第一話 彷徨
男が一人、インダス川の上流の川岸を歩いていた。左肩にリュックを背負い、右手には小型のノートブックを抱えながら、表情は虚ろで何かを呟きながら歩を進める。男の目の下の隈は黒く皺が刻まれ、その瞳の奥には確固とした信念の輝きがあった。その輝きは暗く赤い光を帯びていた。怨念というべき光が。
男が立ち止まり、リュックを地面に置き片膝をついた。ノートブックの画面を確認しながらリュックからペットボトルを数本取り出す。透明の液体が入った現地で売られている何の変哲もないペットボトルだったが、その締め口は白いパテ状の塊で覆われていた。
男はその締め口を念入りにチェックしたあと、それらを静かに川に流す。無人島に流れ着いた生存者が、救いを求める手紙を入れた瓶を祈りを込めて流すかのように。そのペットボトルが世界全体に破滅をもたらす死神の裁決になろうとは、この世界の誰一人として気づく者はいなかった。
同時刻、ベトナム北部山岳地域。東京大学医科学研究所の研究員の渡部一生は、名も無き洞窟の中で悪態をついていた。ベトナムの高温多湿な気候とインフラ設備がない環境に、クーラーが使え欲しい物がすぐ手に入る日本で生きてきた渡部には、精神的にも肉体的にも耐えられないのは当たり前だった。
何でこんなことしなきゃならないんだ。何度愚痴ったか分かりゃしない。全ては2019年のコロナウィルスのパンデミックが原因だった。「ウィルス」という目に見えない脅威は様々な憶測を呼び、全世界を恐怖と混乱に陥れた。連日のように感染者が続出する事態に、国民全てにワクチン投与を義務付けるという前代未聞の事態にまで発展した。
2023年にようやくパンデミックが落ち着くと、世界全体でパンデミックに対応する為の専門機関が設置されるようになり、先進国の有名な大学の研究員が、その担当に従事することが義務付けられた。渡部もその一人だった。その仕事の内容は未開発地域の生物の調査だった。
コロナウィルスが中国の武漢の蝙蝠を宿主とする未知のウィルスだということが判明し、人類が調査していない地域の生物の調査が必要だという結論が決定された。この世界のどこかにコロナウィルスよりも感染力が強く、致死率が高い脅威が散在しないかどうかを確かめる為である。
渡部は現地民に捕えさせた蝙蝠の生体組織のサンプルをとって、ようやく安堵の一息をついた。これで日本に帰れる。自分が担当する本来の研究に没頭できる。存在するかどうか分からないウィルスよりも、自分が発見した微生物の可能性を探るほうが優先だった。その微生物は他者にとっては無用の長物だったが、渡部にとっては自分の人生を捧げても良いと言っていいほど重要な存在だった。




