32. 本当のこと
ホールに入ると、大勢の視線が自分たちに注がれるのを感じた。
緊張で固まるアナベルの耳元にヴィクトルがそっと囁く。
「みんな君に見惚れてるだけだから、大丈夫」
あまりに近い距離にアナベルが顔を赤く染めると、会場が静かにざわめいた。
「あのご令嬢が瑞花の乙女に選ばれなかっただなんて、本当なのかしら?」
「没落貴族の冴えないご令嬢だって噂だったけど、全然そんなことないじゃない。噂って当てにならないわね」
「陛下の命で大聖堂を視察なさっていたヴィクトル殿下が見初めたって聞いたよ」
「故郷に帰したくなくて王宮に連れてきたんだろう?」
「今度は本気のお相手ってことかしら?」
どう反応すればよいか分からずに狼狽えるアナベルに、ヴィクトルが落ち着いた声で告げる。
「全部、本当のことだよ」
「え……?」
「ほら、ここには君を馬鹿にする人なんていないから、心配せずに楽しもう?」
「……はい」
やがてワルツが流れ、大勢の男女が踊り出す。
アナベルとヴィクトルも互いに手を取り合い、美しい調べにのって踊り始めた。
「君とこうやって舞踏会でワルツを踊るなんて、感慨深いな」
「たしかに、そうですね」
思えば、大聖堂の裏庭でなぜかヴィクトルにダンスを教えてもらうことになってから、少しずつ彼と親しくなれた気がする。
「最初はステップも覚束なかったのに、もうすっかり完璧だね」
「殿下の教え方が上手だったおかげです」
「ありがとう。でも一番は君が頑張ったからだよ」
優しく目を細めるヴィクトルと視線が絡む。アナベルは嬉しいような、でもどこか切ないような胸の痛みを覚えた。
アナベルが何も言えずにいると、ヴィクトルが少しおどけたように言った。
「ところで今日のドレス、僕の瞳の色にしてくれるなんて、期待してもいいのかな?」
「えっ、あ、これは……」
今さらになってカーラが水色のドレスを勧めた理由に気付いて慌てる。
「はは、そんなに焦らなくても大丈夫だよ。きっと侍女に勧められたんだろう? そのくらい分かるよ」
慌てるアナベルを見て、ヴィクトルが可笑しそうに笑う。
「……でも、それでも君が僕の色を身に付けてくれるだけで嬉しいんだ。好きだよ、アナベル」
「ヴィクトル殿下……」
微かに熱を帯びた碧色の瞳がアナベルを見つめる。あまりにも真っ直ぐなその眼差しに、言いようのない苦しさを覚え、アナベルの瞳は切なげに揺らめいた。
◇◇◇
夜会の翌日。アナベルは頬杖をつき、悩ましげな溜め息をついた。
考えているのはヴィクトルのことだ。
彼はあんなにも自分のことを大切にしてくれて、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれるけれど、自分には彼に好意を向けてもらう資格なんてない。
フェリクスに初めから相手にされていなかったと知って傷ついて、どこかに逃げたかったところに手を差し伸べてくれたヴィクトルを利用しているだけではないか。
舞踏会の日、豪華なドレスを着て、綺麗にお化粧をしてもらったとき、フェリクスに見てもらいたかったと思ってしまった。
ヴィクトルに想いのこもった目で見つめられたとき、このまま先に進むことへの不安が胸をよぎってしまった。
ヴィクトルから一緒に王宮へ行こうと言われたとき、ヴィクトルについて行くのが一番いい、彼となら幸せに過ごせると思っていた。
でも、いざとなったら、こんなにも覚悟ができていないことが分かってしまった。
いや、覚悟だなんて言葉を使っている時点でおかしいのかもしれない。
ヴィクトルは、とても優しくて気遣いのできる素敵な人だ。その優しさに今までどれだけ救われたことか。間違いなく、アナベルにとってかけがえのない大切な人だと思う。
でも、それでも……彼の想いに応えることは、きっとできない。
なぜなら、あんなに傷ついたのに、自分はまだフェリクスのことが忘れられないから。
(私、本当に最低だわ……)
このままではいけない。
なにより、こんな自分を守ってくれて大切にしてくれるヴィクトルの想いをこれ以上踏みにじりたくなかった。
(これからのこと、しっかり考えないといけないわ)
ちょうど今日はヴィクトルが朝から用事があって来られないと言っていたから、考えごとをするのに丁度いいかもしれない。
ただ、王宮はどこもあまりに煌びやかでアナベルの目には眩しすぎ、思索にふけるには向かない場所だった。
(──どこか心を落ち着けられそうな場所は……そうだわ)
アナベルは何か閃いたように顔を上げると、側に控えていた侍女を呼んだ。
「カーラさん、お願いがあるのですが……」




