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コールドデザイアー  作者: 一の瀬光
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コールドデザイアー 12章~14章

      ♯ 12


 主

あるじ

不在の江奈裕一郎の屋敷では、若い男女のペアが地下室の階段を降りていくところだった。

 アヤメとアカリだ。

(うわあ、わたくしなんだかドキドキですわ)

 アヤメはアカリのあとについて、さっきから胸をときめかせていた。 

(だってこんな暗い地下室にアカリさんとふたりきりだなんて)

 階段の照明はなぜかとても暗かった。おそらくそれは江奈がほどこした侵入者よけの対策なのだろうが、その暗さをいいことにアヤメはさっきから熱心に自分のみづくろいをしている。

(いつもは嫌いなこの地下室のうす暗さも、なぜか今夜だけは妙に心地よくて)

 さかんに髪をなでつけ、服の具合を指で細かくチェックする。ほんとは鏡の前でお化粧をしたいとも思ったが、それはアヤメにはとても珍しいことだった。実を言えばアヤメはこの年まで舞台メイク以外の化粧には興味がなかったので、本当は詳しいやり方などまるで知らないのだ。

(でもでも、ルージュくらいは引きたいですわ)

 アヤメは口紅など持ったことがなかった。だからこんなことを思うのは自分でもちょっと意外だったが、さっきからしきりとお化粧願望が湧いて出るのだった。 

 化粧にひきかえ服のチェックのほうは普段からおこたりないアヤメだった。特にスカートのすそが短かすぎないか、乱れていないかを神経質なくらい気にしていつもムクゲに笑われている。

 だからアヤメがミニスカートのすそや胸元のラインを気にするのを見ても友人なら誰も気にしないだろうが、もし今のアヤメの心の内を知ったら腰を抜かすにちがいない。アヤメは短さを気にするどころか、もうちょっと裾をあげよう、もうちょっと胸のラインを引き下げようとさっきから苦労しているのだ。

(いえいえ、やはりはしたないですわね、こんなこと! いけませんよ、わたくしったらもう!)

 アヤメはだんだん自分にたいしてイライラしてきていた。

(だけど、やっぱり、胸をもうちょっとくらいなら……え? あわわ、どうしてわたくしはまたこんなことを考えてしまうの? ああ! この暗さがいけないのですわ!)

 さっき二階の大広間で「アヤメちゃん」と親しく名前を呼ばれてからというもの、アカリを見るとどうもむしょうにそわそわするのだった。もっと体を動かして駆け出したいような、もっと薄着になってしまいたいような、それでいてもっと自分の体を派手に飾りつけたいような、ともかく今まで感じたことのない感覚が次から次へと湧いてでるのだ。

 アヤメは自分をもてあまし始めていた。

(いくらなんでも、胸のほうはもう十分ですわよね。むしろ見えすぎです。あ、だけど、あまり背の高くないアカリさんの目線では見づらいかもしれませんよね。であるならば、いますこし……)

 くいとあごを引いて自分の胸の谷間をにらみつつシャツの線をひっぱったり押し戻したりしているアヤメに、振り向かないままのアカリが声をかける。

「ねえアヤメちゃん、 スイッチどこかな? ここ他に電灯とかないの? ボク夜にここ来たことないんだ」

(まあ! アカリさんたらさっきからたてつづけにわたくしの名前を〝ちゃん〟付けで呼んでくださって、アヤメもう感激! でもちょうどほどよい暗さですのに……)

 アヤメは教えようかどうか迷っていた。実は階段や廊下をもっと明るくするスイッチのありかを知っているのだ。だがそれを教えてしまえばアカリはすぐにこの暗さを消してしまうだろう。

(ほんとはちょっと惜しいのですけれども、うーん、アカリさんがご所望ならしかたありませんわね)

「はい、スイッチはここですよ」

 アヤメは異常に低い位置に作ってある光度選択のボタンを押した。

「おお! サンキュ。ちょっと明るくなったね。でもさあ、いつも江奈のおじさんと一緒だったから何も感じなかったけど夜にくるとこの階ブキミだね」

「そうですね」

 そう答えたアヤメだが、内心ではこの場所にある種のすがすがしさをおぼえていた。確かにこんな時刻に地下へ降りてくるのは初めてだったが、なぜかここが自分にしっくりくるとさっきから感じていた。

「特にあそこのドアが不気味だよね?」

「あれは地下礼拝堂の入り口ですわ」

 アカリの足がとまる。

「そ、そうだった。あそこが資料室じゃなくてよかった。じゃあ、こっちの部屋の鍵を開けてくれるアヤメちゃん?」

「はい、お開けします」

 ドアが開くとそこは真の闇だった。

「うわっ、くれええ! なあんにも見えねえや」

「ああ……」

 アカリの言うとおり墨を流したような暗闇だったが、アヤメは胸の底から深呼吸したいような爽快感を味わっていた。しかしアヤメはあくまでアカリに話を合わせようと思った。

「ほんとに暗いですわね。今つけますから」

 難なくスイッチにたどりつくとアヤメは点灯した。

「ありがとう。うひゃあ、見てよ。書類やら写真やらDVDやらの山だね。江奈さんて整とん好きのはずなのにどうしてこの部屋だけこんなにゴチャゴチャしてんだろ」

「でも、おじさまが手がける最新の事件はいつもこの書きもの机の大引き出しにまとめて入れてあるはずですわ」

「そうそう、ボクにもそう言ってたよ。まずここから見てみよう」

 アカリは引き出しに手をかけたが、どうやら鍵がかかっているらしく、鍵穴をさがすためにアカリは姿勢を低くした。

 それを見たアヤメは、はっと息をのんだ。

(まあ、アカリさんが机の前にしゃがんだら机の陰に入って暗くなってしまいましたわ。こうしてうす暗がりの中で見るアカリさんの姿って、なんといいましょうか、とってもとっても蠱惑的

こわくてき

! きゃあ☆ どうしましょう!)

 アヤメは目をつぶってガッツポーズのような姿勢で左右に激しくイヤイヤと身をよじる。

(あら? わたくしったらなんでしょう、いったい。先ほどから変なことばかり思い描いてしまって。何かヘンだわ)

 すぐに我に返ったアヤメは反省した。

 そのとたん、妙なうずきが全身を走り、やがてその感覚が背中の上のほうへと集中していった。

(あわわ、なんですの、これは? ううう、せ、背中がかゆい。急にとても背中がかゆいですわ! ど、どうしたの。かゆくてたまらない。な、なんでしょう?)

 アヤメはあわてて背中をかこうとしたが、どうしても指の届かない位置だった。がまんができなくてアヤメは四苦八苦して身もだえする。

「それにしてもさあ」

 机の向こうからアカリの声だけが聞こえてくる。アヤメは急いで両手をしまった。

「は、はい?」

 何も気づかないアカリはかまわず話し続ける。

「ガンマニアに制服マニアだっけ? 変わった入学動機だよねえ。そう思わない?」

「そ、そうですね」

 アヤメは会話どころではなかった。それほど背中がかゆい!

