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コールドデザイアー  作者: 一の瀬光
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コールドデザイアー 15章~17章

         ♯ 15


(気に入らないったらない!)

 クラス委員長の中村エリカはクラス全員をほっぽりだして、ひとり歩いていた。

(クラスのみんなはあんなロボットを取り囲んでごきげんだったけど、わたしは絶対に気に入らないわ。それにアカリくんだって……。変よ、絶対にヘン!)

 このままバスが待つ駐車場へ行こうか、もう少し研究所の前をぶらつこうか、エリカの足は迷っていた。

(アカリくんはどうしてわたしに冷たかったの? おとといはあれほどうちとけて、危険を承知で中村家に潜入してまでパパをかばってくれたのに。それもみんなわたしを助けてくれるためだと思っていたのに。それがどう? 今はまるでそっけないんですもの)

 エリカは爪をかんだ。三人娘の顔が脳裏にちらついたのだ。

(だいたいあの三人はなによ。いつにも増して反抗的だわ。特にアヤメがあんなにたてつくなんて初めてじゃないの。あの晩はずっとアカリくんと一緒だったなんて嘘までついてどういうつもりよ。見てなさいよ、今夜は必ずアカリくんを家へ招待してやるんだから)

 そうだ、家のものたちに晩餐の準備を言いつけなくては。

 そう思って携帯を出そうとしたエリカは、ポケットが空なのに気づいた。

 おのれの愚かさを戒めるために握られたげんこつが、その豊かすぎる髪に何回も吸い込まれていく。

(バカね。課外授業だもの。携帯禁止じゃないの。もう!)

 エリカはすっかり嫌気がさした。

(あー、もう帰ろ帰ろ。早く帰って着替えしてアカリくんを午後いちばんで迎えに行くんだ。ひとりでバスに乗っちゃおうかしら。もう、みんな遅いなあ。いつまであんなむさ苦しい研究所に残ってるつもりなんだろ。見学はもう終了したんだから早くいらっしゃいよ。クラス委員長特権で集合かけちゃおうかな)

「ちょっとすみません」

 背後からの声に驚いたエリカはふりむいた。

 同い年ぐらいの子が立っていたが、それが男の子なのか女の子なのか見分けがつかなくてエリカは混乱した。声ではてっきり女子だと思ったのに。

「道を教えてほしいんですけど」

 やはり声は女の子っぽい。

 でも服装が……。

 こういうのパンクっていうのかしら?

 エリカは首をかしげてその子のファッションをながめてしまう。

 肩を露出した白の袖なしシャツの上にラメ素材の黒のベストをざっくり着こんで、なんと下は赤黒白のギンガムチェックのパンツ。短い髪なのに丸い大きい片耳イヤリング。首のうしろまわりは銀の細かいチェーンで、その途中から大きい黒のプラスチックチェーンにリンクした首飾りが旅の僧侶のように何重にもなってベストに飲み込まれている。左手首には赤の、右には銀のブレスレットで大きめの黒いバッグをかついでいる。

 こうして見ると、やはりどうも男の子か女の子か判別できないし、黒縁メガネでいまひとつ目の表情も読み取れない。

「いいかな。道ききたいんだけど」

 そう問われてエリカは我に返った。

「え? あ、ごめんなさい。わたしここ初めてなんでよく知らなくて」

 するとその子はいきなりエリカの肘を両腕でつかんで自分のほうへ引き寄せたので、エリカはびっくりした。

「は? 何するんですよ。手を離してください!」

 あまり自分の体にぴったりくっつけるので、その子の胸がエリカの腕にさわった。

 あ、女の子だ。そうエリカは確信した。

 女の子は小声で早口に言った。

「しっ! 柴咲アカリの話だ。おとといのやつの行動を聞きたくないか?」

 なんでこの子がアカリの名を? エリカはまたびっくりした。

「なに言ってるの? あなた誰? うちの生徒なの?」

「冴子と覚えといて。冴子よ。今にこの名を聞けばわたしに出会ったことをあなたも誇りに思う時が来るはずよ」

(なにこれ? この人どうかしちゃってるの? 名前もサイコさんだなんて)

 一瞬こわくなったエリカだが、すぐに気を取り直した。

(うん。ここは逆らわないほうがよさそうね。この大きな黒いショルダーバックに何が入ってるかわからないし。それにみんなは近くにいるんだから大声出せば平気よ。アカリくんだってすぐ近くにいるんだから。強くて頼りになるあのひとが……)

 ちょっとさぐってやるか。エリカは少し余裕が出て、こう思った。

「おとといって、なんの話です?」

「ふふ、かくしてもダメ。わたし見てたのよ。あの夜に中村家で起こった騒ぎのことをね」

「ど、どこで?」

「残念ながら外からよ。それでもあなたと柴咲アカリの別れ際のシーンは窓から丸見えだったのよ。でもねぇ、あれは本当の柴咲アカリだったのかしら?」

(なぜ? なぜこの人はわたしが今一番知りたいと思っていることをしゃべってるの!)

 エリカは冴子の顔をまじまじと見つめた。

「ほほほ、そんな恐い顔をくっつけてこないでよ。どうやら興味ありね。いいわ、もう手は離してあげる。でもわたしを甘く見ないことね」

 腕を放されてもエリカは冴子のそばを離れなかった。

「あの夜のアカリくんのこと、何か知ってるんですか?」

「知ってるわよお? あなたの家から出てきた彼をね、わたし見てたのよ。あわくって走ってた。何かに気をとられてわたしのことも気がつかないから後をつけてやったわ。そしたら次々と化けの皮をはぎとりながら走っていってさあ」

「化けの皮? なんのこと言ってるの?」

「はっきり知りたい?」

「ええ、教えて!」

 いつしかエリカは好奇心に負けていた。

 それを見透かしたように冴子は言った。

「じゃあ、わたしのいうことを聞いて」

「えっ、な、なにを?」

「柴咲アカリをここに連れてきて」

 完全に命令口調の冴子。

「彼ひとりだけよ。他の子は連れてきちゃだめ。中村さんはクラス委員長なんでしょ。できるよね」

 完全に受身にまわったエリカ。

「ここへ連れてきてどうするつもり?」

「もちろん本人に聞くんじゃないの! わたしが見た柴咲アカリの本当の姿は一体どういうことだったのかって。あなただってはっきり真相を知りたいでしょう?」

「……わかった。やってみる」

「やってくれると思ったわ」

 得意気にあごを突き出して立っている冴子を尻目にエリカは思う。

(わたしの方こそ甘く見ないでよ。こんな男の子か女の子か見分けがつかないような変な子に利用されるつもりはないわ。いい機会だからわたしがこの子を利用するのよ。だってアカリくんをここへ連れてくれば一気に夕食の招待まで持っていけるわ。もしこの冴子って子が乱暴しようとしたらアカリくんがあっという間にやっつけてくれる。だっておとといはあんな強かったんだから)

 これがエリカの計算だった。

 アカリにどう告げるべきか、思案しながらエリカは研究所へ戻ってゆく。

 と、そこへ急激な違和感が。

 ジャケッツの後ろ半分が浮遊している?

「きゃー!」

(ス、スカートがめくれる! だれよ!)

 後ろ手にスカートをもどしながら、怒りをこめてエリカは振り返った。

「あ、ごめんごめん。よそ見して歩いてたもんで携帯のストラップが引っかかっちゃって」

 携帯を手にした江奈があやまっていた。

(これはたしか江奈って人ね。ほんとにいやらしいわね。何がストラップよ、わざとやったくせに。男の和服姿ってほんとだらしなく見えるわ)

「いいです、もう。あ、そうだ。柴咲アカリくんどこにいるかわかりますか?」

「あそこだよ。じゃごめんね。急ぐから」

 江奈はどこかへ去っていった。

(あ、アカリがいた。またアヤメたちと一緒か。よし、今の和服男を利用してあげるわ。仕返しよ)

「アカリ先生。江奈っていうあのおじさんがすぐ来てほしいって」

「あ、中村さん。どこへ来てほしいって?」

 アカリが返事をすると、隣のアヤメがうらめしげな目でエリカを見る。ムクゲもマクラもエリカに非友好的な視線を送るが、無視してエリカはなめらかに続けた。

「ちょっと待って。なんでも一人だけで来て欲しいんですって。秘密の相談があるからっていう伝言なの。こっちよ」

「うん」

 憮然としてその場に残る三人娘にアッカンベーをしてやりたい気持ちをなんとか抑えると、エリカは落ち着いた口調で言った。

「今日の見学はとても有意義だったわ。講義初日どうもお疲れ様でした」

「いやあ、中村さんからそう言われるなんて、ちょっと嬉しいかな。で、江奈さんどこかな?」

 アカリが顔をほころばせる。

(こんな無邪気に顔をほころばせて。おととい教室で見た少年の表情だわ。でも、あの晩とは少しちがう……)

 あの晩以来何度も心の中で反芻してきたアカリの勇姿と、いま目の前にいるアカリの笑顔とがどうもうまく重ならないのをエリカはもどかしく感じていた。

「どこかな?」

「送迎バスの向こう側の茂みなの」

 ふたりは駐車場へ来ていた。

(あら、冴子っていう子いないわ。結局逃げちゃったのかな? それならそれでちょうどいいわ)

「江奈さんは?」

「うん、じき来るよ。その前にアカリくんね」

「なに、中村さん?」

「さっき言った夕食ご招待のことなんだけど、わたしね……」

「あ、それか。あのさ中村さん、わるいんだけどさ、ぐわあっ! いてて!」

 背後から羽交い絞めにされてアカリが苦しんでいた。

「きゃあ、なにしてるの! 乱暴しないで!」

 そのエリカの叫び声に呼応したように、冴子がアカリの腕をひねりあげた。

 その痛さにアカリが体を浮かす。すると冴子は足をひっかけてアカリを倒し、あっという間に手足を縛りあげ、おまけに口にガムテープまで貼り付けてしまった。

 なすすべもなくただそれを見守っていたエリカだが、どういうわけかそのとき初めて冴子の靴に気がついた。ピンクのリボン付きのかわいらしいシューズだった。

(信じられない。おとといはあんなに強かったアカリくんが、どうして?)

「中村さん、ご苦労様。ではこれをどうぞ」

 プシューッ。

 腕を突き出してきた冴子に何かを吹きつけられたエリカは七転八倒した。

(いたたっ、目が痛い! 喉も! スプレーかけられた? 声が出ないよ)

 落ち着かなくちゃ、落ち着かなくちゃ! エリカは呪文のように頭の中でそうくり返した。学校でしつこいくらい受けさせられている痴漢対抗訓練の成果だった。

(そ、そうだ。こんなときこそ防犯用の笛でみんなを! ああっ、しまった。通常登校日じゃないから忘れてきちゃった。うわあ、目が痛い!)

 そのうち近くで争う気配がしてきた。

 誰かが叫んでいる。

「アカリ、今日こそひと噛みにしてやる。見ろ! サングラスよりもっと確実なアイマスクだ。これをつければお前がいくら流血したって平気なんだぞ。おとなしくしろ!」

 声の主はもちろん冴子にきまっていた。

(アイマスク? 流血? この子いったい何しようとしてるの? ひと噛みって、まさかアカリくんに噛みつくつもり? だ、だれか来てえ! いったたた、喉が痛いよ! 声が出ない!)

「あ、ここにいた! 縛られてる! おいマクラ、大変だ。中村さんがアカリくんを襲ってる。オレたち後をつけて来てよかったぞ」

 明らかに別の声が聞こえてくる。

(襲ってるのはわたしじゃないでしょ! この声はムクゲのアホか! いたたた、目が痛くて開かない!)

「ちがうよムクゲちゃん。中村さんじゃないよ。知らない人がアカリくんを!」

「お、おじさまー、おじさまー、どこなんです! 早く来て―! おじさま―!」

「アヤメ! こいつを止めるほうが先だ。こいつマジだぞ!」

「アカリさん! アヤメがいまお助けします!」

(ああ、もうっ! どれがどいつの声かわかんない! あの三人組がきたのか? いたたた、涙が止まらない)

 しかしその大量の涙がエリカの目から薬を洗い流し始めた。どうやら冴子は市販の安物スプレーを使ったらしい。

(あ、でも少し見えてきた。三人で冴子って子にとびついてるわ。こうなったらわたしも行かなくちゃ)

 エリカはすくっと立ち上がった。

「甘く見るんじゃないわよ! おおりゃあああ!」

「え、中村さん? うわっ、どうしたのさその真っ赤な目!」

(なんだよ、この三人娘ったら今までわたしに気がつかなかったわけ? ふざけないでよ!)

 エリカは目をこすりながらも冴子の腕を探り当てた。

「離せ! ちくしょう、こうなったらおまえたちから先に片付けてやる!」

 四人から手を伸ばされて冴子は荒れ狂っていた。

(うわっ、この子乱暴だわ。力が強い)

 非力なエリカの手は雑作もなく払いのけられ、その反動で豊かな髪の毛が宙を舞う。

 そんなことに構わずムクゲが叫んでいた。

「オレ右手つかんだから、みんな手足を一本ずつおさえろ!」

 尻もちをついたエリカが目をこすると、三方からなりふり構わず打ちかかっていく三人娘の姿が見えた。みな必死で、あのアヤメまでがスカートがまくれあがっているのにも気がつかない様子で冴子につかみかかっている。ムクゲやマクラにいたっては、まるで幼稚園の砂場でつかみ合いをする園児たちのように泥まみれだった。

 だが冴子も負けていない。

「冗談じゃないわよ! 離せ、離さないか! えい、このっ!」

 なぜか一番遠くにいたはずのエリカの腰に冴子のキックがヒットした。

(あうーっ、蹴られたわ。いたたたた)

 だが、やられたのはエリカだけではなかった。

「痛たあ! ごめん、オレ右手はなしちゃった」

 ムクゲがそう言ったとき、冴子は完全に自由となりアカリのそばに座っていた。

「みんな動くんじゃない! もう一度わたしに近づいたらアカリの首がパックリ開くよ。これカッターナイフなんだから」

 冴子はアカリの首に何か鋭利なものを突きつけていた。

 アヤメが叫ぶ。

「きゃあー、アカリさん!」

(え? アカリくんが危ないの?)

 まだよく見えない目をこすって、エリカはアカリをさがした。

 やっとアカリの顔が見える。

(ああ? アカリくんの顔が! どうしたの、あれは? それともこれはわたしの目のせいなのかしら?)

 エリカはアカリの顔を見てとまどったが、そんなことはどこ吹く風で冴子は怒鳴りまくっていた。

「動くな!」

 冴子は相当興奮しているようで、顔は半ば笑っているようにも見えた。

「こうなったらおまえたちが見ている前でやってやろうじゃないか。は、ははは。へ、平気だよ。一瞬で済ませてやる。よしアイマスク装着完了。いくぞアカリ!」

 アヤメは今にも倒れそうな様子でただ叫ぶ。

「やめてー!」

 そんななかでエリカの目はアカリの顔に釘付けになっていた。

(何よ、あれは? やっぱりアカリくんの顔がおかしい。あれは……)

「うん? 何だお前の顔ベタベタして。このヌルヌルは何だ?」

 アカリの顔をなでまわして首の位置をさがしていた冴子がいぶかしげにそう言った。ごついアイマスクをしたおかげで冴子にはまったく見えていなかったのだ。

 冴子はアイマスクをとってアカリくんの顔を見た。

 それが命取りだった。

「血! 血だああ! 鼻から? ハ、ハナ血がこんなにー! うげげっ。ううっ、ううーん……」

(冴子が、倒れた?)

