバックに振り回されるようにしてその後を追った。
寮母は無駄口を好まないようで、道すがら主要な建物について簡単に説明する以外は口を開かなかった。
これは僕にとってはありがたいことだった。
僕はよく喋る目上の女性というものが大の苦手だったからだ。
その原因を作ったのは主に礼儀作法の女教師だろうと思っている。
彼女は聞きもしないことをぺらぺら話すのがとても好きで、しかもこちらが反応に困っていたり少しでも話を聞いていなかったりするとすぐさまそれを見抜き、怒って僕の手に鞭をくれる人だった。
閉じられた部屋に2人、僕はひたすら彼女に平伏し、屈服することでその時間をやり過ごしたがその経験は今でも尾を引いている。
姦しく話す女性に対して、僕はまともに会話をする事ができない。
レディファーストだとか、相手を尊重する意味でなく無条件に従ってしまう。
それは恥ずべきことで、いずれは克服すべき課題だと思っている。
しかし一先ず現れた寮母のひどく事務的な様子に僕は胸をなで下ろしたのだった。
「着きましたよ。ここが貴方が6年間過ごす特別寮です」
寮母がぴたりと足を止めたのは、寮というより小さな屋敷という呼称が相応しい建物の前だった。
目前の赤いレンガ造りの建物は2階建てで、群青色の尖った屋根が美しい。
僕は戸惑い気味に寮母を伺い見たが、彼女はこちらには構わず、寮の入り口まで歩みを進めるとそのまま扉を開け放った。
外観にも驚かされたが、寮の内装はそれ以上だった。
まず目に入ったのは真っ赤なカーペットが敷かれたエントランスと中央から両サイドに伸びる階段だった。
中央2階は吹き抜けになっているようで、見上げると小造りだが凝った意匠のシャンデリアが吊り下がっている。
天鵞絨のカーテンや壁に掛けられた絵画、豪華ではないが品のいい内装を見回し、僕はほうと息を吐いた。
「こちらへ」
寮母はちらりと僕を見ると、ある部屋の前まで僕を案内した。
部屋の扉の脇には【キース・ラングレイ】と書かれた金属のプレートが掛けられていた。
寮母がその扉を鋭く3回ノックすると、はーい、という間の抜けた様な返事が返ってきた。
がちゃりと音を立てて開いた扉の先にいたのは、ひょろりと背の高い眼鏡をかけた青年だった。
「あれ?ビクトリアさん。新入りが来るのって今日でしたっけ?」
青年は後頭部を掻きながら、寮母ーービクトリアに言った。
それから僕に向けてへらりと笑みを浮かべた青年を、僕はどうにも鈍そうな奴だと思った。
「ええ、今日ですよ。まったく…、貴方の性質は分かっていますが、もう最高学年なのですからしっかりしてくださいね」
「はい。肝に銘じます」
ぴしゃりと言うビクトリアに対して、青年は苦笑いを返すだけで、今の説教がとても響いているようには見えない。
ただしビクトリアの方も呆れたような目をしてそれを流しているところからすると、この一連の流れはいつものことであると見える。
「それで、この子が?」
「ええ。アルベノール君、挨拶を」
ビクトリアに促されるままに、僕は口を開く。
「本日より入寮することになりました。ノア・アルベノールと申します。以後よろしくお願いします」
形式的な挨拶をして、軽く頭を下げる。
頭を元の位置に戻すと、微笑んだ青年と目があった。
「よろしく。僕はキース・ラングレイ。6年生でこの寮の、まあ寮長のようなことをやっている立場の人間かな。いきなり情けないところを見られちゃったけど、何かあったら頼ってほしい。それと、僕のことは気軽にキースとでも呼んでほしいな」
「はい。キース、先輩」
差し出された手を握ると、キースの手のひらの大きさに驚かされる。
背ばかり高くて体格がいいようには見えないのに、と僕は自身の細くて薄い手を恥じた。
「それでは後は任せますね」
「承知しました」
「案内ありがとうございました」
去っていこうとするビクトリアにお礼を述べると、彼女は目尻の皺を深くして、思いの外優しく微笑んだ。
「いえ。それでは楽しい学校生活を」
それだけ言うとビクトリアは先程までの早足で行ってしまった。
「さて、と」
キースは手を顎に当てて少し考えるようにしてノアを見ると、何かを思いついたような笑みを浮かべた。
「その荷物置きに、先にノアの部屋に行こうか」
