プロローグ
あの病院特有のキツイ匂いが鼻に不快感を与える。きっと消毒剤の匂いであろう。自分自身、入院生活には慣れたがこの匂いは未だに嫌いだ。
沢藤緋花。生まれながら先天性の難病を患い、同時に両親も亡くしている。今も病床に臥し、天井の一点を見つめている。やる気のないような腑抜けた顔が疲れ切った心情を強く表している。先天性の難病で生まれてから今までの20年間、入退院を何度も繰り返している。
緋花の両親は物心つく頃にはもういなかった。二人とも事故死だったと祖父に聞いており、莫大な治療費についてはすべて両親の保険金と祖父の援助でどうにかなっている。
一生、病院で過ごしているわけではないが、人生の半分以上は病院で過ごしている。先天性の難病で世界に1つも例のない病気だそうで担当している医者によると大学病院のほうで研究中らしい。治療究明まで何年、何十年かかるかは分からないと苦言された。
分からないってなんだよ、お前らは学校行ってるならすぐに分かるだろ。
緋花のように義務教育すらまともに受けられない人間からするともっと勉強して社会をより良くできただろう、難病もすぐに治るだろうと憤りの感情が湧いている。
社会における一般的常識からしたら成人は自分の生活は自分でなんとかしなければならないが、緋花にとってはどうしようもない。何もできないのだ。何かをやろうと思えばいつも病魔が顔を覗く。
勉強をしようとすると脳天を割くような痛みが走る。運動をしようとも力んだ瞬間、吐血し全身の筋肉が全て硬直してしまう。だからいつも何もしない。何もない、がこの病気の療養方法だ。
僕はこの世界に適していないのか、除け者にされているのか。 全ての自分自身を否定されてしまった。この姿を見られる度に、僕は他人に嗤われていると思い込んでいる。選ばれた人間には分からないだろうが、この苦しみを経験したことのない人間は呪われるべきだ。
普段の生活においても、定期的に痛みや苦しさが現れる。その度、入院し療養を行っている。症状が一時的に引いたら自宅療養をしているが、長くは持たない。またキツイ匂いと見慣れた天井の部屋で同じ日々を繰り返している。
しかし、なぜか読書をしている時だけはこの病魔は顔を覗かせない。この地獄の生活の中での唯一の救いが読書という行為だった。
だから僕は本が好きだ、ベッドの上にいても色んなことが知れる。この国の歴史、地理、文化、文芸、この国の外の事まで知れる。僕にとって本は救いだ。
両親が死んだ後は祖父に面倒を見てもらっていた。優しい祖父だった。こんなどうしようもない人間を息子のように面倒を見てくれた。祖父は会社を経営していたため、多くの援助をしてくれた。祖父として、保護者として当たり前なのかもしれないがその優しさは僕の中では特別な愛情だった。すべて祖父のおかげだった。でもその祖父も先週、この世を去ってしまった。
祖父が亡くなってからは何度も死にたいと思っていた。愛してくれる人間がいなくなったらのなら、この世界にはもう未練はないと、祖父と同じ世界に行こうと。そう思うたびに自傷行為を行った。買ってきたカッターナイフで何度も腕を切りつけた。簡易的に首を吊れる様式も作った。しかし、死ねそうで死ねない。ただ体を痛めつけ、祖父の顔がチラついてしまう。
今すぐいなくなりたい。沢藤緋花という存在をこの難しい世の中から消したい。何もできないこの世の中じゃ僕は人間という人形の劣化品だろう。
何もかも虚ろに感じる。このまま死ねば誰が悲しむのだ。だれも悲しまないだろう。これは劣化品のまま放置した世の中が悪い。
劣化品は処分されるべきだ。だから僕は自壊する。
緋花は病室の窓を全開にし、足をかけようとする。体は思い通りに動かないが、やっとの思いで窓枠に足をかけ、窓枠にはやせ細った体が立つ。
都心のビル風が鼻にあたる。下を見下ろすと歩行者が豆粒のような大きさである。この高さだと、確実にこの身体が弾けて肉片になってくれる。
その高さを実感し、今になって足が震えてくる。とうに死は受け入れたはずなのに。
足の震えに連動してか、気持ちも込み上げてくる。
僕は……一緒に遊んでくれる人が欲しかった。僕を好きでいてくれる人が欲しかった。僕が好きでいれる人が欲しかった。
「あとは……あとは……」
なんでか目頭が熱くなっている。頬にはもう水が垂れている。自分の欲しかったもの、やりたかったことが何個も何個も頭に溢れかえっていた。病で頭がはち切れそうになりそうだったがその痛みどころではなかった。
ずっと悔やんでいる。この世界の何にも役に立たず、だんだんと隔絶していく感覚はいつの日も感じていた。生きていて意味のない世界から消えてしまいたいとずっと考えていた。
「なんで……なんでぇ……ぼくだけなんだよぉ……なんでぇ……」
今の今まで表せなかった感情が一瞬にして涙と共に込み上がる。声が震え、どうしようもない怒りと悲しみの感情の起伏で何もかも激しくなっていた。その反動で鼻血と吐血が溢れ、涙も混ざる。ぐちゃぐちゃな血液が顎を伝って垂れてきた。
その赤いインクで壁に遺言を書き残した。
短く汚い文字だが、気持ちの整理はついた気がした。一呼吸し、最後の言葉を残す。
「母さん、父さん、じいちゃん……ごめんなさい。次は生きるから……」
結局逃げてしまった。自分から、世の中から、全ての嫌なことから。
そして若い命は見えない未来へ目を瞑り、大きな一歩を踏み出した。
三月初旬、東京、病棟十階の一室には、訪れる春の匂いと遺言が残っていた。




