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コールドデザイアー  作者: 一の瀬光
5/6

コールドデザイアー 18章~19章

      ♯ 18


(かなりいかれてる連中だわ。でもテロリストの中にはもっとひどい奴らもいる。わたしの所属する

JCTUジャパン・カウンター・テロリズム・ユニットの分類基準でいけばこいつらの凶悪度は、まあ上の中にあたるだろう。もっともファング様の見立てでは中の下ってとこだけどね)

 惨劇がくりひろげられているトレーラーの屋根の上に穴をあけて、そこからナツミは見ていた。

(何が聖水だ。きっちり溶剤系の劇薬を使ったくせに。フランス情報局あたりがよく使うアレだ)

 加賀谷ナツミといえば日本最強のテロリスト・バースターとして有名な女性だ。

 だからプロのテロリスト相手に、すでに制圧した運転席などにいつまでもとどまるというようなヘマはしない。絶えず自分の位置を変えて優位を保つというのがガチンコ勝負の鉄則なのだ。

 三崎港から車で尾行していたのも気づかれるはずがない。あらかじめ仕込んでおいた追尾装置と盗聴装置を頼りに、何キロも離れてついてきているのだから。そしてトレーラーが速度を落とした隙を待って接近したのだから。

(あいつら死体から凶器ばかりはぎとってるな。典型的な武器マニアだ。銃器の扱いもお手の物か。にしても子どもみたいなはしゃぎようは、政府関係のテロ屋とはほど遠い)

 ピンクのファッショングラスの上に両眼スコープを装着してナツミはつぶさに観察し、最後の状況整理に入る。

(車内はすでに血の海。最後の人質だったDIAエージェントはすでに殺害。ま、はっきり言ってこれはわたしのミスだ。ファングの名が泣くわね)

 ペロリと桃色の舌を出しながら、助ける義理もないけどね、とナツミはかすかにつぶやいて整理をすすめる。

(残っているのはテロリスト三名とサピエス一頭それにロボット一体。救出すべき人質もいないから突入して制圧するのは簡単だが、相手が三人だと一人くらいは傷つけるか死亡させてしまう恐れがある。この三名確保が政府の目的なのだからそんな突入は意味がない。彼らはトレーラーを動かせないし、本隊は二十分ほどでここに到着する)

 トレーラー暴走の瞬間にナツミはテロ対策室に一報を入れていた。

(となればわたしの任務はこの状況を維持することにある。彼らを監視し、確保の際に役立つ有益なデータを集めて本隊に送信する。それでいい)

 ここまではいつものナツミだった。

 こうした抜群の行動力と冷静な判断力で彼女はキャリアを爆走中なのだ。

 ところが今夜に限ってナツミはどこか違和感を感じていた。

(それにしても、どうしてあんな手のこんだ手品をしてみせる? 目の前で水と薬をすり替えてアカリを動揺させる作戦か。だがなんのためにアカリにそんなことを? 不明な点が多すぎるわ)

 だがナツミの違和感はこんな瑣末なことについてではなかった。

 もっとはるかに重要なこと。

 つまり自分のことについてだった。

(それに私だ。なんだろう、さっきからどうも妙な気分がする……)

 妙な気分、とレトリックを使ってごまかそうとしてみたが、自分相手にやはりごまかしは無理だった。

(突入。そうよ、突入よ。もう、どうしちゃったのかしら? わたしときたら、さっきからもう突入したくて突入したくてうずうずしてる。でも、どうして?)

 運転席でふたりのエージェントを沈黙させたときまでは何の心の乱れもナツミは感じなかった。

 そして屋根にのぼり、テロ対策室特製の機器で偵察用ホールを確保して、録画セットをするころまでも普通だった。

 それが、スコープのレンズにがたがた震えているアカリの姿が映ったとたんにヘンになったのだ。

(あのとき急に変な気分がわき起こってきたんだわ。おびえきっているアカリをぐるりと囲んでいたぶっている連中の踊りを見たとたんよ。ああ、こんなところでクモみたいにへばりついてないで鷲のように襲いかかって一息に彼らを締めあげたい。そう思ったんだわ。あ、いや、そうじゃないな。ジリジリと追いつめながらいたぶって狩ってやりたい。そんな気分なのよ。でも、どうして? 哀れなアカリを助けたいから?)

 どうもピンとこなかった。

 ナツミにとってアカリは「重要な証拠になるサピエス」以外の何者でもないのだ。

 アカリは彼女の王子様でもなんでもなかった。

(じゃ、どうしてこんなに突入したがるのかな。まあ、いいや。とにかく早く突入のきっかけを見つけなくちゃ)

 え? とナツミは自分に驚いた。

(なに言ってるのよ、わたし。そうじゃないでしょ! いかんいかん。早くデータをとって本隊にいるボスに送信する。これでしょ?)

 イヤホンに会話が入り、ナツミはぴたっと屋根に密着した。

(ほら来た。録音録音)

「坊や、こんな化け物が大手を振ってのさばってるなんて核戦争でもあったのかい? それとも何よ、大地殻変動とか?」

「そんなことねえよ、マリ。ほら、オレっち三崎港で働いてたことあるじゃんか。この港のことは裏の裏まで知ってんけどよう、さっきのは確かに昔の三崎港そのものだったぜ」

「そうねえ。警視庁とかペンタゴンとか、まるっきりそのまんまだもんねぇ。マグロ漁師どももいかにもニッポン人って感じ丸出しだったしさあ。そのくせ翼なんかはやしたりして」

「うす気味わるいぜ。ドッキリなんとかじゃねえの?」

「カリカチュアってやつじゃな」

「だからどうなってんのよ坊や。こいつら人間様の世界をさ、そっくりそのままになぞってるんじゃないの。社会おままごとって感じ?」

「マリや、わしらが寝とるあいだに疫病でも出たんじゃないのか? きっと吸血菌とか何かの新種のバクテリアでそれに人類が乗っ取られたんじゃろうて」

「地球を乗っとるといやあ、やっぱ宇宙からの侵略者だろう。今のオレたちみてえによ。オレたち、なんかカッコイイな、グヘヘヘ」

「海ボーズや、おぬしは単純で苦労がないのう。たとえば知らないうちに何万年もすぎちまって新しい進化があったとかじゃな、もっと深遠なことが考えられんのか」

「だってよう、さっきの港でなじみだった店の看板見かけちゃそんな気になれねえよ」

「もういいよ、あんたたち。何があったか知らないがそのうちわかる。確かなのはさっきの実験だよ。人間サマならあんな死に方はしねえってこと。聖水で滅ぶのは吸血鬼と相場が決まってら。だろ、坊や?」

「……ふ、ふつうの人間だってあんな場所に注射されたら死んじゃうよ。なんであんなむごいことを」

「目を覚ましなよ、坊や。ふつうの人間が灰になっちまうかよ。お化けが一匹消えたっていちいち騒ぐこたあないさね。おもしろいじゃないか。回りがみんなお化けならさっきみたいに注射しまくってやろうじゃないの。この世界を治療すんのさ」

「なんて人たちなんだ。いったいどんな世界から来たんだ!」

「あんたのいた世界からだろう? そう言ってたじゃないか、坊や。ははははは」

 ナツミは顔をしかめた。

(なに、この会話? こんなのテロリストじゃない。単なるビョーキだよ。あのアカリってやつもさすがサピエスだな。頭が完全にいっちゃってる。そうだな、こんなやつら捕まえても意味ないじゃない? だったら、ふふふ)

 あれ? とナツミは首をひねった。

 どうもさっきから変なことを考えてしまう。

(捕まえなくちゃ意味がない、でしょ? そうよ。あいつらもちろん異星人なんかじゃない。どうせどこかの組織のまわしものが宇宙人のふりをしてアカリをだましているだけなんだから、徹底的に洗って化けの皮をはがさなくちゃ。捕まえなくちゃ、容赦なく。そうだよ。激しく捕えて、こうやって体をバラバラにキリ刻んでしまえばきっと翼も出てくるに違いない!)

 いつの間にかナツミはファッショングラスをはずしてぼうっと前をながめていた。

 唇の端が少しずつ上へあがり、歯ものぞいてきている。

(えーと、なんだっけ? あ、そうそう、バラバラにどうするって? ふふふ。ああ、さっきからこのじれったさは何なのよ! わたしはどうしても彼らのことを、えーと、だからその、彼らを、つまり……)

 バン、と屋根の板を蹴ってナツミは立ち上がっていた。

「ええい、捕獲作戦などクソくらえだ。わたしが体をひき裂いて調べてやる! うおおおおお!」

 両手を下へいっぱいに伸ばしきり、月に向かってナツミは吠えた。

 そして愕然とした。

(ええっ? いま叫んだのわたしなの? こんな大声をたてたら気づかれるじゃないの! あら? スコープはどこ?)

 あわててひざまづいたナツミは、手探りでさがしだしたスコープ付きファッショングラスを大急ぎでかけた。

(うわ、だめじゃないの! ほら、全員でこっちを見上げているわ!)

「知るか! そんな事どうでもいい! 突っ込め、ナツミ!」

(だめよ、突入なんて愚の愚なのよ!)

 まるで誰かが隣にいるかのようにナツミは心の中で叫んだ。

 だが違う声がどこからか聞こえてくる。

「行くぞ! きさまらあ!」

(これ、誰が叫んでるのよ? え、わたしなの? うわわ、どうして翼なんか出して、おまけにこんなに広げちゃって急降下の準備なんてしてるのよ? こういう場所はワイヤーロープで降りると決まってるでしょ?)

「ええい、もう遅い!」

 自分の口が勝手に動くという未知の体験にナツミは呆然としている。

「三人そろってワシづかみにしてやるぞ、 覚悟しろ! ターリホー!」

(ちがうちがう、愚かしいこと言わないで! まず武器を取り上げて無力化しなくては)

 気づいたとき、屋根には大穴があいており、ナツミはその渦の中に吸い込まれていった。

(うわお! え? わたし、飛んでる、の?)

 大型グライダーのような迫力ある飛

えい

が車の天井を覆う。

 車内の全員が目を見張った。

(こ、この飛翔感はなに? すごいスピード! す、すごすぎる!)

 バシューッと何かが車内を横切り、そのあとに台風のような強風が吹きぬけた。

「ハハハハ! どうだ、見たか、わたしの飛行を! 今の一回で銃とナイフはすべて取り上げたぞ。そーら、この穴から捨ててやる。これできさまら丸腰だ」

(ああっ、ナツミのバカバカ! 押収した武器を天井の突入口から道路へ投げ捨ててどうすんのよ。物的証拠よ? 他国機関が干渉した重要証拠じゃないの! なくしでもしたらボスに大目玉でしょう!)

「けっ、ボスがどうした。もたもたしてたら獲物が腐っちまう。てめえら動くな!」

 二回目の旋風がPR―X乗務員を巻き込んだ。

(だめよ! だめだめ! 無抵抗の者を傷つけてはいけない! ああっ! 爪に引っかけてしまった……)

 嵐に草木が倒されるように若い女と男ふたりが床に転がった。

「ほっほー、赤い、赤いわ! 思ったとおりとびっきりの血だ!」

 空中のナツミは自分の手に見ほれていた。

(わたしの手についたこれは何? 血? 血だわ! こ、これほどみごとな赤い血がこの世にあるなんて! それにこの艶、このかぐわしいにおい、とろけるような粘り気。これに比べたら店で売っているサピエスのジュースなんて……、レストランの瓶詰めなんて……、クズじゃないの!)

 アハハハハハハ!

 とどろき渡る笑い声がトレーラーの四方の壁に反射し反響して、思わずアカリは耳をふさいだ。

「そうよ宝物よ。あそこに宝のたっぷりつまった血の樽が並んでいる。一つ、二つ、三つ」

(四つだよ! ほら、四つだわ! い、いや、ダメよ。この場合アカリは保護対象じゃないの)

「うん、ほんとに四ついるね。あの四つめのはとくにおいしそうじゃないの。若くて、軟らかそうで、初々しく、清らかで、そして」

(そ、そんなこと……。そんなこと、では……そんな言い方じゃあまだ十分じゃないわ!)

「へえ? じゃあ、なんて言えばいいの? 四つ目は?」

(それは……みだら……、そう! 淫らよ!)

「カハハハハ! そうだ! 淫らだ、淫らだ! ハハ、いいぞいいぞ、わ・た・しィ!」

(ああ、欲しい!)

「ああ、欲しいよ!」

 形容しがたい充実感をナツミは満喫していた。

 もはや違う声はどこからも聞こえてこなかった。

 ナツミは確固たる自我をその背骨と翼に感じている。 

「ああ、あなたたちの血をこの口いっぱいにほおばりたい。とくにアカリ、あなたのかぐわしいその首をどうかわたしの自由にさせて!」

 女が何かの棒をみつけて立ち上がろうとし、男たちが手足をばたつかせてあちこちをさ迷い、アカリが呆然と立ち尽くしていた。

「最後の一撃だ、行くぞ!」

 飛翔する零コンマ何秒の間にナツミは次のような感動をしみじみと味わっていた。

(おお、わたしの翼がこのようにのびのびと動いたことがこれまでの人生にあっただろうか。

 魂がこれほどまでに純粋に求めたことがあっただろうか。

 わたしという全存在がこんなにも感動にうち震えたことがあっただろうか。

 もう任務など、どうとでもなれだ!

 ニンム? それって一体なんのことだったっけ?

 ああ、もう放っておけ。

 あらゆる邪念を頭から打ち払いあの子の首に精神を集中させるのだ)

 一撃を加える瞬間に彼女は祈った。

「主よ、わが牙に彼の頸動脈を与えたまえ!」

 このときナツミは、その豊満な胸部に小さな衝撃をおぼえた。

「なにっ? 何か刺さったぞ。これは、針?」

 かろうじて両手で受け止めた長い針だが、先端の何ミリかがナツミの乳房に突き刺さっている。

 ナツミはまじまじとそれを見つめながら毒づいた。

(邪魔しないでよ、このテロ女め。いま何を武器に使った? 注射器なの?)

 ナツミは着地して立っていた。

「このバケモノ女め。マリの注射針を真剣白刃取りしやがったぞ!」

 ボーズ頭の大男が真っ青になって叫んだ。 

「ひるむな、海ボーズ! 勝負はまだついちゃいない。聖水入りの注射器は五万とあるんだよ! やるぞ!」

 女がナツミに襲いかかる。

「海ボーズや、このチャンスを逃すな! おまえも注射器をとってやっつけろ!」

 おじいはペットボトルから聖水を次々に注射器に入れている。

 ブスンッ。

 今度は海ボーズの一本が深々とナツミの乳房に突き刺さった。

(しまった! これで猛毒の注射針が二本、わたしの胸に!)

「それ、注射いてまえ。聖水だぞ、ざまあみさらせコウモリ女め。あ、変だぞ。針が押し戻される。水が逆流してきやがる。おじい、どうなってんだ?」

 注射器を刺しながらも海ボーズが及び腰になっている。

「この弾性はシリコンか? そうじゃ、シリコンじゃ」

 ずるそうなおじいの目が真相を見抜いた。

「シリコン? どおりでデカイおっぱいだと思ったらシリコン整形かよ」

 ナツミは最大に激怒した。

「くくく、くっそー! よくも触ってくれたわね。よくもレディの秘め事に! てめえら許さない!」

 バサバサバサーっとナツミは急上昇した。

「あっ、胸にささったまま注射器が持っていかれるわ! まずいよ、おじい」

「アカリの前に、まずおまえたち三人から始末してやる」

 上空でのナツミの決意表明はPR―Xの乗務員の耳にまでは届かなかった。

「襲ってきたぞ。やべえ!」

(フハハハ、逃げ惑えばいいわ。いまさらパネルをいじったって何も動きはしないのに。とっくに電源は切断ずみよ!)

 しばらくナツミは品定めをしていたが、ついに羽ばたいた。

(まずはこのメスからだ)

「みんな、対角線上に散るのよ! き、来たわね。いたたた。痛い痛い、ぎゃあああああ!」

(ククク、まだ倒れないでよお? 首はいちばんあとよ。まずは腕、つぎに足、そいでもって頭かな? フフフフ、そうよそうよ。その調子でできるだけ逃げて。動いてくれるほどこちらも滑らかに飛べるんだもの)

 かまれた体の部分を支点にして海ボーズの巨体が宙を舞っていた。

「ぎぇー! た、助けてくれよう。そこはやめてくれ! ぐわあああああ!」

(こいつの太ももはかなり歯ごたえあり、ね。あらあら、残った手足三本で走る姿もかわいいじゃないの。ハハハハ、ああ楽しい。楽しいわ!)

 いきなりナツミは耳がこそばゆくなり、そのあまりにも柔らかい感触に驚いて羽を止めた。

「や、やめてよ。もう、やめて……」

 耳をくすぐったのは声だった。

(いま誰かのささやく声がした?)