 エリカのかすんだ視界に地面に伏した冴子の姿がぼんやりと映っている。

 すかさずムクゲが怒鳴っていた。

「今だ! オレが右手おさえるからマクラは左手を。よーし、裏返せ。なんかロープない? 縛っちゃおう。ほらアヤメ、ぼうっとしてないで」

 ムクゲとマクラに冴子をまかせっきりにして、アヤメはひとりアカリの介抱にまわっている。

 ふくよかなその膝枕にアカリは頭をゆだねていた。

「アカリさんかわいそうに。そのお顔はいったいどうなさったんですの?」

「ふう、ありがとう。でもぼくの顔がどうしたって?」

 アカリは手で顔をなでてみた。

「あれ、鼻血が出ちゃってる?」

 アカリの顔下半分は血だらけだった。しかしそれは鼻血で、なにやらだらしなくたれ流された跡がやや滑稽味を帯びている。

 なぜかアカリは笑ってみせるが、それはとても気まずそうな感じだった。

「きっと、これはその、みんなが目の前でくんずほずれつするものだから、ついいろいろ見えちゃって、だから……」

 エリカは耳を疑った。

(え、なんて言った? 鼻血? いろいろ何が見えたって?)

 そのときエリカはアカリと目が合った気がした。なのにアカリはすぐ目をそらした。

 そしてようやくエリカは自分のポーズに気がついた。

(ハッ、いやだ。またしてもスカートがめくれあがってる)

 尻もちをついたままのエリカは立てひざをついて、広げた足をアカリのほうへ向けていた。こうなるとジャケッツのスカートはたいへんな角度でまくれてしまうのだ。大急ぎでエリカは正座した。

(み、見られたかしら? でもそんなことぐらいでこんなに大量の鼻血だすなんて、おとといのアカリくんとはイメージ大違いじゃないの)

 エリカはさきほどアカリの笑顔を見たときの違和感を思い出した。

(まさかあの夜とは別人? でも、そんなことは……)

「ここにいたのか! いったいどうしたんだ、みんな。アカリくん大丈夫か!」

 江奈の声だった。

「あ、江奈先生! これ鼻血ですから平気です。それよりこの子が。これおとといの子なんです」

 ひどく気になる様子でアヤメが聞く。

「アカリさん、この方ご存知ですの?」

 江奈にはすぐにピンときた。

「そうか。これが寮にも現れてアカリくんを襲ったという例の子か。どれどれ」

 冴子に手を伸ばす江奈をエリカは冷ややかにながめていた。

(ふん、スカートめくり男め。どうせまた女子の体をいやらしく点検するんだわ)

「おや? この子、まさか」

(何をわざとらしく驚いているのかしら。魂胆はみえみえなのに)

「なんてことだ……」

(あれ、おかしいな? なんか真に迫ってる? まさかほんとに驚いているの?)

「いや、間違いない。この子は確かに霧島冴子だぞ!」

(やだ! どうして名前を知っているの? そうよ、その子サイコよ。え? でも霧島って? なぜ苗字まで? わたしだって聞いていないのに……)

 ようやく晴れてきた視界とは裏腹に、今度は心にスプレーをかけられ惑わされたような、そんな不快感をエリカは感じていた。


            ♯ 16


 江奈邸の一階にある第二応接室でアカリはおちこんでいた。

(きょうのボクはいったい何をやってたんだろう? あの研究所でも、あの駐車場でも、そのあとのバスの中でも、解散場所の校庭でも、講師らしいことなんてなんにも……)

 たしかにロボット霊学研究所ではクラスのことは大道寺博士にまかせっきりで、アヤメにばかり話しかけていた。

 駐車場ではあっけなく冴子に組み伏せられて、それを自分の生徒たちに助けられたあげく鼻血をたらしていた。

 倒れた冴子のことも自分では何ひとつ処理できず、江奈が自宅の大原料理長を呼んで車で運ばせるのをただ傍観していた。

 せめて帰りのバスと解散のしめくくりくらいは講師らしくしようと思ったのに、ある生徒が騒いだせいでそれも満足にできなかった。

(満足どころかあの子が騒ぐせいでバスの中はどんちゃん騒ぎになっっちゃったじゃないか。なんでのべつまくなしにボクに向かってあんなに大声でまくしたてたんだ、中村さんは?)

 ある生徒とは中村エリカのことだった。

 冴子が倒れたあともエリカの興奮はとまるどころかますますエスカレートして執拗にアカリに説明を求めたのだ。

 バスの中でも周囲におかまいなしに冴子のことをしゃべるので、これまたクラス全員にかっこうのジョークのタネにされた。さらにムクゲがあおり、アヤメまでもがエリカにちくちくつっかかるのでバスの中は大騒ぎ。アカリと江奈の男性陣が唱える「静粛」を求める声はバスの窓の外にしか届かず、ふたりが見ると運転手までイヤホンで耳をふさいでいる始末。

 この調子は校庭までもつれこみ、結局この日アカリが言えた講師らしい発言は最後のこの「解散です! 次は来週の火曜日に教室でエチュードの予定です!」の一言だけだった。それすらもざわざわといつまでも落ち着かず、なかなか校庭から去ろうとしないクラスのみんなの耳まで届いたかどうかあやしいものだった。

 そして解散のあとでさえアカリには自分ひとりになるヒマが全然ないときていた。

 鼻血とはいえ大量に血を出したアカリのことを心配してアヤメたち三人の少女が江奈邸までかいがいしく送ってきてくれたのだ。だがもちろんこれはアカリにとって迷惑でもなんでもなかった。

 迷惑だったのはあと一人の生徒までが同行したことだった。

(ああ、どうしてここまでついてくるんだ、中村さんは。なんで家に帰らずここでも怒鳴りまくってんだよ、中村さんは!)

 だんだん腹がたってきたのか、アカリはけわしい目つきで中村エリカを見た。

 だがエリカはそんなことにも気づかず、ジャケッツ姿でがなりたてていた。

「どうして警察に引き渡さないんですか、江奈さん! この子わたしに痴漢よけスプレーかけたうえに蹴ったりもしたんですよ。柴咲くんの首にはカッターナイフを突きつけたし」

 江奈が、まあまあ落ち着いてというぐあいに両手を水平に泳がせて窓際でほほえんでいる。同じ窓を背にしてアヤメ、ムクゲ、マクラの三人がそれぞれ豪華な刺繍張りの腰掛けにおさまって、やはりエリカになだめるような視線を送っていた。

 この窓が第二応接室の売り物だ。室内をすべてロココ調にしつらえたこの部屋はそう広くない。庭に面した部分は全面がステンドグラス張りの扉になっていて、その表面には透かしのレリーフがほどこしてある。模様は庭を散策する王朝時代の恋人たちというモチーフで、落ち着いた中にもどこか心浮き立つ雰囲気をふりまく傑作だ。この窓を通すと真夏の午後のきびしい日差しもぐっと和らいだものに感じられる。

 その窓の前に江奈は立っているのだが、まだ和服姿でいささかミスマッチな光景なのが中村エリカのいらいらを強化しているらしかった。

「カッターナイフですよ、カッターナイフ! 障害致死でしょう! ねえ、アカリ先生!」

 いきなり自分にふられたのでアカリは椅子から腰を浮かした。

(そうだ、ボクのことだものな。ボクがなだめる役なんだ。ボクの生徒なんだもの)

 しかしアカリは適切な言葉が浮かばず口が開かない。正直いってもう疲れていた。

「致死って、誰も死んだりしていないよ。中村さん」

 口を開いたのは江奈だった。

「それにカッターナイフなんてどこにもないさ。あれはね、勉強用のラインマーカーだったよ」

(助かったあ)

 アカリは素直にそう思ったが、気分は沈んだ。

(江奈のおじさんにはもう助けられっぱなしだ。情けねえな、ボクって……)

 思えば自己紹介のあの日はアヤメたちに助けられた。

 そして講義初日のきょうは江奈に助けられた。

 いったいいつになったら自分ひとりで何かをできるようになるのか。

 何かを、この世界で。

 アカリはふたたび椅子に身をあずけて考え込んでしまう。

 しかしエリカのほうは勢いがとまっていない。

「ラインマーカー? で、でもね、スプレーは本物でしたよ! だからなんで警察を呼ばないんですか? だいたいなんだってこの子がここにいるんですか!」

 びしっと指さすエリカの対面には冴子が座っていてじっとにらんでいる。

 冴子はやはり庭を背にしてすわっているので逆光になり表情が読みにくい。それでも目の光だけが異様に目だっていた。

 そしてその目がエリカだけでなく自分にも向けられていることにアカリは気づいて、ぞっとした。

 エリカの抗議に江奈がこたえる。

「なんでも警察にわたしちゃえばいいというものでもないだろう、中村さん? たとえばあの晩みたいにさ」

「あの晩って……」

 エリカの声のトーンが落ちた。

「あの晩の話、柴咲くんから聞いたのね。そうなんでしょう?」

 湯気の立つ湯飲み茶碗を口にはこびながら江奈はうなづいた。ここまで和風を貫くとそれがかえってフランス風のこの部屋にもマッチしていた。

「だったら……知っていますよね。わたしのパパがどうして警察にいかなかったのかも。知ってるでしょう! そうよ、わたしのパパはどっちかっていうと被害者なんでしょ? ねえ、そう言いましたよね! アカリ先生!」

 エリカはいきなりアカリのほうへ歩きだした。

 今こそはっきりさせるわ、アカリ!

 あの晩のアカリがほんとうにあなただったのか、今はっきりさせる!

 中村エリカの固く思いつめた表情はそう語っているようにアカリには思えた。

 疲れて椅子を立つ気力もないアカリは、正面から突進してくるエリカをただ見つめていた。

 ところがいつの間にかエリカの前には江奈が立っていてこう言った。

「冴子さんもある事件の被害者なんだよ」

 エリカは完全に沈黙した。

 しかしアヤメたちは逆にさわぎだした。

「なんだよ、それ。どういうことだよ、江奈オヤジ?」

 ムクゲは騒ぎ、そしてアカリは耳を疑っていた。

「いま江奈のおじさんはジケンて言った? それともジッケンって言ったの?」

 アカリは思い出していたのだ。冴子と初めて会ったときのこと。彼女から聞かされたある「実験」のことを。

 アカリが見ると冴子はぽかんと大きな口をあけて驚きを全面に表していた。椅子から立ち上がった彼女は黒縁メガネを両手でとり、眉にしわをよせ、食い入るような視線で江奈を見つめていた。化粧っ気のまるでない、その自然な曲線の眉毛、ほほにかかる髪のウエーブ、そして少し厚みのある唇がおりなす野性味のある冴子の表情を見てアカリはなんともいえない魅力を感じていた。

 いずれにせよ、江奈のこの一言は当事者の冴子を含めてみなに衝撃を与えていた。

「どうしたい、みんな? そんなに固まちゃって。まあ、急にこんなこと聞けば驚くのも無理ないが。フフ、僕にも困ったものだね。ほんとに」

 例によって唇の端をクイとあげる江奈だったが、アカリにだけはその横顔にどこか悲しげな影がまじっているように見えた。

 アルカディア学園の教職員寮の部屋で冴子の両親の実験談を聞いたとき、アカリはなんて荒唐無稽な話だろうと軽くあしらっていた。しかしそうではないのかもしれない。そうアカリは漠とした不安をおぼえていた。

「さあ、席につこうよ。ひとまずお茶にしようじゃないか。実はここでみんなに聞いてもらいたい話があるんだよ。この三日間にみんなが体験したことに密接に関係したことなんだが……。だけどまず注文といくか」

 江奈が軽く人差し指をあげると大原料理長が無言で「かしこまりました」とうなづいてアヤメたちのほうへ近づいた。

 それまで大原シェフはずっと冴子のかたわらについていたので、やはり逆光で顔がよく見えなかったのだが、部屋の中央にもどってきた彼の顔にはいつものニコニコ笑顔が広がっていた。おそらくずっとそういう笑みを浮かべていたのだろう。

 ふう、とアカリは小さな吐息をもらした。

 大原シェフの笑顔を見てほっとしたのだ。

「紅茶? コーヒー? それとも久しぶりにジンジャエールにいたしますか、アヤメさま? 今度は酔っぱらわれて踊りださないように薄くいたしますが」

 アヤメはしゃれたロココ風の椅子の上でぴょこんと跳ねると、両手で口をおおい目を丸くした。

「え、なに? アヤメったらジンジャで酔っぱらうの? ガハハ、お子ちゃまあ。オレ聞いちゃった聞いちゃった」

「ち、ちがいますムクゲちゃん! うそです! あのときは、その……」

 あたふたするアヤメを見て、アカリの心はようやくリラックスできた。

(大原さんはいいなあ。いつも陽気でジョーク好きで。ボク大好きだよ)

 ずっと緊張続きだったきょうのアカリが初めて気を緩めることのできた瞬間だった。

 大原シェフはひとりひとりに注文を聞いてまわったが、そのつど気の利いた一言で座をわかしている。

(きっとボクのとこには聞きに来ないぞ、ふふ。だってぼくたちは)

 そうアカリが考えたとき、注文をとり終えた大原シェフはニヤッとアカリに目配せしてから部屋を出ていった。

(そうさ。それでこそ大原さんだ。いちいち聞かなくたってボクの注文は血抜きパインジュースだってわかってるんだよね、大原さん? だってぼくたちは新作料理の共同開発者なんだものね!)

 アカリが江奈邸に引き取られたころにまず問題になったのが食べ物だった。なにしろ血がいっさいダメとなったので厨房は大騒ぎだったが、これがかえって大原料理長のシェフ魂に火をつけたのだ。

 大原シェフはアカリの「わがままな注文」に創作意欲を刺激され、未知の開拓に大いに腕をふるった。今ではヒマさえあればアカリに新しい注文をたずねに来るほどだ。厨房にはアカリ専用コーナーが出来ていて、そのおかげでアカリも頻繁に一階離れのキッチンでよく時間をつぶすようになった。

 すでに下ごしらえをさせていたのか、大原シェフはすぐにワゴンをごとごと押して部屋に戻ってきた。

「ほお、プチケーキつきだね。さすが大原くん。さあ、おかわり自由だよ。まず一杯やって落ち着こうや。な、ムクゲちゃん。お・ち・つ・こ・う」

 江奈の言葉を待たずにムクゲはケーキをぱくついていた。

「だってえ、ほんとはもうお昼の時間じゃん。ねえー?」

 ムクゲが横目で呼びかけると大原シェフがすかさず返事した。

「もちろんお茶のあとにランチの注文をおうかがいするつもりでございます。ムクゲさま」

「じゃオレさ、ひさかたぶりに、夏のてんぷら御膳!」

 少女たちはお腹が限界だったとみえて次々と注文した。あのエリカでさえプイと横を向いたまま「フレンチ定食」とぼそりと言った。

 大原シェフが冴子にも注文をとろうとしたのだが、彼女は強く拒絶するように首をふった。大原シェフはしかたなく部屋をあとにした。

(冴子は注文しないな。お茶にさえ手を出さないぞ)

 実はアカリもほとんど食欲がなかった。お茶もあまり飲む気がしてこない。だから何も飲食しようとしない冴子に妙な親近感がわいた。

(いや、これは絶対に親近感なんかじゃないんだからな!)

 アカリは自分で自分を弁護した。

(ただ……。そうなんだ。あの緊張しきった目つきが……)

 裸で海岸に寝ていたこと、学園で冴子に襲われたこと、地下室でのアヤメの変貌、人工衛星との対話、そしてきょうのロボット霊学研究所での出来事。

 立て続けに自分の身に起こる異常事がアカリのみぞおちあたりに緊張のカタマリを形成しつつあった。

(そう言えば、この二日はあんまり眠れてないなあ。だから、あの目が……)

 だから冴子の緊張に満ちた目つきにアカリは共感できるものがあった。

(それにあいつ、なんか自分がアウトサイダーだみたいなこと言ってたし)

 おそらくこれから江奈が始めるであろう冴子の身の上話をアカリは強く聞きたいと願ったが、同時に知りたくないという気持ちにもさいなまれていた。

 思えばこの数日間というもの絶えず自分はこうしたアンビバレントな緊張の秤の上に立たされ続けているんじゃないか? こんなことがいつまで続くのか?