その時、僕の中のキースの株は確かに上がった。
初めの印象こそ頼りなかったものの、キースの話し方は明瞭でとてもわかりやすかった。
まず個人の部屋にはトイレとシャワーが完備されており、最低限プライバシーは保証されているようだった。
一般寮では簡易な仕切りのあるシャワールームを交代で使わなければならないらしく、想像するだにぞっとしない。
改めて特待生になれて良かったと思った。
また食事は1日3回、一般寮の生徒と同じ講堂でとることができる。
ただしキッチン設備があるので材料を買って調理しても良いとのこと。
なかなか広くてきれいなキッチンだったが、キースによれば、持て余し気味らしい。
期待を込めた目で君は料理するの、と聞かれたが僕も当然料理などできない。
首を振るとキースは心底がっかりしたように肩を落としていた。
その他、寮生が歓談する談話室やキース曰く大したことがないという書斎など、およそ6人のためだけにはもったいないほどの設備が特別寮には用意されていた。
またこの学校にはファミリーというこれまた各学年1人ずつの6人で形成されたグループを作る風習があるらしく、強制で特別寮の生徒は同じファミリーになるそうだ。
正直このファミリーとかいうグループのことはよくわからない。
なんとなく面倒そうだと思っていたら、何故かキースが突然吹き出した。
「あの、何か?」
「いやー、あはは。君ってわかりやすいねえ。まあそんなに嫌がらないでよ。みんな、いいやつなんだ」
「はあ」
人の顔を見て笑うなんて、なんだか馬鹿にされているようで、不愉快な気分になる。
眉をひそめながら相槌をうつと、さらにつぼに入ったのか、くつくつと笑い声を上げた。
「はー、笑った」
キースは眼鏡を上げて目尻に浮かんだ涙を拭った。
僕はそれを白けた目で眺めるだけに留めた。
「ごめんごめん。で、一通り案内も済んでこれからどうするかってところなんだけど、何か希望とかあるかな?」
「いえ、得には」
「そっか。うーん…、本当は寮のみんなを紹介したいところなんだけどね。今ってほら、休暇中だから、僕ともう一人以外は帰省しているんだよ。で、そのもう一人っていうのも、今は外出中というわけ。夕食時には帰ってくると思うから紹介はまたその時かな」
「はぁ」
「それまでは特にすることもないし、希望がないのなら自由時間にしようか。荷解きとか大変なら手伝うけど…」
「お気持ちはありがたいですが、結構です」
「うん、だと思った。じゃあ時間になったら呼びにいくから、それまでは自由にしていて。何かあれば僕の部屋に来たらいいよ」
「はい。案内ありがとうございました」
正直夕食まで自由にしていいと聞いて安心した。
人と話すのは、想像していたよりも疲れる。
軽く頭を下げてからキースと別れ、自分の部屋へと戻った。
部屋の中の空気は少し冷たい。
一人で住むには広い部屋の中はがらんとしていて、少し心細い気分になる。
荷解きをしながら考えたのは、母に書く手紙のこと。
書くならなるべく楽しい内容がいい。
優しく心の温かい寮母と広くて美しい寮の話や、そこに住む優秀なキースとは仲良くなれそうだということ。
それらの文章を咀嚼しながら頭の中でまとめていく。
嘘ではないけど真実でもない内容だが、それでも母が笑ってこれを読んでくれればいいと思う。
最後には学校はきっと楽しいし、僕はうまくやっていけるだろうと締めくくることに決める。
持ち込んだ荷物は思いの外少なく、全く整理のしがいがない量だった。
手紙を書いてしまえば特にすることもなく、かと言って今日くらいはと勉強をする気にもなれない。
キースに手紙の出し方を聞いておけばよかったと後悔しながら、きれいに整えられたベッドに倒れ込む。
見慣れない白い天井。
けれど僕の部屋の天井も白だったから、ぼんやりと眺めていると、うっかり自分がどこにいるのか忘れそうになる。
実は僕は家にいて寝ぼけて夢に見たことを本当だと思いこんでいるのではないか?
そんな疑惑が頭を充満する。
馬鹿げた考えだが、なんだか信憑性があるように感じられて僕は拒絶するように目を閉じた。
こうやって目をつぶるのは、嫌なことがあったときの幼い頃からの僕の癖だ。
瞼の裏の暗闇はいつだって僕には優しく、温かかった。