 ナツミは上空から車内を俯瞰したが、やがて床の中央でひざまづいている若い男に注目した。

(春の陽だまりに飛び交う蝶たちでさえもこのように可憐には囁けないでしょう。甘くこの耳をくすぐるのはみずみずしい少年の呼びかけ……アカリ……)

 ふいにナツミはアカリのことがかわいくてたまらなくなってきた。

 その証拠にアカリを見つめる彼女の目は、うっとりとまぶたを半分閉じている。

「ボクあなたを知ってますよ」

「そう? わたしも。あなたのこと、知ってる。たぶん、ずっと昔から……」

 ナツミは音楽でも奏でたいような、そんな気分に浸っていた。

(中空に留まり、たゆたう時の流れにわが身を任せる。こうして緩やかな振り子のように宙に身を揺らしながら、アカリ、あなたの恐怖に揺れる瞳を見つめるのは限りない悦びをわたしに与えてくれるわ。

おお、いいわ。

あなたのその凍えるまなざしは、まるで真夏の昼下がりにもらったアイスキャンディーみたいにわたしの心を無邪気にしてくれるの。なんだかハミングしたくなってくる。ルンルルルルルンルルル……)

腰に力が入らず、膝立ちのままアカリは語りかけた。

「あなた警察の人でしょう? 江奈おじさんの家で会いましたよね。なのにどうしてボクまで襲うの?」

 ナツミは首をかしげた。

 燃え上がるような赤一色に染まったその呪わしい目のまま小首をかしげるというナツミの様子が、アカリにはたまらなくおそろしかった。

 だがナツミのほうは無邪気にこう思っていた。

(ケーサツ……それ何のこと? ケータイという言葉なら何となく知っていたような気がするんだけど。

ごめんね、あなたが何を言おうとしているのかわたしにはわからないの。でもあなたの名前はしっかりと言えるのよ、ア・カ・リ)

ナツミは甘い甘い気持ちに全身を浸しながら、ゆっくりと前進の翼を動かし始めた。

そよ風のようにナツミはアカリに向かっていく。

「こ、来ないで。それ以上ちかよらないで」

 アカリの声はほとんど聞こえないくらい小さかった。

 そのトーンがまたナツミに感銘を与えた。

(畏怖なの? 恐怖なの? それとも喜悦? ひざまずいて懇願するように見つめるあなたの目つきがわたしへの限りない尊敬の念を感じさせてくれるの。レディにとってそれはとても必要な思いやりなのよ)

 がたがた震えるアカリの両手は祈るように胸の前で合わされた。

 ナツミは声に出して言った。

「どうしたの、もうしゃべらないの? でもその方がいいわ。小刻みにふるえるあなたの唇の動きはまるでヴァイオリンの名手の指運びを思わせる。その無言の詩がどうしようもないほどにわたしを魅きつけるの」

 アカリの瞳は迫り来るナツミの赤い目を映し出している。

「決めたわ」

 ナツミははっきりと心を決めた。

「アカリ、やはりあなたからにする」

 アカリは目をつぶって顔をそむけた。

「ああ、だめよ。そうやってうなじを向けないで。正面からあなたのつややかな首筋をわたしに見せてください」

 アカリはますます目をぎゅっとつぶった。

「ああ、どうか見てください。歯が大きくうずいてわたしはもう口を閉じることができません。この口を静かに閉じさせてくれるのはあなたの首筋だけなの。だから、ください」

 ナツミの口は準備段階に入った。

 アカリは精一杯の力を出して最後の一言をしぼり出す。

「……や、やめ……て」

 ナツミの吐息がアカリの耳たぶにまで届いた。

「さあ、お願いです。アカリ……」

 ピピピピピピピーッ!

 電撃にはじき飛ばされたようにナツミはバッと後退した。

「なに、このいやな音、この気味のわるい振動は? え、これってわたしの腰から伝わってくる? な、なによ、この振動している固いものは? 手鏡?」

 顔をそむけたままアカリが薄目をあけると、ナツミが携帯を手にしている姿が映った。

 ピピピピピピピーッ!

「あ、開いた! なんだろう、夜明けの光のごとき無粋に点滅するこの灯は? 消えよ呪わしい光め! こうしてやる!」

 ナツミは長い爪を携帯につきたてた。

 ピッ。

「やっと止まったわ」

 そうナツミは言ったが、アカリには彼女の爪が通話ボタンの位置を押したように見えていた。

「加賀谷審理官、応答せよ。加賀谷ナツミ審理官、速やかに応答願います!」

「お、音が出た? 」

 かなり電波の感度がいいな、とアカリは思った。

「おい、こら。どうして話さん? ナツミいるのか!」

「ナツ…ミ…?」

 携帯に向かってナツミはいぶかしげにそう言った。

 それを受けて、また携帯が怒鳴る。

「どうした牙

ファング

!」

「ファング? ああ、ファング!」

「こらっ、電話に出とるならなぜしゃべらん。わたしだ、寺内だぞ!」

「ひッ、テラウチ! ボ、ボス?」

「おお、いたのか」

 携帯がやっとおだやかに話し出した。

「で? 状況はどうなんだ? こっちは、あと五分以内に着くぞ。このまま到着していいか?」

「状況って…?」

 ナツミの翼がみるみるしぼんでいくのを見て、アカリはごくんとつばを飲んだ。

「……ナツミィ、こんな時に給料の交渉か? それとも昇進試験の結果の件のほうか? それはあと一週間待て。今度こそきちんと納得のいく説明をしてやるから。だから今は報告をしぶるな。我々はすぐに着いちまうぞ。中の状況はどうなんだ?」

「はい? えーと、中って?」

 ナツミは着地して、やや内股ぎみに立っている。

「検査トレーラーにへばりついてるんだろう? あっ、おまえ! まさか突入しちまったのか! 今回は先走りしてないだろうな! どうなんだ、ナツミ!」

 直立不動でナツミはびしっと敬礼した。

「突入! い、いいえ、やってません。そうかそうか、PR―Xの件でしたよね?」

「おふざけはいい加減にしろ!」

 そうとうな怒鳴り声に携帯の声が割れ、ナツミは思わず肩をすくめた。

「おい、トレーラーは捕捉したんだろう。運転席奪取の報告からもうだいぶたつのだぞ。なぜあれから連絡せん?」

「あ、それが、その後に対象物から、えーと、いったん離脱しまして」

「え?」

「た、ただいま距離をおいて尾行中」

「じゃあこの追尾灯は車内からじゃないのか? さっきから狭い空間内を激しく回転しとるからてっきり突入して乱闘しとるかと思った」

「それってわたしの体についてるチェーサーのことですか? ら、乱闘だなんてとーんでもありません、室長」

「それに対象物を尾行中とはなんだ。あの車はもう停車しとるんだろ」

「監視中と言ったつもりであります。車内で異変の気配があり、うかつに近づけません。本隊のほうで確保の手配願います」

「こっちに任せるだと? ほー、ナツミからそんな言葉を聞いたことがあったかな? お、もうトレーラーが見えてきた。よろしい、先導したまえ」

「それが、その」

 ナツミは右へ左へと車内を無駄に見回した。

「なんだ!」

「いま動けない状態でして」

「車内にオポジットがあるのか?」

「オポジット? ああ、敵対勢力のこと。それはありません、即刻包囲可能です。私の個人的事故で動けないだけです」

「ええい、もういい。確保終了次第きみには話があるぞ。今は好きなだけそこに待機していたまえ。以上!」

 携帯を見つめたまま、ナツミはがっくりと立ちつくしていた。

「どうしよう。ボスを怒らせちゃったよ。ああ、わたしはいったい今まで何を……?」

「やっと思い出してくれましたか。よかったあ、間に合って」

 ナツミは跳びあがらんばかりに驚いて携帯を落としかけた。

「お前は柴咲アカリ! いつからそこにいる!」

「ずっとですよ。そうか、やはり覚えてないんですね」

「な、何をよ?」

「これ、全部あなたがやったんですよ」

 そう言うなりアカリは後ろをふりむいて、片手で場面を紹介してみせた。

「これって……? うわわっ、ひどい!」

 飛び出さんばかりのナツミの目は状況を分析した。

(DIAエージェントのほかに男がふたり女がひとり血みどろになって車内に散乱している。うなっている。手足がちぎれかかってるぅぅぅ。こんなことをわたしが? アハハ、まさか)

「うそだ! きさま、何のつもりで嘘をつく! だってこれはPR―Xの乗務員だろう? 政府のゲストなんだぞ? それに第一こんな手際の悪いことをわたしがするはずはない。だけど……どうしよう? もうすぐボスが来ちゃう」

 ナツミは腕を組んで唇をかんだが、いたっ! と言って唇から出た血を手の甲でふいた。牙が傷つけたのだが、心配のあまり彼女はそのことに気がつかなかった。

「だまっていますから心配しないで」

「え? 黙っていてくれる?」

「ええ、その……胸のシリコンとかいうことも」

 ナツミの背骨がピキンと吊り上って、顔が真っ赤になった。

「っ! な、なぜ知ってるの! どうしてあなたがそんなことを!」

「あ、すみません」

 アカリはコツンとひとつ、自分の頭をこづいた。

「えと、ともかく何も言いませんから」

「そ、それはありがたいけど」

 ナツミは両手で自分を抱いて胸をかくした。

「でも、どうして黙っていようなんて気に?」

「ボクちょっと心当たりというか経験がありますから」

「心当たり? 経験?」

「これ、きっとボクのせいじゃないかと……」

「きみのせいって?」

 ナツミはぐいと体をのりだした。

「えーと、ぐずぐずしてていいんですか? もうみんな来るんでしょう? ほんと黙っていますから」

 そうだった、というようにナツミはそわそわしてあたりを見渡した。

 そしてアダムが起動中であることに気がついた。

 アダムはがんじがらめにロープでしばられて猿ぐつわまでされていたが、目がらんらんと光っていたのだ。

「でもそのロボットが喋っちゃうんじゃないかしら」

「アダムが? 大丈夫ですよ。アダムは口がかたいと思います」

「でもロボットだから」

「な、アダム。きみは口がかたいだろう?」

 アカリは猿ぐつわをといてやった。

 アダムは礼より先にアカリの質問に答えた。

「ではそのように命令してください」

「アダム、きみはこの女の人を見なかった。いいね?」

「この女性に関する記憶をすべて封印します。封印完了」

 うーむ、とあごに手をあてながらナツミはアダムとアカリを斜ににらんだ。

(どうせこんな約束まゆつばだけど、もうタイムリミットだわ。もし車内にわたしがいるところでも見られたらわたしのキャリアもおしまいだし、今はすばやく突入口もふさいでおかなきゃならないし)

「オッケイ。信用する。頼むね?」

 アカリはうなづいた。

「じゃあ、わたし行くわ。ありがと」

 待った、とアカリが手を伸ばした。

「あ、すいません。後部ドアが開くようにしといてもらえませんか?」

「わかった、やっておく。簡単よ。バイ」

 そう言ったのにナツミがあたりをキョロキョロ見回すばかりで動かないので、アカリは聞いた。

「何かさがしものですか?」

「いや……。うん。ワイヤーロープどこかな、って」

 まだ屋上にあがって装置を片づけないといけない。それに突入に使ったワイヤーロープを残しておいたりしたらボスの寺内にばれてしまう。

 でもロープはどこ? ロープなしでどうやって突入した? ナツミはとまどっていた。

「あのさあ」

「はい?」

「もしかしてわたし、飛んで入ってきた?」

 アカリはちょっと驚いて、ついアダムのほうを見てしまった。

 答えを求められたと思ったか、アダムは律儀に言った。

「わたしは見ていません。目隠しをされていたので当時センサー不能」

 PR―Xの乗務員は慎重で、万一の不確定要素を排除するためにアダムをしばりあげ、目も耳も口も使えないようにしていたのだ。

 だからこれを聞いてナツミは少し安心した。これなら録画もされていないだろうと。

「いいんだよ、アダム。ええ、飛んでましたよ」

 アカリの答えにナツミはできるだけ動揺をあらわすまいと努力した。

「そうよね。じゃ、これで。アディオス・アミーゴ」

 ナツミは飛んだ。

 そしてすぐに、「あれ? 服がやけにきついな」と感じた。

 先日の中村邸潜入で江奈にしてやられた経験をふまえて、この日ナツミは翼を自由に出せる服を選んできていた。それなのに翼を出す背中の部分がきつく引っ張られるので首をかしげた。それともうひとつ驚くことがあった。

「わあ! あっという間に天井だ。わたしってこんなに早く飛べたっけ?」

 突入口をふさぎ、スコープや録音録画機器をバッグに入れるとナツミはファッショングラスをかけて車の脇に行き、アカリのために配線を入れなおした。

「よし、離脱だ。飛べ!」

 ここでナツミはさらに驚いた。

「は、速っ! それにすっごいスムーズよ! これなら満月の夜に思いっきり飛んでみたいなあ。はあ」

 ナツミは変に思った。

「まあ。どうしてこんなこと考えるのかしら? わたし、そんな趣味ないのに」

 適当な木の枝が目に入ったのでナツミはそこに降りた。

 飛行中の視界もびっくりするほど鮮明だった。

「ここなら本隊からも見えないはずよ。こっちからは丸見えだけどね」

 ナツミはお気に入りのスコープをまたファッショングラスの上につけなおす。

「あ、もう来たわ。おひゃあ、ぎりぎりセーフじゃん。こんだけ速く飛べなかったらヤバかったかもね」

 ナツミの要請を受けてやって来た応援部隊は大小の車両合わせて十数台の大編成だった。どうやらテロ対策室単体の作戦ではないようだった。

「ほお。かなり派手よね。あ、でもやってるやってる。これ知ってるわ」

 アカリのいる検査トレーラーに近づいた車両たちは左右に別れて大きな輪を描くように走行し、みるみるトレーラーを囲んでいった。しかもひとつの円形ではなく、三重四重に取り囲む複雑な陣形を組んでいる。

「寺内室長お得意の『伊賀鉄桶の陣形』ってやつね。ということは仕切りはうちのボスってわけか」

 並み居る車両の中でもひときわ大きく、やはりトレーラー型の車から小柄な男性が出てきて何かの器具を口にもっていった。

「移動検査車両の中にいる諸君、聞こえますかあ!」

 スピーカーの説得が始まった。

「現在あなたがたは日本国政府の保護下にあります。安全ですので外に出てきてください。ドアを開けられますか? 開けられない場合は車両の壁をたたいて合図してください。こちらで車両の壁を切断して出入り口を作ることができます。くりかえします」

 スピーカーの男性は小柄ながらもがっしりとした柔道選手タイプだったが、やや長い髪を真ん中分けにして着ているスーツもアルマーニ製高級服とおぼしきしゃれ者だ。その声はあくまでなめらかで、それがこの林の木々を朗々とかけ抜けている。

「やっぱりうちのボスだ」

 ナツミがスコープで確認しているあいだに検査トレーラーの後部ドアが開いた。

 ナツミがそちらを向くと、スコープに手をふっている柴咲アカリの姿が映った。

「柴咲アカリでーす。ボクは大丈夫ですが中にけが人がいるのできて下さーい」

 寺内室長が後ろを向いて右手を大きく回すと、大小の車両から次々と部隊員が降りてきた。

 何人かは白衣を着た医療関係者のようだったが、あとは軍服姿に自動小銃をかかえて散開し地面にはいつくばった。

「自衛隊? こりゃきばったもんだ。あ、ボスがキョロキョロしてる。きっとわたしを探してるんだわ」

 ナツミはひょいと首をすくめたが、寺内室長の横にいる人物に気づいてグラスをかけなおした。その人物は和服を着ているのでいやでも目だっていた。

「ん? あの横にいるのは江奈祐一郎だ! なるほどあれが江奈の和服姿か。じゃあ、あの下着って和風パンツのことだったのね。プッ!」

 盗聴用マイクでナツミはトレーラー内の出来事をすべてモニターしていた。だから江奈が車外へ脱出した様子も聞いていたが映像はなかったので、アカリがどこへつかまったのか疑問に思っていたのだ。