 そう考えると、ぐっと気が重くなるアカリだった。

「では昼食が出来上がるまで話につき合っていただきましょうか。話のあとでアカリくんには折り入って頼みたいこともあるし」

「え。頼み、ですか?」

「うん。折り入ってね」

 折り入ってを二回も江奈にくりかえされたことが、疲れた今のアカリの胸にこたえた。なんだか鈍重な鉛の棒をゆっくりと飲み込まされたような、そんな気がした。

(江奈のおじさんがボクに頼みごとだなんて何だろう? ほんと珍しいよね。あ、もしかすると頼みごとされるなんて初めてかもなあ。名誉じゃないか)

 そう自分に言い聞かせてなんとかいい方向に心を奮い立たせようとするのだが、なぜかちっとも元気になれないのだ。

「さあ、みんな。どの椅子でもいいから楽にしてくれたまえ」

 どうやら話は始まっているらしい。

「霧島さんも暖かいのを一杯やりたまえ。君はさっきまで気絶していたのだからぜひ必要だと思うよ」

 冴子が何も口にしていないのを江奈も気づいていた。

 だがその申し出を素直に受け入れる冴子ではなかった。

「なれなれしいんだよ、あんた。だいたいなんでわたしの苗字を知ってるんだい! 調子にのってんじゃないよ!」

 予想以上に荒々しいこの剣幕にアカリたち全員が立ち上がった。

「おじさま、大丈夫でしょうか」

 アヤメが叔父のほうへ擦り寄る気配をみせながら聞いた。

「心配しないで座って、アヤメ」

「はい……」

 この冴子の荒れた口調にはアカリもびびっていた。

(やっぱり吸血娘だなあ、こいつ。なんか同情して損したよ。そりゃそうだよ。二度もボクの血を吸おうよしやがって、まったく。ムクゲちゃんが言うとおり縛っておけばよかったな。どうして江奈のおじさんは冴子を野放しにしておくんだろうなあ?)

「この人はね霧島冴子さんといって普通の人間だよ。翼だって見えないくらい小さい。きみらと同世代のいまどきの女の子さ」

(普通の人間だって? ヒマさえあればボクの血を吸おうとする娘のいったいどこが普通なんだよ!)

 アカリは心の中で息巻いた。

「アカリくんもそんなしかめ面しないでまあ聞きたまえ。みんな、霧島博士という人を知ってるかな。アカリくんはどうだい?」

(博士? じゃ実験なんかもほんとに出来たわけか。それなら一応インテリの娘、っていうこと?)

 しかしアカリには冴子の家が学者一家というのがどうもピンとこなかった。なにしろ二度も取っ組み合いをしているのだから。

「あの、知りません」

 アカリだけではなく誰もその名を知らなかった。

「そうか、みんなも知らないのか。大脳生理学界では著名な学者夫婦なんだが。彼女はその娘さんだ。ある事件で亡くなられたんだが」

 江奈は湯飲み茶碗をレース仕立てのテーブルクロスの上に置いた。

「そのご夫婦は事件というか、自宅にある実験設備の事故で亡くなられてね。そう、これは事故だったのだが、その時に僕も警察に呼ばれて事故現場へ行き、そこで冴子さんと知り合ったんだ」

「わたしはあなたなんか知らないわ。それにあれが事故ですって? はっ!」

(冴子って子はどうしてこんなに攻撃的なんだろう)

 アカリは眉をひそめた。

「事故だなんて、何よ、いまさら。全部わたしのせいにしたくせに。そうさ、わたしが殺してやったのよ。一人娘を人体実験に使うような親に生きてる資格なんてある? ふん、わたしがそう言えばどうせあんたがたは気がすむんでしょ」

「いや、きみがどう思い込んでいるにせよあれは事故なんだよ。冴子さん」

「事故だというならわたしを早く脳病院から出しなさいよ! そしてちゃんと供述調書をとりなおしたらどうなのよ!」

「冴子さんのお話はあのとききちんと記録したじゃありませんか」

「いい加減なこと言わないで! どうせあんたなんか何もわかってないくせに」

「いいえ、全部わかっているつもりですよ。満月の夜、変身する野獣、正しい獲物の選択、狩りの作法、頸動脈の感触、不死の儀式、遠く偉大なる先祖たちの呼び声」

 江奈の目の色が変わった。そう感じたアカリの背中に何かがスッと冷たく走った気がした。

 冴子もまた立ちつくしていた。

「ああ……」

「そしてあの事故が起きて……。冴子さん、あの事故も僕なりに分析してみたんです」

 たたみかけるように江奈が言う。

「あれは人体実験なんかじゃなかった。あなたによかれと思ってご両親がやったことなんです。霧島夫婦はあなたの脳を、正確にいえば忘れられた重要な遺伝子情報を覚醒させようとした」

「やめて……」

 両手で頭を押さえた冴子は江奈から目を離してどこか違う方向を見ていた。

 いつしか席を立った江奈は、その冴子の背後にゆっくりと近づいている。

「僕はこう思うんです。ご両親はあなたに自分の夢を託そうとしたんじゃないのかなって」

「うそよ……」

「いや、きっとそうなんです」

「あれのどこが夢なもんですか! そんな甘ったるいもんじゃないんだから」

 そう言ってふりかえると目の前に江奈が立っていたので冴子はヘナヘナとそこにあった椅子にへたりこんだ。

 冴子を見下ろしながら江奈が言う。

「研究記録をみればはっきりわかる。ご両親は、我々の祖先が現代人よりはるかに強力な能力を所有していたと考えていた。もし脳がその記憶を解放できれば我々は再びその強大な先祖の力を再獲得できるかもしれないとまで考えを推し進めていた。前世の記憶さえ呼び戻すことができれば、と」

(前世の記憶? それって今日どっかで聞いた言葉だな……)

 アカリは頭をひねった。

(そうだ! さっき見学したロボット霊学研究所で聞いたんだ。でも江奈さんたちの先祖っていったいどういう先祖なんだ?)

 アカリはますます頭をひねる。

「冴子さん。きょうのロボット霊学研究所は実はあなたがよく知っている場所なんでしょう?」

 江奈のその言葉に冴子はびくりとして彼に背中を向けた。

 その上におおいかぶさるように江奈は身を乗り出す。

「大道寺博士は霧島夫婦の盟友だったそうですね。大道寺博士もあの実験についてはよく知っていて僕も彼から話を聞いているんですよ。大道寺博士が言ってました。事故があったあの日こそご両親があなたに最後の処置を施すはずの日であったと」

「もうやめて!」

 冴子はまた頭をかかえた。ほんとうは耳をふさぎたいのに、どうしても聞いてしまう。そんな感じだった。

「今まで積み上げてきた処置の最終段階はその日に実施された。そしてそれは成功した! ちがいますか? あなたには祖先の記憶がよみがえった! そうなんでしょう!」

「やめてったら、やめて!」

「ねえ、冴子さん?」

 江奈の口調が急にやわらかくなった。

「冴子さん、どうかここで詳しく話してもらえないでしょうか。それこそ僕にはぜひ必要な情報なんです」

「ええっ?」

 冴子はふりかえって江奈を見上げた。

「あなたのご両親の望みは僕にとっても最後の望みなんです」

 冴子はしばらくの間、まじまじと江奈の顔を見つめていた。

 だが乱暴に江奈から目をそらして激しい口調で言った。

「いいかげんにして! なにわけのわかんないこと言ってるのよ。気味が悪い。いいかげん止めないといますぐアカリの首を引き裂いてやるから」

 そう言ってから冴子はぐるりとこうべをめぐらし、アカリを見つけると歯をむき出してつかみかかるポーズをした。

(ま、まだやるつもりなのか!)

 アカリはつい本気で身構えてしまった。

 だが江奈はそれを止めるわけでもなく、落ち着いた話しぶりで冴子に言った。

「冴子さん、僕にはそれもわかっているつもりですよ。アカリくんの血をねらう理由がね」

「理由を知ってる? ふん!」

 冴子は江奈を見ずもせず言った。

「でたらめばっかり言わないで! 何よ、知ったかぶりして!」

 冴子のその背中に染み入るような口調で江奈が言う。

「アイデンティティーですね」

「う……」

 冴子が凍りついたように動きを止める。

「アカリくんの血を狙う理由とは」

 アカリはごくりとつばをのむ。

 アヤメたちもみな椅子から立ち上がって固唾をのんで江奈の言葉を待っている。

「それはつまり、確固たる自己同一性をあなたが欲しているから。確かなアイデンティティーがほしいから。そうですね、冴子さん!」

 そうですね、という部分から急激に責めるような強い言い方になったので冴子をはじめアヤメやアカリまでがびくっと体を震わせた。


 その口調のまま、やや早口になった江奈の言葉が容赦なく冴子に浴びせられる。

「冴子さん! 実験を受けた後、あなたはいつも迷っていた。あなたの心によみがえって自分を惑わす祖先の記憶が本物なのか。それとも以前のように毎朝毎朝パック入りの血

ジュース

を大急ぎで飲み込んであたふたと登校していたかつての自分が本物なのか。一体どちらが本当の自分なのか、どっちの自分がリアルなのか、あなたははっきり白黒つけたいんだ!それでむきになってアカリくんをつけ狙うんだ! アカリくんが恐れる〝吸血鬼〟の姿を演出する理由もそれなんだ! そうなんでしょう!」

 それはアカリが今まで見たことのない江奈の迫力だった。

 ムクゲはすっかり口をつぐみ、姪のアヤメまでが壁にまで後ずさりしていた。

(な、なんだ、このド迫力は? 和服だと江奈さんてこんなに感じが違うのか。違いすぎるよ。まるで別人みたいだ)

 詰問の迫力に圧倒されながらも、しかしアカリはどこかで違和感をおぼえていた。

(でも、ちょっと……。冴子だって両親に死なれているんだし、家族と離れてひとりぼっちになるってそりゃあさびしいことなんだしさ。そのことでこんなにきびしく言わなくても……あれ? ボク、冴子を哀れんでる?)

 自分でも意外な冴子への思いにアカリはたじろいだ。

 あわてて冴子を見ると、アカリには彼女の目が涙で潤んでいるように見えてしかたなかった。

「うっ、ううう……」

 冴子はほんとに泣き出した。

「うう、……うわーん! うわーんうわーんうわああああん!」

(ご、号泣してる? あいつが泣くなんて……)

 そう言いながらも、冴子の泣き声にアカリは胸をつかれた。

 だが、冴子の号泣でいちばん取り乱したのは江奈だった。

「あ、すまない。いっぺんに痛いところをつきすぎてしまったかな。別に僕は冴子さんを追いつめようなんて……」

 江奈は冴子の肩に手をかけようとしたが、冴子はそれを打ち払った。

「うううっ、ちがうわよ、バカ! やっぱりわかってないくせに! ええーん!」

「バカって?……」

「わかってない、わかってない、何もわかってないのよ! どうせ誰もわかってくれないんだわ! うえーん」

「ど、どういうことかな?」

 江奈はいっぺんに勢いを失っていた。

「アレルギーよ! みんなこのアレルギーが悪いのよ!」

「アレルギー……とは?」

「血の赤い色を見るとわたしダメなのよ(泣)。だからいつもジュースを飲むときだって脱色したり他の色の器でカバーしたりとパパもママもわたしのためにそりゃあ大変だった(泣)。そしてやっとパパたちは『先祖返り健康法』の糸口をつかんだ。パパたちは自分の研究成果に飛びついて夢中になったのよ。わたしの体内で先祖返りが起きればアレルギーも克服できるって。生の動物にかじりついて生き血をすすっていたにちがいない先祖みたいにわたしも平気で血が飲めるようになるって(泣)」

 泣きながらも冴子は超早口でしゃべりだす。

 江奈は泣きじゃくる孫を前にしたおじいさんのようにおろおろした。

「でもわたしは嫌だった。そんなにまでして自分を変えたくないし、ほんとに先祖返りなんかしたら獲物に直接かじりつくようになっちゃうじゃないの。サピエスに、ウシに噛みつけっていうの? いやよー(泣く)。そんなときにあんたがでてきたのよ!」

 いきなり冴子はビシバシッと両手の人差し指でアカリをさした。あんまり勢いよく顔の向きを変えたのでピピピと涙が床に散った。

「ボ、ボクのこと?」

「そうよ! あんたよ!」

「ボクは何もしてない、でしょ?」

「何も、してないですって?」

 冴子は前歯で下唇をかみしめ、ワナワナと小刻みに体を震わせる。その目には次々と涙が充填されていく。

「し、したのよ!(泣)あんたは自分たちが吸血鬼の獲物だったって公言したじゃないの!どういうわけかパパたちはそれを聞いて大喜びしたのよ。ついにこれで待望の実験ができるって(泣)」

 冴子は泣き崩れ、両こぶしで床をドンドン叩きだした。

「ひどいひどいひどい! パパ、ママ、なんであんなことしたの? なんで嫌がるわたしをなだめすかして無理矢理オペ台にくくりつけたの? パパとママが何かを始めたとき、わたしは頭がもうろうとなってた。気がついたら急にわたしの翼がめちゃくちゃ大きくなっていて、まるで背中が爆発したみたいに羽根が伸びちゃって、その伸びた翼が何かのスイッチにぶつかってちゃって装置が爆発して、そいでパパとママは……うわーん!」

 一同は息をのんだ。

 それは冴子が床につっぷして号泣したからではなく、少女がひとり冴子の脇にひざまづいて肩に手をかけたからだ。

 それはアヤメだった。

「それでは冴子さんも、わたくしと同じように……」

 冴子は顔を上げアヤメを見た。

 それをアヤメは無限の慈愛をもって見つめかえす。

 その光景に見入っているアカリはこう思った。

(アヤメちゃん。きみはまだあの夜のことを、そんなにも気にしているんだね……)

 アヤメが冴子の腕を取ると、冴子はその腕を握り返した。

 まるで聖母マリアにすがる信者のように冴子は訴えるのだった。

「それなのに誰もわたしの話をまともに聞こうとしない。翼がそんなに巨大化するわけがないって、そう言うんです。だから、疑われたまま入院させられた後もわたしはずっと考え続けていたんです。絶対にあのアカリを許さない。必ずアカリを見つけて首から血を吸ってアレルギーを治してやるんだって。そう誓ったの。だって、そうしなきゃパパとママがかわいそうじゃないの! そうでしょう?」

 アヤメの胸に頭をあずけて泣く冴子の髪を、アヤメはやさしくなでつけていた。

 しかしアカリの胸は困惑の波で渦まいた。

(そんな……。ボクを襲うのがアレルギー克服のためだったなんて。それも両親の復讐のために……。だけどボクは冴子さんの両親に何もしてないよ! ねえ、ボクが悪いの?)

