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34. 黒い本に残された記憶1


 私は幼馴染であるアンセルムとクラリスと共に、瘴気が湧き出る森へと入った。

 この国を蝕む瘴気を浄化するため、そして私たちが信じる神の力を証明するためだった。


「クラリス、瘴気が濃くなってきた。辛くないか?」

「ええ、なんとか平気よ。ありがとう、コンスタン」


 クラリスは幼いときから、具合が悪くても倒れるまで我慢しがちで、いつも私が彼女を見守って世話を焼くのが当たり前だった。


「アンセルムは大丈夫なの……って、聞くまでもなさそうね」


 瘴気の発生源を目指して、一人でどんどんと進んでいくアンセルムにクラリスが声を掛けたが、アンセルムは返事をすることもなく、平気な顔をして歩き続ける。


 今回、瘴気の浄化をすると言い出したのはアンセルムだった。

 自分の力をもってすれば必ず浄化できると自信満々に言い切った。


 たしかに、アンセルムの癒しの力は桁外れで、瘴気の浄化も夢物語ではないと思えた。

 だから、アンセルムの幼馴染である私とクラリスは、彼を手伝うため一緒に瘴気の森へとやって来たのだった。


 そしてついに瘴気の発生源である、どす黒く濁った沼に到着した。

 そこから漏れ出す重く淀んだ空気の中、アンセルムが大地にひざまずいて祈る。

 癒しの力を全身から溢れさせ、瘴気を覆い尽くし、源泉となる穢れた沼ごと浄化しようとした。


 ……しかし、それは叶わなかった。

 沼の穢れは祓われることはなく、瘴気は湧き出し続ける。


「くそっ! なぜ浄化できない! おい、お前も祈れ!」


 アンセルムが苛立ったように怒鳴った。

 彼は一見、優男風だったが、実際は短気で粗暴な男だった。

 普段はこういった面は隠していたが、気心の知れた私とクラリスしかいない状況では取り繕う必要はないのだろう。


 アンセルムほどではないが、幾ばくかの癒しの力を持っていたクラリスは見張りを止め、アンセルムの後ろにひざまずいて祈り始めた。

 すると驚くべきことに、目の前の中空が淡く光り始めた。


 そして次第に輝きを増し、光の中から一人の美しい男が現れた。銀色の長い髪を風になびかせながら宙に浮かび、無表情ながらも威厳を感じさせるオーラを放っていた。


「……おお、神よ」


 アンセルムが感極まったように呟いた。


「私の祈りに応えてくださったのですね! 私はアンセルム・ダヤンと申します。貴方様の御力をお借りしたく──」


 まさに神としか思えない存在を仰ぎ見ながら、アンセルムが語りかけると、神はゆっくりと口を開いた。

 目の前のアンセルムに、ではなく、その後ろに控えていたクラリスに向かって。


「そこの娘、もっとこちらへ」

「は……わたし、ですか?」


 戸惑いながら答えるクラリスに、神は全く表情を動かさずに答える。


「そうだ、名は何という」

「クラリス・アデールと申します……」

「ふむ、クラリスか。瘴気の森に入り込んでくる変わり者がいると聞いて見に来てみれば、思いがけず良いものを見つけた」


 満足したようにわずかに口角を上げた神に、私は嫌な予感を覚えた。


「お前を我が妃にしよう。こちらへ来なさい」


 神が当然のことのようにそう言って、呆然とするクラリスに手を差し伸べる。

 私は混乱した。


 クラリスが神の妃に?

 突然現れた神が、なぜクラリスを妃に?


 まったく訳が分からなかったが、怯えたように私を見つめるクラリスに気がついて、我に返った。

 今は戸惑っている場合ではない。神を止めなくては。なぜならクラリスは私の……。


「お待ちください!」


 私が声をあげようとしたのよりわずかに早く、アンセルムが叫んだ。

 神が怪訝な表情でアンセルムのほうを向く。


「貴方様は、私の祈りに応えてくださったのではなく、この女に興味を引かれて姿をお見せくださったのですか?」

「そうだが。誰だお前は」


 アンセルムのことなど眼中にもないといった様子で答える神を前に、アンセルムは気でも触れたのか大声で笑い始めた。


「クッ、フハハハハ……! 俺よりもこの女のほうが神に認められるとは……!」

「お前は何を笑っているのだ?」


 神が美しい眉をわずかに顰める。

 アンセルムは漏れ出る笑いを無理やり収めると、妙にぎらついた目を向けながら、芝居がかった調子で答えた。


「……ああ、いかに貴方といえども、この女を妃にすることは許されません」

「なぜだ? 理由を言え」

「なぜなら、この女はすでに婚約者がいるからです」

「婚約者?」

「ええ、結婚を誓い合った男がいるのです。それを横から攫うのは道理に反します」


 アンセルムがそう告げるのを聞き、私は安堵するとともに、神の強引な行いを止めようとしてくれたアンセルムに感謝した。

 いくら神とはいえ、想い合う二人を引き裂いてまで、クラリスを妃にしようとは思わないだろう。


 そうして、不安がって怯えているクラリスの側にいてやろうと、私が一歩踏み出したとき、アンセルムが歪んだ笑みを浮かべながら言い放った。


「この女は、俺と婚約しているのです」


 一瞬、聞き間違いかと思った。なぜなら、クラリスの婚約者は彼ではなく──。


「クラリスはお前と結婚を誓っているのか?」

「はい、そうです」

「──違います!! クラリスの婚約者は私……うっ!」


 私が名乗り出ようとした瞬間、アンセルムから膨大な量の力を無理やり流し込まれて、私は激しい眩暈を覚えた。怪我もしていない健康な身体には、大きすぎる癒しの力はかえって負担になる。