「ところでさあ、アヤメちゃんはどうしてあの学校に?」

 こ、これは大切なお話ですわ、なんとか丁寧にお答えしなくては! そう思ってアヤメはあせった。

「あ、わたくしは、その、少し自分を変えたいというか、小学校のころからおとなしいおとなしいと言われ続けてきた自分がいやだったので。それと……演劇学校ならすてきなお友だちも見つかるのではと、なんとなくそんな気持ちで……」

 手が届かないなら何かの角で、とアヤメは背中をあずける場所をさがした。

「へえ、友だち探しか。わかるな。ところでと、ここにはないや。うーん、どうしようかなぁ」

 アヤメの目に棚が映る。そうだ、棚の角っこなら!

「あのう、ファイル棚はいかがでしょう。解決・未解決の別なくアルファベット順に資料がはいっているはずですから」

「そうなの? どこかな」

「アカリさんの後ろの壁にある棚が全部そうですわ。わたくしもまいります」

 アヤメは足早に棚の前に移動した。

「どこかな?」

「えと、ここです!」

「人工衛星、と。お、ほんとだ。ここだね」

 アカリが引き出しに手をかけたのでアヤメは適当な角を背中でさがしたがなかなか見つからない。

「あ、なーんだ『PR―Xの項を見ろ』だってさ。じゃあ、もっと右の棚だね。よし、これだ。あれ? うっ、この引き出しけっこう重いなあ」

「お手伝いしましょうか」

「いいよいいよ、そんなでもないから。PR―Xは……あ、いけねSEXだって」

 背中がビリビリビリと波打ってアヤメはとびあがった。

(いやっ、アカリさん! そういうあからさまなの、わたくしダメなんです! うわあ!)

 アヤメは両手で耳をふさいだ。

「ここの引き出し、書類だけじゃなくてビデオとか本がいっぱい入ってるから超重い! も、もどんなくなっちゃった。ちょっとアヤメちゃん」

 目をつぶって耳をふさいでいるアヤメにアカリの声は届かない。

「あああ、やばい、はずれた!」

 ドサドサドサドサーッ。バララララ。

 大量の紙が荷崩れを起こす気配にアヤメは目を開いた。

(きゃああ☆ 赤裸々なお写真がいっぱいィ!)

 どう見てもアダルト志向な雑誌たちが床で元気いっぱいはしゃぎまくるように散らばり、いっせいにアヤメの視界を覆った。

(こここ、これは本当に犯罪資料ですの? ななな、なにげに楽しそうなお顔をした男のヒトや女のヒトばかりですわよ。いけません、こんなの! ああ、これではムクゲちゃんの言うとおり単なる色ボケおじさんじゃないですか、江奈おじさま!)

 足を大きく開き仁王立ちになったまま目に涙をいっぱいためたアヤメの純真無垢な怒りのポーズにおそれをなして、アカリはおずおずと雑誌を拾いにかかった。

「ご、ごめん。いまかたすから」

 今のショックのせいか、アヤメの背中のかゆみはとまっていた。

 しかし別のショックがアヤメを襲っていた。

(うわあ、なんですかこの本。読めない外国語の本ですけど字なんかほとんどないじゃありませんか。写真ばっかり。きゃ、このビデオのカバー写真、丸見えですぅ! おじさまこんなの見たのでしょうか。一人暮らしの男性ってこうなっちゃうんでしょうか。あ、だめですよアカリさん、お片づけになるんでしょう? どうしてそんな雑誌をペラペラめくっているんですか? ああもう、わたくし熱が出て倒れそうです。ううう)

「痛いっ!」

 アヤメだった。

「どうしたのアヤメちゃん? 紙で指でも切ったの?」

「いえ、ほっぺたの内側を噛んでしまって。だいじょうぶです。すみません」

「そ、そうなの?」

 アヤメはほっぺたを押さえながら舌で口の中をさぐっていた。別に何かが口の中に入ったわけでもなさそうだ。

(あいたた。急にどうしたのでしょう、何も食べてないのに口の中をかむなんて)

 アヤメの舌がなにかに当たった。

(え? これってわたくしの歯、ですか? こんなに大きかったかしら。舌がマヒしてるのかしら。いえ、ちがいますね。だとすればわたくしの歯が伸びている? まさか、そのようなこと。でもやはりそんな感じが……あ、さっきよりまた大きいような?)

「床じゅう本だらけだよ。こりゃまずいなあ。アヤメちゃんも手伝ってくれる?」

「は、はい」

 そ、そうですわ、アヤメはここに何しに来たのです、お手伝いのためなのですわ。きちんと責務を果たさねば……アヤメはふらつく頭と私情を抑えて床に手を伸ばした。

 だがアカリはその手にストップをかけた。

「いや、だめだ。こりゃあ時間かかりそうだもの。この片付けはあとにしようよ。今は急ぐんだし」

 アカリは棚に戻った。

「PR―Xはこれの前の引き出し棚だね。あった! え、『机の引き出しを見よ。そこに収納』ってなんだよ。これじゃふりだしに戻るだ」

 それを聞いてアヤメは、まいったというようにおでこに手をやった。

(なんだかわたくしほんとうに熱が出てきたようですわ。あら? おでこは熱くない。むしろ変に冷たいですわ。おかしいな……)

「アヤメちゃん、どうしようか。資料の場所ほかに心当たりある?」

「えっ? ああ、ほかですか……」

 このときアヤメは気がついた。

 アカリの表情が今までになく切羽詰っていたのだ。

(たいへん。アカリさん困った顔していらっしゃいます。初めての助手のお仕事ですものね。資料ひとつ探せないと皆さんに思われたらさぞ悔しい思いをなさるでしょう。よし、アヤメなんとかお役に立ちますわ)

 アヤメは元気を奮い起こして自分の体調を忘れることにした。

「アカリさん。廊下の向かいの部屋ですけれども、そこにあるかもしれません」

「どの部屋?」

「あそこですわ」

「礼拝堂の横? へえ、こんな部屋あったんだ。なんで気がつかなかったのかな」

 アヤメはこの質問の答えに心当たりがあった。

「きっとおじさまがアカリさんに気づかせないようにしたのですわ」

「え?」

「実はわたくしも入れてもらったことがないお部屋なんです。とても大切なお仕事や考え事があるとおじさまはここへお入りになるんですけれども、その時はいつも決まってひとりきりなんです」

「絶対入っちゃいけないって言われてるんだ?」

「いえ、そういうことは一度も」

「じゃあ入ろうよ」

「そうですねえ……」

 アヤメは軽く後悔していた。

(いけなかったかしら? ついアカリさんに教えてしまったけれど、ほんとうはここ入室禁止の部屋なのですわ)

 アヤメにはわかっていた。

(たしかにおじさまに言葉で「入るな」と言われたことはありませんけれども、おじさまの目がいつもそう言っていましたもの。「絶対入りません」と約束したこともないですけれど、でも……そうよ、アカリさんのためですもの。あ、でもやっぱり……どうしよう?)

