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起臥

 目が覚める。知らない天井、知らない部屋の大きなベッドで目が覚める。本が積まれている学習机に耽美たんびなカーペットの部屋はどこか落ち着きがない。五十センチほど開かれているカーテンの奥から、日光が覗き込んで、その光の道には雪化粧のような埃がキラキラと舞っている。


 いつもの夢は暖かくて、明るくて、日に照らされた土の匂いがする。どこかでポツンと自分だけが取り残されている。見たことのない花がたくさん咲いていてずっと見ていたくなるような夢だった。


 でも今日の夢は少し怖かった。それだけだ。なにを見たか思い出せないが見た夢は怖かった気がする。不安が夢になったような、嫌になってしまう夢。そんな夢を見た。


 ついに死ねたのか、今までよりも心が軽い。当たり前だが現実ではない気分だ。するとここは死後の世界なのか、実感が湧かない。しかし、ここは死後の世界ではなかった。


 緋花ヒバナはどうやら別人になってしまったらしい。痩せた腕、足、お腹だって少し肉月がある。体の何倍ものあるベッドから出て、右足と左足を力強く踏み込んで歩いてみると、歩くだけでふらついていた身体も今は何ともなく歩けている。


 部屋にある大きな鏡で自身の様子を見ると、体が退行たいこうしてしまっていた。体の大きさ的に5歳くらいだろうか。前の体より少しぷにぷにでつまんでみると柔らかく気持ち良い。顔においては年相応の幼さが見られるが、整っている気がする。前の不健康でげっそりした顔より健康的な顔になっている。変わってないところは黒髪くらいだろうか。


 しかし、この体の記憶がない。名前も分からず、出生だって親の顔すら分からない。ここが地球で、日本なのかも分からずじまいである。


 申し訳なくは感じるが、今までの生きづらさから解放された嬉しさが申し訳なさより勝っている。せめて、まともに生きられるよう、人生を楽しもうと思う。

 そのためにもまずは、この置かれている状況を理解することだ。この体の持ち主の情報、ここがどこでどういった所なのかを理解すべきだ。部屋の周りを見渡すと机の上に本が置かれている。勉学に関する本だろう。十冊ほど本が積んであるが、手を付けた形跡が見られない。


 きっとこの体の持ち主は勉強が嫌いだったのだろう。僕なら無我夢中で学ぶのに。


 前世では思うように勉強ができず、簡単な計算でもまともに解けなかった。そんな呪いが解けた今は勉強意欲、知的好奇心が溢れんばかりに湧いてくる。積まれた一番上の本を手に取って開いてみる。


「よ、読めない……」


 前世では本で書かれていた文字ではないものがその本には書かれていた。確かに読む能力は人よりは劣っているが、唯一、本だけを救いとして読んできたためひらがなくらいはしっかり読める。しかし、そこにはひらがなでもなく、漢字でもない、はたまた英語ではないものが書かれていた。


「どこの国の文字なんだ……アラビア? 古代エジプト? うーん、違うな」


 病室で見た『丸分かり! 世界の文字のあれこれ!』でそれなりに各国の文字の知識はあったがどれにも当てはまらず、前の世界では存在していない言語であることがわかる。


 積まれた本を読んでいると、淡白な扉を叩く音が静寂だった空間に響いた。突然叩かれたからか、反射的にはいっ! と返事をしてしまった 。その声に反応したのか、声が返ってきた。落ち着いた女性の声だった。


「入らせていただきます」


 その声の主は扉を開け、静かに室内に入ってきた。その女性は姿勢が良く、立ち振る舞いがとても美しく洗練された動きだった。その振る舞いには音を立たせない作用があるのか、徹底されていた。


「失礼します、主様。お身体はどうでしょうか」


 その言葉をかけてくれた女性は目立たない色の長いスカートに白いエプロンを着ており、髪は結っている。凛とした顔は無感情に等しい表情であるが、心配しているのか、どこか不安気が見える。