 アカリは冴子がうらやましくなった。今アヤメの胸で泣きたいのはこっちだよ、とアカリは思っていた。

 おずおずとした歩調で江奈が冴子に近づいた。

「そうだったのか。すまなかった冴子さん、実に的外れなことを言ってしまって。もちろん最初から冴子さんを責めるつもりなんて全くなかったのだよ。それどころか」

 だが冴子は次のように言ったのだ。

「もういいよ……むなしい」

「ん?」

 冴子はアヤメの胸から離れ、涙をぬぐっていた。

 アヤメが白いレースのハンカチを差し出すと、冴子はうなづいてそれを受け取った。

 そしてまたもとのクールな口調にもどってこう言うのだった。

「こうやって口にだして他の人に話してみたら、むなしくなってきた。なんか……ハラへった」

「ハラ?」

 江奈はきょとんとし、アヤメも「まあ」と口に手を当て軽く驚いた。

「なあ、おじさん」

 冴子は立ち上がって江奈を見た。

「はい。なにかな?」

「さっき料理人みたいな人がいただろう」

「ああ、大原料理長のこと」

「メシ食わせてくんないかな。実はきのうから食ってない。きのう家へ帰ってみたら閉鎖されていて中に入れなかった。だから……」

「もちろんいいよ」

 ようやく江奈は口の端をクイとあげてみせた。

「すぐに大原くんを呼ぶから。そうだ、食べやすいように色も工夫してもらうといい」

 冴子は、ふっと皮肉っぽい笑みを浮かべて軽くうなづいた。

 その冴子にアヤメが歩み寄る。

「あの、すみません冴子さん。わたくしアヤメと申します」

 ぺこりと頭を下げるアヤメに、冴子も「ああ」と言ってぎこちない会釈をした。

「えと、さっきは、その、どうも。あ、このハンカチありがとね。あとで洗って返すからさ」

 アヤメは軽く首をふる。そんなことは今どうでもいいというようなアヤメの切羽詰った目の色が冴子にも伝わった。

「冴子さん!」

「え! うん、なに?」

「あの、その時大きくなった翼どうなったんでしょうか? ずっと伸びたままだったんでしょうか? こんなことお聞きしてはほんとに失礼かと思うのですが。でも」

 冴子はちょっと驚いた顔をしたが、ムクゲとマクラはもっとびっくりした顔をした。ただ江奈がひとり静かに事の成り行きを見守っていた。

 アカリはどうかというと、あの夜の変貌を気に病み続けるアヤメのことが胸に迫り、なんと思わず涙ぐみそうになっていた。

 どうやらアカリの心の疲れはかなり蓄積して、もうほんのわずかのきっかけでも過剰反応してしまうようだった。

 しかし冴子のほうは泣くだけ泣いてすっきりしたのか、わりと気軽に返事をしていた。

「え? あ、別にいいよ。あん時は実験室のあちこちから火ふいててね、ほんとマジやばかった。だからもう、なんとかオペ台から脱出しようともがきまくってね。でもその間にまた縮んだみたいなんだ。気づいたときには元に戻ってたの。それっきり大きくなったことはないんだけどね」

「そうですの……」

 アヤメはまた物思いにふけってしまった。

 そこへ江奈が出てきた。

「冴子さんね、これは僕の姪のアヤメだが、アヤメも一昨晩に君と同じような経験をしてね」

 これには冴子もとびあがった。

「なんだって! わたしと同じって、まさか先祖返り体験?」

「あの、おじさま……」

「ちょっと! それこそ詳しく聞かせてよ」

 冴子が江奈とアヤメに詰問した。

 と、そこへ中村エリカがツカツカツカと歩いて出てきた。

「あのね、赤城小路さん! それ何のお話? もう、さっきから一体どうなってるのよ。いくら真夏だからってお化け大会の相談なの? はたで聞いてるだけで頭がへんになってくるわ」

「中村さんもその大会の役員じゃないか」

 そう言ったのは江奈だった。

 急襲をかけたつもりが、すかさず反撃されてエリカは面食らった。

「江奈さん? わたしがお化け大会の役員? いったい何言ってるんですか」

「だって考えてもみたまえ。君のお父さんを巻き込んだという事件こそ、この話すべての発端じゃなかったかな?」

「ああ、それはまあ、そうかもしれないですけど」

「だからもう君にも全部聞いといてもらったほうがいいだろうと思っているんだ」

「全部? だからいったい何のことなんです?」

 そのときアヤメが江奈のたもとをクイクイと引っ張った。

「おじさま、おじさま……」

「お、なんだいアヤメ?」

「わたくしも、やはり、その先祖返りとかいうものなの?」

 子リスのように首をかしげ江奈を見上げるアヤメの瞳に、またアカリは心を打たれていた。

(アヤメちゃん……)

「アヤメ、実はそのことだが……うん、やはりいよいよ話さなければいけないな。それも今すぐに。時きたれり、だ」

「失礼します。お呼びですか。昼食はもうしばらくお待ちください」

 部屋に入ってきた大原シェフの笑顔を見てアカリは一息ついた。

(シェフの大原さんだ。いつもニコニコしてるこの人の笑顔が今は本当にありがたいな)

「大原くん、例の件をいよいよみんなに話す時が来たよ」

 そう江奈が言うと大原シェフが江奈に握手を求めてきたのでアヤメたちはびっくりした。

 こんなことはほんとうに珍しい光景だったからだ。

「それはようございました! ご成功を、心からお祈りいたしておりますよ」

「うん、ありがとう」

 がっちりと両手で握手をかわすふたりの姿は感慨に満ちていて見るものを圧倒した。

 これを見た一同はこれから始まるという江奈の話に、なにか希望の光のような肯定的なイメージを抱いた。

 だがどういうわけか、アカリだけはどこか不安のような灰色のものが頭をよぎるのだった。できれば自分はこの話にできるだけ関わりたくないとまで感じている。どうしてこうもマイナスな感覚を持つのか、アカリは自分でもそれが意外だった。

「ではこのお嬢さんの注文を取ってやってもらえるかな。軽いものでいいから手早く頼むよ。さて、みんな」

和服姿の江奈がどっしり腰をおちつけた。

「実はねアヤメ、きのうお前から地下室の体験談を聞いて僕はある最終的決断をしたんだよ。もし僕の計画がうまくいけばきっとアヤメの悩みも解消すると思うんだ」

「わたくしの悩みも?」

(そうか、アヤメちゃんの苦悩が軽くなる話なのか。それならいいかな)

 アカリは少し明るい気分になった。

「ただ、それにはアカリくんの協力が必要だ」

「ボクのですか?」

 いきなり自分が関わる話が出たのでアカリの気持ちは一転して重いものになった。

「そして今となっては冴子くんの助言も」

「助言だって? わたしの?」

 江奈の言葉を不審に思った冴子はなぜかアカリのほうを見た。

 アカリはこの冴子のいぶかしげな視線に同じく疑わしげな視線をもって応えた。

 すると冴子はかなり満足したような表情をアカリに向けるのだった。

 だがアカリの心はいっこうに軽くはならなかった。

 江奈は続けている。

「そしてなによりもまず人工衛星PR―Xの回収を成功させて、ある確証を得ることが先決なんだ」

 江奈が部屋の四方に目を配っていることにアカリは気づいた。

(ボク知ってるんだ。これが何を意味しているのかボクにはわかる。屋敷中の警報モニターをチェックして侵入者の有無を確認しているんだ。何度か説明されたことがあったっけ。ほんとに大事な話をするときには必ずこのチェックをするんだって)

 アカリは手のひらが汗でにじむのを感じていた。

「あのさあ江奈おやじィ。悪いんだけどさぁ、オレったら全然話が見えてないの」

 急にムクゲのすっとんきょうな声が響いたのでアカリはずっこけた。

「さっきからえらくもったいつけちゃってるんだけどさあ。そりゃオレだって、それがアヤメにとって大事な話らしいってことぐらいわかるんだけどぉ、もそっとわかりやすく話してくれる?」

(ムクゲちゃんたらなあ、もう。どうもこの子、シリアスさがいまいちというか。うーん)

 そう言いながらもアカリの気持ちはちょっぴり軽くなっている。

「ややこしい話ですまないねムクゲちゃん。でもこれはアヤメのためというより僕自身の話なんだ」

「ええっ! じゃあエロい話?」

「ちがうよ!」

 アヤメも目をつぶって苦笑している。

「もっともエロスの神に捧げるべき話ではあるが」

 江奈がこう言うと、アヤメの顔色が変わった。

「エロスの神……それはキューピッドということでしょうか、おじさま? 愛する者たちを結びつけるという、あの?」

「そういうことだね」

(あれ? なんだなんだよ)

 アカリは目をぱちくりさせた。

(どうしたのさどうしたのさどうしたのさ。キューピッドって言葉が出たらがぜん女の子たちの目の色が変わってきちゃったよ。みんな身を乗り出しちゃってさ。あの冴子まで目をクリクリさせてるじゃないか)

 女の子感覚にうといアカリは場違い感をぬぐえなかった。

(もしかしたらロマンっぽい話なのかな。なんだ、へんな心配してボクってバカみたい)

 疎外感をおぼえながらも安心感を得るという器用なアカリだった。

「ほどなく落下してくるPR―Xの乗組員がもし本当に我々とは異なる種類の人類だと判明したら、それはとりもなおさずアカリくんの話がまったき真実だという立証になる」

(は? やっぱりボクの話なの? ちょっと、ちょっと)

 緊張すべきかそうでないのか、アカリはだんだんわからなくなってきた。

 みんなはテーブルを囲み、レースのテーブルクロスに肘をつきティーカップを握りしめながら話に熱中している。

 江奈が言う。

「つまりわれわれはアカリくんのいた世界が呼ぶところの『吸血鬼族』なる存在だと立証されるわけさ」

「そんな立証いらねえな、オレ」

「ボクには必要なんだよ、ムクゲちゃん」

「どうしてさ?」

「僕は自分が吸血鬼だと信じたいからさ」

「ええっ?」

 一同は目を丸くし、アカリはじっと次の話題を待った。

「それはこういうわけなんだ。これはあの部屋の話なんだが」

「あの部屋とは、わたくしに異変のあった地下の部屋ですの?」

「そうだよアヤメ。つまり妻の話なんだ。クリスティーヌのね」

 アカリの頭は話題の整理を自分に要求した。

(江奈先生が自分を吸血鬼だと信じたいって、どういうことだ? それに江奈先生の奥さんの話ってなんだ。先生の奥さんって死んでるんでしょう?)

「アヤメとアカリくんは見たけれど、あの部屋は僕と妻の思い出の品で埋めてある。クリスと過ごした日々を『永遠の美しい思い出』にするために僕が作った秘密の部屋なんだ」

「わあ、そんならオレも見てみたい」

「ああ、いいよ。ムクゲちゃんには、もういつでも見せてあげよう」

「でもおじさま、あの大きな箱は……」

「うん。アヤメのお察しのとおり妻の棺だ。これはちょっとした違法行為なんだけれども妻の遺体は墓標の下でなくあの部屋にある。特殊な冷凍装置付きの棺の中にね。例の爆破テロにあっても奇跡的にほとんど無傷だったクリスの遺体に対面したとき、僕はどうしてもクリスを朽ち果てさせたくはないと思った。だって僕らはまだ結婚して半年も経っていなかったんだよ」

「江奈おやじ……」

「ただできるだけ長く美しいままクリスを残したいといういたって漠然とした想いで僕はあの部屋を作った。ところがその後仕事の関係でたまたまロボット霊学研究所を知り、さらに霧島博士の研究を知ることになった。霧島夫婦の論文『先祖の能力』の中のあの一項目〝不死の力〟に触れたときに僕の頭にひらめくものがあった。〝不死〟は〝復活〟につながらないかと思ったんだ。そのときから僕は白昼夢の虜となった」

「おじさま、まさかクリスティーヌおばさまを復活させたいとお思いなのでは?」

「アヤメ、僕の愚かしい心を笑ってくれて構わないよ」

「おじさま……」

「そんなときにアカリくんの氷が出現し例の吸血鬼論をアカリくんが話すのを聞いたとき、僕の心は取り返しのつかない暴走を始めてしまったのだよ。アカリくんが熱弁する『元の世界』の話は誰の耳にも奇異に響いたが僕にとっては福音だった。アカリくんの吸血鬼伝説の中にはやはり不死身伝説も含まれていたからね」

(これではまるで冴子と同じだ。それに、ボクの話が江奈先生の心を動かしただって?)

「そして同じようにアカリくんの話にとびついたのが霧島夫婦さ。アカリくんの出現が霧島夫婦の研究を一気に加速させたのは間違いない」

 今では同じテーブルについている冴子がじっとアカリを見ているが、今度はどういう目つきで見返せばいいのかわからず、アカリは江奈のほうへ集中するふりをした。

「しばらくして僕は幸運にもアカリくんを引き取ることができた。そして次はいよいよ霧島博士に会って話を聞く番だと思ったが、その矢先にあの事故が起きてしまった」

 このとき冴子が言った。

「それならどうしてわたしも引き取ってくれなかったのよ。そうしたらあなただってもっといろいろと詳しく知ることができたでしょう。それをあんな病院に入れるなんて」

「できなかったんだよ冴子さん。僕だって引き取りたかったんだが、アカリくんと違ってきみには親族の壁があった。いろんな人が僕の申し出を拒絶した。それに心神喪失状態を理由に過失を問われなかったきみは入院が無罪の条件だったし、僕には手が出せなかった」

「でもおじさま」

「なんだい、アヤメ?」

「復活だなんて、そんな夢みたいなことを本気で?」

「うん、まったく夢だね。でもPR―Xの存在もまた我々にとっては夢マボロシの類なんだ。それになんといってもアカリくんの存在自体が夢みたいなものだろう?」

(ボクが夢みたいな存在……江奈のおじさんにとって、しょせんボクは、マボロシみたいな存在? 実体のない、軽くて現実味のない、夢みたいな存在……なの?……)

「PR―Xの回収で確証を得ることができたら僕はすぐに実行してみるつもりだよ。だめでもともとだし」

「へえ、江奈おやじってそんなロマンチストだったんだ。意外だねマクラちゃん?」

「ほんとだね、わたしもおじさんのことちょっと見直したかな?」

「あの、何度もごめんなさい、アヤメ自分のことばかり聞いて。おじさまの夢がかなったとしてもどうしてそれがわたくしの悩みの解消につながるんでしょうか?」

「だってアヤメ。妻に祖先の力がよみがえって復活できたとしたら、それこそ祖先の力は素晴らしいものだってことになる。そうすればお前の先祖返り体験だって誇るべき祖先の力の発現だってことになるだろう?」

「そうだよアヤメ、ロマンな話じゃないか。なんかオレ燃えてきたよ」

 はっ、とアカリは目が覚めるようだった。

 吸血鬼の復活!

(ち、ちがう。みんな、違うんだよ! そんなロマンチックな話じゃないんだよ!)

 口に出せないもどかしさにアカリは苦しんだ。

(だって吸血鬼の復活に必要なものといえば! 不死の儀式に必要なものっていえばアレじゃないか。アレだよ、みんな、アレだろう? そんなのボクはごめんだ!)

 ついにアカリは気づいたのだ。

(ボクにそのアレになれっていうのか? ボクの協力が不可欠って、つまり、ボク自身をアレに仕立てるっていうことなのか? まさか……いや、でも……)

「アカリくん、僕の夢の実現に協力してもらえるだろうか?」

 気がつくとアカリの耳のそばに大きな江奈の顔があった。

 その顔は笑っておらず、まばたきのないふたつの瞳がアカリを見つめている。

(……怖い)

 アカリは初めて江奈のことを怖いと感じた。

 江奈の瞳がアカリを見続ける。

 その瞳の渦に飲み込まれていく感覚に酩酊しながらアカリは考えていた。

(今までボクはこの江奈さんを尊敬さえしていた。文句なしに親切で信用できる人だと思っていた。それなのに……)

「祖先のちから……たしかにそう考えるとわたくしも少し気が楽になってくるような」

(実はボクを引き取ってくれた裏にこんな計算や計画があったなんて。そんなこと一言だって話してくれはしなかった……)

「そうそうアヤメ。ものはためし、ってね。なんかオレ、すっごい楽しみ!」

(それじゃあボクって初めからゲーム盤上のコマだったの? ただ利用されるだけの?)