「けれども松葉杖に左手も吊り包帯で満身創痍ってとこね。じゃあほんとに五人かついで外に飛び出したんだ? 無茶するなあ、あいつ。自信過剰よ」

 そう言いながらもナツミの目には親しみの光があった。

「あら、女の子がいる? ああ、例の三人娘か。あんなスタントこなしたのに無傷だなんてねえ。江奈は過保護だな」

 やはり映像がなかったせいか、ナツミはあの場にアヤメがいなかったことをはっきりとは把握していなかった。

 だが今、アヤメはこの場にちゃんと来ていた。

「おや? 三人娘のうちの一人が前に出たわ」

 ムクゲとマクラと江奈が見守る中、アヤメは小走りに前に出た。

 数メートルほど行ったところで自衛隊員にとめられたが、アヤメはそこから大きな声で言った。

「アカリさーん。わたくしでーす!」

 自分を取り巻く異様な陣形に気をとられていたアカリが、はっとして正面を見た。

「アヤメちゃん! 来てくれたんだ、アヤメちゃん!」

「もちろんです!」

 アヤメは手にした重そうなピクニック用バスケットを胸にしっかり抱きしめた。

「あ、まずい!」

 ナツミは気づいた。

 PR―Xの三人が床をはってアカリに近づいている。

 それに気づいたのはナツミひとりだった。おそらく木の枝という高い位置から見下ろしているので車内の奥まで見えたのだ。

「あいつらさっきは気絶したふりだったのか。それにしても匍匐

ほふく

前進とは、あいつらこの状況がよく見えてやがるな」

 ナツミはホルスターをさぐりながら計算する。

「どうするかな。この距離だとパラライザーは届かないから、よし、一番口径の小さい弾丸で威嚇してやる。いや、その前にまずボスに知らせないと」

 そこでやっとナツミは気づいた。

 ホルスターもない。専用回線マイクイヤホンもない。それどころかナイフすら身につけていなかった。

「あれあれあれ? どうして装備一式がないの! 運転席を制圧した後たしかに背負って出たのに。まさかどこかへ落とした? あるのはこの携帯電話だけだなんて……。ちくしょう、しかたねえ! 携帯でもまさかあいつらには盗聴されねえだろう。ボスへ……」

 携帯を開く一瞬まえに何か気になるものが鏡面仕立ての携帯カバーに映ったので、ナツミはすぐに携帯を閉じてそれを見直した。

「あら、なにかしら? ここに映っているのは? うえぇ! まさかこれ、わたしの顔じゃないでしょうね!」

 驚愕したナツミはファッショングラスをかなぐり捨てて、鏡になっている携帯の表面をすごい勢いでのぞきこんだ。

「う、うそでしょ? なんなのよ、このサーベルタイガーみたいな八重歯は! どうして歌舞伎みたいに目をクマドリしてるのよ! いやあっ! み、耳がこんなに尖ってる! ちょっと待て。肩にも、な、なにかついてるわよ。ええっ、これがわたしの翼ですって? こんなコウモリみたいな形はわたしの翼じゃない!」

 ナツミがあたふたしているその木の枝までアヤメの声が響いてきた。

「アカリさん、遅れてしまってごめんなさい。わたくし心の整理がつかないまま、ついアカリさんにまで冷たくあたってしまって。それでおわびに、実は……」

 反射的にナツミはスコープをひったくって車内をのぞいた。

「いかん! 気が散ってる間にあいつらアカリのすぐ後ろまで来ている。もう間に合わない! おい、アカリ!」

 そんな距離からのナツミの声が聞こえるはずもなく、アカリはアヤメとの会話に夢中になっていた。 

「実は、なーに? まだ遠くってよく聞こえないよう、アヤメちゃん」

「実は、シェフの大原さんにおつき合い願ってお弁当作ってみたんです。わたくし大原さんからいろいろ教えてもらいました。アカリさんのお好きな料理を覚えたいから。今日はアカリさん用特製のすき焼き弁当なんですよ。すき焼きベントー! 聞こえましたか、ああ?」

 アカリの背後に突如として女がひとり立ち上がったので一同はアヤメのように、ああっと声をあげた。女の顔は血だらけでまるで怨霊のようだった。

 女の腕がアカリに伸びた。

「きゃー、アカリさん!」

 PR―Xの女がアカリの首を裸じめにしていた。

 アカリの顔が苦悶の表情を刻む。

「そうだ、ロボットはどうした! あっ、あの役立たずのロボットめ! 蹴飛ばされて転がっちまった」

 木の枝にいるナツミにできることは何もなくなった。

「ほほお、すき焼き弁当かい。いいもん持ってきたねえ」

 血のりがべったりのほおに女の笑みが浮かぶ。

「す、すき焼きィー! マリ、食いてえよ、オレ食いてえ!」

 これまた血だるまの海ボーズが自分の胸をドンドン叩きながらゴリラのように吠えた。

 スピーカーのハウリングする音が聞こえたのでナツミはスコープをそっちに向けた。

「ボスがマイクを握ったわ」

 寺内室長の顔は真っ赤になっていた。

「諸君! 落ち着きたまえ。なぜそんなことをしている? 少年から手を離してください!」

 女の顔から笑みが消え、その腕に力が入った。アカリが身をそらして苦しがる。

「るせえ! あたしたちをこんな目にあわせておきながら、ふざけんな! いてててて、どうしてくれんだ、この体! このガキの首へし折ったって収まらねえぜ! やってやる!」

「落ち着きなさーい! 要求があるなら聞こう!」

「じゃ、その娘に早く弁当持ってこさせろ! 一人だけで車の中まで来い!」

 ナツミは江奈を見てみた。

「あいつ何か言ってるわ。きっと女の子を引きとめてるんだわ。当然よ」

 だがアヤメは江奈に向かって激しく首をふったあと、走り出してしまった。

「バカッ! どうして行かせるのよ! 今あの車にいるのはサピエスと正体不明のテロリストだけなのに、ここで正真正銘の人間の女の子が人質にでもとられたら救出は難しくなるじゃないの。なぜ自衛隊はとめないんだ!」

 ナツミには見えなかったが、江奈と寺内室長には見えていた。車内から大男と老人がアヤメに照準を合わせて銃を構えているのだ。

 すでにアヤメは人質にとられているも同然だった。

「よーし、そのままこっちへ来い!」

 女が叫ぶままにアヤメは後部ドアから車内へのぼった。

 海ボーズがアヤメの手をとらずにバスケットを取ろうとしたので女がその手をキックしていた。

 大男はしぶしぶアヤメの腕をとって自分のほうへ引っ張った。

 スコープをのぞきながらナツミは舌打ちする。

「ちっ、まずいぞ! 女の子はでかい男の方に捕まった。おまけにあの男め、女の子を羽交い締めにしたまま背を向けてしまったわ。女の子の位置が確認できなければ狙撃ができない。あいつらプロの犯罪者だ!」

 だが次の瞬間、ナツミはわが目を疑って眉をひそめた。

 女がいきなりピクニック用バスケットにおおいかぶさり、中身を手づかみでほおばりだしたのだ。おかげでアカリは床におっぽり出されて咳き込んでいる。

「あっ、何すんだよマリ! オレに食わせて、マリ!」

 ナツミはますます混乱した。

「あのでかい男が右手を伸ばして弁当をつかんだ? 女の子を離して?」

 バスケットに伸びてきた大男の手を、女はめちゃくちゃにひっかいた。

「バカボーズ! 人質から手を離すな! あたしが先だよ。あっ、おじいも何すんだよ。手をひっこめねえかよ!」

 漁夫の利をきめこんだ老人はひとつかみした自分の獲物をさっそく口にほおりこんでいる。

「あいつらアカリと女の子から手を離して何やってんだ? まさか弁当の奪い合い? 狙撃される危険を冒してまで?」

 ナツミには聞こえなかったが、車内で彼らは饗宴に酔いしれていた。

「う、うまい。牛じゃ牛肉じゃ、醤油の味じゃ」

「おじい、がっつくな! 手を離しやがれ!」

「オレにもっと! マリ、もっとくれよ!」

 木の枝でナツミが歯ぎしりしていた。

「アカリと女の子はどうして逃げないんだ。そんなあさましい連中をじろじろ見ている暇があったら逃げなさいよ。ひょっとして腰がぬけてしまってるの? ああもう、江奈もボスは何やってるのよ! なぜ突入しないの!」

 ナツミがスコープの角度をずらすと自衛隊員とおなじみのテロ対策室突入班の同僚の顔が次々と確認できた。彼らはとっくにトレーラーのところまで来ていたらしい。

 ただナツミが奇異に感じたのは、彼らもまた突っ立ってアカリのようにじろじろとPR―X乗務員を見ていることだった。しかもなぜあんなに大きな口をあんぐりと開けたままなのかがナツミにはわからなかった。

「あああ? きゃー、いやあああああああああ!」

 アヤメが叫んだのでナツミはそっちを見た。

「女の子が叫んでアカリに抱きついた? 泣いている? なんで? PR―Xの連中には何もされていないのに」

 ナツミには聞こえなかったのだ。

 彼らのあげるうめき声が。

「ううう、うめええええ……ぐるるるるる」

「がああ……マ、マリ……もっとお、ぐわおおお」

「あうあうあうあうあう!」

 視覚だけで観察するナツミもようやく気がついた。

 状況の変化に。

「どうした! 三人の体から何か飛び出している!」

 女の背中から、老人の腕から、大男の頭から、噴水があがっていた。

 初めはだれもが何かの体液が噴き出しているものと思った。

 しかし色が赤でもなく透明でもなく、すすけた墨のようだったので見当がつかなかった。

「もしかして、あれは、毛? そうよ、毛だわ。すごい勢いで毛が伸びてるんだわ!」

 噴水はある程度の高さまでいくと急に垂れ下がった。そして床一面が毛のじゅうたんに変わったのだ。

「待った待った。それだけじゃないわ。体が異常に膨れ上がってる! あ、もう二倍くらいになった! なによ、これ!」

 毛の量と長さがあまりにも常識を欠く分量だったせいで、もはやどれが女でどれが男なのかすらわからない有様だった。その毛の下でむくむくと何かが盛り上がってくるのだが、それがどのような形状を呈しているのかやはりわからないままだった。

「アヤメ、アカリくん、こっちへ!」

 ナツミも気づいた。

「あ、いつの間にか江奈とボスが後部ドア入り口まで来ているわ。よし、やっと救出できた」

 そう安心したのもつかの間だった。

 ナツミはふたたび木の枝を踏み鳴らした。

「あのバカ、何やってんのよ! アカリのやつがまた車内に戻っていく。え? ロボットを引きずってきた? なにやってるんだ、あの子ったら!」

「モアアアアアアーッ!」

 耳に届いた大音響にナツミはびくっと顔をあげた。

「なんて叫び声なの。あいつらの、かな?」

 車内では毛むくじゃらの化け物みたいになものが床にはいつくばっていた。その三体の異様な毛の固まりはみな倒れていたが、それでもまだ息はしてるようだった。

 ナツミははたと手を打つ。

「そうか! あの弁当に何か仕込んだのね。わたしも鈍いわ。そうするとまた江奈のお手柄ね。そうか、そうか」

 でも、とナツミは首をひねる。

「でも強行犯をあんな毛玉の怪物に変えて眠らせる薬なんていつ開発されたんだろう。それに眠らせるだけで十分でしょ? なぜ毛むくじゃらにする必要があるのかしら?」

 そう考えながらスコープをのぞいていたナツミだが、あることに気づいて苦笑した。

「やだ。ちょっと待ってよ。あいつらって、なんだかアレに似ていない? いえ、似てるなんてものじゃない、アレそのものじゃないの」

 ナツミは思わず、ププッとふきだしてしまった。

「だってえ、あいつらったらまるで、満腹になって牧場に寝そべっているサピエスそのものじゃないのよ」

 しかしそれはさっきまで人間の姿をしていたものだ。

 そう思い出したとき、ナツミは急に笑えなくなってしまった。

「変身……」

 ナツミはふと手にした携帯を見ると、その鏡面仕立ての表面には見慣れぬ大きな自分の牙が映し出されていた。



     ♯ 19


 江奈邸の地下室で、柴咲アカリは棺を前にして立っていた。

(江奈先生の奥さんの棺……)

 江奈裕一郎の今は亡き妻クリスティーヌ夫人の棺を前にしてアカリは恥ずかしい思いでいっぱいだった。

 すでに夜半をまわっていた。

(ここは暗いな)

 自分の思い出のために江奈が造ったこの秘密部屋は常に照明が控えめになっている。そのほうが思い出が鮮明になると、いつも江奈は言っていた。

(だからよかった。もし暗くなかったら、恥ずかしいもの)

 アカリは恥ずかしさに自分の顔が赤くほてっていることを自分でもよくわかっていた。それをみんなの目から少しでも隠してくれるこの暗さがアカリにとって唯一の救いだった。

 今のアカリは何もかもが恥ずかしかった。

 思いきって顔をあげ、アカリはここに集まった面々をながめてみた。

 その誰もが、幸いなことに自分を見ていないことを知ってアカリはほっと一息ついた。

 みんなは先ほどから江奈が語っているきのうの説明を夢中になって聞いているのだ。

「というわけで、僕らがPR―Xの連中に面会できなかったのは、あの時すでに彼らの脳内部の事情が分かっていたからなんだね」

 前にこの部屋に来たときはアヤメとふたりきりだった。

 そう思ってアカリは、この地下の秘密の部屋を感慨深げに見渡した。

 あのとき、アヤメとふたりでこの棺を発見した。

 そしてそれがアヤメを深く傷つけることになってしまった。

 ちょうどきのうのPR―X回収事件がボクの心を深く傷つけたように。深く深く、どこまでも深く……。

 江奈の説明がアカリの耳に響いてくる。

「PR―X乗組員の大脳スキャン検査結果にあの医療班リーダーが驚いて面会を中止させたのはそういうわけなんだ。つまり彼らの脳はなぜかドロドロに腐っていて、というよりも脳組織がスポンジ状に変質して中身がスカスカになっていたそうだ。医者の目からみればすでに危篤状態で、そこであわてて出発を取りやめた。もちろん面会なんてとんでもないってわけだ。たしかにその後の彼らの狂気じみた言動もそれで納得がいくよね。全くあれは狂気だった」

 狂気! 

 この言葉がアカリの心に突き刺さる。

(狂気か……。たしかにそうだよ)

 アカリの脳裏には例の三人の顔がくっきりと浮かびあがる。

 その三人の誰もが残忍な目でアカリを見おろしていた。

(あの三人は……ボクがあれほど首を長くして待っていたあの人類生き残りの三人は、どうしようもないほど非人間的だった! 江奈おじさんは大脳異常のせいにしてくれるけどボクにはわかるんだ。あの三人はずっとああいう生き方をしてきたにちがいないんだってことが)

 床をのたうつDIAエージェントの叫び声がアカリの耳をおそう。

 アカリはきつく目を閉じた。

(ボクは昨日まで自分が人間であることを誇りにしてきた。それなのに彼らときたら人類のおそろしくあさましい一面だけをみんなに見せつけて退場してしまった。そしてボクは彼らと同じ〝種〟なんだ。恥ずかしいじゃないか!)