「ねえ、ここ開いてるよ。ほらドアが開く」

(あ……)

 開けちゃった、とアヤメは思った。

「廊下の明かりだと奥までは見えないねえ。お、あったあった、スイッチはここだ。電気つけてと」

 シャンデリアのような照明が一気に部屋のパノラマを広げた。

 部屋は丸い壁を三百六十度めぐらした美術回廊のような造りで、その華麗でシックな配色とともにアカリに強い印象を与えた。

「へえー、きれいだねえ。大きな絵や写真がこんなにいっぱいかざってあるよ、アヤメちゃん。ここは美術室なのかなあ」

(これは……)

 アヤメには壁を埋め尽くす無数の写真が瞬時にチェックできた。なぜなら全てが見覚えのあるものだったからだ。

「これってよく見るとみんなおんなじ女の人じゃないかなぁ。アヤメちゃん、この人知ってる?」

(こういうことだったの……)

 永年の謎がようやく解けたとアヤメは実感し、片手を胸の上に置いて深い感慨にふけった。

「どうしたの? ねえ、アヤメちゃん、だいじょうぶ?」

「あ? はい、平気です」

「この人だれかな。外国の人だね。すごい金髪美人だな。映画スターかなぁ」

「わたくしも小さかったのでうろ覚えですが、これはおじの奥様ですわ、たぶん」

「江奈さんの奥さん? 列車爆破テロで亡くなった、あの?」

「ええ」

 そこにあるのは写真や絵だけではなかった。部屋のあちこちにはオブジェのようなものが配置されているのだ。

 しかしよく見るとそれはどれも日常の品のようだった。自転車やテニス・スキーなどのスポーツ道具、ペアルックのTシャツやスーツ、旅行先の風景写真やお土産もの、たくさんのCDや古いLPレコード、その他ありとあらゆる若い生活のにおい……。

(そうですわ、これはおじさまと亡くなった奥様の……)

「思い出の部屋なんだね、ここは」

 アヤメはびっくりしてアカリを見つめた。今まさに自分が心の中で言おうとしていた言葉をアカリが言ってのけたからだ。

「そ、そうですわアカリさん! きっとそうに違いありません。アカリさん、どうしてそれがお分かりになりますの? なぜそうお思いに?」

 自分を見つめるアヤメをよそに、アカリは部屋を見渡しながら言う。

「だって、見てよ。壁一面にぐるりと貼られたあのシールみたいなものはよく見るとみんなスナップ写真だよ。いろんな国の風景の中で江奈のおじさんとこの女の人が一緒に笑っているもの。……アヤメちゃん、ここはボクらが入ってきちゃいけない場所だよ。ここへ入ったことはしばらく江奈さんには内緒にしようよ。どう?」

「ええ」

 アヤメは心の奥底から同意した。

「じゃあ出よう」

「あの、アカリさん。あれは何でしょうか? 部屋の中ほどに自動車みたいなものがありません?」

 出ようというアカリの提案にいったんは心の底から同意したはずなのに、なぜかアヤメはまだまだ立ち去りがたい気持ちが残っていた。

「どこ? あ、ほんとだ。小型のクラッシックカーだね。いや違うな。車輪がないじゃないか。ここからじゃよく見えない、近く行って見ようよ」

「え、あの、……あ、待ってくださいアカリさん」

 ここからは進んではならない場所だ。アヤメにはそれがはっきりわかっていた。そしてアカリがそれを破りつつあるのも自分がそそのかしたからなのだ。

 そう自覚すると、アヤメは強い自己嫌悪におそわれることを覚悟した。

 ところが実際には不快感などまるでなく、それどころか何かの喜びが胸の内でどうしようもなくうずいているのだった。禁忌を犯す喜びという感情にはまるで無縁だったアヤメにはその歓喜がどういうものなのか判断しかねたし、そのとき自分の唇が微笑んでいたことも知らなかった。

 ましてやその笑みの両端から何か白く鋭いものがはみ出していることになど考えが及ぶはずもないのだった。

 部屋中央に位置する箱に気を取られていたアカリは、そのアヤメの顔を見ることもなく歩いていった。

「うーん、こうやって近くで見てもわからないや」

「まあ。これ、何かの入れ物ですよね」

「入れ物か……ふーん」

 そう言ってアカリは箱をさすっていたが、突如ある考えが浮かんで戦慄した。

「あっ、まさかこれ棺

ひつぎ

じゃないだろうね!」

 箱に触れてみて初めてアカリはそう直感できた。

 アカリは後ろへ飛び退いた。

「大変だ! は、はやく出ようよアヤメちゃん。もうこれ以上いろいろ考えるのはやめよう。行こうよ!」

 これにはアヤメもぞっとした。いきなりなにかに背中をドンと押されたみたいなあわてた気持ちでアカリに同調する。

「はい! 出ましょう!」

 アヤメとアカリはドアに戻ろうとした。

 ガチャン。

「ドアが閉まった!」

 アヤメもアカリも何もしなかった。なのにドアが音をたてて閉じてしまった。

「ど、どうして? わっ、このドアったら鍵穴もノブもない、ツルツルだよ」

 アカリは、はっと思いついた。よく考えたら何もしなかったわけではないのだ。

「そうか、さっきの棺

かん

おけみたいな箱にさわっちゃったのがまずかったかな。こりゃあ江奈のおじさんに怒られるぞお。これじゃ助手もクビになっちゃう」

 アカリの言葉の最後のほうが涙声になったのを聞いてアヤメは懸命に部屋を見回した。

「あっ、あそこ! アカリさん、机のうえに電話があります。きっと大広間に通じますわ」

「あ、ほんとだ。助かるかも」

 アカリは受話器をとってみた。

「うん、通じそうだよ。どこかを呼び出してる」

 パチン。

 またもや非情な音が響き、そのとたんに部屋の照明が消えた。

「どうした? 急にまっ暗だよ。あ、電話も切れちゃってる。電源が切られた? ちくしょう、なんてこった!」

(ああ! う……)

 急激な暗闇の到来がアヤメの頭を棍棒のように殴った。

 アヤメは自分の意識が、まるで大鷲にさらわれた赤ん坊のように暴力的な速度で急速に自分から遠のいていくさまをどこからか俯瞰しているような感覚におそわれた。

(あそこ……あそこで激しく回っている渦は何? どうしてあの黒い渦の中にわたくしが立っているの? 海の流れなの、気流なの、それとも数えきれないほどの黒い蛇の群れ?なぜわたくしの周囲をぐるぐる右回りに回転しているのです? ぐるぐるぐるぐる……

 そうか! そうなのですね? あれは暗黒の星座、天上へと降下していく奈落、互いにおのれを飲み下そうともがく原初宇宙の大蛇ウロボロス。つまり、だから、それは、まぎれもないわたくしの欲望……

 ほら、あの渦の中で回っている、回っている。この途方もない現実離れした部屋のすべての写真、すべての絵、すべてのグッズ、すべての秘密。

 ああ、聞こえてくるこの調べは、いったい何? 楽しい歌声、笑い声、歓喜のうめき。さんざめく幸せの音たち。そのはずでしょう、この部屋ならば? それなのにそれらが、こうも悲しい交響詩に編み上げられていくのは、なぜ?

 もうやめて! いつまでそうやってぐるぐる回っているの! そうするつもりなら早くそうしなさい! 早くわたくしを飲み込みなさい!

 そう……そうよ! ほら、やってきた、近づいてきた。どす黒い渦が数メートル、数十センチ、数ミリと円の直径を縮めているわ。さあ、一気にわたくしを締めつけなさい! そうよ、今!