「江奈おやじもドーンといっちゃえよ。オレ応援すっから」

「そうか、よかった。いや正直なところね、みんなから総スカンくったらどうしようかと内心ヒヤヒヤだったのさ。なあ、アカリくん?」

(あれはアヤメちゃんの声なの? それともムクゲちゃんの声だった? ああ、この声だけはよくわかる。江奈さんの声だよ。あああ、みんなどこへ行っちゃうんだ? みんなの声がぐるぐると渦をまいて、どこかへ遠ざかってゆく……)

 開いたドアの間から昼食のときを告げる大原料理長の声は、もうアカリの耳には届いていなかった。



    ♯ 17


 竹製ヒューマノイドADA―M9000通称アダムは悩んでいた。

(いつまでも悩んでいてもしかたがない……。よし、もう一度ためしてみましょう)

 心臓部のエンジンに勇気と希望という油を注いだアダムは、こう言ってみた。

「こんにちは。わたしはアダムです」

 おさだまりのように相手の男は驚愕の表情を浮かべる。それがまるでアダムに対する最高の賛辞だとでも思っているかのように。

 そして、これもまたいつものように、こう続けるのだった。

「へえ、コレしゃべるんだあ。はは、けっさく」

 ここまではまだいい。善意に解釈する余地なきにしもあらず、と博愛主義者を自任するアダムはいつもなんとかこらえる。

 だが問題はここからなのだ。

 きょうの相手はさらに次のように答えてアダムの不快応答記録のバリエーションを増やした。

「だけど強力な電磁波とか出すようだと検査機器に影響するので、わるいですけどこいつオフにしてもらえませんか。え? その程度の出力ですか。ふーん。ではまあ、そのままで結構です」

(ほら、またです)

 アダムはそれ以上もう話さない。

 またしても希望は裏切られたのだ。

(彼は名前も名乗らない。それどころかわたしを見て話もしない。わたしを横目で見ながらパパとだけお話しする。これではまるでわたしがモノみたいではないですか)

 これがアダムの悩みだった。

(確かにわたしたちロボットは金属とプラスチックと木片の寄せ集めです。だが、そんなことは理由にならないはず。なぜなら人間もまた水とタンパク質と有機物の混合物にすぎないのですから。それなのに……。いったいいつになったらわたしは対等に扱ってもらえるのですか)

 おっと。

 そう言うかのような仕草でアダムは片手を口にあてる。

(対等は言いすぎでした。もちろん人間とわたしは違います。対等なわけがありません。当然です。しかし決定的に違うというものでもないでしょう。その気さえあればお互い会話ができる社会的存在です。ならば、おのずから礼儀というものがあるでしょうに)

 アダムを作った大道寺博士も知らないことだが、アダムはおそろしく自尊心が強かった。

(それにしてもこの男、たいそう礼儀知らずなかっこうですね)

 りりしい眉毛で縁取られたアダムの目が相手の男をきびしく観察する。

(流行度ゼロ。好感度マイナス。機能性数値保留。なんですか、この服は。パンパンに膨れ上がった白い風船ですか。その上にかぶった工事現場用ヘルメットの黄色はどういうデザイン意図ですか。強度透明プラスチックのマスクも視界角度が狭いですし、ふくれた腕とのアンバランスがいちじるしいぴったり手袋も異様です。いっそ深海探査用の長い酸素ホースでも頭のてっぺんにつければ似合うのに)

「みなさんの持ち物検査は以上で終わりです。では中の様子を見てきます。きっともう準備が整うころだと思いますので」

 男の声は、その宇宙服のようないでたちの中からマイクを通して聞こえてくる。

 そのマイクがいったん切れたような音がした。

 ところがまた、ブツンという音と共に男のエコーした声が聞こえてきた。

「あ、そうそう。PR―Xの本体が回収されたという報告はまだ入っていません。ただし乗務員と一緒に回収されたカプセルの断片はすでに東京に向けて出発したそうです。われわれのほうもすぐですよ。では」

 男はそう言って回れ右すると、じれったいほどゆっくり歩きだした。

 長いカステラの箱を横に倒したみたいなこの部屋の突き当たりに向かって一歩一歩すすんでゆく。

(やはり機能性もマイナスですね。チャップリン映画のようにあの尻を蹴っ飛ばせたら愉快でしょうに、実行不能)

 アダムの足はおよそ三十度ほどの角度で上にしかあがらない。アダムには歩行機能がないのだ。

(歩けないわたしにとっては、きょうのような遠足は貴重な娯楽なのです。だからネクタイまでしてきたのに、またしてもこの扱いとは。これでは十分に楽しめないではないですか)

 大道寺博士がアダムを作ったのは霊魂の探求のため。つまり知能回路を重視しているので歩行機能のキャパシティはすべて知能回路にまわしていた。

 だから車椅子がアダムの移動手段で、そのエンジンは大道寺メグだった。

「おひぇー、めんどくさぁい」

「さっきからうるさいのう、メグ。おまえもたまには外へ出て運動せにゃさっきの細菌防護服男のように太っちまうぞ。このお嬢さん方のような柳腰にはほど遠いぞい」

「あれ、おじいちゃん。今なんか、なまめかしいこと一発かましたりした? オレなんか、ゾクゾクっときたよ?」

「ききき、あいかわらずいい気風

きっぷ

じゃのう、あんたは」

「やだね、ムクゲちゃん。今日はあんまり恥ずかしいことやめてよ?」

「なんだよマクラ。クギさすならエロおやじにやっとけって」

「ここでは僕をそう呼んじゃだめだよ、ムクゲちゃん。公式招待されているのは僕で、きみらはあくまで付き添いなんだからね」

「なーにカッコつけてんだか。だったら前のはだけた和服なんて着てきちゃダメじゃん、エロ和服おやじ。ね、アカリくん? あの、アカリくんったら」

 アダムはアカリのほうを見た。

(あの少年は返事しませんね。しかも下を向いたままで、質問者に失礼ではないですか)

 大道寺博士親子も江奈もムクゲもマクラもそこで待たされていた。

 そしてアカリも。 

 だがアカリはまったく元気がないようだった。

 朝はやく江奈邸を出発した大型バンはアルカディア学園の生徒寮でムクゲとマクラを拾い、ロボット霊学研究所にまわって大道寺博士親子とアダムを積み込んでこの三崎漁港へ来ていた。

 このバンの中でアカリはほとんど口をきかなかった。もちろん江奈は気にしたが、いよいよPR―Xの乗組員と対面するので緊張するのは自然かとも思い、アカリをそっとしておいた。ムクゲたちも同様だった。

 しかし、ついに現場にまで到着したのにまったく意気の上がらないアカリを見て、とうとうムクゲもがまんできなくなった。

「ねえ、アカリ先生ったら! ちょっとお、生きてる?」

 先生と呼ばれて、アカリは電撃が走ったように顔をあげた。

 アカリはようやくムクゲたちのほうへ顔を向けて、ひとりひとりをつぶさに見た。まるで今きたばかりの来客の顔ぶれを確かめるような目つきだった。

 一度見て、さらにもう一度見渡すと、アカリはけげんそうな顔をしてみせた。

「あの、アヤメちゃんは?」

 第一声が別人の名前だったのでムクゲは心底がっかりした。

「先生、起きてます? 寮の玄関でオレ伝えたでしょ。アヤメも出かける用意してたけど、何か急に準備したいものができたから少し遅れていきますって。覚えてない?」

「え、ああ、そうだね」

 ほんとはアカリは覚えていなかった。今の今までうわのそらだったのだ。

「そうだよね。だけど何の準備だったっけ? えーと、ムクゲちゃん?」

 そっぽを向いて目をつぶりプーっとほおをふくらませたムクゲが、自分の名前を聞いて横目をあけた。

「さあね、オレ聞いてないっすけど。マクラは?」

「わたしも知らない。てっきり一緒に出かけると思ってたから。でも何か買いに行くとか探しに行くとか言ってたみたいだけど、間に合うのかな?」

「そう……」

 アダムは首をかしげる機能もないのでそうはしなかったが、こう思っていた。

(これが今どきの少年少女の青春のナマ会話というものなのでしょうか。こんなにも高いストレス指数が検知されるのですね。ネット検索から推定していた会話における甘さ含有率がまるで異なります)

「おい、江奈くんよう」

(あ、パパですね。これまたストレス指数が高い音声ですが)

 できうる限りのスムーズさで首の角度を変えたつもりだったが、大道寺博士と江奈を交互に見るあいだじゅうアダムの頚椎部からコキコキという音が聞こえた。

「なんですか、おじいちゃん?」

「それはやめんか! しつこいな、君も! なあ、いつまで待たせるんじゃ。PR―Xの連中はもうこの近くにおるんじゃろう?」

「里見さんはそう言って電話くれたんですがね。東京から僕らがここへ着くころには会える手はずが整うはずだって」

 江奈たち一行は神奈川県東部の三浦半島まで来ていた。半島の先端にあるこの三崎漁港はマグロの水揚げで有名な港である。

「機体が黒潮上に落下したおかげでこうして近場ですんだんです。すごいラッキーじゃないですか、博士」

「三時間も外で待たされてなにがラッキーじゃ! もうすぐわしの車椅子のバッテリーが切れるぞい」

 ほとんど小型自動車みたいな自走型車椅子で大道寺博士は絶え間なく部屋の中を行ったり来たりしていた。

 その博士の顔がにわかに輝く。

「お! 来おった! あいつめ、今度待たせたら体当たりしてやるわい」

 風船男が遠くの壁のドアから出てこちらへ歩いていた。

(この歩行速度が維持された場合、到達推定時刻は四十二秒後。待機中の全員の心拍数増大中。とくにパパが高いですね。狭心症歴ありなのに)

 アダムの初期予測より数秒ほど早く風船男はやって来た。それなりに善意を見せているつもりらしい。

「お待たせしました。当院の移動検査室へようこそ」

 アダムは思った。

(それにしてもこの男の声はストレス指数が低いですね。彼の仕事は何でしょう。移動病院の職員とはそれほどお気楽な商売なのですか)

 風船男のマイク声が密閉された構内に響く。

「たいへん自己紹介が遅れましてすみませんでした。どうせ面会不可能なら、紹介も不要だと思ったもんで。だからみなさんのお名前も聞かなかったわけで」

「じゃ会えるわけか。そりゃ結構なことじゃ」

 大道寺博士のいやみも防護服の前には無意味だった。マイク声は途切れることなく続いた。 

「この全長二十メートルの移動病棟トレーラーは国内最大規格で当院の秘蔵っ子です。シャッター隔壁で車内を何部屋にも分割でき、簡単なオペも可能です。わたしが医療チームのリーダーなんですが名前はちょっと言えないことになってまして」

「江奈です」

「おお、あなたですか。警視総監直々の命令なので急いだんですよ。車外で三時間ほどお待ちいただきましたが、でも通常の検疫なら二十時間は面会謝絶なのですから。ウイルスチェックも超特急でやったんです」

「ええ、急いでもらって感謝しています。この三崎港から五キロ内は完全封鎖だし、港内は完全防護服の消毒班と警備隊で溢れかえってるし、このように平服でトレーラー検査室に入れていただいたことが夢のようです」

 アダムはまた首をかしげたい気になった。

(江奈氏の笑顔は声から測定できるストレス指数の高さと一致していません。風船男と握手もせずに和服の中で腕組みしたままです)

「ああもう、暑うてかなわん。いったい会えるのかね会えんのかね、どっちなんじゃ。ここは蒸すのう。無菌ルームというのはもっと涼しいと思うたのに。メグ、うちわ取ってきてくれ」

「えー、めんどくさぁ! アダム出してよ」

(ママのストレス度も高いようです)

「この場所は単なる外界との隔室ですから。あのシャッターの向こうが無菌ルームです。あっちは寒いぐらいですよ」

 新しい情報が入るとアダムはすぐに計算する。

(それはそうでしょう。重要設備がすべて車両前方にあることは配線状況で一目瞭然です。したがってPR―Xの乗組員の推定所在位置は前方隔壁のすぐ……)

「ということは、PR―Xの連中は壁のすぐ向こうにおるんじゃね?」

 アダムの椅子ががたがたっとゆれてメグの手を驚かした。

(ああっ、待ってパパ! それはわたしが今言おうとしたことなのに。いつだってパパはわたしの言葉を先取りして言ってしまうんです。だからそれを見たお客様に「アダムは少し足りない子」という印象を与えてしまうのです。もう、パパの意地悪!)

 風船男のマイク声は能天気に続いていた。

「あと数分で初回分データが出揃いますからそのあとに少しだけ会えますよ」

「で、どうなんです?」

「何がでしょうか、江奈さん?」

「医師団の所見ですよ。ここに同席しているものはすべて守秘義務宣誓書にサインしていますから」

 男は黙って全員を見ようとした。目の部分が狭いせいか、男はおおげさな身振りでぐるりと半回転して確かめたが、その目は初めて医師らしい冷静な光を放っていた。

「ふう、まあいいか。その、なんといいますか。体組織の構造にはかなり異常というか、通常とは異なる点がありますね」

「するとやはり、我々と違う?」

 江奈の声紋が急激にポジティブな波形を現したのでアダムは、あれ?と思った。

「消化器なんてかなり違いますよ。ワイルド系と言うか肉食動物に近いものがありますね」

 今度はまた別の方角から新しい情報が入りアダムを忙しくさせた。

(なんですか、あの少年ですか。アカリという子が急激に顔をしかめましたね。でも原因測定不能です)

 マイクの声が言う。

「それと翼手筋にいたっては痕跡すらないのです。その代わりというか腰椎部にしっぽの名残のような骨まであり、全体的には人間よりも動物に近い印象を受けつつあるところです。あんなんでよく流暢な日本語が喋れるもんだなって」

(おやおや。アカリという男子の血圧値が異常に上昇していますよ。心拍数も著しく増加中。何に対する反応ですか。解析に要するデータ、いちじるしく不足中)

「彼らの健康状態はどうです?」

「腹が減ったと大声で騒いでますから良好なんでしょう、きっと」

「きっと、とはどういう意味です?」

「だって身体構造が違うので健康基準値が分からないんですよ。獣医でも連れて来りゃよかったんですが。ただ宇宙服にはかなり焼けただれたところがありまして」

「火災ですか? それともまさか被爆した? PR―Xは原子力船ですか?」

「いえ、放射能は未検出です。おそらく宇宙線を大量に浴びた跡じゃないかと心配してスキャンしてるところなんです。見かけは元気でも特に脳組織は綿密にスキャンしておかないと」

「ところで、PR―Xの船体はどうなったんです。回収できたんですよね?」

「あれ、聞いてませんか? 本体はまだ捜索中ですよ」

「だからさっきから本体本体って、それはどういう意味ですか?」

「いやね、びっくりしましたよ。うちら専門外なんでこれは担当局からのまた聞きなんですがね。なんでも大気圏突入の後に巨大なPR―Xの船体から脱出用艇みたいなカプセルが離脱したそうです。それが乗務員用カプセルだったわけで本体から大きくコースをそれて日本近海に落下しました」

「それでは誰が彼らを?」

「たまたま日本のマグロ漁船団がその海域で操業中だったので彼らを救助してこの三崎港まで連れてきたわけです。しかしマグロ船の連中ときたらまったく無謀もいいところだ。もしウィルス感染でも起こしていたら大惨事ですよ。全く素人はこわい」

「すると、本体というか母船のほうはどうなったんです?」

「こちらはNASAの計画通りアメリカ第十艦隊が待ち受ける太平洋場のポイントに落下したみたいですよ。しかし落下の勢いが激しくてそのまま猛スピードで深海へ沈没中ということです。それにしてもカプセルが本船から飛び出して着水するなんて我々のテクノロジーとは大違いだと思いませんか。こうなると『異なる人類』説は有力ですな。いずれにしてもNASAの連中はカンカンだそうです。PR―Xの乗務員はカプセルのことを最後まで黙っていたようですね。回収を仕切ろうとしていたNASAは大恥ですよ」

「あの、ボクも質問していいでしょうか?」

 それはアカリだった。

(あ、どうしました、この子?)