 誰にも悟られないように気をつけながら、アカリは両のこぶしを爪がくいこむほどぎゅうっと握りしめた。

 ふかふかの椅子にすわりながら語っている江奈は、やや後ろにいるアカリのその動きにまるで気づかなかった。

 今日という日に賭ける江奈は当然のごとく和服着用だったが、それも全身けがだらけ包帯だらけギプスだらけでは病院の患者服と印象はそう変わらない。それに柔らかい椅子にどっぷりと身を沈めているので服もまるで目立たない。

 本皮で体の半分が沈みこんでしまいそうなこの大げさなアンティークの椅子は、全身けがだらけの江奈の痛みを少しでも軽減しようして大原料理長が持ち込んだものだ。

 その大原シェフもいつものニコニコ顔をやや抑え気味にして江奈の説明に聞き入っている。

「これはむしろ大原くんに聞いてみたいくらいなんだがね、いくら脳がヘンになっていたからといってあんなに常識はずれの変身をするものなんだろうか?」

 わたしにそんなこと聞いたってお門ちがいですよ、という感じに大原シェフは肩をすくめて両手を広げた。大原はこの地下室でもいつものようにシェフ服を着て、誰かが不意に注文をしてもだいじょうぶなようにスタンバイしていた。

 江奈は、大原の返答にうんうんとうなづきながら説明に戻る。

「あれから警察の人たちに何人も、僕が毒を盛ったんだろうとイヤミまじりに聞かれたけどね、もちろんアヤメの弁当には何も入っていなかった。あふれる愛情の他にはね」

「まあ、おじさまったら……」

 アヤメが両手をほおにあてて顔を赤らめる。

 アヤメはいつものピンク系統を離れて今日はブルーのキャミソール風の装いだ。愛らしいシルエットと清楚な色の組み合わせがシックにきまっている。

「ヒョオ、ヒョオ。ずるいぞ、アヤメ。そんなプランだと知ってたらオレだって寮に残ったのにさ!」

 対するムクゲはなぜか勝負色の赤で統一していた。赤の大胆なへそ出しタンクトップ、グリーンのベルトをはさんだ赤の長短パンツ、赤の編み編みサンダル。まるで結婚式の二次会の乗りだ。

 アヤメと並ぶとふたりの色が互いにとても引き立てあう。

「ち、ちがいます、ムクゲちゃん! みんなが三崎港へ出発してから思いついたんです。ほんとですよ? だから、わたくしは……。もう! おじさまの意地悪!」

 アヤメの顔がますます赤くなるのが見えるので、これだとボクの顔もみんな気がついているんじゃないかとアカリは心配になった。

 江奈は口の両端をクイとあげながらこう言った。

「彼らの変身については専門家も思案中だが、おそらく宇宙線の大量照射が原因だろうという説が有力になりつつある。すでに宇宙空間でPR―Xの乗組員は脳をむしばまれていたのだろうってね。変身してしまったあの三人というか、三頭というか、あれはまだ生きているがそう長くはないだろうという話だよ。大脳が機能しなくなるのも時間の問題らしい」

 そう言ってから江奈はちょっと言葉につまった。

 アカリのことが気になったのだ。

 アカリの最後の仲間の運命を軽々しく口にしてしまったことを反省しながら、江奈は椅子のうしろにいるアカリのほうをふりむこうとした。

「いや、すまない、アカリくん。きみのことを、あわわ! あたたたた! いてえ! あつつつ……くうう」

 身を刺し貫こうかという激痛に江奈は体を貝のように縮めた。

「おじさま! 大丈夫ですか! さ、このお薬をお飲みになって」

 驚くべき素早さでアヤメが江奈の体を支える。

 いったいいつ用意したのか、その手にはちゃんと薬と水の入ったコップが握られている。

 アカリは、はああと大きく吐息をもらしながらその光景に見入った。

(すごいや、アヤメちゃん)

 愛らしい口をへの字に曲げて横目でにらみながら江奈を叱るアヤメを、アカリは真っ直ぐに見つめていた。

(アヤメちゃん……いつも気が利いて、優しい瞳に笑みを絶やさない女の子……)

「無理だろ江奈おやじ! 夜中に病院抜け出してきてこんなことしようなんて! だいたいオレたち二人を足にぶら下げておいてだね、飛べるわけねーだろっつうの!」

 うちわで江奈の頭をペシペシたたきながらムクゲが叱る。

「そうよ、無茶しすぎましたね。それと松葉杖に包帯で片手吊してまで和服を着るなんて似合わないし。わかってます? 今頃きっと病院は大騒ぎだし、ほんとにもう」

 理詰めで江奈を責めるのはマクラだった。マクラはぐっと落ち着いた白のパーティードレスで場をしめていた。

 アカリはこのふたりのことを限りない親しみをこめてながめるのだった。

(ああ、ムクゲちゃんとマクラちゃん。ちょっと口は悪いかもしれないけれどほんとはあったかい心の持ち主、アヤメちゃんのかけがえのない親友……)

 三人の美少女によってたかって叱られた江奈はクスクス笑いながら片手で頭をかばいながら答えた。

「大丈夫だって。これが終わったらすぐ病院に戻るし、それまではあの替え玉でばれっこない。本日最後の院内回診も終わったんだ。里見総監も家へ帰ったからばれやしないよ。それにアカリくんによれば満月の夜という条件なんだから今夜をのがしたらだいぶ待たなきゃならん。聞いただろ? 全治六か月だよ、六か月。いったん病院に戻ったら監視が厳重になるだろうからもう抜けられないかもしれないじゃないか」

「それ理屈になってると思ってんの? オレ、あっきれた。みんな江奈おやじの自業自得だろ?」

 ムクゲが追撃する。

「その代わりきみらも立ち会わせてあげたじゃないか。今夜は絶対来たいって言うから」

「そのことは本当に感謝していますわ、おじさま。まさかお許しいただけるとは思いませんでしたもの」

「だけどなあ。だからってオレたちのほかにさあ、なんで委員長やあの子まで呼ぶかなあ?」

 それまで人の輪から一歩ひいて立っていた中村エリカが、前に一歩すすみ出て言った。

「あら、来ちゃいけない?」

 エリカだけアルカディア学園のジャケッツ制服でやってきたのをムクゲに「さすが委員長」とさんざんからかわれてからずっと後ろのほうでいじけ気味に場の成り行きをうかがっていた。

「中村家だって今回の偽サピエス革命テロ未遂事件に深くかかわっているんですからね、権利あるはずよ」 

 霧島冴子はあいかわらず一歩さがった位置のまま、腕組みしながらぼそっと言う。

「冴子は、ぜひ来て欲しいって無理に頼まれたから……」

 実は今夜いちばん目だっていたのはこの冴子だった。

 頭の上におだんごふたつに結った髪、やや大人びたモスグリーンのワンピース、白いサンダル、そしてほんのり施された化粧。これらは江奈の家にあったあり合わせのものだったが、そこには吸血娘の面影はみじんもなく、いかにも学識者の家の令嬢という雰囲気をかもしだして参会した今夜のメンバーを驚かせたばかりだ。

 それはアカリにも強い印象を与えていた。

(中村さんに冴子さん)

 ムクゲとにらみあっているふたりの横顔を見てアカリは思う。

(二人とも自分が望まぬまま思わぬ事態に巻き込まれてしまった、もともとは平凡な少女たち。だがその異常事態の根底にはボクという存在があるんだ。中村さんは今でもあの夜のボクがボクじゃなくて江奈先生だってことを知らないし……)

 中村エリカはふとアカリの視線に気づいたのか、さっとアカリをふりかえるとニコリと笑った。

 しかしアカリはどういう表情を返せばいいのかわからず目をそらす。すると霧島冴子の姿が目に映った。

(特に冴子さんの家族はボクのせいでとんでもないことになってしまった。もしもボクが氷から出てこなかったら、きっとまだ今頃は普通の女子高生でいられたはず。。それなのに、なんとか自分を取り戻そうと必死だった冴子さんをボクは吸血娘なんて呼んだりして)

 ここの仲間にも溶け込めず、壁に背をもたれてひとりさびしげに立つ冴子を見て、アカリはいたたまれない気持ちがまた高ぶる。

(ああ、ここにいる人達は皆それぞれ立派な人たちじゃないか!

 それに比べてPR―Xのあの三人はなんだ! そしてボクは? 

 こんなことならいっそ氷の中へ戻ってしまいたいよ。ボクなんか氷づけの状態でどこかへ埋もれちゃえばいいんだ。氷づけ願望〝コールド・デザイアー、か。フフ……笑えないや……)

「わかったよ。ま、このふたりがいたってオレべつにどうでもいいけどさ。だいたい江奈オヤジっていっつもオレに相談なしで何でも決めちまうから疲れるんだよ! あのときだって急に足につかまれ、飛ぶぞ! ときたもんだ。中年男が乙女の前でいきなり服の前はだけてナマ足さらしてここにつかまれ、なんて犯罪だよ? 普通の場合」

「まあ、ムクゲちゃん。おじさまはそんなふうに言いましたの? おじさま……」

「ちがうだろ! いててて」

「まああ、ハレンチ! 如月さん! 江奈さん! あなたたち何やってたの?」

「だから中村さん、ちがうって。口笛ふくなよ、ムクゲちゃん。きみだってよく知ってるだろう。連中は問答無用のやからだったでしょ?」

「あ、そうだ。結局あいつら誰だったの? オレ気になっちゃってさ。おかげでダイエット中なの忘れて食べすぎちゃって、大被害なんだよ?」

「うん。病院のトレーラーをのっとって勝手に発進させたのはやはり中国の工作員だったよ。出発延期と聞きつけて急ぎ行動したんだろうが、ああも残忍に任務を遂行するとは僕も驚いてる。お互いに命拾いしたよね」

「ていうか、はっきし言って江奈おやじの足につかまってるときがオレ一番びびったよ」

「でも着地はまずまずだったろう?」

「飛んだ本人が骨折でまずまずって言えんのかなあ」

「ともかくね、あいつらのことは日本政府が外交ルートで中国を追及しているがおそらく無駄だろうな。使用した銃器も日本製で何一つ物証を残してないから。そいでね、その後にもう一組あの車を襲ったグループがいたんだって」

 ムクゲがあわてて身をのりだした。

「そうそう! アカリくんがそんなこと言ってた! でも、あんまり詳しく話してくれないから……」

 そう言ってチラリとアカリを見たムクゲのさみしそうな瞳には万感の想いがこめられていた。

「こちらはアメリカ国防総省直属の情報機関の一団さ。里見さんの話では、あっと言う間に中国工作員を始末したらしいよ。で、こちらは物的証拠をたくさん残しているんだがこれも追及は無理だろう。なにしろ相手はアメリカ政府だから政府与党は最初から及び腰もいいとこさ」

「でも、おじさま? なぜそのようなことをしたのです?」

「アカリくんの話ではPR―Xの乗組員たちを奪取するのが目的だったようだね」

「だからさあ! なんであいつらが欲しいわけ? おかげでオレたち死にかけたんだよ?あいつらそんな大事なの?」

「ムクゲちゃんの怒りもごもっともだが僕にも理由はわからないよ。ただ両国政府の上層部が決めた案件だからきっと深遠な言い分があるんだろうがね。これはもう政治領域だからいっさいがっさい不透明だ。それにもうひとつわからんのが、両組織ともPR―Xの乗組員といっしょにアカリくんまでさらおうとしたことだ」

「まあ怖い! いやだわ。ほんとに無事でよかった、アカリさん!」

 アヤメは体当たりの勢いでアカリの胸に飛び込もうとしたが、寸前で思いとどまり、アカリの前で小さな肩を震わせていた。

(ああ、そんなに涙ぐまないでアヤメちゃん。ボクにはそんなふうにしてもらえる資格なんてないんだよ……)

 いつまでたってもアカリの腕が伸びてこないので、うつむいたアヤメは少しずつ江奈のほうに体の向きをかえていった。

 それを見届けた江奈が続ける。

「ところがね、そこへ番狂わせが起きた。PR―Xの乗組員がアメリカ情報局員を殲滅させたんだ。彼らが囚人だという推測はどうやら当たってたみたいだね。それも間違いなく死刑囚だろう」

「そうか、それであいつらオレたちが着いた時に大ケガしてたのか。アメリカ情報部と相討ち状態だね」

 江奈はぐっと言葉に詰まったようすでアカリのほうへ目配せを走らせた。

 それをムクゲが不機嫌さいっぱいの顔でにらんでいる。

 アカリのほうを向いたまま江奈が言う。

「んー、それについてはまあそういう公式見解なんだが。な、アカリくん? ちょっと裏があるんだよな?」

 アカリは、はっと我に返り、あわてて両手をふって江奈の言葉を空中でかき消そうともがいた。

「あ、江奈先生! それは黙ってる約束で」

 江奈は身をかがめて苦しい姿勢までとって片手を伸ばし、その手でアカリの手を取った。

 それまでの弾んだ説明口調とはちがう、しっとりと落ち着いた話し方で江奈は言う。

「アカリくん、彼女との約束を破ることについては僕が責任を負うよ。でもね、ここに集まってくれた人たちをボクは全面的に信じたいんだよ。だからこちらも大事の前に隠し事はいやなんだ。どうだろうアカリくん、話してもいいだろうか?」

 江奈の手はかなり熱かった。やはり傷ついた体はかなり熱をもっているんだろうと、いまさらながらアカリは気づく。

(人を信じる、か……)

 アカリは江奈の目を見ていた。

(やはり気高い心の持ち主なんだなあ、江奈おじさんは。なのにボクはこの人を疑ってたりして……)

「アカリくんだって僕を信じてこのことを打ち明けてくれたんじゃないか」

(そんな……。ぼくが江奈さんにしゃべったのはただ心が弱いから……)

 コクリとアカリがうなづいたので江奈は話し始めた。

「じつをいうとPR―Xの乗組員に大けがを負わせたのは牙

ファング

だ」

 ちょっと待った、とばかりに中村エリカがずずいと江奈の前へ出てきた。

「ファングって、まさかあの夜にわたしの家へ来た、あの婦警?」

「そうです中村さん。警察庁テロ対策課きっての腕利き・加賀谷ナツミその人だ。ひとりでトレーラー内に突入して制圧したんだが、その詳しい状況は省かせてもらうよ。変則的なやり方だったし、その後また彼女はどこかへ雲隠れして正式な報告もしていないそうだから。今はただこの一件をアカリくんから聞いて僕は更に意を強くしたとだけ言っておきたい」

「なんだい、省略なんかして。もったいぶるなよ、江奈おやじ。オレの前ではすね毛だらけのナマ足も省略しなかったじゃん」

「しつこいな、ムクゲちゃんも! そりゃあ、もったいぶりたくもなるさ。いよいよ僕の話のヤマ場なんだから」

 江奈はアカリの手を離し、すっと背を伸ばしてフォーマルな姿勢をとった。

 来るべきアナウンスを予感して一同に軽い緊張が走る。

「えー、本日ここにお集まりいただいた諸君、僕の結論はこうだ!」

 みな聞き耳をたてている。

 その様子をアカリだけが客観的にながめていた。

 それはアカリの心が冷めていたからではない。

 むしろその逆で、アカリの胸には感動の波が到来しつつあったのだ。

(見ろよ、アカリ。みんな江奈さんの顔を見つめている。よく見たのか、アカリ! みんなの瞳を! こんなにも純粋に輝いているだろう!)

「昨日回収したPR―Xの乗組員は我々とは別の人類であり、しかも体の構造はきわめてアカリくんに近い。これで僕は確信した。やはりアカリくんが唱える彼の〝元の世界〟は実在したんだ。だから吸血鬼なる存在も現実のものだ」

 ハアアー、と誰かが緊張した息をもらす。

 いや、おそらくその場にいた全員が同じ吐息でこの部屋を感嘆一色に染め上げたのだ。

(ほら、誰も異を唱えない)

 アカリは自分に言い聞かせる。

(一般的には信じがたいこの結論をあえて受け入れ、江奈おじさんの高揚した魂に自分たちの魂を共鳴させようとしている。なんて柔軟で疑いのない魂を持つ人々なんだ!)

「そしてアヤメ、それに冴子さん。きみらの苦い体験はこの確信を裏がきするものなんだ。そしておそらくは昨日あのトレーラーで僕自身がとった行動もそうなのかもしれない。我々の体には未知の血が流れている。それはいわゆる『吸血鬼の血』だ。もしそうならば、アカリくんの世界の知識が教えるとおり妻は、クリスティーヌは、復活できる。吸血鬼一族の計り知れない神秘の力によって!」

(この人たちは吸血鬼。そう呼んでボクら人類が蔑んできたものだ)

 アカリの胸の鼓動が高鳴っていく。

(今までボクが吸血鬼と呼んでいたこの一族の人々と、あのPR―Xの連中とではどちらが「人間的」なのだろう? ああ! そんなこと考えるまでもないじゃないか! 江奈さんやアヤメちゃんやムクゲちゃんのほうがあんな囚人たちより十倍も百倍も千倍も人間らしいだろう! だったら、アカリ! 江奈おじさんの奥さんが復活することのどこが悪いっていうんだ? この一族の中でもとりわけ優れた存在である江奈おじさんが命をかけて愛してる人なんだぞ?)

 アカリは人知れず握りしめたこぶしをわなわなと震わせていた。

(よおし、決めたぞ! 勇気をもて、アカリ! 今ボクは誓う、誓うぞ。全身全霊をこめて江奈先生のお手伝いをするっ!)

「やりましょう、先生!」

 アカリはほとんど叫んでいた。

「ぜひボクに協力させてください、お願いします!」

 あまりにも唐突タイミングなアカリの大声に一同はあっけにとられた。

「ど、どうしたアカリくん? さっきからずっと元気がないなと思ってたのに?」

 心配するように江奈がたずねる。

 けが人に心配されてますます恥ずかしくなったアカリは顔を赤くしながら宣言した。

「そんなことありません。ボク元気百倍ですよ! もう何でも来いです!」

「おお、そうか!」

 江奈の顔に輝くような笑顔が広がった。

 唇の端をクイとあげるだけでなく顔全体で喜びをあらわすことは江奈にとってほんとうに珍しいことだった。

「アカリくん、ありがとう。頼むよ、今夜はきみが頼りなんだ」

 盛り上がる師弟をアヤメたちがあまり面白くなさそうにながめていた。

 師弟間のキラキラ目線のエール交換がいつまでたってもやみそうにないと判断したムクゲが苦味をこめて言った。

「ねえ、江奈おやじィ。やるならさっさとやろうぜ、『復活の儀式』。オレたちも何かやらされるって言ったろ? ほんとはそれでオレたちを呼んだくせに。みえみえだぜ」

 あ、という顔をして江奈がふりかえった。

 包帯だらけの右手がぼりぼりと頭をかきだした。

「いや、そう言われるとやりづらくなるなあ。うん、実はねえ……えーと、何から説明するかなあ……」

 アカリが前に立ち、言った。

「先生、ボクから説明しましょう。いいですか?」

 その立ち姿があまりにも毅然としたものだったのでアヤメとムクゲの瞳がいっぺんにハートマークで埋め尽くされる。

「アカリくん……。そうか、そうか。うん、頼むよ」

 江奈が嬉しそうに言った。

 その江奈に肩越しにうなづきながらアカリは思う。

(ボクはせめて今夜の仕事だけでも立派にやりとげたい。PR―X乗組員のあの所業を見た世間にはボクら人間への尊敬なんてもう絶対に生まれっこないけど、ボクだけでもちゃんとやるんだ。PR―Xなんてもう知るもんか。この仕事に集中するんだ。江奈祐一郎の助手として恥じないように!)