 ああ? あそこにいるのは誰? あの黒い星の渦の中心にいるのはわたくしではない? あそこで締めつけられてもがいているのは……アカリさん! アカリさんだわ! どうしてあなたがそこに?)

 突然アヤメは地下の部屋に戻ったのを感じた。

 さっきと同じ場所に立っていた。

 ふと見ると、少し離れたところにアカリが立っている。

(あなた……)

 腰のひけた姿勢のアカリは手探りで何かをつかもうと右往左往している。この暗闇に視界を奪われたせいか、アカリは発すべき言葉さえ見失っているようだった。

(美しい……アカリさん、だから言ったでしょう? あなたには暗闇がよくお似合いだって。闇はこんなにも荘厳にあなたの姿を浮かび上がらせる)

 だがアヤメはまぶしそうに後ろをふりむいた。

(あの小さな天上の丸窓から月明かりさえ差し込んでいなければもっと完全な闇があなたを美しく彩ったものを!)

 アカリが何かに気づいたようだった。彼もまた部屋の一番遠い向こう側に差し込んでいるかすかな月光を見つけたようだった。と同時に言うべき言葉も見つけたようだった。

「ア、アヤメちゃん? いるの?」

「……ええ」

 アヤメから元気な返事がないのでアカリはさらに不安そうな顔つきになった。

「どうしよう? ねえ?」

(どうしようですって? では考えましょうよ、ごいっしょに。この部屋の秘密の仕掛けのこと、この部屋の成り立ちのことを。ふたりで。わたくしたちふたりっきりで)

 アヤメから返事が返ってこないのでアカリは耐えられなくなってきた。

「いったいなんなんだよ、この部屋は!」

「思い出の部屋……」

「え? なに?」

(だからここは思い出の部屋。アカリさん、あなたがそうおっしゃったんじゃありませんか)

「アヤメちゃん、いるの?」

 アヤメは一歩一歩アカリのほうへ歩き出している。

 だがアカリの目はアヤメの動きを察するほどにはまだ闇に慣れていなかった。

 アヤメは聞き取れないほどかすかな声でアカリの質問に答え続けている。

(ここは愛の思い出をつづる部屋。おじさまが奥様への愛の残り香をそっとかぐためのお部屋。亡くなった奥様をずっと想いつづけてきたおじさまの愛。ふたりの永遠の愛……)

 ハア、ハア、とアヤメの呼吸は徐々に乱れ始めていた。

(ハアア、感じる、感じられるの。死に隔てられた後もなお永遠のふたりが互いにさしのべる愛の手を。そのめくるめく愛の想いがこの頭の中で回る、回っているわ! ぐるぐると、いつまでも……)

 アヤメは立ち止まり、その場で頭を前後左右に回しだした。最初はゆっくりだったその動きがやがて少しずつ荒々しくなっていく。アヤメの美しい亜麻色の髪が風車のように風を切り、その空気の振動にアカリは闇の中でじっと身を硬くした。

 アカリには見えなかったが、頭をふりまわすアヤメの目は閉じられていなかった。激しく頭をゆらしながらもアヤメはアカリを注視している。

(アカリさん! 暗闇の中に浮かぶあなたのお姿は、なんといえば、おお、なんと言えば、ああ、どう言えばいいの!)

 今度はアヤメが発すべき言葉をさがして苦しんでいた。

(そうだわ! これはもうわたくしが生まれてから一度も使ったことのない言葉が必要だわ。そうよ、あなたはなんて〝セクシー〟なの、アカリ!)

「ああ、もうどうなってもいい!」

 アヤメのこの叫びは同時に鳴り響いた次のような音にかき消された。

 ドバンッッッ!

「うわっ! な、なんか破裂した? 今の音はなに? うわ、アヤメちゃん!」

 アカリの目の前にアヤメはいた。わずかな月明かりを頼りに、ようやくアカリにもアヤメの姿を見ることができた。 

「わわわっ! ちょっと、ほんとにアヤメちゃんなの? そ、その翼どうしたの!」

 アヤメの背中から飛び出した翼はアカリをおおいかくしてしまいそうなほどだった。

「き、きみのってこんなに大きな翼だったの? 江奈さんのよりデカイいじゃないか。だ、だけどそれじゃ巨大コウモリのシルエットだよ。そんなんじゃとても天使の羽とはいえないよ。こわいよ。それともこれは特殊メイクの演技の練習かなんかなの? おわっ! ア、アヤメちゃん! シャ、シャツが! シャツの前が!」

 アヤメは体調の変化に翻弄されている最中だった。

(ハア、ハア、ハア……体が熱い、燃えるみたい。熱い、熱くて気持ちいい。ああ、でものどが、のどがひどく渇く。渇くううう!)

 のどをかくように指をやり、アヤメは体をそらせた。

 背の高いアヤメの口元がアカリの眼前に広がる。

「おおっ? なんかアヤメちゃんの口もとが変! ニョキニョキって牙みたいのが口の端からはみ出してるよアヤメちゃん」

 その言葉に反応したのか、アヤメはアカリを見おろした。

「わわわ、どうしたの、その目! ああっ、いけないよ! 瞳の色をそんな凶悪な真っ赤に変えて光らせちゃ。演技用のコンタクトレンズなら早くはずしてよ! そ、それと胸を早くっ!」

 アヤメが注意をはらっているのはアカリの言葉ではなかった。それは自分の中で起きている何か素晴らしい出来事に対してだった。

 アヤメはおのれの体内で燃え盛るその新しい何かに、ただひたすら自分のすべてを集中させたいと渇望した。

(ああ、さっきからあなたはいったい何を言ってるの? もう何がどうなのかわからない)

「アハハハハ!」

 アヤメは急に笑いたくなった。体の奥底から突き出る歓喜に、もう身をまかせるしかなかった。

(ああもう、何もかもどうだっていいじゃない。ただわたくしは、この人の! 目の前にいるこのアカリの! 血が吸いたい!)

「おお、アカリ!」

 カプッ。

「んななななー! おおお、うぎゃあああああああああ!」

 首ったまにかじりつかれたアカリは叫んだ。

 叫びながらも、生まれて初めて牙というものが自分の首に差し込まれてゆく感触をアカリは知っていく。

 あらん限りの力でアカリはアヤメの美しい長い髪をつかむ。

 しかしアヤメの頭は重い岩のようにまるで動く気配を見せない。アヤメのその頭は今、アカリのことばかりを考えていた。

(はふーん☆ アカリの絶叫が心地よく耳に響くこと。ああ、このままずっとこうしていたい。もっと吸いたい!)