「あ、ああ、はい大丈夫です。」


 大丈夫と言ったが、ここがどこだか自分が誰なのか分からずじまいである。彼女に聞くしかないのか。自分は誰でここがどこかなのかと聞いても完全に変人扱いだろうか、とても質問に困る。


「そうですか……よかったです。」


 彼女は無感情の表情を貫いているが、その言葉の声には安堵しているように聞こえた。


「ただ……覚えていないことがどうしても多くて……」


「なるほど……記憶が曖昧と……ご自身の名前はわかりますか……?」


「それが……名前どころか今までのことが全てわからなくて……」


 彼女は驚愕した顔を一瞬見せるが、すぐに無の表情に戻した。動作や姿勢は変わらないのに感情が表情だけに出るのが少し面白い。


「無理もありません……あれだけのことが起こったのですから……」


「……何が起こったんですか?」


「エスタ様……いえ、五大公爵家のイズリン家第五子息のエスタ・エジル・イズリン様、それがあなたのお名前です。デニス様……いえ、イズリン家当主様、あなたのお父様からお伝えされた事は王都からここ、辺境にあるイズリン家領の屋敷にお越しになる途中に、エスタ様が乗っていた馬車が何者かに襲撃されたと聞いております。同席していた当主様によって撃退されたようですが、戦いの中、被弾されたエスト様は気を失っていたためこの屋敷で治療を受けていました。当主様はもう王都にお戻りになったようですが、近く、使いの講師を送るそうです」


 彼女は淡々に出来事を話し始め、一息に出来事を並べ立てたため、情報がまとめるのに時間がかかったが、おおよそのことは理解できた。自分自身が公爵家の五男であり、自分の名前がエスタだということも。


 「なるほど……ありがとうございます。それで僕はこれからどうすれば……」


 事情を聞いたところで、これから何をすればいいのか全く分からない。エスタがこの世界で生まれた意味を見出していかなければならない。


「そうですね……ご体調のこともあるので1週間は休養期間として設けます。その後はワタクシが教養を叩き込みます。それが当主様から命じられた私の役割です。エスタ様の身のお世話を兼ねていますが」


「わかりました、1週間後ですね。それまでに体調を整えておきます」


「それと、申し遅れました。ワタクシ、この館のメイド長を勤めています。アメリと申します。お困りのことがございましたら、近くのメイドおよび、このアメリに申し付けくださいませ」


 アメリというメイドは軽く、エスタにこの館のことを説明した。


 「と、館はこのような感じになっています。1つ言い忘れて言いました。館の左手にある森には近づかないでください。魔素が充満して、恐ろしい魔物がたくさんいますから。絶対に立ち入らないでください」


「魔物……? 魔物ってイノシシとかクマとかですか?」


「いえ、そんな可愛いものではありません。エスタ様は5歳で魔学をまだ学んでいませんでしたね。知らないのも無理ありません。魔物というのは簡単にいうと魔素を帯びて進化した動物のことです。普通、魔物は魔素の多いダンジョンなどで生態していますが、あの森は特別です。魔物はとても獰猛で、魔物同士で喰らい合い、力を強めているのです。ですからあの森には近づいてはいけません」