「コンスタン!」


 クラリスが悲鳴のような声をあげて、こちらへ駆け寄ってきた。


「コンスタン、しっかりして……!」


 酷い眩暈と吐き気に襲われてうずくまる私を、優しいクラリスが必死に介抱してくれる。

 しかし、その間にアンセルムと神の会話はどんどん進んでいった。


「本当にお前が婚約者なのか?」

「もちろん、嘘ではありません」

「では、私にクラリスを諦めろと?」


 冷めた目で見下ろす神にアンセルムが答える。


「いえ、貴方の妃となるのは最大の栄誉。俺は謹んで身を引きましょう。その代わり……」

「その代わり、なんだ?」

「愛する女と別れなければならない哀れな男にどうかご慈悲を」


 アンセルムが切なげな声音で懇願する。


「愛というものがそれほど大切なものなのか理解しがたいが、人間の道理を進んで破るつもりもない。何が望みか言ってみろ」

「ご慈悲に感謝いたします……。それでは、どうかその御力でこの瘴気をお祓いください」

「ふむ……完全には祓えぬが、しばらくの間抑えることはできる。クラリスが妃となるなら五十年は封じておいてやろう」

「ありがたいお言葉ですが……五十年では短すぎます」

「ほう、さらに長くと? しかし、お前のために私がそこまでする必要があるか?」


 神が鋭く睨むような視線をアンセルムに向ける。


「では、これから五十年ごと、瘴気の発生ごとにまた貴方の望む乙女を捧げましょう。俗世との関わりを絶たせ、何のしがらみもなく貴方の元へ参るよう手配いたします。その代わり、貴方はまた五十年の間、瘴気を封じる……そういう契約を交わすのはいかがですか?」

「なるほど、契約か。こちらが手元に置きたい娘を選べば手筈を整えてくれるという訳だな」

「その通りです」

「面白い。ではお前と契約を結ぼう」

「ありがとうございます。ご所望の乙女には、それと分かりやすいように(しるし)をお付けください。そうですね、この形がいいでしょうか」


 アンセルムが懐からハンカチを取り出して広げた。隅に氷の結晶の刺繍が見える。クラリスが雪深い故郷をイメージして刺繍し、私とアンセルムに贈ってくれたものだ。


「分かった。気に入った者にはその徴を刻むようにしよう。お前のような力のある人間なら、徴から私の力を感じ取って見つけ出せるはずだ」

「承知しました」

「これで契約は終了だな。もしお前が契約を違えたら、瘴気は封印されず、国中に広がると思え」

「はい、肝に銘じます」

「では、クラリスはもう私のものだ」

「はい、もちろん。──では、最後に一つ確認を」

「なんだ?」

「クラリスが妃となった後、再び人間界に戻ることはありませんね?」

「ああ、来る理由がない」

「それは何よりです」


 アンセルムが満足げに目を細める。


「それでは、貴方の妃をお連れください。貴方とクラリス様のご結婚を心よりお祝い申し上げます」

「ああ、身を引いてくれたことには感謝しよう」


 神はアンセルムにそう答え、こちらを向いた。


「──クラリス」


 神が私の婚約者の名を呼ぶ。


「さあ、行こう」


 いつのまにか、すぐ背後にまで近づいていた神からの呼び掛けに、クラリスが大きく目を見開いた。

 駄目だ、私がクラリスを守らなくては。そう思うのに、体がいうことをきいてくれない。


「……どこへ行こうと仰るのです……?」


 クラリスが怯えた口調で尋ねると、神は淡々とした口調で答えた。


「私の国だ。これからはそこで暮らしてもらう」

「嫌です……行きたくありません……」

「だが、あの男の許可は得た。婚約者が許しているのだから問題ないだろう」


 神がアンセルムにちらりと目線を移す。


「ち、違います! 私の婚約者はコンスタ──」


 クラリスが叫ぶようにして訂正したが、すべて言い終わらないうちに、神がクラリスの額に触れた。

 クラリスは急に気を失い、ふらりと頭から倒れ込んだのを神が受け止める。そしてそのまま彼女を抱きかかえた。


 やめてくれ。私からクラリスを奪わないでくれ。


 神の腕から彼女を取り返したいのに、声も出せず、腕も足も鉛のように重くて、一歩も動けない。

 必死に手を伸ばそうとする私を、神は何の感情も見えない瞳で見下ろし、わずかな言葉を投げかけた。


「お前たちの願いを叶えてやるのだ。感謝するがよい」


 感謝?

 クラリスを攫おうとする神にどうやって感謝しろと言うのか。

 駄目だ、絶対に渡さない。あと少し。あと少し体が動いてくれれば……。


 ふわりと風が吹き、私の伸ばした手がクラリスの綺麗な髪に触れそうになったその瞬間、彼女の髪はキラキラとした光の粒子に変わって弾けた。

 そして目の前にいたはずのクラリスも神も、跡形もなく消えていた。


「……ク、ラ……リス……」


 ついさっきまでクラリスがいた場所を呆然と見つめながら、私は次第に意識が薄れていくのを感じた。



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