 それまではっきりと目を開けてアカリの表情を文字通り食い入るように見つめていたアヤメが、少しずつ静かに瞳を閉じようとしていた。

(これでわたくしたちは永遠に………)

 限りない安堵の中でアヤメは祈るようにそう考えていた。


         ♯ 13


 江奈邸の大広間を沈黙が支配していた。

 そこに居合わす誰もがアヤメの担ぎこまれた部屋のドアから江奈裕一郎が出てくるのを今や遅しと待ちかねている。

 ギィ。

 高価なオーク材のきしむ音が運命の裁きを告げる教会の鐘のように響き渡った。

 少なくとも如月ムクゲの耳にはそう聞こえた。

 ムクゲは倒れた親友アヤメの容態と、そして何よりそれが誰の仕業なのかを一刻も早く知りたくてじりじりとしている。

 オーク材の頑丈なドアの陰から、ついに江奈が姿を現した。

「エナおやじ!」

 今にもとびかかりそうなムクゲを片手で制して江奈は言う。

「アヤメは心配ないよ、ムクゲちゃん」

 だが、いつもの笑みが江奈の顔にないのがムクゲの焦りをいっそう募らせる。

「それで? ……なあ! エナおやじったら!」

 ふう、と深い息をつきながら江奈裕一郎は次のように宣言した。

「うん。アヤメよりも先にアカリくんのほうが気を失ったと断定していいだろう」

「ああ……」

 ムクゲは大きく息をのむ。

(ってことは、アカリくんは無実

シロ

ってことよね。よかったああああ!)

 ふだんから口ではいろいろ言いながらも、江奈の状況判断というものをムクゲは絶対的に信用していた。

(ふう、ひと安心)

 ドサっとソファに身を投げて、ムクゲは「ひゃああ」と変な音を出しながら目をつぶった。それは今の今まで心に重くのしかかっていた、アカリを疑うという責め苦からやっと解放された、言わば勝利ののろしともいうべきため息だった。

(そりゃあムクゲだってアカリくんを疑いたくなんてなかったわよ。だけど状況からしたらま真っ黒けだったもんなあ)

 今を先立つこと数分前に、気絶したアヤメが江奈に抱かれて地下室を出て来たのだ。

 そのときアヤメの上半身にタオルがかけてあるのを不審に思ったムクゲは、さっとめくってみると、なんとアヤメの胸がむき出しになっていた。驚いたムクゲが瞬時に服をチェックすると、タンクトップの肩ヒモが背中のところですっぱり切断されていた。

 ただし翼はもとのままちんまりと小さく背中のなかほどに収まっていて、つまりいつものように目立たなくて、誰もアヤメの翼に注意をはらう者はいなかった。

(胸まるだしだなんて……。それにわたしが見たときアカリくんはもう気絶していなかった。自力で歩いて階段も昇ったし。それにひきかえ部屋に運ばれてきたアヤメのほうは、やっと気づいたと思ったら、とたんに大泣きするし。あれじゃみんながアカリくんを疑っちゃうよ)

 アヤメを地下室から連れてきたあと、江奈は全員をアヤメのいる部屋から追い出して何かを調べていた。何度か部屋を出たり入ったりしたあと、今こうして説明しているのだ。

「すまん、僕のせいだ」

 それはまるでアカリのための弁明会見だった。

「まったく僕の責任だ。ほんとです。あの地下室の部屋は鍵をかけておくべき場所なのに、今夜に限ってかけ忘れた。ほかの事に気をとられていたとはいえ大きなミスです。それにまさか里見さんたちが今夜ここに来るとは予想もしてなかったし。だけど僕の不注意は許されるものじゃない。すまないアヤメ、それにアカリくん」

(まあ、ほんとめずらしいわ。江奈おやじがおおぜいの前であんなにペコペコ頭を下げるなんて。わたし見たことないな)

 釈明を続ける江奈を見つめながら、ムクゲはさっきの騒ぎを思い出していた。

(あれはきっと十一時だったのね。ちょうど江奈おやじが電話してきたときだったもの。わたしたちは地下室のドアをバンバン叩きまくっていた)

 地下室のほうからとてつもなく大きな悲鳴が聞こえてきて、ムクゲたちは急いで階段をかけおりた。

 ふたりがいるはずだった資料室に誰の影もなくムクゲたちはあせったが、再び悲鳴が聞こえたので全員があのドアに殺到して叩きまくった。

(わたしも派手に叩いたな。なにしろ先頭だったもの。警察のひとをさしおいてなんて、ちょっと目立ちすぎだったかしら。やれやれ、だわ。でもあの悲鳴だものねえ、しかたないよね?)

 あのときの悲鳴が今にも聞こえるようだった。

 それは二度聞こえてきた。

 それを聞くたびにムクゲは胸をかきむしられるようで、今でもまだ耳の底にそれがこびりついていた。ムクゲは目を軽く閉じて、いま一度あの叫びの諧調を味わってみた。

 そうしてみて初めてムクゲは、あれ? と思った。

(あ、そういえばあの悲鳴って男の声だったような気もするわね、今になってみれば)

 悲鳴が聞こえたとき、ムクゲは反射的に体が反応してこの大広間を飛び出した。しかしそれがアヤメの声だと思ったからあれほどあわてたのかどうか、今さらながらムクゲは自分で確信が持てなくなった。

(そうそう、だってあれはアヤメの声なんかじゃなかったもの)

 え? ムクゲは目を開いた。

(わたしったら、いま、何を思い出したの?)

 ムクゲはふいにとんでもないことを思い出し始めていた。

(あれはアヤメの声じゃない? しかも、そのことをわたしは初めからわかっていた? ……そんな! うそ!)

 そう気づいてムクゲはあぜんとした。

(ちょ、ちょっとまって。だって、それじゃあ話のつじつまが合わないじゃないの)

 そうムクゲは悩んだ。

 つまりアヤメの悲鳴でないと知っていたならば、どうしてまっさきにアカリを疑ったりしたのか?

(そうよ、変だわ。アカリくんの悲鳴なのにアカリくんを疑うなんて……。いや、ほんとに疑ったりしたのかな? なんか、もっとちがう気持ちだったような……)

 ムクゲはだんだん思い出してきた。

(……怒ってた……そうだ、わたし怒ってたのよ。アカリくんに対してものすっごく怒ってた! 許せないって、そうも思った。でも、どうして? アヤメに何かひどいことをしたと思ったから? いえ、そんなことじゃない。全然ちがうわ。じゃあ、なぜ?)

 それが思い出せない。

 ムクゲはいらいらしてきた。

 なんだかいきなりおのれの心の迷宮に迷い込んでしまったような気がして、急に不安にもなった。

 すぐに答えがほしい。

 ムクゲはそう思った。

 そこで親指の爪を悔しそうにかみながら、ムクゲはアカリの姿をさがした。だが見つけることができなかった。この大広間のどこかにいるはずなのだが。

 アカリから答えを聞くことができないのではしかたない。自分で考えなくては。

(あのときの気持ちはなんだったのかしら。ともかく早くこの地下室のドアを開けなくちゃ。いま開けないとたいへんなことになる。そう思ったのは確かなんだけど……)

 たいへんなことになる。それは何がいったいどうたいへんになることだと、あのとき自分は考えたのだろう。

 ムクゲは知らず知らずのうちに心の地下室への扉を開きつつあった。

 ここでムクゲはまた気づいた。

 たいへんなことになるというあの感覚。それは純粋にアヤメの身を案じるという気持ちではなかったことに。

(そんな! まさか……。ああっ!)