「僕のいた世界の伝説ではこうです」

 一同に向かってアカリが話し始めた。

 思えば初めての講師らしい話しっぷりだ。

 できれば今夜はそうなればいいのだけれどとアカリはひそかに自分に期待していて、いつもより落ち着いた青のポロシャツの皮のベストをはおり、ベージュのスラックスに茶の革靴という服装で臨んでいた。

 その講師風いでたちにふさわしい口調でアカリは言った。

「伝説によれば、吸血鬼が復活するために必要なのは満月の夜と、なによりもうら若き処女の生き血」

 ここでアヤメが跳びあがった。 

「ア、アカリさん、まさかわたくしたちの血を抜くのでは!」

 アヤメの顔色が瞬時にしてその可愛らしいキャミソール風の服と同じくらいブルーになった。

 アカリはあわてて手をふりながら補足する。

「あ、ごめんごめん。ちょっと怖く言い過ぎちゃった? 復活を望む吸血鬼の唇にほんの数滴だけ処女の血をたらすだけってことなんだけど」

 ちょっぴり涙目モードのアヤメの肩をひょいとつかんで前に出てきたムクゲも口をとんがらせて言った。

「それでも十分こえーよ。アカリくんも涼しい顔してけっこうエグいこと言うなあ。オレまいったよ」

 そのムクゲの肩をクイとつかみかえして後ろへ引くと、アヤメがふたたび前に出てきて聞いた。

「あの、アカリさん? では一、二滴でよろしいんですの? でもどうやって?」

 そこで江奈が口をはさんだ。

「アヤメ、それは心配しなくていい。この大原料理長がやってくれる」

 またまたムクゲが最前線におどりでて抗議した。

「ますます怖えーだろ! 心配だよ江奈おやじ! コックさんなんか出してオレたちを料理するつもり?」

(大原さん! そうだ、この人こそ忘れてはいけない)

  江奈の後ろで控えめに立ちながらもニコニコ顔を絶やさない大原シェフのことを、アカリはしみじみと見つめた。

(大原料理長。ぼくの好みに合わせて慣れない肉料理にも取り組んでくれるやさしいおじさん。いや、慣れないなんてもんじゃないよね? 肉を食べるなんて言ったら、この世界ではたちまち人食い鬼あつかいだもん。それなのに大原さんは、最初からいやな顔ひとつボクに見せなかったじゃないか。それだけでもこの人が大人物だってわかるじゃないか。そんなことすら今まで気づかず……)

 アカリはあらためて自分の周囲を見渡してみた。

 みんなはそんなアカリを見て、きっと次の方針演説を練っているんだなと期待をこめたまなざしをアカリに返し、さらなる言葉を待った。

 しかしアカリはまるでちがう感慨にふけっている。

(ああ、こんなにすばらしい人ばかりに囲まれている自分の幸運を、ボクはどうして今日まで自覚できなかったんだろう? こんなに人間味あふれた人たちといられるこの毎日の幸運を……)

 アカリはぐいと自分の視線に力をこめた。

(そしていよいよ今夜この場所で、またひとり素晴らしい人が加わるんだ。江奈さんの最愛の奥さんが。クリスティーヌさんが!)

 その成否が自分の肩にかかっているかと思うと、アカリはつい次の言葉につまってしまった。

 アカリの緊張を察したのか、江奈がさきほどの自分の言葉を継いで言った。

「ムクゲちゃんも知っとくと安心だと思うけど、大原料理長は看護士の資格も持ってるんだよ。採血だって専門家なみさ。もちろん料理は調理師免許皆伝だけどね」

 ムクゲは半開きの薄目で斜ににらんで江奈に言い返す。

「ふん。そんな安っぽいおためごかしのオンパレードでごまかして、やっぱオレらから血を抜きとるつもりだな?」

 江奈は苦笑する。

「抜きとるだなんて、耳たぶからほんのちょっぴりだよ。学校の血液型検査でやったろう?」

 ノンノンノン、とムクゲの人差し指がメトロノームのように宙を行き来する。

「なーに言ってんだか。今どきの血液検査で耳たぶからなんて取らないよ。腕の静脈からでしょう! まったくおやじ世代なんだから、ふんとにもう」

 はいはい、となだめるようにうなづいた江奈が頭をさげる。

「わかったわかった。な、ほんの少しでいいんだよ。協力してくれるかい。すまん」

 頭を下げる江奈の動作がいつまでも止まらないので、すこしあせってムクゲが怒鳴る。

「そ、そんなペコペコすんなよ! あんた名探偵なんだから! それに命の恩人なんだし……」

 え? と江奈が頭をあげるとムクゲの顔がちょっぴり赤くなっているようだった。

「ずるいよ、このオヤジ! けが人に頭下げられたらイヤって言えないじゃん。あーあ、こんなレッドできめてくんじゃなかったよ。赤から赤を抜き取る、なんてオヤジギャグだろうが!」

 すでにそでなしタンクトップなのに、ムクゲはわざわざそでをまくる真似をして大原シェフに腕を突き出した。

「あ、そうだった。あのさ、オレB型だけどいいの? え、血液型は無関係? ふーん、じゃやっぱこっちの腕から採ってよね。うわっ! なんですぐさま注射器が出てくる? コックさん、手際がよすぎ! い、痛くしないでよ? あちっ!って、おいおいみんな、尊い犠牲者をほったらかしてみんな何やってんだよ! オレを無視かよ!」

 採血後の消毒ばんそうこうを貼ってもらっているムクゲを見ているものは誰もいなかったのでムクゲはおおむくれした。

「しぃー、ムクゲちゃん。おじさまがいよいよ始めますわ」

 アヤメの言うとおり、江奈はいかにも痛そうに松葉杖をつきながら妻の秘密の棺へ近づいていた。

 アカリとマクラが肩をかそうとしたが、江奈は無言のにっこり顔で、しかしどこかきびしさも感じさせる目つきでそれを断り、独力で棺まで歩いていこうとしていた。

 みなの視線はその江奈の姿に吸い寄せられていたのだ。

(江奈のおじさんが棺に手をかけるぞ。でも、さすがに緊張の色はかくせないな)

 そう思いつつも、実はアカリのほうがビビリまくっていた。

 もうすぐ自分の出番なのだ。

 棺についた江奈は松葉杖をかたわらに置き、ふうと一息ついてから言った。

「本当にこの日が来たんだなクリス……」

 そして顔だけ一同にふりかえって江奈は言った。

「これからこのふたを開けるけど、みんな怖がらないで。けっしておぞましいものなど見せはしないから。それだけは約束するよ。じゃあ、いいかい?」

 棺には何か油圧式装置のようなものが仕掛けてあるらしく、ふたは江奈の親指一本でゆるやかに開いていく。

 アカリの指先には、あの夜に一度だけ触れたその棺の質感が生々しくよみがえっていた。

 ふたは完全に開いた。

「まあ……」

 アヤメが大きく息を吸い込みながら言った。

 棺の中は十分な明るさで光り輝いており、その光線が下からアヤメたちの顔をステージのフットライトのように照らし出している。実はこれこそ部屋の照明が暗くしてある理由なのだが、この江奈のメロドラマっぽい演出に思いをはせる余裕のあるものは今この場ではいなかった。

「うひゃあー、綺麗! オレがむかし持っていた白雪姫の絵本みたい!」

 ムクゲまでが無邪気にそう叫んだ。

みながのぞきこむと、そこには美しい花と宝石に包まれてひっそりと両手に胸をあてた美女の姿があった。目は穏やかに閉じられている。

だがそれは、誰の目にもまるで眠っているようにしか見えなかった。耳をすませば寝息だって聞こえてきそうだ。そう誰もが同じ感想を抱くのだった。

それはどこまでも平和な光景。

その美しい顔をのぞき込む女の子たちの表情もまたうっとりとしたものに変わっていった。

一同がおだやかに妻の姿を受け入れてくれたことを体感した江奈は、あらためて永遠の恋人に見入った。

「クリスティーヌ、今日はみんなが来てくれたよ。アヤメもいるんだ。さ、アヤメ。クリスを覚えているだろう?」

 江奈の問いかけにふりむきもせず、キャミソールからのぞく豊満な胸の谷間をそっと隠すように片手でおさえながらおばの姿を見つめるアヤメが言う。

「おばさま……。ええ……ええ、おぼえていますとも! 昔のままだわ。お顔の色だって素晴らしいし!」

 ここでアヤメは両手で自分の口をふさぎ、肩をすくめて江奈のほうを向いた。

「ご、ごめんなさい、おじさま。顔色がいいだなんて言ったりして。あの、でも、わたくし、てっきりその、もっと青ざめているものかと」

 申し訳なさに震えたアヤメの両足のヒールのかかとが、カチカチカチとフラメンコのようなリズムを地下室の壁に響かせる。

 江奈は目を閉じてうなづいている。

「いや、いいんだよ。告白するがこの顔色は化粧だ。でもね、それ以外は自然のままなんだよ。ほんとなんだ。僕がしたのは棺内を常時適温適湿の状態に保つよう工夫しただけであとは何もしていない。それなのにクリスは今なおこうして若々しい。信じられないがクリスは変わっていない。その美が突然の死によってまるで瞬間凍結されてしまったみたいにそのままそこに保存されている。凍

てつきし我が喜びの源泉、我が命のみなもとよ。マイ・コールド・デザイアー……」

「えっ! なんですって?」

 ついアカリは叫んでしまった。

(コールド・デザイアー! これはついさっきボクがやけになって思いついた言葉じゃないか。どうして江奈おじさんが?)

 その暗合があまりにも不思議だったのでアカリは思わず大声を出してしまったのだ。

「ああ、これはなんでもないよ、アカリくん。前にクリスの棺に詩でも彫ろうかと思ってね、そんとき作った詩の一節なんだ。〝マイ・コールド・デザイアー、凍てつきし我が熱き願い〟。題名さ」

 ムクゲが急に落ち着かないようすで棺の外面をキョロキョロと見始めた。

「へえ、いよいよロマンじゃないの。どこどこ? どこに彫ったの? 英語の詩? オレ読んでみたいな」

「けっきょく途中で投げ出しちまった。だから彫ってない。探してもむだだよムクゲちゃん」

「なーんだ」

 いつもながら気まぐれすぎるぜ、江奈オヤジ。そう言いかけたムクゲだが、奥さんの前での遠慮が彼女の口を親切に閉じた。

(びっくりした。でも、やはり偶然か)

 コールド・デザイアーという言葉の暗合も単なる偶然とわかり、アカリはへんにほっとしていた。

(だけど、同じ言葉なのに江奈おじさんはずっと高尚に使うんだな……。でもこんだけ差を見せつけられるとかえってサッパリする。そうだよ、もういじけてるときなんかじゃないんだよ)

 何かを言いたげに口をもごもごさせているムクゲにむかって江奈は言った。

「けれどもムクゲちゃんの大協力のおかげで、今夜いよいよマイ・コールド・デザイアーも解凍されるときが来たよ。ありがとうムクゲちゃん」

「いやあ、面と向かって言われると照れちゃうね。テヘヘ」

 棺から手を離した江奈は人知れず、うんと小さく気合を入れてから言った。

「ではアカリくん、さっそくだが頼めるかな。これからどうすればいい?」

(これからどうするって!)

 江奈がとうとう舵取りを自分に任せたのを知ってアカリの不安と緊張は頂点に達した。

(ああ! みなの視線がボクに集中照射しているよ? こんなに注目されちゃっていいのかな? だってボクの知識といってもそれは伝説にすぎないのに)

 頭をフルフルと激しくふって、弱気なアカリは思い直す。

(だけどアカリ、おまえは今なんとか江奈おじさんの役に立ちたいんだろう? もうそんな弱音はく段階じゃないんだよ! 頑張れ!)

「大原さん、います?」

 落ち着いた声をよそおったアカリは大原シェフを探した。

 いよいよ処女の生き血の出番だ。

「あの、ムクゲちゃんの血は? あ、いや、ムクゲちゃんから採血したサンプルは?」

 またもやダイレクトに表現しすぎてムクゲを怒らせたんじゃないかと気遣って言い直したアカリがふりかえると、ムクゲはヘラヘラと喜んで、それどころか周囲に対してどこか威張ったようにふるまっていた。

 それなりに安心したアカリのもとに大原シェフがやってきて、小ぶりな容器をアカリに渡した。そのニコニコ笑顔がアカリを勇気づけてくれる。

「わあ、綺麗な小瓶に入れたんですね。ヒスイ? あ、そうですか。では先生、いいですか? 今からこのムクゲちゃんの血を奥様の唇にたらします」

 とまどったように江奈が聞き返す。

「そりゃいいが、なんというか、呪文とかお祈りみたいなものは別に必要ないのかな?」

 アカリなりに想定した範囲内の質問だったので、すみやかにアカリは返答する。

「黒ミサは行いません。ぼくなりに考えたんですけど、江奈先生はれっきとしたキリスト教徒だし、ほら、あそこの十字架。隣の礼拝堂ほどではないにせよ、この部屋にも立派な十字架もかかっているでしょう?」

 ヒスイの小瓶でアカリが指し示した方角をみんなが見た。

 部屋の入り口から一番遠い奥のすみには天井に明り取りの小さな丸窓がきってあるのだが、そのちょうど真下の位置に古びた十字架があった。

 それは江奈夫妻が結婚式をあげた南フランスの田舎の教会にあった十字架を模して造られた特製の十字架だった。素朴な木製でかなり小さめのものだったが、その古拙なデザインを江奈は深く愛していたのだ。

 十字架のまわりだけがコンクリートではなくしっくいのような壁になっていて、十字架はその壁に埋め込まれていた。

「それにみんなの中にも信者がいるかもしれないし、このボクだってまあ一応は信者なんで、やはり逆祈祷は似つかわしくないと思うんです。だって先生の奥さんが復活するのは決して暗黒儀式なんかじゃない。こんなに綺麗な人だもん」

「ありがとうアカリくん……」

 江奈は胸に手をあてて小さくつぶやいたが、アカリはそれに気づかず続けた。

「だいいち黒ミサを唱える資格みたいなもんもボクにはないし、呪文はやめましょうよ、先生」

 今度ははっきりと聞こえるように江奈が答える。

「わかった。アカリくんに一任してあるんだ。頼む」

「それよりも先生、奥さんに随時話しかけてください。呪文なんかよりよほど効果的に目覚めると思います」

「うん、そうしよう。えーと、どう話せばいいのかな? さ、クリス。また目をあけておくれ。こんな感じかな?」

 江奈は言葉を止めてしまい、頭をぼりぼりかきだした。

「でもなんか、みんなの目の前でこんな事をやってる自分が妙に現実離れしてるように思えてきちゃったよ、ハハ」

「ちょっとお!」

 江奈のまん前にムクゲが立った。

「しっかりしなよ、江奈おやじ! 照れてる場合じゃねぇよ。やっと念願かなうんだろ? 頼んだ本人がそれじゃ一所懸命やってるアカリくんがバカみたいじゃん」

「す、すまん。どうも緊張しすぎて逃げ出したいような気になってしまってね。もし何も起きなかったらどうしようかって」

 ムクゲにあきれられながらも照れ笑いの止まらない江奈を見て、アカリはこう感じていた。

(なんて素直な人なんだろう。世間の犯罪者がその名を聞いただけでふるえあがるというすごい人なのに偉ぶったとこなんて少しもなくて……。よーし絶対にがんばるぞ! 今はボクも伝説を信じるんだ!)

「ではいきます。奥様の唇に血をたらします」

 整然としたアカリの言葉に場の空気が緊張した。

 固唾をのんで江奈たちが見守るなか、ヒスイの小瓶の口がムクゲの血を一滴また一滴と正確に区切って落下させる。さすがは大原さんが用意してくれた道具だな、とアカリは意を強くする。

 すでにルージュを引いた江奈の亡妻クリスティーヌの唇の上に、鮮血の赤が異なる色彩を加えていく。

(あ、冴子さんが目をそむけた?)

 ちょうどアカリのむこう正面にいた冴子の神経質な動きがアカリの視界に入った。

(む、無理もない。この唇の赤は今まで見たこともないほどに赤い。まったくなんという赤さだ! まるで溶岩のマグマが煮えたぎっているというか、いや違う、とてつもない怒りの色というか、いやそうじゃない、ともかくこの赤さは異常だ!)