「ごめんなさい……何も知らなくて……。よかったら、また教えてください。アメリさん」


 魔物というものが存在しているのか。この世界を知らないエスタにとっては興味深く、探究心をくすぐる。


「しょうがないことです。1週間後またお教えしますね」


 アメリというメイドはそう言って、部屋を出て行った。


 もっとこの世界のことを知らないといけないな。無知より怖いものはない。


 しかし、貴族の子だったとは驚きだ。それに父親がいるなんて。


 エスタはベッドにボンッとダイブし仰向けになり考える。これからの人生、これまでの人生が脳裏によぎる。期待と妙な焦燥感で気持ちがあふれる。


 「なんだかなあ……」


 ポツンとつぶやいた言葉が静かな部屋に吸われていく。


 エスタは徐に部屋から体を出し、館内廊下を覗いてみる。所々に使用人が奉仕作業をしている。


 エスタは気づかれないように館内を見渡してみる。自然と足が動いており、気づいたら廊下を歩いていた。


「こうしてると病院を思い出すな……」


 前世では喋ることが苦手だったため、できるだけ人と喋ることは避けたい。


 徐々に進んでいくと、ドアが半開きになっている一室を見つけた。覗いてみるとそこはずらっと並んだ本棚とおびただしい量の本が散乱としていた。


 後ろからタッタッタと使用人が近づいてくる音がしたためにエスタは瞬時にその部屋に飛び込んだ。


 瞬時には入ったせいか、数年、数十年分の埃がエスタを囲む。どうやらここは書庫のようで、人があまり立ち入ったような形跡がない。


「すごいな……」


 この量の本を見たことがなかったため、思わず驚嘆してしまう。


 奥に進んでずらっと広がる本たちを眺めるが、文字は相変わらず読めない。


「うぅ、読めん……なんならさっきの文字より難しくないか?」


 自室に置いてあった本より明らかに文字が難しく、配列に違和感がある。


 結局読めないものばかりで好奇心ばかり先行してしまってどこか損している気分になった。


「……しょうがない、また今度来よう」


 エスタは諦めて、如何許り《いかばかり》の本たちを背にしてドアノブに手をかけた時だった。部屋の奥から懐かしい気配がした。先ほどから溢れ出していた好奇心が波のように襲い、自ら歩き出していた。部屋の奥へ、奥へと自らの足が動いていたのだ。


 辿り着くは薄い布に埃がかぶっている置物であった。好奇心は止まらない。勝手に動く手は最早、エスタの脳を介して動いていない。腕は鳥肌が立ち、心臓が鼓動する音が頭に響く。エスタの体はそれに夢中になっていた。


「ここにいましたか……」


 その声で布にかけていた手がとまり、夢中になっていた体も熱が冷めていった。


 振り返ると息切れしているメイド長アメリが心配と神妙な顔で立っていた。アメリが後ろにいたことも気づかないほど夢中になっていたのか。エスタは驚いた顔をして止まっている手を下げた。


「アメリさん……どうしてここに……?」


「どうしてって……お夕食のお時間だったのでお部屋にお伺いましたら、もぬけの殻だったんですよ」


「ああ、なるほど」


 聞くと夕食の時間になってもエスタがいないことに気がついたアメリは館内の使用人で探し回ったそうで、使用人の中でも耳が良いアメリはエスタが手をかけたドアノブの音でここだと気づいたそうだ。


「見つかっちゃいました」


 エスタは舌を出して恥ずかしそうに反省した態度を見せた。


「全く……心配しました。外にでも出ているのかと、勉強熱心も良いですが、まずはご自身の体調を回復させてからにしてください」


 はあい、とエスタは反省しているのかわからない返事を返した。こうしていると前世で看護師に見つかった時を思い出す。


 アメリに連れられてエスタは部屋に戻される。


「それでは静かにお過ごしくださいね」


 そう言ってアメリはドアをガチャリと閉めた。


「……つまらない」


 夕食で出されたスープのゆらゆらとした湯気を眺めながらぽつりと呟く。時間が経って少し冷めてしまっているのか、湯気が立ち具合が悪い。


  さっきのはなんだったんだろうか、不思議な感覚に包まれ、最も体験したことのない気分であった。時間が経った今は、焦燥感に駆られ落ち着かない。


 前世でもそれは一度出てしまったらなかなか治らないことを知っていたため、中途半端に冷めた夕食を勢いよく流し込み、シーツで全身を覆った。


 これがこの感情の治し方だと知っていた。


 エスタは逆流してくる物を感じ眠りについた。

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