 アダムだけが異常に気づいた。

 常にアカリを見つめていたムクゲでさえもそれに気づくことができなかったが、アダムはわかったのだ。

(これは大変な数値だ。わたしも資料だけで知っている数値です。とくにこの変化の勾配はおそろしいです。脈拍、呼吸数、心拍数、分泌系推定係数エトセトラエトセトラ。これほど急激に変化をくり返すなど、まるで大手術中の患者の様態ではないですか)

 アダムの頭部は最大速度でアカリの方角にフィットした。

(それなのにこの少年の表情は……。なんと平静なのでしょう……)

 センサー収集データと目視データとのミスマッチの度合いがあまりにもけたはずれなことがアダムの全身を揺るがしていた。

(これまで経験のないデータです。衛星中継のオリンピック決勝戦でもお目にかかったことのないほどの。ああ、言葉を探さなくては。そうです! これは「覚悟」ですね。この単語が最適当該語である確率八十パーセント以上)

 アダムは知らなかったが、アカリはいま一世一代の質問をしようとしていた。

 きのう江奈の計画に不安のどん底に突き落とされたアカリの魂は沈みきっている。

 この世界でもっとも頼りにしてきた江奈が信じられなくなったアカリにとって、PR―Xが最後のよるべだった。

 もし彼らがほんとうにアカリと同じ人類の生き残りなら、なんとか自分もやり直せるかもしれない。そうアカリは期待していた。期待というよりその気持ちはもはや祈りに近いものだった。

 そんな背景など知りようのないアダムだったが、おのれの全存在を賭けた気迫というサンプルを目の前で見せつけられて、アダムの全センサーには鳥肌がたった。

 こうしてアダムの関心度は最大にセットされた。

「いいでしょうか? ボクにも聞きたいことが……」

「もちろんさ、アカリくん」

 アカリは防護服の音声センサーと思われる男の胸の部分に話しかけた。

「脱出用カプセルのほうはどうなりました? 回収したんですよね」

「どうかな? 漁師たちはそのままブクブク沈んだと言ってましたね」

「でもさっきは断片を回収したって」

「ああ、なんでも拾えたのはゴムボートだけって話で。かんじんのカプセルを探すために巡視船が急行したはずですけど、あれから新しい報告は耳にしてないなあ。なんでも日本海溝付近らしいですよ」

「そんな……船の計器類を詳しく調べれば年月日ぐらいは分かると思ったのに」

「へ? 年月日なんて腕時計を見れば分かるでしょう?」

「違うんです! ぼくの世界の年月日なんです! ああ、せめてパソコンでも残ってたら。くっ、だめなのか……」

(なんとまぁ驚きました)

 アダムが後ろへのけぞるようにボディを傾けたので、メグはそれを受け止めるために足をふんばらなくてはならなかった。

(そうですか。この子は自分が異世界から現代社会に迷い込んだとこれほどまでに本気で信じているのですか。なんだか哀れです)

 アダムはなんだか知能回路のあたりがホンワカとするような感触を味わっていた。

(人間ならわたしのこの反応を何と表現するでしょう。あ、そうか、惻隠の情なのです)

 とても気の利いたことを考えついたと思ってアダムはかなり大きな優越感を持つことができた。

(ふふ、そうですね。では、これからはせめて「くん」付でアカリくんと呼ぶことにしてあげましょうか。エンター)

「アカリくん、そうがっかりしないでください。本人たちから聞けばよいではありませんか。元気を出してください」

 背後からの声にアカリはびくりと跳びあがった。

「え? 今アダムが言ったの? あ、ありがとう」

 少なからずアダムは失望した。

(わたしが何かを自発的に発言するといつも決まって相手の人間は驚いたように目を丸くしてわたしを見つめるのです。今アカリくんも全く同様の反応を示して……)

 しかしアダムは思いなおした。

 アカリがにこにこして自分を見つめていたからだ。

(いや、そうじゃない。ちょっと反応が違うようです。彼の言葉のストレス係数がゼロ。これは驚きです。ということは、つまり、彼はわたしを自分と同等の存在とみなしている? ハハ、まさかそんなことが……いや、でも……微笑んでるし……わたしのために……)

「へえ、慰めるなんて、アダムっていいとこあるじゃん。オレちょっと感動したかも」

「あ、ほらムクゲちゃん。アダムがにっこりと微笑み返したよ。うっそー、アダムすごーい」

 ムクゲとマクラは上機嫌にはしゃいでアダムの竹製ボディをパシパシたたいた。

 だがアダムはそれをあまり歓迎しなかった。

(せっかくのご好意ですが女子の笑い声はキンキンと響いてわたしの耳には辛いのです。べリーソーリー)

「ほんとにありがとうアダム。ちょっとびっくりしちゃったけど、うん、ありがとうね」

 今度はアカリがアダムに触れた。

(わわわわわっ!)

 アダムの肩が、次いで両肘が、そして太ももが波を打って踊りだした。

 びっくりしたメグは思わすアダムの車椅子から手を離してしまった。

(な、な、な、なんでしょう? この感覚は? ピリピリと回路が震えておりますですよ)

 くるくると全方向回転するアダムの目玉がアカリの右手の画像をとらえる。アカリのその右手が今の今まで自分の髪の毛に触れていたことをアダムの感触系メモリーが教える。

(ということは、ビリビリ、この感覚は、ビロビロ、アカリくんの手が、バリバリ、わたしに接触していたから、ズビズビ、ということ? ワラワラワラワラ)

 後ろにいたメグにはすでに白目をむいているとしか見えなかったアダムの目玉が再びアカリの右手画像をとらえる。

「だ、だいじょうぶ、アダム?」

 アダムの異変はなにか自分の責任ではと考えたアカリがアダムの動きを抑えようとして手を伸ばしてきたのだった。

(ああ? アカリくんが、またわたしの髪に触れる。いえ、肩ですか。ちがう、もしかして胸に? どわわわわわわ! き、来た来た来た来たああああ! ドカーンと来ましたよおおお!)

 やおらタコ踊りを始めたアダムにみんなが気づいた。

 そのことにあせってアカリはますますアダムを強く押さえつけようと何度も手を伸ばしている。

(な、なんですか、これは。どうしたんですか、わたし? わけもなく情報パルスの交通量が急激に増加中。うひゃひゃひゃ、くすぐったい。あれ? 回線温度上昇。あひひひ、かゆーい。って、どうなっているんですか。まさか、アカリくんに触れられて回路が乱れている? でもどうして? おお、すべてのプログラムが勝手にバージョンアップしまくってます。むははは。うう、知らないファイルが次々に開いていくうううう。き、気持ちいいいい!)

 ランダムなアダムの動きはついに遠心力を生み出し、車椅子ごとかなりの勢いで回転していた。

 メグは完全に持ち場放棄に走り、あきれるというよりどこか興味深げな視線を牛乳厚底ビン眼鏡の奥で光らせてながめている。

 アカリは完全に責任感を感じて途方にくれている。

「どうしたんだ、アダム! 頼むから止まってよ! 止まってえええ!」

 ぴたりとアダムが停止した。

 思わず駆け寄ったアカリは病人にするようにアダムのおでこに手をやった。

「あつつっ、熱い! アダムだいじょうぶ? アダムのおでこちょっとヒートしてない?」

「だいじょうぶです。ご、ご心配なく」

 それはウソだった。

(大丈夫ではありません。こんなことは初めての事態です。女の子たちにいくらキャアキャア騒がれたって何も感じないこのアダムがいったいどうしたというのです? あ、そういえばアカリくんみたいな男の子と接触したことはこれまで経験がなかったかも……)

 プシューっとアダムの耳から水蒸気のようなものが一瞬ふいて出た。

(じゃあ男の子だからこうなった? バ、バカな! なんですか、それは! だってアダムは男の子なのにぃぃぃぃぃ!)

 一同にとって幸いだったのは、風船男がアダムのこの姿に気がつかなかったことだ。

 医療チームのリーダーとして隔壁の向こうから来るはずの最終判断の合図を今か今かと待っていたためアダムには背を向けていたのだ。その背中には酸素ボンベらしきものが背負われているだけでセンサー類はいっさい見当たらなかった。

 そして隔壁上部が青く点灯した。

「よっしゃ、合図のランプだ」

 男はゆっくりふりかえって言った。

「仕度ができたようですよ、皆さん。ご準備ください」

 アダムは憤慨した。

(風船ガムがなにを言うのです。ああ、そんなことを言うからアカリくんがわたしから目を離してしまった。もっとデータが必要なのに! ねえ、もっとおおお!)

 大きな音とともに隔壁の一部が動き、その隙間からもうひとりの風船男が出てきた。だがこっちは全身がイエローで統一されている。

(ああもう! 無菌ルームを隔てるシャッターの右端につけられたドアから出てきた男をアカリくんは見つめています。なぜそんな男をそうも熱心に見つめるのですか、アカリくん? アダムよりも彼の方が魅力的ですか?)

 アダムの上半身が前のめりになり、カッと目が大きく開いた。

(よーし、ズーム視力に切り替え。彼を詳細観察。ほーら、彼が右手に持っている書類の十二ポイント印字までよく見えますよ。報告書ですね。タイトルは「大脳部位スキャン結果」ですか。なんと色気のないこと)

「おうご苦労さん」

 白風船が黄色風船に言った。

「では皆さんデータがそろいましたのでお見せしましょう。このシャッターを引き上げると検査室が出てきますが彼らはその一角のビニール壁の中にいます。もちろんそこへは入れませんが自由に見ることができます」

 それまで遠目ながらも注意深くアダムを観察していた大道寺博士が、顔の向きを変えて医療チームのリーダーに近づいていった。

「もちろん話くらいできるんじゃろうね? あんまり老人を待たせんでくれ」

「話は勘弁してください。マイクが置いてある場所は無菌エリアの中なんです。それに面会は数分間で切り上げてくださいよ。データが取れ次第、至急本院に戻すことになっているんです」

「数分じゃと! 話もできんのじゃなんのためにアダムを連れて来たのかわからん! アダムもガックリじゃ、なあアダム?」

 かろうじて生みの親の声が耳に入ったのでアダムは答えた。

「え? いや別にわたしはいいんですよ、パパ」

 大道寺博士はいぶかしげに眉間にしわを寄せたがアダムはそれを見ていなかった。

 それどころか大道寺博士の声さえわずらわしく思っていた。

(それよりも今はアカリくんと……。もう一度アカリくんに接触してもらってこの回路不調、というか絶好調回路の原因を知りたいのですよ。ああ、なんだろうこの胸のグルグル感は?)

 アダムの視線はアカリオンリーにロックされていたが、アカリはそれに気づかなかった。

 それどころではなかったからだ。

 今まさに運命の扉が開かれようとしていた。

「おーい、シャッター引き上げてくれ。皆さん、シャッターを全開にしますからちょっと時間かかりますよ」

 みなうんざりとした表情をわざと見せつけたつもりだったが、男はマイペースでつぶやいていた。

「たっぷり二分はかかりますからね。さてと、その間にことちらは検査結果をチェックといきますか。どれどれ、これが彼らの大脳か。こちらのほうはあんまり変わりばえしないな。ふーん……。え? お、おい! これは!」

 男がばたばた動き出した。

「なんだよ、こいつは! うそだろ? ちょっと待てよ。こりゃいかんぞ。ストップストップ! シャッター開けるな! 下げろ!」

 ジュウウウウウ。

 沸騰したやかんに水をかけたような音がしてシャッターが止まった。

 みなざわついたが、いちばん大きい声を出したのは江奈だった。

「どうしたんです!」

「ごめんなさい、その、面会はできなくなりました。中止です。ちょっとすみません。おーい、そこの君!」

「中止とはなんだ!」

 さすがの江奈の声も防護服までは貫通しないのか、白い男は江奈にかまわず黄色い男に呼びかけていた。

「君だよ、君!」

 しかしマイクから聞こえてくる声はさっきまでとは違う神経質なものに変わっている。

「はい、チーフ」

「えーと君は、木下君か。急いで本部長を呼んできてくれ。あ、携帯はいかん。盗聴防止マニュアルでいく。セキュリティーSレベルだ。そうだ、ついでに警固主任も連れてきてな。じゃあ後部ドアをあけるから歩いていってくれ。いや走っていけ! 大急ぎだ!」

 これには江奈も慎重になった。

「何か起きたのですか?」

「いや別に。すみませんが皆さんがたはすぐに車から降りてください」

 唐突に男はそう言った。

 アダムの内部でセンサーがけたたましい警告音を立てたので、アダムもようやくアカリから目を離してセンサーリポートを吟味した。

(何やら急に騒がしいですね。ほお、江奈氏の血圧値が跳ね上がりました。これは珍しい現象です。わたしの分類だとあの人は「冷血漢」ですのにねえ。しかし今はそれどころじゃない。わたしの回路の一大事を解明しなくてはなりません。アカリくん、どこですかアカリくん、もう一度わたしにタッチしてえ……)

 メグが車椅子にストッパーをかけて離れてしまったことにも気がつかず、アダムは後方にいるはずのメグに向かって右手でさかんに「前方へ進んでください」の合図を送っていた。

 もしアダムが計測を打ち切らなかったら、いま江奈の血圧がさらにアップしたことがわかっただろう。

「また外で待つんですか。この検査車は広いんですからせめて中で待たせてください。それとも緊急に出発ですか?」

「そうじゃないんです。ただ今日の面会はきっともう無理です」

「だから理由はなんです!」

「それは司令本部からあとで直接お聞きください」

「何を隠してるんです? もういい、わかりましたよ。病院のほうへ行ってそちらで待ちましょう」

「それはどうかなあ。本院へはいつ着くかわかりませんよ。今のところ出発は延期です。東京の司令本部の決断待ちですが数時間は動けんでしょう。もしかすると今日は出発できないかもしれません。現地で最終処分ということになったらそれこそ……」

「最終処分とは何のことです? まさか彼らに変なことするんじゃないでしょうね!」

「もう勘弁してください。すぐに現地の指揮官がきますからその人に聞いてください。とにかく車の外へ降りて……」

 風船男が急にバランスをくずしてよろけた。

「うわっ? な、なんだ? 車が動いている? ど、どうして動かした? うわあ!」

 トレーラーが急発進していた。

 風船男はもちろんのこと、あの江奈でさえ尻もちをついていた。

 ころばなかったのは大道寺博士とアダムだけだった。

「あ、大変だ。アカリくんが転倒しています。わたしには歩行機能がありません。助けられない。誰か助けてあげて!」

 みなが口々に大声をあげていてアダムの声は誰にも届かなかった。

 ただ防護服の男の声がマイクのせいで車中に鳴り響いている。

「運転席、何をやってる! 早く停止してサイドブレーキをかけろ! 聞こえんのか運転席!」

 しかし、この喧騒の中でもアダムの耳は異様な音をたしかにとらえていた。

(なんですか、あのバスバスッという音は? シャッターの向こうから何回も聞こえてきますが)

「これは銃声だぞ!」

 江奈だった。和服姿の江奈にも聞こえていたのだ。

「きゃあ! 銃だなんて何が起きてるのよ!」

 ムクゲが叫ぶ。ムクゲは非常時の江奈の言葉を絶対的に信じていた。

「落ち着くんだ、みんな! 後部ドアが開いたままだ、車から降り落とされないように何かにつかまって! しかしここでは隠れるところがないな」

 悔しそうに江奈が唇をかんでいる。

 アダムはまた別の兆候に気づいて言った。

「シャッター全体が再び上がり始めています」

 それは江奈にもわかっていた。

 江奈は、いつまでも床でごろごろしている風船男の胸倉をつかんで言った。

「おい、あんた! こっちの部屋からシャッターの開閉はできないのか? おい、しっかりしろ、緊急事態だぞ!」

「あ、はい、できます。あすこのパネルで。今やりますから。後部ドアも閉めましょう」

「それは閉めるな」

「まさか飛び降りるつもりですか? 走行中ですよ。無理ですよ」

「いいから開けといてくれ!」

 江奈に投げ飛ばされるようにして男はパネルに走っていった。

「シャッターの動きが停止しました。上にも下にも動きません。トレーラーの後部ドアは全開のままです。この車はただ今郊外の一本道を走行中です。ついてくる車両の影はありません」

 誰に請われるわけでもなくアダムは報告していた。

 だが次の一文はミュート処理にして黙っていた。

(だけど、ほんとにここから降りるつもりじゃないでしょうね? だってこの大型トレーラーが時折バウンドするぐらいの猛スピードですよ)

 江奈が叫ぶ。後部ドアが開いていて走行音がうるさいので叫ばないともう聞こえないのだ。

「向こうの奴等がシャッターをたたきながら何か怒鳴ってるな。くそっ、どこの国の言葉だ?」

 これを受けて大道寺博士が言った。博士も振り落とされないように自走型車椅子の後進ギアを全開にして必死に持ちこたえている。

「アダム! 翻訳モード始動せよ。どうじゃ?」

「はいパパ。中国語・広東方言です。翻訳開始。『すぐに扉を開けないと一斉掃射するぞ。五つかぞえるからな。一、二、三、四、五』と言っています」

 ズダダダダダダダダダッ!