 手が震えださないようにアカリは精一杯の自制心を発動していた。

「おおっ? クリスのまぶたが動いてる! み、見たかい!」

「はい、おじさま! わたくしも見ました!」

 一同がざわついた。

(動いたぞ! どうだ、部屋にこだまするみんなのこのどよめきは!)

 アカリの心は躍った。

「お、おい。どうしたんだ、もう動かないぞ。クリス! 起きてくれ! そこでやめてしまってはだめだ! クリス、聞こえるか、僕だ、祐一郎だよ! クリス! だ、だめだ。反応がない」

 江奈が叫んだ。

(動きが止まってしまった? ばかな! ここまできたのに!)

 アカリがヒスイの小瓶を目の前にかざして分量を確かめる。

「まってください、先生! もう一度!」

(あせるな! 血はまだかなりある。指先に集中して一滴ずつ血をたらすんだ。そうだ、その調子で。あれ? くそっ、効果がない。ああっ、血が唇の上でたまりはじめている) 

 その血だまりからあふれた赤い一筋がツーッとクリスティーヌのほおを伝っていく。

「血が吸われてない……」

 江奈がポツリと言った。

(だめなのか? いや、おちつけアカリ、おちつくんだ。そうだ! 血液を変えて続けてみれば? まだ何人も候補者はいるじゃないか。確かにさっきは少し動いたんだ。まるっきしの失敗というにはまだ早いぞ!)

 アカリはまわりを見回した。

 するとそれを待っていたかのような目つきのアヤメと目が合った。

「あの、アカリさん。わたくしの血ではいけないでしょうか? わたくしのでよかったら」

「そうだね、アヤメちゃん。いま頼もうかって思ってたところなんだ」

 そこへムクゲが割って入った。どういうわけか険しい顔をしている。

「ちょ、ちょっと待った。それってどういうことよ。まさかオレの純潔を疑ってくれちゃってるわけ? 見てなかったの? まぶたがちゃんとピクピクって動いてたじゃない。もっとオレので続けてよ。ほら、うんと採っていいから!」

「そうじゃないんですムクゲちゃん。わたくしこの部屋で変なことになったでしょう? だからこの場合はなんとなくわたくしの方がいいかなって」

「もっとオレのでやって!」

(まずいな、この雰囲気は)

 アカリは江奈を見た。

(ああ、どうしよう? 江奈おじさんが奥さんの髪の毛に手をやってじっと顔を見つめている。失望の色がありありだ。ボクは江奈先生の期待にこたえられない!)

 ヒスイの小瓶をぎゅっと握りしめ、アカリは歯をくいしばった。

「ねえ、きっとこういう事じゃないかしら?」

 聞きなれない声にアカリは左右を見渡した。

「ちょっと、柴咲アカリ」

 それは霧島冴子だった。

「え、冴子さん? う、うん、なに?」

「処女の血ってヴァージンブラッドってことよね」

 おだんごヘアをクールにかしげながら冴子が言う。

「あ、まあ、そうだけど?」

「わたしね、クリスさんのまぶたが動くのを見たとき〝波〟を感じたのよ。ザザザーッと記憶の波が体の中を奥から突き上げるように走り抜けてね、祖先の思い出が生々しく迫ってきたの」

 江奈が頭をあげてこちらの会話に注意を向けたのをアカリは見た。

 江奈が余裕のない声で言った。

「それで? 冴子さん、頼む、続けてくれ。クリスを見て何を思い出した?」

 ワンピースのすそをひるがえし冴子が江奈のほうへふりむく。

 その仕草がとても大人びて見える。

「言葉じゃないんだ。映像っていうか、忘れかけてた自分のちっちゃい時の思い出をふと思い出す感じっていうかな。つまり血の味なんだけど」

「血の、味?」

 江奈とアカリが同時に聞いた。

「ふん、血液アレルギーのわたしが血の味なんて言うのも変な話だけど、思い出したのはそれなんだから仕方ないよね。それも男の血の味なのさ」

 アカリが眉間にしわを寄せまくって冴子に聞く。

「男の? ええっ? そんな違い、わかるの?」

「そうつっかからないでよアカリ。心がそう感じてしまうってことなんだ。でさ、わたし思うんだけどね、アカリ」

「う、うん」

「この儀式に関するあんたの知識って男のほうを起こすやつなんじゃないの?」

 この一言はアカリの頭を光の棒で打った。

(そ、そうか! ボクの頭の中にあった伝説のイメージはもちろんあのドラキュラ伯爵、つまり男だ!)

「だとしたら女のほうを起こすには男の血、ヴァージンの男の子の血じゃないかな?」

(とすると! え? ちょっと待てよ。ここで男っていったらボクと江奈さんと大原さん、だけ? でもって、えーと)

 全員がアカリを見ていた。

(あの、ちょっと。なに見てるのかな、みんな? どうしてアヤメちゃんはボクの耳たぶを、ムクゲちゃんはボクの腕の静脈を見つめているのかな? どうして大原さんは注射器片手にボクのほうへ近づいてきているのかな、ハハ……)

 江奈が最後通告をする。

「悪いがアカリくん、この場合適合者は君しかいないんだ。それともまさか君?」

「な、なに言ってんです先生! ボクは立派な適合者ですよ。っていうか、その……」

「よし、ありがたい。それにさっきは少し量が足りなかったんじゃないかな? 念のため多めに採っていいかい?」

(いてっ! 大原さんたらボクの返事を待たずにもう血をとってるぅ。うわあ、こんなにとってどうすんの? こういうときはあんまりニコニコしないでほしいんですけど!)

 思わずアカリが顔をそらすと後ろ向きに立っている冴子が目に入った。

(あれ? やっぱり冴子さんはボクの採血から目をそむけている。あんなにズバッとものをいえるくせににホントわからん人だよな。しかし今度こそいけそうだぞ。だってイマイチあやふやなボクの伝説の知識なんかじゃなくて冴子さんのほうは「ご先祖さまの記憶」なんだからな。よしよし)

「なあ、アカリくん。あれ、どう思う?」

 江奈の心細げな声にアカリはふりかえる。

 江奈は十字架のほうを指していた。

「満月の光がこころもち弱まったようだけどだいじょうぶかな、アカリくん? あの明かり採りの丸窓は小さいからな」

 採血された腕をさすりながら、いくぶんヤケ気味にアカリは答えた。

「その分を補って余りあるほど血をとってもらいましたから平気ですよ、先生!」

「おお、そうか。よし、アカリくん頼むよ。頼む……」

 だが、アカリの皮肉をまるで感じる余裕がなく、ただすがるように自分を頼りにしてくる江奈を見て、アカリはふたたび自分を奮い立たせた。

(今はボクだけが頼りなんだ。よし、しゃれたヒスイの小瓶とはいかないが、こうやってじかに注射器からたらした方がかえってやりやすいや)

 アカリは注射器をクリスティーヌの頭上にかざした。

(一滴、二滴、三滴……ボクの血が奥さんの口元を染めてゆく。さっきは確かにまぶたが動いたんだ。今度こそ頼む! それにしてもまさかボクの血が使われることになろうとはなあ。うう、貧血のときみたいに頭がフラフラするぞ)

 一瞬たちくらみがしてアカリが目を離したとき、歓声がわき起こった。

「あああっ、目をあけた! みんな見てくれ、家内が目覚めた!」

 江奈が上がるほうの手でバンザイをしている。

(え、ホント? ボクやったの?)

 アカリはまだ頭がふらついている。 

「僕だよ、クリス! 僕だ、裕一郎だよ! おー、クリスが起きあがろうとしている。成功だ、大成功じゃないか! 神よ、ありがとうございます」

 たしかにクリスティーヌが半身を起こしているのをアカリはぼんやりと確認した。

(ほんとだ。起きてる。す、すごい効き目だ、ボクの血って?)

「まあ、なんて綺麗なこと!」

 アヤメの嘆息でアカリもようやく目がはっきりとした。

 そして思った。

 アヤメちゃんたちが嘆息するのも無理はない、と。

 まだふらついているアカリには特に夢のような美しさに思えた。

(クリスティーヌさんて、ホントきれいだなあ。見てよ、あの美しい瞳。その瞳で江奈おじさんを見つめているよ? あ、ほら。小首をかしげつつ見事な金髪をその細い指でかきあげている。まるで映画スターみたいなそのポーズ。あれえ? さっきまで気がつかなかたけど奥さんが着ているピンクがかったドレスって、花嫁衣装のデザインだよね? それにしてもまあ胸元が大胆に大きく開いていること! バストラインを強調したデザインだなあ。あ、いま江奈おじさんが丁寧に血をふき取ってあげているなあ。でもあの唇はちょっと妖艶すぎ? いかにも成熟した女性の魅力を発散中っていう感じ。ボクにはちょっと刺激がありすぎるよ。ちょっと意外だなあ。眠っている姿からはただ清楚な美しさしか感じ取れなかったけれど、いざ目をさましてみるとすっげえ勢いでフェロモン波動がビンビンだなんて。こりゃあ江奈おじさんがこういう部屋を作るわけだよ。その気持ち、よーくわかりますよ、先生! うん、もう大合格です!)

 アカリはなんとなくお酒にでも酔っているような気分がしていた。おそらく貧血のせいだろう。しかしその犠牲は報われたのだ。

「目が素敵だなあ。オレもこういうブルーアイだったらなあ」

 ムクゲがそう言うのを聞いて、なるほどとアカリは思った。

(たしかにそうです。うん、ムクゲちゃんの言うとおり。特にこの青い目がなんとも言えないね。栗色がかっているかと思うと次にはちょっと緑っぽくも見えたりする不思議な輝き。ちょっぴり潤んでいるのか森の湖面みたいにゆらめいていて、こんな目でじっと見つめられたらなんだか引き込まれてしまいそう……って、あのまさか、さっきからボクのことジッと見つめてます? ど、どうしてボクなんかをそんなに見てるんですか?)

 ふらつく頭を押さえながら、アカリはほんとうにクリスティーヌが自分のほうを見ているのかどうかを確認しようと目をこらした。

「クリスどうした? ちゃんと目が見えてるかい? 僕はここだ。裕一郎だよ、わかる?」

(そ、そうですよ。ちゃんと御主人のほうを見てください、ね?)

 アカリは黙って彼女にそう呼びかけた。

「あ、そうか。彼の顔は知らないものね。こちらはね柴咲アカリくん。僕の助手なんだ。何も心配はいらないんだよ。ああ、やっと笑ったね。その微笑を何年まち焦がれたことか。ついにこの笑顔にたどり着いた、ついに……」

 江奈が微笑み、奥さんが微笑んでいた。そしてアカリも微笑みたくなった。

(あの人、なんて素敵に微笑むんだろう。確かこんな風に笑うハリウッド女優がいたよね。ナントカの休日っていう映画で清純派でならした、ほら、例の女優さんにそっくり)

 そこまで思ったときアカリはへんなものが見えるので目をこすった。

(ほんとあの映画にそっくり……のはずなのに、えーと、舌を出してます? やっぱりそれ、舌ですよね? あの、どうして急に舌なんか出してベロベロ唇をなめ始めているんですか? それはちょっと、やめたほうが)

 いきなり両手が目の前に突き出されたので、アカリはびっくり仰天して後ろにころびそうになった。

(わわっ、あぶない! いきなり両手を前に突き出した。なんでボクに抱きつこうとしてるの?)

「クリス! そんなに急に立ちあがってはだめだよ。いま手を貸すから。大原くん、すまん、手伝ってくれるかい? あ、だめだよクリス! 動かないで、おちついて。い、いかん! クリスの体がけいれんしてる! 大原くんはそっち側を支えて、グエッ? うわわあああー!」

 アカリはその光景が信じられなかった。

 江奈と大原料理長の体が二つに重なって空中に放物線を描いていくのだ。

「ああっ! か、壁に激突したぞ! クリスさんがふたりをふっ飛ばした?」

 やっとアカリは頭がはっきりした。

 だがそれは遅すぎた。

 クリスティーヌはもうそこまで迫っている。

「ああっ、こっちへ来る」

 棺に半身を起こしていたクリスティーヌは、かげろうが立ち昇るようにユラユラとそのまま棺の外の空中へ移っていった。

 気がつくとその背中で愛らしい小鳥の羽のような翼がパタパタと懸命に動いていて、クリスはその飛翔力によってのみ体を支えている。

 つまり最初から飛んでいた。

 美しい金髪に清楚な顔立ち、そして申し分のないプロポーションのクリスが浮遊するその姿は、どこか英国あたりの妖精が恥らいながら川辺を散歩するような風情があった。

 だから一同はその場にとどまったままクリスがどこへ行こうとするのかを見守っていた。

 みな自分の目が信じられなかったのだ。

 つい今しがた、そのたおやかな女性が両手をわずかにふりまわしただけで江奈と大原というふたりの剛の者を投げ飛ばしたのを目撃したにもかかわらず、それは何かの間違いであったかのような錯覚さえおぼえていた。

 アカリも同じだ。

 眠たげに浮遊するクリスをただじっと見つめてしまい、何の準備もしていなかった。

 だがやがてクリスがどうやら自分のほうへ飛んでいることがはっきりしてきて、アカリはどうしようかと自問していた。

 何の前触れもなくクリスの目が光った。

 夢見るような青い瞳からカッと放たれた目の色は鋭い赤にさまがわりしており、しかもその目線の軸はしっかりとアカリをみすえていた。

 間違いなく目標はアカリだった。

 くるりと方向をかえたアカリがダッシュする。

 それと同時にクリスの翼が大きく羽ばたいた。

「く、くるしい!」

 逃げ遅れたアカリは襟首をつかまれながらも、それまでのゆるやかな飛行はアカリを迅速に捕らえるための狡猾な策略だったことにやっと気づいた。

 遅ればせながら、アカリの全神経は臨戦態勢に入った。

(そうだ、シャツを脱ぐんだ!)

 ポロシャツの上にベストをはおっていただけのアカリはすぐに脱皮できた。

 ちょうどクリスが全身の力をこめて腕を引いたときにうまく重なったので、力の行き場を失った彼女はアカリのベストと一緒に後方へすごい勢いですっとんでいった。

 ドシャンと棺の赤いクッションの中へクリスは投げ込まれた。

 みなはいっせいに棺のほうへ駆け寄り、中をのぞきこんだ。

「い、今だあ!」

 ポロシャツ一枚になったアカリは全力疾走した。

 このまま江奈先生のところまでダッシュするのだ。

 大原はうつぶせに、江奈は大の字になって倒れていた。

「先生、先生! 大原さん!」

 応答がない。

「だめだ。二人とも白目をむいちゃってる。あ、でも息はしているぞ。ありがたい。起こさなくちゃ!」

 人工呼吸のやりかたなどまるで知らないアカリは何をまずすべきなのか見当もつかず、江奈の肩やら胸やらを押したりさすったりしていた。

「きゃああー! アカリさん、おばさまが。おばさまが!」

「どうしたアヤメちゃん!」

 アカリがふりかえると、みんなが後ろ向きにじりじりと棺から後ずさりをしている妙な光景が目に入った。

 そしてアカリも見た。

(あ、クリスさんが棺の中でうずくまっている。両手で髪の毛をかきむしって苦しんでいる。しかしクリスさんの丸まった背中から出るあの妖しい光の波のようなものは何だ?)

 江奈の頭を腕にのせながら、アカリの目は棺の異様なありさまに釘付けになった。

(ああっ! み、耳がとんがった!  爪もあんなに伸びちゃって、まさか長い眠りから覚めて一挙に老化現象が始まっちゃった?)

 アカリは今にもクリスの皮膚がしわだらけになってしまうのではと危惧したが、それとはどうも違うようだった。 

(おおお、金色の髪の毛がどんどん黒くなっていっちゃう。おまけにその髪がすごい勢いで伸びて、まるであふれたお湯みたいに棺の外へ流れ出てるじゃないか。え? 次は翼を引っかきまくっている? あの愛らしい天使のような翼を引きちぎるつもり?)

 バババッバンッ!

 おそろしい爆裂音が響き、みな耳をふさいだ。

(うわわっ、翼の中から翼が飛び出した! 形もコウモリの翼みたいにかわちゃってる。これってまるであの時のアヤメちゃんみたいだ!)

 アカリはあの夜にやはりこの部屋で起きたことをクリスの変貌にだぶらせて見ていた。

「ぐあああああーッ。ギャッギャッギャッギャッギャッ!」

 そんなアカリのつかの間の回想を耳障りな音がぶち壊した。

 それはどう見てもクリスの口から出ていた。

(叫んでいる? 笑っている? それになんて嫌なばかでっかいコウモリの翼なんだ。江奈おじさんよりも、あの時のアヤメちゃんよりも、トレーラーの中の婦警さんよりも格段にでっかいぞ! なんてことだ)

「ウフゥー……」

 甘いような、おそろしいようななんとも形容しがたい声をたてながらクリスがゆっくりと体を起こす。

(か、顔をあげた? なんだ、老化現象じゃないのか。それどころかさっきよりちょっと若返ってるじゃないか!)

