序章:プロローグ・悠久の狼
「はぁ、はァ、ハァ、ハァ……グゥアアア”ア!!」
狼に似た姿をした森人は相棒の狼と共に叫んだ。俺は何も間違ったことはしていない。俺はただ在りの儘に生きているだけだ、と。
「グワワアアアアア!!」
狼人は背後から追い掛けて来る男に向けて再び叫んだ。
「ガルルル――!! 俺は何もしていない! 俺はあの人間を喰ってなんかいない。何故信ジナイ!?」
森人は声を荒立てて訴える。だが、それを聞いた男はその声に耳を傾けるどころか鼻で嘲笑った。
「何を言う! 貴様はバケモンじゃねぇか。魔物の、それも「オオカミ」の言う言葉なんざ誰が信じるって思うんだ? 悪魔の手先としか思えん。笑わせてくれる」
「違ウ! 俺ハ魔物ナンカデハ――」
「その姿でか?どう見ても悪魔の手先としか言えぬその姿で? ……笑わしてくれる」
「俺ハ、人間ダ―――!」
言葉が続かなかった。確かに彼は人間であることは事実だ。だが、苛立って強く握りしめた拳の鋭い爪が自分の皮膚に食い込んでいるのにハッと気付き、己の両手を眺めた。ゴツゴツとした大きな手。鋭い爪。獣のようなニオイがする、ヒトとは懸け離れた大きな自分の手を。
「……」
彼は黙ることしか出来なかった。
「遂に認めた……か。哀れなものだ。同情してやるよ。だが、その同情も長く続くことはあるまい。貴様は今宵死ぬのだからな! 歓べ。今夜は月の輝き一つもない夜空だ。お前は狼の力が小さくなっている時。貴様は人間として封印されるのだからな。さぁー、歓喜の叫びを上げて見せろ!」
男は追い掛ける速度を上げた。そして己の前にボーガンを構えた。
森人は再び声をあげた。
「グワーア! 死んでたまるか!! こんなところでこんな風に、好き勝手に濡れ衣を着せられたまま俺が嫌う人間なんざに殺されてたまるか! ガルルルゥ……ハア、ハア、ハア……グアアアア!!」
狼人は走っている内に次第に我を見失っていた。人として生きていた俺の心は次第に薄れていった。朧げな意識の中見えた狼人の目に写ったのは狼人を追っていた人間だった。
「今だ! 放て!!」
その時だ。追う男とは違う方向から狼人の視界に一筋の白銀の光がピューンと遠くから飛んで来たのを捉えた。
「グア……ッ」
衝撃で息が詰まった。何かがドスッと身体に刺さる音がした。狼人はあまりの苦しさにその場で倒れた。
その衝撃で声を上げることすら許されなかった。苦痛で歪む視力で狼人は自分の胸を見た。ボーガンから放たれた羽根の付いた銀の矢が刺さりベットリとした赤黒い液体を流し、身体を貫通していた。森人は己の胸から滴るその血に触れて、手を震わせた。倒れた狼人は息を切らしながら彼は血走った眼で、ボーガンを持ったこの男が発した言葉を耳にする。
「さっバケモノよ。これで最期だ。苦痛と共に我等の制裁を受けよ! さっ皆出てこい。今こそ平和を取り戻す時だ!」
「ゥウガァ……―――!?」
―――ガサガサガサガサ!! 森の茂みや木々から続々と人間が現れた。彼らは次々と狼人を掴んで忍び寄って来た。逃げる場所さえ無かった。
「逃げろ」
負傷した狼人の相棒の狼は主の言葉に躊躇った。
「行け!」
主の声に従い走り去った。
剣を持つ男が忍び寄る。
「ヤ、ヤメロ!! 俺ハ未ダ何ニモ悪イ事ハしていなイ! 何故だ!? 何故ナンだ!? ヤメロ……ヤメロ!!」
その瞬間、男は狼人にその足を忍ばせた。そして、ボーガンを背負い、その代わりに鞘から剣を引き抜き、人狼の身体を貫いた。
この時、狼人は「悲しみ」や「怒り」など負の感情を抱きながらもう直ぐ死ぬのだという眼が村人の眼に写ったが、村人たちは容赦をしなかった。
―――……森に棲む狼人はその後、僅かに息をしていたが村人達によって土の中へと生き埋めにされ殺された。
それから二日目の夜。主を見失った「狼」は空腹であるのにも拘わらず、夜な夜な主を探し続けた。「眼」を、「聶」を、「鼻」を、全身の間隔を使いながら必死の想いで探した。
『クォン―――!?』
狼は知った。土の匂いと共に主の匂いが土壌からすることに。背筋が凍る想いがした。
狼は主の生命が未だ或る事を信じて決死の想いで土を掘り起こそうとした。だが無駄だった。ヒトの力を持たざらぬその獣の力では幾ら掘っても主の処へは辿り付けなかった。狼は悟った。
―――自分にもっと力があれば……。自分にもっと主を護れる位に強ければ……! こんなにも「悲しい想い」も「苦しい想い」も「みじめな想い」も何一つ事無く、心を許した親友と共にずっと一緒に暮せたのに……。
人間が憎い。
『ヴオオオォ―――』
狼は咆哮を上げた。憎しみに満ちたかなしい声だった。己の無力さを呪う悲鳴だった。その声は夜が明けても鳴り響いた。獣の苦しい声が鳴り止んだのは、獣人が助けた少女が来る前のことだった。
彼女がその生命に触れた時にはもう手遅れだった。
少女は自分の涙が落ちるのも気付く事なく、せめてその狼が大切な人の許に辿り付きますようにとひたすらに祈りを込めて、その生き物を主人と同じ土の中へと埋めてやった。
―――……その「狼」が主の側に辿り付いたのは、主が死んだ三日後の事だった。
―――人間の負の感情と己の無念の想いが一つの鎖となりこの地に引き留められている。
そして五百年以上たった今も猶、二つの魂は天に召される事も無く地上を彷徨い続けていると云う。
―――神などいない。