 突如おのれの心にひらめいたものを誰にも気づかせないように、大急ぎでムクゲは下を向いた。

 ついにあの瞬間の気持ちをはっきりと思い出したのだ。

(とられちゃう! そう感じた。そうよ、アカリをとられちゃうって! それに……)

 次々とよみがえるおのれの感覚の生々しさに、ムクゲは軽い吐き気をもよおして両手で口をおおった。

(だから、疑った。アカリを。犯人としてじゃない。怒ったのよ、アカリのことを。そんなことになるのも、きっとアカリがアヤメを誘惑したからなんだって……。ばかっ! 何を考えているの、わたし? いったい何のことなのよ? とられちゃうって何? 誘惑したって何? ふたりはただ資料を探しにいっただけじゃないの!)

 ムクゲは思い出した。アヤメたちが出かける前に自分が誘われたことを。

(そうよ、アカリくんはちゃんと声をかけてくれたじゃない。それなのに銃なんかにうつつを抜かしてわたしが断ったんじゃないの。行くべきだったのよ。ほんとに、バカ!)

 両手で頭をかかえると、あのドアの前での自分の姿がムクゲにはありありと見えてくるような気がした。

 みなを押しのけて扉の中央部を叩いていたわたし。容赦なく蹴り飛ばしていたわたし。最後は爪をたててドアをかきむしっていたわたし。 

(なんで爪なんかを? そうか、それで里見さんが割って入ったのか。きっとわたしの姿を見るに見かねてあんなこと言ったのね)

 いま突入準備を開始したからあとはプロに任せなさい。里見総監はそう言ってムクゲの肩をつかんで、やんわりとだが扉から引き離したのだ。

 ムクゲは恥ずかしさに顔色が変わるのを感じた。そして、よりいっそう恥ずかしいことを追加で思い出した。

(里見さんに押さえてもらいながらもわたしは名前を大声でどなっていたわよね。でも呼んでいたのはアヤメの名前じゃない。わたしはどなっていたわ、アカリアカリって! うわあ、みんなどう思ったかしら?)

 実際には誰もムクゲの叫んだ名前など覚えてはいなかった。一刻をあらそうと思われる場面だったし、なによりそのときちょうど江奈から里見に電話が入ったからだ。

 その会話の一部が偶然耳に入ってずいぶんびっくりしたのをムクゲは思い出す。なにしろ江奈が怒鳴り散らすのをムクゲは初めて聞いたのでそれだけでも驚きだった。

「地下室に突入だと! ばかな事はやめるんだ! オレが行くまで絶対はいるな! いいな、里見さん! 五分以内に着くから待つんだぞ!」

 江奈が「オレ」と自称するのを初めて聞いたムクゲは少なからずショックも受けた。

(それにしてもねえ)

 帰ってきたときの江奈の異常さを思い出し、ムクゲはいっとき自己嫌悪中なのを忘れることができた。

 まず翼がすごかった。帰ってきたときの江奈はまだアカリの服装でややこどもっぽく見える装いだったのだが、翼のほうは大悪魔もかくあらんという具合にバサバサうごめいているのだ。全速力で飛翔したばかりの落ち着かない翼であることは一目瞭然だった。それはなんだか怒りにうちふるえているようにムクゲには見えた。

 その翼がときおり不意に跳ね上がるのもかまわず江奈は言った。

「みんなはここにいるんだ。絶対に入っていかん! いいから階段のところまでさがるんだ! 里見さん、みなを頼みましたよ。いいですね?」

 そして江奈は部屋にひとりで入り、しばらくしてアヤメを抱いて出てきた。

 それをただヤキモキして自分の腕に爪をたてながらその江奈たちの姿を見ていたときのイヤな気分をムクゲはくっきりと思い出した。

 アヤメは苦虫をつぶしたような顔つきになって口をへの字に曲げ、肩をいからせるように憮然と腕を組んだ。

 すると少し離れたところから江奈の声が聞こえてきた。

「今現在わかっていることは以上です。お忙しい中どうも心配をおかけしました」

 江奈は深々と頭を下げている。どうやら釈明はまだ続いていたらしい。

「あとは調査が終わり次第またお知らせしますので、みなさんはお仕事に戻ってください」

 江奈のこの一言で警視庁のスタッフたちは足早に各自の持ち場に戻ってゆき、あっという間に大広間はまた騒音で活気づいた。

(よおし)

 ムクゲはひそかに腕まくりをして江奈が歩き出すのを待つ。

 ほどなくして江奈が通りかかった。

 江奈の姿を間近に見たムクゲは、徐々に頭の霧が晴れていくような解放感をおぼえた。

 とりあえず江奈にネガティブパワーをすべてぶつけてやれ! そうムクゲは決めたのだ。

(だってそうでしょ? よく考えたら全部彼の責任じゃないの。あんな部屋を造ったのは誰よ)

 もうこれ以上は迷宮めぐりの重苦しさに耐えられないと自覚したムクゲは江奈に向けて脱出することにした。

「おい、オヤジ」

「あれ、ムクゲちゃん。僕の名前も省略しちゃうの? 僕ってただのオヤジ?」

「そんなこたあ、どうでもいいんだよオヤジ。なあ、どうしてオレたちを地下室から追い出したりしたのさ。そんなにあの部屋をオレたちに見せたくないわけ?」

 江奈の顔色が少し変わったようだった。彼は足をとめてムクゲのほうへ向いた。

「あの部屋、いったいなんだよ? いろいろ仕掛けがあるみたいだし。でもそのヘンテコな仕掛けのおかげでアヤメは危ない目に遭ったんだよ」

「わかってるよムクゲちゃん」

 江奈はいつになく神妙な表情になった。

「うん、そうだな。もうこうなっては君にも全部話すしかないようだ。しかしねムクゲちゃん。まずはPR―Xの件を片づけなくてはならないんだ。もう少し待ってくれるかい」

 江奈がおおまじめに反応するのでムクゲは内心あせったが、乗りかかった船だ、最後まで一気に沈めてやれとますますネガティブになって攻めだした。

「ふん、ほんとに話す気があるのやら」

「話すさ。約束するよ」

「それになんだよ、あの隣の部屋のエロ本とエロDVDの山は?」

 江奈の顔が一気にくずれた。

「あのう、エロ本って、えーと、あれ見ちゃったの?」

「全員で見たよ。まず資料室からふたりを探したんだ。当然だろ。アヤメとアカリくんは資料を取りに行ったんだから。やっぱエロおやじだ」

 ちっ、と言うように横を向いてから江奈はつぶやいた。

「ドゥンメス メディヒェン!」

「あ、今『ちくしょう、このアマ』って言った。オレ第二外国語はさあ、ドイツ語とってんだよね」

「そのようなことは申しておりませんです!」

 江奈のこの反応を見てムクゲの気分はいくらか晴れた。

(さて、こんな会話してる場合じゃない。早くアヤメのところへ戻ってあげなくちゃ)

 ムクゲはそう考えた。

 しかしそれは理性の声だった。

 ムクゲの本能は「このウソつき」と自分をあざ笑っていた。

 ほんとうはまずなによりもアカリのところへ行きたがっている。自分でもそれはよくわかっていた。

 ムクゲはふたたびアカリの姿を求めて左右を見渡した。

 遠くにあるソファのところにアカリの顔がちらりと見えたが、それはすぐに人垣にはばまれて見えなくなってしまった。

(あら、アカリくんのまわりに人だかりだわ。え、どうして看護婦さんがいるの?)