 眉をしかめ、目を閉じて、しかし唇には笑みを浮かべながら天井をあおいで大きくゆっくりと頭を回転させているクリスを見て、アカリは迷った。

 その姿は美しいというべきなのか、それともおぞましいというべきなのか……

(あ、目をあけた。ええっ! まままま、真っ赤だよ! あの夢みるような青い瞳が赤い鏡みたいになっちゃってギラギラ光ってるぅ。それをサーチライトみたいにして床にしりもちをついた女の子たちをなめるように見回して……やっぱり最後にボクを見るんだ!)

 もはや猶予がないことをアカリは悟った。

「先生! 江奈先生起きてください! ああ、頼むから起きてよおっ!」

 江奈はまったく反応しない。

「クルー、クルー、クルー」

 鳥のようなさえずりが嬉しそうにクリスの口からもれてくる。

「ちくしょう羽ばたきだしたぞ。飛ぶつもりだな。どうせ狙われるのはボクに決まっている! 江奈先生すいません、ボクがここにいると先生まであぶないんです! 待っていてください!」

 アカリは勢いよく立ち上がった。

「ううっ」

 アカリの足がもつれる。

(頭がふらついてうまく立てない。やっぱ血を取りすぎだよ。まずい。く、来るぞ!)

 クリスがアカリめがけて飛び立ったので、ようやくみなもふらつくアカリのようすに気がついた。

「きゃあー、アカリさんが危ない! ムクゲちゃんマクラちゃん、何か投げつけてーっ!」

 アヤメに叫ばれて少女たちもやっと具体的に何をすべきかを悟った。

「わ、わかったアヤメ。手当たり次第にぶつけてやれ。ほれ中村さんも冴子も!」

「うん!」

 この部屋にはスポーツ用具やキャンプ用品が山のようにあった。どれも江奈夫妻の思い出の品だ。

 たとえアヤメの投げたものがバスケットボールであり、ムクゲが投げたのは自転車用の空気入れだったにせよ、クリスを驚かして足止めするには十分だった。

「あ、ありがとう! うまいぞ、みんな!」

 逃げ場所をさがすアカリの目が十字架にとまった。

(あ、そうだ。壁の十字架だ! 凝り性の江奈おじさんのことだ。きっと聖水入れまで造ってあるにちがいない! それに注射器もここにある!)

 アカリは自分の血が入った注射器をまだそばに置いたままだった。

(できればこの手は使いたくないけど、ええい、いまはそんなこと言ってられないよ!)

 床に置いた注射器をひったくると、アカリは部屋のむこうめがけてクラウチングスタートした。

 だが、どういうわけかフワッと腰の辺りが浮き上がったような感じがして、次の瞬間には横倒しになってしまった。

「きゃあー」

 まだ貧血のせいかと考えたアカリだが、このアヤメの悲鳴が聞こえてきて転倒の真の原因がわかった。

 その原因とは強風だった。

 時ならぬ強風が部屋中を駆け抜けているのだ。

(な、なんだこの突風は? うおおおぅ、体があおられて壁に押し付けられるぅ。なんてすごい風なんだ。見ろ、部屋中の品物がぐるぐると風に乗って飛び回っている!)

 品物だけではなかった。

 アカリが見とれている間に、なんとアヤメの体が風に吹かれて舞い上がったのだ。

「きゃああああ! アカリさーん!」

「アヤメちゃん! あ? うわあああ!」

 宙に浮いたアヤメがそのまま自分のほうへ飛ばされたきたのでアカリはあせった。

 気がつくとアカリはアヤメの下敷きになっていた。

「アカリさん! さすがです! ナイスキャッチ! あ、ありがとうございます!」

「いてて……」

「あ、ご、ごめんなさい! 重いですか?」

 アヤメはすぐにアカリの上からどいて彼の脇に寄り添ったが、その目は頼もしさと嬉しさに輝いている。

「あの、わ、わたくしを、その、だ、抱きとめてくださって、ありがとう……」

 全然その気もなく偶然だったことを告白したものかどうかアカリはちょっと迷ったが、ちょっぴりずるい男になることを選択した。

「あ、いいんだよ。と、当然だよ。ふふ」

 しかしアヤメはそれを聞いていなかった。

 ほかのことに気をとられていたのだ。

「あっ! アカリさん、あれを!」

 部屋の中央を指し示すアヤメの指の先にはクリスがいた。

「なんだこれは! クリスさんが部屋の中空に浮かんだまま、コマみたいに回転してるよ。き、牙をむき出しにしてすごい笑顔だ。じゃあこの突風は彼女がやってるってことなの?  そんなあ。これじゃまるで魔力じゃないか!」

「ええいっ、ええいっ! 出て、早く出なさい! ええいっ!」

 なんだか可愛らしいりきみ声が隣から聞こえてくるのでアカリが見ると、脇で両こぶしを握ったアヤメが目を力いっぱいにつぶってヒンズースクワットのような動作をくり返している。

「ア、アヤメちゃん? 何やってるの?」

「えい! えい! えい! 早く翼、出てえ! えい! えい!」

「翼? まさか翼を大きくしようとしてるの?」

「はい、そうです。ええい、ええいっ!」

「な、なんでそんなことしてるの!」

「アカリさん! わたくしも翼を大きくするんです。そうです、あの夜みたいに! ただし自分の意思で! おばさまに対抗するにはそれしかありません。このままでは大変なことになってしまいます。早くおばさまをとり押さえて落ち着かせなくては」

「そうか、わかった。いや! ちょっと待って! 翼を大きくするって、まさか変身しちゃうってこと?」

「まかせてください。やってみます!」

「いえ、そうではなくて」

「どいててください、アカリさん! 場所をとらないと危ないです! ええい、変わって!  大きく変わってえええええええっ!」

 ババンッ!

 アカリの目の前でキャミソールの青い破片が飛び散った。

(で、出たああ! アヤメちゃんの背中からあの夜みたいに大きな翼が! あれ? あのときとちょっとちがう?)

 アカリは何かがあの夜と異なると思ったが、それが何かしばらくわからなかった。

「見てください、アカリさん! わたくし飛んでいます!」

 顔をキラキラ輝かせながらアヤメが無邪気に言った。

 嬉しさに泣きそうなその愛らしい表情に翼がマッチしている。

(え? どうしてアヤメちゃんのかわいい顔とコウモリ翼がマッチしてるの? あ、コウモリじゃないよ!)

 アカリはやっとはっきり認識できた。

(そうか! この翼、羽でいっぱいなんだ。まるで小鳥の羽みたいなんだ。なるほど、そりゃアヤメちゃんに似合うわけだよ。これなら天使の羽だもの!)

 イタリアのルネッサンス絵画に描かれる大天使ガブリエルのごときふくよかな白い羽がアヤメの背中で優雅に羽ばたいている。

 それはまるで天使の頭を飾る光輪のように神々しく光って見えた。

 なんだか顔の表情まで天使みたいにやさしくなったぞ、とアカリは見とれてしまう。

「ああ、やっぱり本当に飛べるんだわ。すごいです! そこで待ってて下さいアカリさん! 今度はわたくしがアカリさんをお救いしますわ!」

 祈るように握り合わせた両手を胸の前におき、バサリと翼を軽くひと打ちしてアヤメはクリスのほうへ飛び出していく。

「ググア?」

 クリスが異変に気づいた。

 クリスはアヤメに向き直り迎撃態勢に入った。

(大丈夫かな、アヤメちゃん?)

 そのとき別の方角の壁に吹きつけられていたムクゲが叫んだ。

「アヤメ! おまえさんだけにはまかせないよ! 待ってろよ! 今オレもいくぞ! そいでもってアカリくんにいいとこ見せちゃうんだから!」

 バンッ(ムクゲちゃん)

 パンッ(マクラちゃん)

 パシッ(中村さん)

 いきなりの翼飛び出し三連発にアカリは度肝を抜かれた。

(どういうことなんだ? 女の子たちの背中から次々と天使の羽が!)

「アヤメだけに苦労かけられるか。オレも加勢するよ」

「マクラだってやるから、アヤメちゃん」

「わ、わたしも飛べた? こんな大きな翼が出るなんていったいどうしちゃったのかしら? でもいいわ。今はわたしもみんなとやるんだから!」 

「お、中村さん、いいとこあンぜ。これでオレたち四人だ」

 ムクゲやマクラはともかく、中村エリカまでもがモコモコ羽毛仕立ての天使の羽を出して空中浮遊している。

 貧血とは別の意味でふらついた頭に活を入れるべくアカリが目をごしごしこすると、部屋の中央に向かってゆるゆる飛んでいくみんなの背中がよく見えた。

(ムクゲちゃんのタンクトップは破れた様子はないな。マクラちゃんのドレスは首の後ろのリボンが少しとれかかってそこから羽が出てるけどどうということもないし。えーと、中村さんはジャケッツの上着を脱いだんだな? あ、さすがにブラウスの後ろが少し穴があいてるみたいだ。でも、それもたいしたことないし。うーん、あの夜のアヤメちゃんとはかなりちがうぞ。天使の羽だと衣服にやさしいのかなあ?)

 加勢の軍団はアヤメのところまで到着した。 

「ありがとうムクゲちゃんマクラちゃん中村さん! これで四方から取り囲んでおばさまを押さえられますわ」

 四人の精鋭部隊はそう言うと手を取り合ってキャピキャピ喜びあった。

(なんかほんわかモードだけど、だいじょうぶかな?)

 アカリがそう思ったときクリスが歯をむいた。

「ぐおおおお!」

 四人の少女はびくっと縮み上がった。

「きゃあ!」

 そう叫んで涙目になった彼女たちはおろおろと空中を後退した。

 いちばん小さい羽を出した中村エリカにいたっては、クリスの形相のおそろしさに失速していったん床に足がついてしまった。

 彼女たちは完全に気おされている。

 天使の羽を出してその顔立ちまでいっそう童話っぽく愛らしくなった少女たちと、すでに地獄の悪鬼さながらのクリスとではまるで格がちがう。

「どうしてよ? わたしだけどうしてみんなみたいに羽がでてこないのよ! 実験室では特大のが出たのに! 不公平よ!」

 まだ誰か部屋の向こうで騒いでいた。

 霧島冴子だ。

「かんじんのときに出ないなんて! やっぱりあの実験は失敗なんだ!」

 床を踏み鳴らしてくやしがっている冴子のことをアカリは同情のまなざしでながめている。

 だが、アカリのこのすきをクリスは見逃さなかった。

 難なくアヤメたちのわきを通りぬけるとクリスはアカリめがけて一直線に飛んできた。

「アカリさん、あぶないです! 逃げて! 飛んでえ!」

(飛べったってボクには翼がないよ、無理でしょアヤメちゃん! でもジャーンプ!)

 アカリはジャンプした。

 すぐ横にあった吹き溜まりが絶好の避難場所に見えた。そこには部屋のあちこちから江奈夫妻の思い出の品が吹き寄せられてきてガラクタの山を形成していた。

 ガラガラガシャーン。

 アカリは派手な音をたててガラクタ山にとびこんだ。

 ガリガリガリッ。

 クリスは耳障りな音をたててガラクタの山をその長い爪でひっかいている。

(やった! 命びろい! あれ?)

 アカリは自分のおでこに何かを感じた。

「いてててて!」

「ど、どうしました! アカリさんアカリさん! だいじょうぶですか!」

 及び腰でクリスを遠巻きにしてながめていたアヤメが心配そうに叫んだ。

「うん平気。スキーの板かなんかにおでこかすっただけだから。いてて」

 アカリがおでこに指をあててみると、ほんの少し傷口が開いているようだった。いずれにしてもかすり傷だ。

 これでアヤメも腹をきめた。

「取り囲む作戦はだめですわ。ひとりだと簡単に突破されてしまいます。みんなで集まってアカリさんの前に空中の壁を作りましょう!」

「うん、アヤメ! オレもそう言おうと思ってた!」

 それほど速度が出ないらしい天使の羽を懸命に羽ばたかせて、四人の少女はガラクタ山へ急行する。

「アカリさん。アカリさん、どこですか?」

 ヒソヒソ声のようなか細い声がアカリの耳に届く。アヤメの声だった。

「アカリさん。すいません、こっちのほうへ回ってきてくれますか? わたくし、おばの間に割って入るのは無理なので」

 クリスはなかなかアカリの位置が特定できずあさっての方向をひっかいていた。そうとう焦っている様子がかえってアカリには怖かった。

「オッケイ。ボク来たよ?」

 ほっと胸をなでおろしたアヤメは言った。

「アカリさんはここですわ! あとはわたくしたちでお守りしましょう!」

「おーし! オレたち四人いるんだ。やってやるぜ!」

 四人はあわただしい細かさで飛び回り、まるで申し合わせでもしてあったかのように整然とした空中障壁をアカリの前に作ってみせた。

(うわあ。この子たちが飛んでる姿って妖精みたい)

 アカリがみほれている間にクリスがやって来た。

「ぐおおお!」

 さきほどと同じようにすごんだクリスだが、四人の少女はいっせいに両手を広げて敢然と戦う意思を示した。

「グルルルルル……ギィー、ギィー、ギィー」

 やはり四人が相手では重荷だと感じたのか、化け物じみたクリスは赤い鏡のような目をますますギラつかせながらも牙をきしませるばかりだった。

「あ? アカリさん!」 

 何かに気がついたようにふりかえったアヤメがアカリに聞いた。

「お顔から血が出ていませんか?」

 こんなときまでなんて気が利く子なんだろうとアカリは感心する。

「ほんとだ、出てる! オレよく見える。アカリのこめかみから! 右のほうだぜ! 右、右だって!」

 そう言えばムクゲちゃんだってよく気がつく子なんだよな、とアカリは思い出す。

 たしかに右手を顔のわきにやると、ヌットリと生温かい血がついてきた。

「あつッ! ここか? おでこだけだと思ったら耳んとこも切ったかな。でもたいしたことないや、心配ないよ」

 つかの間の休息的ほほえみを浮かべてアカリは天使な美少女たちに無事を告げた。

「そうなんですか? ふーん、でも出てますわね……血が……。わたくし、それが、どうも気になると言いますか、その……」

「うん、出てる、出てる。アカリくんの血……。まいるなあオレ、ちょっとさあ、それは……」

「たしかにそうだね、ムクゲちゃん。アカリくんの、血だぁ……」

(あの、みんなだいじょうぶ?)

 どことはうまく言えないが、美少女たちの会話にかすかな違和感をアカリは感じた。

「えと、ほんとにボクのほうは平気だよ。だからクリスさんのほうに集中して?」

 声に出してそう言ってみたが、自分の声が小さかったのか、誰もそれを聞いていないようだった。

 それどころか三人は空中で天使の羽をパタパタとさせながらアカリのほうを盗み見ばかりしている。

(えーと、みんなどうしてそうチラチラと横目でボクのことを何度も何度も見てるのかなあ。クリスさんは正面だよ、そっち見れば?)

 そのときムクゲの口からジュルリと何かだらしないものが垂れて、そのあと彼女がヘヘヘと照れ笑いした。

 アカリは思わず大声で言った。

「ああっ、そのよだれみたいのは何なのムクゲちゃん!」

「だってええ。ケケケ」

「ケケケじゃないでしょ! アヤメちゃん! ムクゲちゃんにちゃんと前むくように言ってよ」

「こ、困りますわ、わたくし」

 アヤメは困惑したように空中ではにかんだ。

「アカリさんたら、困ります。わたくし全力を出さなくてはいけませんのに、そんなにおいしそうに血をたらされては、アカリ……さん。うう……うふう、うふう」

 花のように開いた両手のひらを赤くなったほおにあてて、アヤメは困ったような嬉しいような笑みを浮かべている。

 おまけに呼吸が、ヘンだ。

(アヤメちゃん、その息づかいはなんですか? それに笑っている場合ですか、今は?)

 アカリがそう思っているとムクゲから檄がとんだ。

「そうだよ、なにやってんだアカリ! オレたちいま忙しいのに、えーと何て言えばいいんだっけ、そうだ! アカリのほうからそんなに誘って!」

「ボ、ボクは誘ったりなんか」

「うるさいうるさいうるさい! ああもう! さっき注射器にとったアカリの血を見てもなんともなかったのに、そうやって顔になんか血をたらされると、オレもう、ああん……くふう、ふうううん☆」

「だから! その息づかいはなんなの! あ、マクラちゃんまで? ど、どうしたの、みんな……」

 ニョキ。

「ぶ……」

 アカリは絶句した。

 ニョキニョキニョキ。

「それって何の音ですか! 牙が生えそろう音のつもりなんですか! 天使のお口にそんな特大な牙はだめでしょうが!」

 三人の口から鋭く長い牙が生えまくってる!