「ぐあーっ!」

 開閉操作パネルを操作中の風船姿の医者が撃たれた。

 プスープスーと何かの気体が細菌防護服からもれる音は誰の耳にも届かない。

「しかたない。博士、メグさん!」

 そう叫ぶと江奈は両手を伸ばしていろいろなものを同時にわしづかみにした。

「痛い! 何するんじゃ江奈くん! わしの腹を離したまえ!」

「えー、手を握るだけじゃだめなの? めんどくさあい。きゃっ、そんなに強くかかえたら痛い!」

「すまないメグさん。でも今はひとりにつき腕一本しか使えないので」

 江奈は両腕で大道寺親子をしっかりホールドした。

 それが終わると、すかさず江奈は両足をめいっぱい開いた。

 その正面にはうら若き乙女たち、ムクゲとマクラがいる。

「きゃあ、江奈おやじったら! 前、前! 和服の前だっつうの! 前がはだけて丸見えだよ! ななな何それ? それって下着なの!」

「いいか、ムクゲちゃん。今は冗談ぬきだ。きみとマクラちゃんは僕の右足と左足につかまってくれ。ももでも足首でもつかまりやすいところでいいから早く!」

「わ、わかった! って、オレよく事情わかんないけどつかまったよ!」

 今になっても自分に江奈から声がかからないことにアカリはあらためて心を暗くしていた。

 ズドッ、ズドッ、ズドッ!

 今度は小刻みな銃声が聞こえ、そこかしこに砂煙のようなものをあげていた。

 わずか数メートルの距離に着弾したアカリがこらえきれずに聞いた。

「江奈さん、拳銃は持ってないんですか?」

「アカリくん、日本の探偵は拳銃なんて持ってないよ。それより脱出するぞ。奴らは工作員らしい。問答無用の連中だ。時間がない!」

 アカリはなんとなく顔をそむけた。

 すると江奈が大声で言った。

「何をしている、アカリくん! さあ、きみの番だ!」

 ついアカリは江奈のほうをふりむいてしまった。

 そこには両手両足にひとりずつをかかえた江奈の姿があったが、そのときアカリにはそれが大きくふところを開いて自分を迎えてくれる姿のように見えた。

 だが、自分の胸に沸き起こる嬉しさをアカリは押し殺そうとした。

 きのうのことを思い出せ! そうアカリは自分に言い聞かせていた。

「悪いが君がここにつかまって」

 そう江奈に指示された場所があまりにも意外なところだったので、ついアカリは聞き返してしまった。

「あの、ここってフンドシに?」

「すまないが、そのとおり。こんなとこをお願いできるのはきみしかいないじゃないか。だってきみはぼくのただひとりの助手なんだから。ね?」

 突然アカリの胸にはどうしようもない嬉しさがあふれてしまった。

 アカリはなんとか涙を出さないことで精一杯だった。

 それでもアカリは聞いた。おそらく助手の意識をもって。

「とびだすつもりですか? 猛スピードですよ!」

「これしか手がなければこれに賭けなければ! いくぞ、みんな目をつぶれ!」

「やめてえ! こんな事したら江奈おやじの手も足もちぎれちゃうよ! オレたち何キロあるか知ってるのお!」

「僕の勝手な望みのためにみんなを巻き添えにするわけにはいかん。絶対助けるから! いいからムクゲちゃんはマクラちゃんと二人で思いっきりジャンプしてくれ! いいね。アカリくん、ジャンプのタイミングはムクゲちゃんたちの少し後だ。それが跳躍の決め手になる。頼むぞ!」

 アカリはうなづいたが、アダムは待っていた。

 自分に声がかかるのを。

(わたしはどこにつかまるんです? 早くわたしのつかまる場所を指示してください。銃撃が迫っています)

 車の振動で下手な助走はかえって危険だと判断した江奈は後部ドアぎりぎりのところで跳躍の構えをみせた。

「いち、にの、さーん!」

 江奈が叫んだ。

 アダムは録画が適当と思い映像収集を開始していた。

(おお、江奈氏の翼が開いた。これほど大きな翼を持っているとは現代人には珍しいです。そうは言ってもとても五人の重量を支えきれる面積ではありません。この試みは物理的に不可能です。 あ? 飛んだ! ちゃんと宙に浮かんでいる! 論理的には不可能なのに)

 そこまで録画したとき、三人の銃を持った男たちがアダムのわきをすり抜けてドアのところへ行った。

(彼らが叫んでいる。翻訳モード開始)

「パパあああ、聞こえますかあああ! この人たちは『逃すな、真上だ! 撃ち落とせ』と言っています。パパ聞こえますかあああ!」

 さすがに江奈は車の上の死角をねらってジャンプしていた。

 しかし猛スピードの車と人力ではどこまで勝負になるのか? 

 このアダムの心配どおりすぐに江奈たちの影は見えてきてしまった。

 いつかアダムがネットで見た軍事教本どおりに男たちは上空へ向けて弾幕を張った。

 タタタタタタタタッ。

 戸外に開いたドア付近では銃声がやけに軽く乾いて聞こえた。

(ああ、なんてことだ! 銃弾の一発がよりによってアカリくんの右腕近くを通過した。アカリくんが落ちる!)

 アダムはとたんに冷静さを失った。

「アカリくうううううん!」

(おお? なんと! 江奈氏の和風下着が振り子状に揺れている。これは奇跡ですか! 空中ブランコでアカリくんの安全降下を支援している? ああっ、手を離したあ! い、いや。この軌道計算は正しいか? 検算の結果OK。これならもしかしたら……。おおっ! アカリくんが車内に落ちてきた。神サマ!)

 ドスン! ゴロゴロゴロ! 

 見事アカリは車内にころがりこんだ。

 このありえない光景に工作員たちは、ついアカリのために場所を開けてしまい、その後に顔を見合わせた。

(しかしパパとママは? みんなはどこです?)

 アダムは追跡探査していた。

 銃撃後に急上昇した江奈は視界から消えていたのだ。

(あっ、いま見えました!)

 なんと江奈の和服がパラシュート状に広がり他の四人を連れてゆるやかに落下中だった。そして道路わきの牧草地に着地してゆく模様が着実にアダムのハードディスクに高画質録画されていく。

(あっ、転倒しました。でも誰か立ち上がっています。しかし、これ以上は視認できません。知覚エリア外)

「いてててて」

 アカリはちょうどアダムの足元に転がっていた。

「アカリくん、おけがは?」

 アカリは二、三度ふるふると頭を左右にふったが、大けがをしているわけではないようだった。

「わ、わかんない。それより江奈さんは!」

「牧草地に着地しました。不特定多数の生存者を確認できています」

「ほんと! 成功したの? そうか、成功か……あんな状態で……」

 アカリの声が急に小さくなったので、アダムは聴力を五〇パーセントもアップした。

(聞こえます)

「あんな状態で五人も連れて飛べるなんて、翼とはそんなに強力なものなのか? いやちがう。江奈さんは特別なんだ。ていうか、今日の江奈さんはきっと死ぬほど頑張ったんだ。そうだよ、あんな事したら体がバラバラになっちゃって死ぬかもしれなかったんだよ。全然余裕のある顔じゃなかったし。ああゆう江奈さんの顔は初めて見たな。それなのに全然ちゅうちょしないで飛び出した」

(アカリくんは何かを分析中のようです)

 アダムは目玉をアカリに固定したままギギギと頭部を少し回転させたので、横目で何かをさぐるような表情になった。

 だが床をにらんで独り言モードに入っているアカリは、そんなことに気づきもしない。

「自分のことよりも先にまずみんなを助けることだけを考えるなんて……すごい、すごいよ! 掛け値なしにすごいじゃないか! そうだろ? あの人は決して計算なんかで動く人じゃないんだよ! そんなこと、ほんとはボクとっくにわかっていたじゃないか。それなのに、そんな素晴らしい人をボクは疑ったりして……」

(なるほど、江奈氏の分析ですか)

 アダムは頭部を元の位置に戻した。

「きのう奥さんの話を聞いたときから今まで、ボクは江奈のおじさんをずっと疑ってた。優しそうに見せてもほんとは計算ずくでただボクを利用するつもりの冷たいエゴイストだって……。なんだよ、それ? いったいなに考えてんだ。バカだよアカリ、おまえバカだよ! 江奈のおじさんに引き取ってもらえたときの嬉しさを忘れちゃったのかよ!」

 アダムは再び頭部を回転させた。

(江奈氏の分析ではなく、自己分析? 自虐傾向をレベル5で検知)

「わけのわかんない世界に放り出されてまわりがみな敵ばかりに思えたあのときに、あんなに優しく辛抱強くボクと向き合ってくれたたったひとりの人じゃないか。だから、奥さんのことぐらいなんだよ。それだけあの人が人を深く愛せるってことじゃないか。それなのにボクったら昨日から江奈先生に心を閉ざしてちゃって…うう……」

 突然アダムの目玉がクルリと一回転した。

(アカリさん! ごめんなさい! 自虐傾向だなんてとんでもないです! これは立派な哲学的内省なのですね)

 アダムの両腕がアカリに向かって伸びていく。

(ああ、なんという素直さ、なんという優しさ☆ きっとこのすぐれた心情がわたしの超セレブな回路と同調しているに違いない。きっとそうです。そうに決まった!)

 ごしごしと片腕で目の涙を払いながらアカリは独り言を続けていた。

「いいや! こんなところで泣くもんか! ここに残ったのはボク一人なんだ。孤立無援でもそれが何だ! あの人の助手として恥ずかしくない行動をとってやるぞ。よーし!」

「わたしもおりますよ、アカリくん。あなたは一人じゃない」

 びっくりして顔をあげたアカリは、まるで初めてその存在に気づいてようにアダムを見た。

「え? ああ、うん、そうだねアダム」

「それに江奈氏はそれほど素晴らしい人でしょうか?」

「え?」

 またびっくりしてアカリはアダムの顔をのぞきこむ。

「だってわたしのことは平気で置き去りにしましたよ」

 ぷっ、と吹きだしかけたアカリだが、懸命にそれをかくした。しかし、どうしても笑い声が出てきてしまう。

「そうか、そうだね。ふふふ、うん。ボクはアダムを置いてったりしないから。え? うわっ!」

 アカリの肩が急にフワッと持ちあがった。手袋をした手がアカリのえりくびをつかんでいた。

「あ、何です? ぎゃああああ!」

 両手で顔をおおいながら、アカリは床をのたうちまわった。

 アダムの目玉が飛び出しそうになる。

(ひどい! 拳銃の台尻でいきなり顔を殴るなんて。なんという野蛮人どもだ!)

 アジア系の顔を無表情に固め銃口を向けたまま、三人の工作員がアカリに何か怒鳴っている。

 アダムはなんとかアカリのところへ近づこうともがいたが、メグなしでは一歩も動くことができなかった。

「大丈夫ですか!」

「く……ああ、なんとか。ア、アダム。こいつらなんて言ってるの?」

「きみは柴咲アカリか、と聞いてます。お知り合いですか?」

「知り合いなもんか! いつつつ。なんでボクの名前を知ってるんだ!」

「通訳してみましょう」

 アダムが中国語を話し出すと工作員のひとりがアダムに銃口をつきつけ怒鳴った。

「今度はなんて言ってる?」

「無菌ルームのビニール室の中にいる他の三人と一緒にいろ。きみも連れていく、と言っています」

「そうか。なるほどな」

 ふ、とアカリは上目づかいに笑ってみせた。

 その笑みにはどこか江奈を思わせるところがあるな、とアダムは考えている。

「こいつら、すべて事情を知ってのことか。まったく計画的だな、このスパイどもめ。あ、また何か言ってるけど?」

 ひとりが自動小銃の先端でアダムの頭をこづいて神経質に怒鳴っている。

「わたしを捨てるそうです。もう一度後部ドアを開ける、と言っています」

 アカリは立ち上がった。

「そんな事したら協力しないぞっ! 通訳して!」

「通訳完了。それに対する返答ありました。彼らはこう言っています『協力だって? ハハハハ』と」

 三人はうってかわってヘラヘラ笑い出し、倒れている風船男を蹴飛ばすとトレーラーの室内パネルを操作しだした。

 壁のパネルに向いて背を向けた男の肩のあたりがやけに不自然に盛り上がっている。おそらく翼を無理に押し込めているのだろう。そういえば、グレーの作業服のようなものを着込んだこの男たちの肩は一様に盛り上がっていて、それが怒って肩をいからせる猿の姿をほうふつとさせた。

 後部ドアが音をたて始めた。

「あ、ドアを開けた。ちくしょう、やる気だな」

「アカリくん、アカリくん」

「うん、わかってる。だいじょうぶ。絶対にそんなことさせないから!」

「そうじゃありません。アカリくん、気がつきましたか? 今の音?」

「え? なんのこと?」

「いまヘリコプターが至近距離から飛び去りましたよ」

「え、ヘリコプター? 聞こえないよ」

「消音ヘリですね。どうやら今までこのトレーラーの上にいたようです。それについ今しがた東洋人の男性二人が道を転がっていくのが見えました。この車の運転席から落ちたようです」

「な、なんだって?」

 シュプッ、シュプッ、シュプッ。

「あいやー! ぐわあああっ!」

 奇妙な音が三回したと思ったら、パネル近くにいた工作員たちが踊るように体をねじった。

「ど、どうしたの? 中国人たちが倒れちゃった!」

「銃器類が使用された痕跡を確認。アカリくん、後部ドアから誰か入ってきます。ひとり、ふたり、三人、四人」

 ザシー、ザシー、ザシーと爪で黒板をひっかくような耳障りな響きとともに、ワイヤーロープのようなひもをたぐって黒ずくめの影が次々とトレーラー内に侵入してきた。

 ふと気づけば車の速度はだいぶ落ちているとアカリには感じられた。

 全員が全員、そろいもそろっておそろしいくらいの体格をしている。

 しかも鬼が持つ金棒みたいな銃器を携えている。

 どう考えても抵抗などできる相手ではなさそうだった。

 アカリは完全に圧倒された。

 ひとりはパネル、ひとりは隔壁入り口、ひとりはアダム、そしてひとりはアカリへと散開し、それぞれが親指を上にぐいと突き上げていた。

 それを確認すると、アカリのそばにいた男がやおら黒覆面を後ろへ脱いだ。

 ブロンドの髪はいわゆるGIカットのように短く刈り込まれており、鬼あられのような四角い顔には至る所に墨色のマーカーが施され、いかにも特殊部隊員という雰囲気がたっぷりだった。

 やはり翼は見られなかったが、黒服の肩や背中が盛り上がっているようすもなかった。これほどの体格ならばさぞ翼も大きいだろうに。

 アカリは江奈が自分に変装したときのことを思い出し、この侵入者たちの実力に思いをはせる。

 そして、そのいかにも欧米人っぽい顔のつくりを見て「今度はきっと英語だな」と考えたアカリは、乏しい英単語を脳ミソから引っ張り出しにかかった。

 アカリの予想どおり、そいつは英語で話しかけてきた。

「ヘロウ、ボーイ。アー・ユー・ミスタ・アカリ・シバザキ?」

「イ、イエス。ねえアダム、これってアメリカのレンジャー部隊? それともイギリス?」

「オオ、ミスタ・アカリは英語だめ? ノープロブレム。私たちアメリカです。DIAね。気にしないで。迎えに来ましたよ。もう安心です」

「DNA?」

「アカリくん、国防(D)総省(I)情報局(A)だと言っています。CIAよりも強力な軍部直属コテコテのエージェントですよ。ペンタゴンのエリート部隊です。テレビドラマで何度か見ました」