 ムクゲはすっと椅子から不安そうに腰を浮かしたところを江奈に気取られてしまった。

「心配ないよムクゲちゃん。彼はほんのかすり傷。ただし、これも僕の部屋のせいらしいんだが」

(ええっ? アカリくん、ケガしてるの? そんなふうには見えなかったけど)

 だがすぐにムクゲは思い出した。

(まって。そう言えばアカリくん、階段で首を押さえてなかったかしら?)

 アカリは二階へ来るあいだずっと左の首すじを手で押さえたりさすったりしていた。その動きがあまりに不自然なのでムクゲも記憶していた。

 江奈はかすり傷というが、そんな場所にかすり傷ってどんな傷なのか。だいいちそれがアヤメとどう関係あるのか。

 ムクゲは江奈に問いただそうと立ち上がった。

 ところが一足先に里見総監が江奈をつかまえてしまった。

 しかも里見総監はボディガードを数歩離れた位置にとどまらせて、ひとりで江奈に近づいてきていた。

「おい」

 里見は江奈の耳に顔を寄せて小声で言った。

「江奈、医療班の話を聞いたか? こりゃいったいどういうことかね? いま救急車を呼んだとこだ」

 ムクゲは飛び上がらんばかりに驚いた。

(救急車って、アカリくん! 大ケガなの!)

「彼の頸動脈の上に穴が二つだな、ポツリと開いている」

 ムクゲは卒倒しかけた。

「もしやと思い姪御さんもチェックしたら口のまわりにルミノール反応ありだ。彼女の歯から血を拭き取ったのはお前だな? そうなんだろう? なぜかくす」

(アヤメの口に血? なんの話?)

 そうつぶやきながらも、パニくりかけたムクゲの心は急に冷静になっていった。

 なぜか自分でもわからないのだが、ムクゲはやっと納得した気分になれたのだ。

(アヤメがアカリの首に穴を二つあけた……口で……)

 その首の穴を見たくてムクゲはいても立ってもいられなくなった。

 だが江奈の次の言葉が耳に入り、ついまた立ち止まってしまった。

「里見さん、血は吸われていますか?」

 ムクゲには突如自分の視界が、パアッと開けた気がした。

「そんなことは胃洗浄でもせんことにはわからん。それにもしクロだったら」

「里見さん、彼らは未成年者です。おたくの青少年課の基本方針はメンタルケア優先でしょう?」

「う、そりゃそうだが」

「それに今はアカリくんにひと仕事してもらわなくてはならない」

「それだ! わるいが優先順位というものがある」

「わるいなんて、とんでもない」

「そうか。姪御さんの体は今すぐ調べんと結果は得られんが、ここにそんな設備はない。内科の専門家もおらんから素人が無理に検査すると危険だ」

「ではやめておきましょう」

「おまえがそれでいいならな。正直言って時間がおしいんだ。彼らには悪いが今はPR―Xを優先して欲しい。おっと、そうだった。おい、ほんとに彼は使えるのか、江奈?」

「さっきはやる気十分だったんでしょう?」

「さっきまでは確かにそうだが、こんなことがあったばかりだし」

「では本人にたずねてみましょうよ」

(冗談じゃないわ。わたしがまずアカリくんと話したいのよ)

 里見総監のあとについてアカリのほうへ行く江奈の左腕にムクゲはぶらさがった。

「うわ! なんだい、ムクゲちゃん?」

「ちょっとちょっとってばあ。さっきから何のことさ。なあ江奈おやじ、はっきり話してよ。アヤメがアカリくんの血を吸ったってどういうこと!」

「ありゃ、全部きいてた?」

「とぼけんなよ! 大事件だろうが!」

「うーん、やはりこれもアカリくん本人に聞いてみようよ、ムクゲちゃん」

(よし、これでわたしも参加権を得たわ)

 小走りに里見総監を追い抜きざま「えへへ、こんちゃ」ととびきりの愛想笑いをふりまくムクゲ。里見総監は立ち止まって破顔一笑。技ありだ。おかげでアカリのソファにはムクゲが一番乗りをした。

(アカリくんたら、ソファーに座りこんでうつろな目しちゃってる。まさかもう吸われたんじゃあ……)

 ムクゲの頭の中にはアカリの容態よりも、血が吸われたのかそうでないのかだけがあった。

「アカリくん」

「あっ、ムクゲちゃん! ア、アヤメちゃんはどこ!」

 ムクゲはすばやくアカリの口に手をやってアヤメの話題を殺した。

「しっ! アヤメは休んでる。静粛に」

「あ。う、うん」

 口を押さえている手を少しあげて、ムクゲはアカリのあごをぐいとそらす。首すじがよく見えた。

(ああ、もうバンソウコウが貼ってあるわ)

 ムクゲはひどく落胆したが、まだ聞くことが山ほどある。

「ねえ、アカリくん。何があったの?」

 アカリは大きく開いた目を脇へそらした。その横顔は動揺していて、自分の口を押さえているムクゲの手を今はありがたがっているようにさえ見える。

 ムクゲは手を離してアカリの横にぴったりと自分の体をくっつけた。

 異常なほど音量を落とした声をムクゲはアカリの耳へ注ぎ込む。

「これは大事なことよ。オレに全部はなして。さあ」

 ムクゲはアカリの腕に抱きつき、ばっちり胸のあたりをそこへ密着させる。

 びくん、とアカリの背筋が伸びきる。

 アカリはおそるおそるムクゲのほうへ顔を向けていったが、そこには自分の腕にぴったりと巻きついた短髪の美少女が大きな瞳をうるうるさせながら誘うように唇を半開きにして子猫のように何かをおねだりしているという一幅の絵があった。

 一部始終をすっかり話してしまおうかどうしようか、アカリは激しく葛藤したが、そこへ江奈がやってきた。

「どうだい、調子は? アヤメなら心配いらない。あっちの部屋で落ち着いているが、行ってみるかい?」

 この助け舟にアカリはとびついた。

「お願いします、江奈先生!」

 すくっと立ち上がったアカリは、その勢いでムクゲを振り落とせると思っていた。

(超あまいわよ、アカリ。このままアヤメとふたりっきりで会わせると思うの?)

 ムクゲはアカリの腕にへばりついていた。

 これには江奈も驚き、里見総監は眉をひそめたが、そんなことはお構いなしにムクゲはアカリにくっついたまま歩いていった。

「あのう」

 女性看護士がアカリたちに声をかけてきた。アヤメのいる部屋についている人だ。

「ここは簡易病室にしていますので、おそれいりますが、あの、それはちょっと」

 ムクゲはしかたなく武装解除に応じた。

 解き放たれたアカリは、簡易ベッドに座っているアヤメめがけてかけよった。

「アヤメちゃん!」

「え? ああっ、アカリさん!」

 アヤメが喜びに輝く。

(あの表情は! じゃあもう吸ってしまったってこと? そんなあ……)

 だが、ムクゲが絶望しきる前にアヤメの大声が部屋に響いた。

「ああっ、いやです、見ないでくださいですぅ!(泣)」

(え、どういうこと? もしかして、まだなの? うわあい!)