「アーカーリー。なんでそんなにいやらしく垂らしているんだあ? 血だろう? それは」

 訂正。

 四人だった。牙をはやしているのは。

 中村エリカもきっちり参加している。

「あ? あ、あ、あ……羽が……かわいらしい羽が……」

 アカリのほうへ向けて突き出されていた少女たちの天使の羽が上のほうの先端でなにやら光の粉をまいている。

 その光の粒子は天使の羽の先端を何回か旋回したあと、チラチラチラと粉雪のように羽をつたって下へ降りてきた。

 そしてその純白の粉雪が降ったあとに残ったのは、ヌラヌラと底なし沼のように濡れそぼう漆黒の翼だった。

 おまけにカタチは大コウモリの邪悪な姿に変わっている。

 大きさも前の倍以上にふくらみ、気がつくと四人の服の肩や背中がボロボロに破れている。ムクゲのタンクトップにいたってはほとんど下にずり落ちそうだが、彼女をヘラヘラ笑うのみでそれを手で押さえようともしていない。

 粉雪が消え、新しい暗黒の翼が生え揃うと、バサリバサリとそれを波打たせて少女たちは向きを変えた。

 四人がアカリを囲むように宙に浮かぶ。

「ああ、やっぱり。ムクゲちゃんの目がなんだか赤方偏移してるぅ!」

 アカリがおそれたとおり、四人の顔が変容しつつあった。

 もはやエンジェルフェイスは蒸発している。

 アカリはいよいよこの部屋で起きたあの晩のことを思い出していた。

「あ? 委員長までどうしたのさ? ねえ、そんなに耳の先をとんがらせないでよ中村さん!」

 そのとき後ろから何かが肩に触れたのでアカリは、びくりとふりかえった。

 触れたのは長い長い爪で、ふりかえった先にいたのはアヤメとおぼしきものだった。

「ぐふう、くふう……はあ、はあ、はあ……。いつだって、そう。あなたはわたくしのことを見てくれないの……はあ、ふう、ほう……それは、なぜ? アカリ……さん……ぐふうううう」

 長い髪は嵐の海のように逆巻き、銀赤色の銅版のような瞳が真っ赤に燃え上がり、どこか肺活量測定器のゴムの蛇腹を思わせる黒く濡れたコウモリの翼が苦しそうに左右に伸びたり縮んだりしていた。

「きみたち……ほんとに……ボクを、守ってくれてる?」

 自分で言っててもいかにも間の抜けた響きだったそのアカリのつぶやきが終わるか終わらないかというときだった。

 どこからか絶叫が襲いかかってきた。

「グオォーッ! ダッツ・マイ・シープ! ゲラウ、ゲラウ!」

 クリスが四人の少女めがけて猛スピードで飛行していた。

「い、いけね。あのオバサンが突進してくる。オレたちスキをつかれた!」

 ムクゲの言い分にアカリはつい反論してしまう。

「スキなんてもんじゃないでしょ! 全然前を見てなかったくせに! ああ、来ちゃうぅ!」

 目の前がバッと光ったような錯覚にアカリはおそわれた。

「! ! !」

 音もなく壁に叩きつけられる少女たちの姿。超音速ジェット機が通ったあとみたいに一拍間

を置いて聞こえるボグボグボグッというくぐもった壁への激突音。そして悲鳴。

「キャアアアア」

 バサバサバサと四人が折り重なるようにして床へ落ちていた。

「……くうっ!」

「いつつ……」

 横たわった少女たちが痛ましい声をもらす。

 アカリはやっと我に返った。

「アヤメちゃん!」

 名前を呼ばれて一瞬うえを向いたアヤメの顔は、またもとのアヤメの美しい顔に戻っていた。その顔がなんとかアカリに微笑みを送ろうとするが、唇は殴られたように紫色に腫れあがっている。

「アカリさん……ご、ごめんなさい。わたくしったら、アカリさんの……ゴホゴホゴホッ! き、気持ちわるい……」

「しっかりしてアヤメちゃん!」

 見ると苦しみのたうつ他の三人ももとの顔に戻っている。

 その姿を見てアカリの胸が怒りに燃え上がる。

「くそおおおおっ!」

  初めてアカリは江奈の妻に怒りを感じていた。

「あれはもう奥さんなんかじゃない。ただの化け物、悪魔の化身だ!」

 四人の犠牲者の上を楽しそうに飛んでいたクリスは、このアカリの言葉を聞いてきょとんとしたように少し動きをとめた。

 そして笑うような勝どきをあげた。

「ゲハハハハハ!」

 そうしてから真っ赤な唇を蛇のような長い舌でひとなめすると、ゆっくりアカリへ飛翔してきた。

 このときアカリに声がかかった。

「アカリ! ジグザグに走ってこい! ここまで走れ! 十字架まで来い!」

(あっ、冴子さんが手招きしている)

 アカリはダッシュした。

「クルルルー。ギャッ、ギャッ、ギャッ!」

(くっ、追ってくる!)

 アカリは自分のうなじにクリスの息づかいを感じていた。

 近い!

(だが怖いもんか。ふん! ボクは怒ってるんだぞ、この吸血鬼め!)

「ダメだダメだ、アカリ!」

 冴子が叫んでいた。

「なにやってんだ! もっとジグザグに走るんだよ! ああ捕まった!」

「おわー、体が宙に浮いてるぅ! 持ち上げられた?」

 アカリの顔の前に何かがいきなり近づいてきたので面食らったが、それは天井だった。

 腰のベルトをつかまれたアカリはクリスの歓喜の飛翔に振り回されて部屋のあっちこっちを見物させられている。 

(あっ、いま一瞬何かとがったものが目に映ったぞ!)

 これは武器になる、とアカリは直感した。

(手をのばせアカリ! よしっ、手応えがあった!)

 それは先端が鋭い長めの棒だった。

「スキーのストックか! 結構鋭いぞ。よーし、これでおまえの胸を串刺しにしてやる!

ボクの背中なんかつかむから両手は自由だ。めちゃくちゃに刺しまくってやる! えい、えい! これでどうだ! えい!」

 アカリはストックをやみくもに突き出す。

「ギャ?」

 と、クリスが小さな声をあげたとたんにドスンという衝撃をアカリは感じた。

(あ、床だ! 落ちたんだな! いいぞ! やったか?)

 効果を確かめるべくアカリは背後のクリスを見た。

 そして大きな失望を味わった。

「ああ、しまった! だめだ、服に絡みついただけだよ!」

 せっかくのストックもドレスの脇をつき破っただけ。まるで体を傷つけてなどいなかった。

 ただ墜落の衝撃でストックは服を巻き込んだまま床に突き刺さっていた。

「アカリ! そいつのドレスは床に釘付けだ! あ、おまえから手を離したぞ! 槍を取ろうとしてる! チャンスだ! こっちへ! 早く!」

 ストックのことを槍だなんて、きっと冴子は運動音痴だな。

 なぜかそんなことを頭によぎらせつつ、アカリは冴子のところまでほうほうの体で行き着いた。

「ハアハア、やっとついた。そ、そうだ。みんなは?」

 冴子は、へ? という顔をアカリに向けた。

 そしてニッと笑った。

「こんなときに人の心配? おひとよしね、あんたって。だいじょうぶよ、きっと。痛そうだけどけっこうみんな動いてるもの。それよりも!」

 冴子はアカリの尻を、ポンとたたいた。

「この十字架をあいつにつきつけるんだ。しかし壁から剥がさなきゃならないぞ。間に合うか?」

 アカリは首をふった。

「そうじゃない。聖水を汲むんだよ!」

 冴子が、あっと声をあげる。

「そ、そうか! そいつはうまい考えだよ、アカリ!」

 素朴な愛らしい木製の十字架の周りをアカリの目が瞬間サーチする。

「あ、あそこだ! 聖水入れを発見。ちゃんとそこまで造ってあったぞ!」

 急いでポケットをさぐると奇跡的に注射器はまだそこにあった。

「よし、使えそうだ! これだけの分量で十分なはずだ」

 アカリの脳内映像はあのDIAエージェントの最後を映し出していた。

 アカリは聖水入れに注射器を突っこむ。

 そして気づいた。 

「ああー、ダメだ。水が入ってない! こんなバカな!」

「それならアカリ! はやく十字架を!」

「そ、そうだな。ああっ? やっぱり無理だよ、はがせないっ! たとえはがしてもきっとボロボロになっちゃう!」

「ええーっ、どうすんのよ! あいつもうすぐ服を破いちゃうよ! ほら、あと少しで!」

 そうしたら終わりだ。

 アカリはパニくった。

(ああ、江奈おじさんはまだ目を覚まさないのか? だめだ、ピクリとも動かない。アヤメちゃんたちは? みんな完全に倒れ伏している……ちくしょう、何も考えつかない。どうしよう。ああ、こんなに立派な十字架が目の前にあるのに……)

 絶望に片手で顔を隠そうとしたとき、指の間に何か光るものがあった。

 キラッ。

(おや? 十字架の先が光った?)

 アカリは間違っていた。光はもっと遠いところから来ていた。

(ちがう、もっと後ろのほうだ。あの小さな明かりとりの丸窓が光っているんだ。これって朝日? もうそんな時間なのか……。え! 朝日! そ、そうだ!)

 アカリの頭は最後の希望の光に頼った。

(そうだ、この手があるじゃないか。太陽の光だ! あの吸血鬼め、滅菌してやる!)

 だがすぐにアカリは不安になった。

 聖水の効果は立証ずみだが、太陽光線についてはどうなのか?

 アヤメも江奈も冴子だって太陽には何の反応も示さない。

 ほんとに効くのか?

 それにもうひとつ技術的な問題もあった。

(だめだ。光があいつのところに全然届いていない。やっとこさボクの足もとを照らしているだけだ)

 朝日は例の丸窓から来ていたが、なにしろ小さい窓だった。

 朝日は床のほんの直径数十センチの円形を切り取っているにすぎない。

「どうした、アカリ! もうすぐ来るぞ!」

 冴子はあせっている。

「え? うん。朝日が使えないかなって」

「そうか! うーん、でも……。いや、もう時間がない。やってみて!」

「そうなんだけど、ほら、あの丸窓からだから光の輪っかの大きさが五十センチくらいしかないでしょう? いや、七十センチくらいか……あれあれ? どんどん大きくなってるじゃないか!」

 光の輪が急速に広がり、どんどん光の面積が大きくなっていた。

「アカリ、見て! あそこの丸窓が壊れた! だ、誰かが窓を壊している!」

 誰かいるって? 

 アカリは上を見上げた。

「ほんとうだ! まぶしくってよく見えないけどシャベルのようなものがザクザクッとこっちへ突き出てくる!」

 冴子も言った。

「見て見て、アカリ! 誰か顔を出している!」

 穴から突き出たその顔はやけに光って見えた。

「大丈夫ですか、聞こえますかぁ? 誰か返事をしてくれますか?」

 その誰かの声にアカリは聞き覚えがあるような気がした。

(これって最近よく聞いた声……。ああっ! まさか、アダム?)

「ア、アダム? アダムなの!」

 アカリは叫んだ。

「おお、アカリくんですね。よかった。苦労しましたよ、この丸窓を見つけるのに要した所要時間は」

「アダム! 話はいいからもっと穴を広げるんだ! どんどんどんどん大きくあけちまえ! たのむから猛スピードで! 命令だよ!」

 命令、という指示がアダムの全プログラムを全速起動した。

「イエッサー!」

 アダムの腕がマンガのクルクル動作みたいにすばやく動く。

「おおお、光がどんどん広がっていく! いいぞ、その調子だよアダム!」

「グア? ギギギーッ!」

 クリスがこっちを見た。

「き、気づいたな? 急いで服を引きちぎるつもりなんだろうが、そうはさせないぞ! くらえ金属バット!」

 アカリは近くのころがっていた野球のバットを手にすると、再びクリスに近づき大上段に構えた。

「そりゃあああ!」

 カキン!

「くっ、軽く片手ではねのけた。やっぱり力は強いな。でもこうしていれば服はとれないだろ。そーら、いまに光が近づいてくるぞ。おりゃりゃりゃりゃあああ!」

 穴は信じられないほど大きく開いていた。

 部屋中が朝日に照らされていく。

「あ、と、届いた! 光が足に届いた!」

 アカリはとびのいた。

「ギャワーッ。グワッグワッ! グゲゲゲゲーッ!」

 クリスが苦悶する。

「ああああ足が! 足が灰になっていく!」

 アカリは金属バットをとり落とす。

「きゃあああ! なによ、これええ! ひ、ひどい!」

「え? 冴子さん?」

「ひどい、ひどすぎる! ほんとに体が灰になっちゃう! アカリィー!」

 そう言って冴子はがっくりと膝をついた。

 駆け寄ったアカリが冴子を助け起こす。

 がたがた震えた冴子はアカリの腕の中でアカリを見ることもせず、独り言のようにつぶやいた。

「わたし、見たのよ。夢……悪夢を。わたしが見たあの悪夢は……あの記憶は事実だったんだわ。どうして! なぜ日の光なんかに当たったぐらいでこんなになっちゃうのよ! わたしは、私たちは太陽の光に当たったって何ともないじゃないの! さわやかで優しい太陽の光でしょう?」

 最後に冴子はアカリを見た。

 そのすがるような目にアカリは何も答えられない。

「わたしの見るあの祖先の記憶の悪夢の中でもこの話だけは信じなかった。信じたくなかったのに………。あ? きゃああああっ! アカリ! あれええ!」

 冴子が指を突き出すのでそちらを見るとクリスが断末魔を迎えていた。

「きゃあああ! 顔が! 目がとび出して鼻がくずれて! か、髪の毛まで! ひ、ひどい、もうやめて! ひどすぎるよ! やめて、アカリィィィ!」

 アカリも呆然としていた。

(あああ、冴子さんのいうとおりだ。これはむごすぎる。いっぺんにくずれていく。すっかりくずれて灰に……)

 白雪姫の衣装だけがいくぶん床に形をつくるだけで、あとはすべて灰燼に帰していた。

 このときアカリは気づいた。

 床があまりにもきれいになっていくではないか。

(え? 灰が、消えていく? 灰までもが消えちゃうの? どういうことなんだ? もう風なんてふいてないのに、空中にとけてくみたいに灰までがかき消えていっちゃう?)

「おいアダム、穴はもう見つけたのか? 今の悲鳴は一体どうしたんだ?」

 上からアダムとはちがう声が聞こえてきた。

「ああっ、何やってるんだアダム! こんなにでっかい穴を開けてしまって! ハカセー! 大道寺博士きてください! アダムの調子が変ですぞ」

 アカリはその声にも聞き覚えがあるような気がした。

「なんだなんだ、なんですか? あんた、警視総監ともあろうものがみっともない大声を出しなさんな。夜が明けたばかりですぞ、里見さん。アダムがこわれたって? どれどれ。ふーん、そんなふうには見えんがのう」

 大道寺博士の声がする。

「しかしたった今、凄まじい悲鳴が聞こえましたぞ。もしアダムが出した声でないのならすぐ下に降りて行かなくては。緊急事態だ」

「ええー、めんどくさぁ」

 メグさんだ!

 アカリはわかった。

(大道寺博士親子に里見警視総監まで? なんでここに? まあ、そんなことどうでもいいや。これでやっと助かる。ふうー)

 アカリはほっと胸をなでおろすとその場に尻もちをついた。

 ちょうどそのときだった。

「クリス……」

 アカリの背後で静かにつぶやくものがあった。

 その響きには無限の寂しさがにじみ出ており、アカリをぞっとさせた。

「まさか……江奈さん?……」

 おそるおそるゆっくりとふりむくと、アカリの後ろには江奈が立っていた。

 アカリは考えたくなかった。

 しかしそれは明白だった。

(そんな……。これを、全部見ていた?)

「クリスが……クリスは……灰……」

(見ていたんだ!)

「灰なのかあ! ううーっ!」

 いたたまれなくなってアカリは言った。

「江奈先生、す、すみません。ボクは、その……」

 その声でアカリの存在に気づいたような感じで、江奈はゆっくりとアカリをみおろした。

 その瞳を見てアカリは動けなくなった。

 江奈の瞳はみるみる涙であふれ、そして閉じた。

「あっ、先生! た、倒れちゃう!」

 アカリは跳びおきて江奈の体を支えようとしたが、わずかにそれが遅れた。

 江奈は床につっぷして倒れてしまった。 

 アカリは意識のない江奈の体にすがりついた。

「しっかりしてください! 目を開けてください! 聞こえますか! あああ、みゃ、脈がほとんどない! どうしよう。しっかり江奈おじさん! 起きて! だめだ、このままじゃだめだ! だれかたすけて! 里見さん、大道寺さん、おじさんを助けて! 救急車を呼んで! 早く呼んでください! おじさん! 江奈おじさん!」

 丸窓のあった場所はにわかに緊迫したようだったが、アカリに聞こえるのはただ叫びまくる自分の声だけだった。


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