 部隊員のボスは初めてアダムのほうを見た。

「ホホー、これロボットですか? ベリーインタレスティング、ぜひいっしょに来てください」

(隔壁シャッターが上昇中)

 そうアダムは気づいたが、思考の末、だんまりを決めこんだ。

「来てくださいってどこに行くんです? それにどうしてあなたたちもボクの名前を知ってるんです」

「ミスタ・アカリ・シバザキは有名人でしょう? お会いできて光栄ね」

「どうも。で、このまま東京へ行くんですか?」

「ノー。近くの海岸ね。その方が安全ですよ」

「そこに警視庁が待機してるんですね。そうだ、江奈さんは無事ですか?」

 アカリの質問が聞こえなかったのか、それとも部下が送ってきた合図に気をとられたのか、部隊員のボスは返事をせず隔壁シャッターのほうを見た。

「アカリくん、シャッターが上がり切りましたね。あれがいわゆるビニール室でしょうか」

 アカリはごくりとつばを飲んで、その光景を見た。

 彼らがそこにいた。

「オー、これがPR―Xのメンバーですか」

 おおげさなゼスチャーで部隊員のボスが陽気に言った。

「ど、どうやらそうらしいですね」

 アカリの緊張した声にボスはふりかえり、ニヤリと下卑た笑いを浮かべる。

「ミスタ・シバザキはまだ会ってない? ホホ、ベリーインタレスティング。ではいっしょに見ましょうよ。変なトコに入ってますよ」

 近づきながらアカリは食い入るように彼らを見つめていた。

 隔壁の向こうはまばゆいばかりの照明に照らされた近未来的なデザインの無菌室だった。

 そこには天上まで届く大きな袋状のビニールで包まれた一画があり、そこに彼らは入れられていた。

 PR―Xの三人はビニール壁の中で突っ立ってこちらを見ている。

 厚手のビニール地がところどころグニャグニャとなっているせいで、三人の表情はどれも歪んで見える。それがなんとも凶悪な印象を与えおり、それは別の人類というよりもなにか知能の高い森のケモノのようだった。

 ごつい体の若い男ときゃしゃな若い女、それと歳を取った小柄な男の三名。全員が紺色の体にぴったりとした体操服のようなものを着ていて、足はなぜか裸足だ。

 彼らもアカリのことがわかったらしく、全員がアカリの方角に寄ってきた。

 アカリは穴のあくほど彼らを見つめていた。だから後方の音に気づかなかった。

 もちろんアダムは気づいていた。

「ご集中のところすみません、アカリくん。後部ドアがまた開く音がします。やはりわたしは捨てられるのでしょうか」

 え、とばかりにアカリはふりかえった。

 そして叫んだ。

「あっ、何してるんです!」

 DIAの男たちが次々と中国人の死体を外へ放り出していた。

「や、やめてください! ひどいじゃないですか、まだ生きているかもしれないのに! それに重要参考人ですよ!」

「シャダップ、ボーイ! ノータイム。時間がないよ。話はボートで聞きます。それまでユーはおとなしくしてますよ」

 部隊員のボスがうるさそうに怒鳴った。

「ボート? ボクを船に乗せるのですか? あんたたち警視庁の頼みで来たんじゃないのか!」

 部隊員たちが互いに目線を送りあう。黒いマスクから見える目つきはどれもがアカリの質問をあざ笑っていた。

「そ、そうか! 拉致する気だな!」

 やれやれという具合にボスが手を広げた。

「説明いりません。助けたのに協力的でないよ。ユーの手足にロープつけますか。こっち来なさい」

 ボスがゆっくりとアカリに近づきながら、腰ベルトのあたりから細いロープを繰り出している。

 そのときマイクのハウリング音が車内に響き、早口の英語が大きく響いた。

「ン? ウエイト!」

 ボスが動きを止めて部隊員のほうへふりかえった。

「これ車内放送? あっ、途中で切れちゃった。アダム、今なんて言ってたの?」

「翻訳しています。『侵入者あり。指令、ターゲットを至急消去せよ。ガスで確実にやれ。もしターゲットを敵に渡すと……ピィー』で切れました」

 アカリは真っ青になった。

「消去? や、やめろー!」

 アカリがDIAのボスに組みついた。

 アリか何かがとびついてきて驚いたというような感じながらもボスの動きは一瞬とまった。

「頼む、アダムも! アダムも手伝って! きっと乗務員を殺すつもりなんだ。こいつを押さえて!」

「アカリくんが、わたしを……」

 アダムの全機能が高速起動を開始した。

 ズルリと車椅子から転げ落ちたと思ったら、アダムは両腕の回転と膝の動きを絶妙に組み合わせてゴロゴロゴロと床を転がり、あっという間にボスの両足に手をかけていた。

「ウオオ? ア? アウチ! アウチ!」

「アカリくん! わたしは手しか使えませんが喜んでお手伝いします。男の両膝を捕捉しました。全力で絞ります。推定二秒後に片腕も確保」

「アダム! こいつは何を命令してるの? 訳して!」

「はい。男の叫び声を翻訳します」

 アダムはボスの膝と肘を絞りながら言った。

「翻訳。『スペンサー、ダン、ケイジ。こいつらを制圧しろ! いててて! ガスは俺しか持っていない』以上です」

「ああ、来ちゃうよ!」

 瞬殺が目前に迫っていた。

 DIAエージェントの速度は圧倒的だった。

 こいつがケイジだろうか、どこかしら東洋的な目つきの男が警棒のようなものをアカリに振り上げたそのときだった。

「ヘイ、ボーイ。アウッ? ゲフッ!」

「ゴッ!」

「オー、ノー! ヘルプミ……クハッ!」

どうしたわけか、助けにきたはずの三人が首から血を噴いて倒れていた。彼らのボスも頭を押さえて床に倒れていた。

「いつつつ。あれ?」

 床に放り出されたアカリを助け起こす者があった。

 それはPR―Xの三人だった。

「だいじょうぶかい、坊や? あいにくと手術用のメスは三本しかなかったんでね、こいつは殴って気絶させておいたよ。あんたの時間稼ぎのおかげで助かった。ありがとよ」

 女が言った。

 アカリは目を見張って口がきけないでいたが、アダムはもっと驚いていた。

(不可能です。わたしの知らぬうちに接近するなど。わたしの知覚センサーをかいくぐって接近するとはなんという素早さでしょう。男の膝と腕をつかんでいる最中にこのトレーラーが停車したことだって私は知覚できたのに)

 いつのまにか車は止まっていた。

 急に訪れた静寂の中でアカリは尻もちをついたまま、ただ女を見つめていた。

 見つめるその間に、さっき女が言っていたことの恐ろしい意味がじわじわとアカリの頭脳に浸透していった。

「どうしたのさ、坊や。あんただろう、あたしと通信したのはさ。そんな顔しないでよ。せっかくの甘いマスクがだいなしよ、ハニー」

 女がウインクしている。思っていたよりずっと若い? あのハスキーボイスではもう四十くらいだと想像してたのに。切れ長の目、ぴんと先端がそりあがった鼻、長い唇がうすく開き妖艶に笑っている。どうしてこんなにきれいに髪をカールしているんだ。PR―Xには美容院もついていたのか?

 女の顔が美しいという印象にアカリはとまどっていた。

「若いねえ。ちょっと若すぎるけど、でも若い男にこんなに見つめられるとほんといいわあ。ああ、地上はいいねえ」

 女の手が自分のあごに伸びてきたのでアカリはさっと後ずさりした。 

「マリよう、早いとこ運転席へ行ってずらかろうぜ」

 女の顔の横につるつる頭の大入道がニョッキリ現われたのでアカリは顔をしかめた。

 そいつは眉も剃りあげ、耳はぺっちゃんこにつぶれており、おまけにおでこが飛び出てその分だけ目が奥に引っ込んでいてとても残忍そうに見えた。体格と来たらDIAの連中よりひとまわりもふたまわりも大きかった。

「バカ! あそこは誰かに占拠されたって放送してたろう。早くドアにつっかい棒しな!」

「棒なんてねえよ」

「じゃあこいつらの死体を使いなよ。そうとう鍛えているらしいからいいつっかい棒になるぜ、キキキ」

 アカリは顔をそむけた。

 それを見て女は楽しそうに目を細める。

 アダムには女のその目つきが著しく気に障っていた。

(なんという残忍さでしょう。やさしいアカリくんが言葉を失っているのも無理はない。それになんというなれなれしさですか! アカリくん、あなたにはこんな奴らは似合わないです!)

「マリや」

 もうひとりのPR―X乗務員が女に声をかけた。

「なんだい、おじい」

 おじいと呼ばれるだけあって見かけはいかにもヨボヨボだった。七十くらいだな、とアカリは思った。

 背が低く、頭が異様に大きくて、それがいかにも重そうだというように背筋が曲がっている。腰の後ろに両手を組んでいるが杖はいらないようだった。頭頂部の髪はうすいが、耳まわりからは長い仙人のような長い毛をだらしなくたらしている。骨ばった体のくせに肘から下がやけにたくましかった。

 その腕であごをさすりながら老人が言った。

「運転席に侵入した奴は慎重だの。車を停めただけで黙っとる」

「そうだね。こういうやつはちょっと手ごわいかもね。だけどさ、すぐに攻めてこないってことは少人数ってことでもあるよね。もしかしたら一人かもしれない」

「ヒヒ、そのとおりじゃて」

「じゃあやっぱ早くずらかろう、マリ。そいつの仲間が来ちまうよ」

「黙ってろ、この海ボーズが。こっちも静かにしてまず情報を集めんだよ」

「じゃあ静かにするからオレ食いてえ。このガキに食い物注文したはずだろ、マリ。早く食いてぇよ」

 海ボーズと呼ばれた大男がアカリを見た。その口からはよだれがたれている。自分が食われるのではないかと、本気でアカリは心配した。

「そうおびえなさんな、坊や。この海ボーズはあたしがダメって言ったら絶対あんたに手を出したりしないからね。だけどさ、どうしてこんな派手にあたしたちを取り合いっこするんだい? ま、それも悪い気はしないけどさ」

 顔をそむけたままアカリは答える。

「……わからない」

「だろうね、さっきからあんた右往左往しているだけだもんね」

 女はアカリと話すのが楽しくてしかたがないというふうにニタニタ笑いっぱなしでいる。

「だがどう思う、マリや? ここへ着いてからの様子を見るとこ奴の話もまんざら嘘とは思えんようになってきたが」

「うーん、そうなんだよね。この連中は吸血鬼ってのとはだいぶイメージずれちゃうけど」

「でもオレ、モニターで見てたぞ。でっかいコウモリみたいになって外へ飛んでった!」

「まあね」

 女は腕を組んで何かを考えているようだったが、うす笑いを唇に浮かべたままだった。

 女は言った。

「よし。じゃあ、やってみるか。こんな時の事を思ってあれを頼んだんじゃないか。実験してみるのがいちばん確かだよ。なあ坊や」

 名前を呼ばれてアカリはいやいや女を見た。

「あんたアカリちゃんだっけか? ほら、通信したときにあたいが頼んどいたものがあったろう。ちゃんと持ってきてくれた?」

「全部用意しました。でもごちそうは別の車に積んであるから、その、食べ物は検査室には持ち込み禁止だって言われたので今は……」

「ちくしょう、メシはねぇのかよ!」

「そっちはいいさ。もうひとつのほうさ。聖水だよ、聖水。ほら、あたしたち信者だから」

「ああ、それならアダムの車椅子のリュックサックに。えーと、これだ。ペットボトルだけど」

「すまないね」

 ペットボトルを受け取りながら女がずるそうな目つきを老人に投げかけたのがアカリは気になった。

「さあてと。おじい、注射器は?」

「ほれよ。病院じゃからの、よりどりみどりじゃったが特大のをさがしといたでの」

 アカリは変だと思った。

「注射器? 宗教儀式なんでしょう? そんなものを何に?」

「あのさ、坊やはこういうことを試さなかったの? じゃあ見てなよ。おい海ボーズ、その気絶させた男の服を破って胸をはだけろ。そうだよ、胸!」

 海ボーズの怪力がエージェントの潜入服を破ると毛がもじゃもじゃと生えた厚い胸板

が出てきた。

 だが出てきたのは胸だけではなく、ひときわ大きな翼がバサリとはみだしてきた。

「ほお、やっぱりこいつもコウモリ男か。これはこれは。おい、海ボーズ! なにやってんだ。しっかり押さえるんだよ!」

 翼の出現に動揺したのか、ボーズ頭はいったんDIAエージェントから離れてしまったのだが、女に叱られておそるおそる元の位置に戻った。

「よーし、それでいい。坊や、ちゃんと見てるかい?」

 ペットボトルの水をたっぷりと注射器に入れた女はDIAエージェントのボスの胸に深々とその注射器をつき立てた。

「ああっ! なんてことするんです!」

「だから実験だってば。吸血鬼に聖水。どうなるかしら?」

 DIAの男は目を覚ました。

 一瞬自分の胸を見つめていたが、すぐに胸をかきむしり始めた。

「ウオオ?」

 やがて男はものすごい勢いで床をのたうち回った。

 男は何かを怒鳴っている。

「アカリくん、翻訳しますか? 『俺に何をした? 毒だな! 熱い、苦しい、体がとけるう! うおおおおおおおおおおおおお、助けてく』」

「アダム、もうやめてよ!」

「は、はい」

 女が顔色をかえてはしゃぎ始めた。

「おい、見ろよ! おじい、すげえぞ!」

 男の体のあちこちから煙が出ていた。

 みるみる髪がごっそり抜け落ちた。

 飛翔しようともがく翼が折れてくずれた。

 皮膚が茶色に変色したかと思うと、体中がボロくずみたいに汚い灰のようにしなびていき、そのまま粉々に散っていった。

 そして、DIAエージェントの体は、消えた……。

 たった今まで男がいたそのあとには、敵地潜入用の黒服や装備が脱ぎ捨てられたように散在しているばかりだった。

 アダムの検索機能はフル回転で毒物の項目のサーチを開始する。

(このような猛毒が地球上に存在するなんて! ああ、該当項目が出てこない!)

 アダムには理解できないこの光景も他の目撃者たちにはいやというほどよく理解できていた。

「ヒ、ヒトごろし……ひどい……」

 ひざまづいたアカリの目には涙がたまっていた。

「なんだって? おい、バカ言っちゃいけないよ、坊や。あんたも見ただろう! こいつら正真正銘の吸血鬼じゃねえか。伝説どおり聖水でこのとおりだもの。あたしはね吸血鬼を一匹退治してやったのさ。教会からおほめにあずかろうってもんさ」

「ヒヒヒ、いいデモンストレーションじゃ。外から様子をうかがっとる連中もこれで少しはわしらに敬意を払うじゃろうて」

 床に両手をついて頭を左右にふりながら、アカリは女たちを見上げた。

「こんなひどいことするなんて、あなたがたほんとに人間ですか……」

 女が初めて微笑みなしでアカリをにらみ、こう言った。

「ああそうだよ! その同じ人間から囚人の烙印を押されて宇宙に追放された本物の人間様だよ。それがやっと地球に帰ってきたと思ったらなんだい? 吸血鬼の天下かい、ペッ! いったい何があったんだよ、坊や。あんたはあたしたちの仲間なんだろう?」

 アカリはこうべをたれてうつむいてしまった。

「ふーん、しゃべらないね。あんたがそうでるんなら人質になってもらうだけさ」

 いつまでたっても検索結果が出ないことにイラつきながら、アダムはこう思った。

(アカリくんがおまえたちの仲間ですって? もってのほかです! おまえたちは人間でも動物でさえもありません。おまえたちは、おまえたちは……)

 アダムは懸命に最適用語を検索した。

(出た! これだ!)

 アダムはりりしい眉毛を精一杯つりあげてつぶやいた。

(いいですか。おまえたちは「悪魔」です)


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