 やっとムクゲに余裕ができた。

 しかしアカリのほうはまるで余裕がなく、やみくもに早口になっていた。

「泣かないで。ねえ、だいじょうぶ? あれ、あの翼はどうしたの? 全然見えないね。歯も普通みたいだけど?」

 驚いたように顔をあげたアヤメだが、その目がみるみる涙でくもっていった。

「何おっしゃってるんですぅ。わたくしお化けじゃないですぅ!(泣)」

 ますます余裕のムクゲに対してますますパニクっていくアカリ。

「だって、さっき」

 アカリの言葉にふりむきもせず、目をつむったままアヤメはイヤイヤをする。

「さっきって何ですぅ。アヤメ何も覚えてないんですぅ!(泣)」

「あ、その服どうしたの? 肩がボロボロになっちゃってるよ」

 アヤメがもう一度顔をあげてアカリを見た。

「アカリさん、わたくしの服の下をみたんですか? いやあ!(泣)」

「み、見てないって。あそこ暗かったし、それどころじゃなかったし」

 またまたアヤメはアカリを見つめたが、それは今までにない真剣なまなざしだった。

「見てない? 見てないですって!」

 どう答えていいかわからずにアカリが立ち尽くしているうちにアヤメの涙が大量生産されてゆく。そしてそれがとうとう堰を切った。

「うう、アカリさんたらアヤメのことまるで見てくれないんですぅ。アカリさんにとってアヤメはちっぽけなゴミみたいなどうでもいい存在なんですぅ。いやあ!(泣)」

「そんなことないって! それどころか、ねえ、アヤメちゃん」

 そこでドクターストップが入った。

「さあ、患者さんから離れてください。沈静剤を投与しますから皆さんしばらくご退出願います」

 医者と看護士の一団がアヤメを取り囲む。アカリたちは追い出されるようにしてドアをくぐり大広間に戻った。

 がっくりうながれて歩くアカリ。

 その後ろからはうなじに両手を組んでまるで口笛でもふきそうな具合に口びるを愉快そうにとんがらしたムクゲがついてくる。そんなムクゲを見て江奈はしばし女の友情について哲学的考察をめぐらしていた。

「ねえねえ、どうなってるのムクゲちゃん?」

 マクラがどこからか走ってきた。

「おお、マクラか。あんたどこ行ってたのさ」

「なに言ってるのよ。今まで電話づくめでたいへんだったんだから」

「電話って、どこへさ。オレたち寮生だもん。遅くなるからって親に電話なんかしなくたっていいじゃん」

「もうムクゲちゃんたら。門限はどうしたのよ、門限は!」

「ああ、いけね! あの、えーと、マクラさま? オレの外泊願いもしといてくれ、ましたよね? へへ」

「へへ、じゃないでしょ! ほとんど事後承諾だもん、苦労したわよ。それにパリって時差がよくわかんなくてね」

「パリ? オレたちの寮は都内」

「はあ……アヤメちゃんのご両親でしょう! パリにお住まいなのは!」

「あ、そうだった。だけどなんでアヤメの親に?」

「ムクゲちゃん! たいへんなことになってるでしょ、アヤメちゃん。知らせなきゃ。でも電話番号とかわからないからわたしの親に電話してわざわざ聞いたのよ。寮母先生なんかに聞いたら大騒ぎになるもの」

(おおお、さすが実用派のマクラちゃんだよお。なんて現実的でお役に立つおかたなの。それにひきかえ……)

 ムクゲの頭は超高速で冷却されてきた。

 ムクゲの心は恥ずかしさでいっぱいになっていく。

「国際電話なんて慣れてないからヘンなとこかかちゃったりとかね。結局どうやらかかったらしんだけどお留守らしくて留守番メッセージなのよ。フランス語だから、もうわけわかんない。もしかしたら寝てるのかなあって。ほら、だって日本との時差がさ……」

 マクラの苦心談をバックミュージックにしてムクゲはひとり考えていた。

(どうしてわたしったらあんなにアカリくんの穴にこだわったのかしら。いえ、それ以前に地下室のドアの前でなぜあんなに半狂乱になって扉を叩いたりしたのかしら。それもアヤメの心配もせずアカリくんのことばかり考えて)

 おそらくマクラが肉親の話をしたからだろう。ムクゲは家族のことも思い出していた。とくに少し歳の離れた妹のことを。

(そう言えば、さっきのドアの前で感じたあの焦った気持ちは妹とやりあったときの感じみたいだったなあ。欲しいものがいつも一緒でよく張り合った妹。腕力にものをいわせてわたしがゲットしても両親に見つかればいつも妹のほうへやられてしまう……悔しかったなあ。でもさっきはそれみたいな感じだった)

 え? とムクゲは思った。

 それでは自分はアヤメのことを妹のように考えている?

(まさか、ね。なんでアヤメが妹なのよ。どっちかっていうとお姉さまタイプじゃないの、アヤメなら。それとも欲しいものを張り合う相手、という意味なの? でも……)

 考え込んでしまったムクゲはいつしかマクラの話を聞いていなかった。

「で、どうなのよ? ムクゲちゃん!」

 ムクゲはびっくりした。

「え、何が?」

「何って、アヤメちゃんの様子は!」

「あ、はい。ええと、まずオーケー」

 ムクゲは思いっきり省略して報告した。ほんとにどうしてアヤメをほったらかしにしてあんなことを思い悩んでいたのだろうか、とムクゲは本気で頭をひねり始めた。アヤメはかけがえのない大切な親友なのに。

 さっきの荒々しい気持ちがどんどん自分から遠くなるようだった。

「何よそれ。なんか頼りないわね」

「へへ」

「じゃあ、アカリくんのほうとかは?」

 ムクゲはやはり省略して話したい気がしたので唇をかんで迷ったが、こちらのほうはごまかせそうもない。ムクゲも観念した。

「いや、それがさ、マクラさまがお電話あそばされてるときにちょっと変な話があったような、なかったような」

「はあ?」

「あのさあ、アヤメがアカリくんの血を吸ったとかどうとか騒いでたんだ」

「ええっ! なにそれ? でもちょっとそれ、逆なんじゃないの? アヤメちゃん気絶してたんだよ」

「ああ、そっち? 血を吸うほうは気にしないのね」

「そっちも何もないでしょ! アヤメはどう見ても被害者っぽかったじゃないの」

「確かにそうなんだけど、えーと」

 ムクゲの頭はだんだんこんがらがってきた。

 こういうときムクゲには絶対の解決法があった。

 そこで今回もそれに頼ることにした。

「オレにもわかんない。けどあのエロおやじには事情がわかってるみたいなんだ」

 苦しいときの江奈だのみ。これぞムクゲの万能解決薬だった。

(わるいけど全部引き受けてもらおうっと。あ、よく考えたらわるくなんてないわよね。すべてはあの地下室のせいだもの。くどいけど、ぜーんぶ彼の責任ってわけよ)

「江奈おじさんが? 事情をすべてわかっているの?」

「うん。妙に落ち着いていて気にくわねえ。あとでオレたちに全部話すって一応は約束したんだけど」

「あとって、いつなの?」

「人工衛星の件が終わったらだって。ま、あてになんないよ」

 そのときにわかに部屋の向こうが活気づいた。

 部屋の向こう側というのは、ムクゲたちの目の前にある大きなついたての向こう側ということだ。

 いま大広間は何枚もの高いついたてで仕切られている。そのついたての向こう側が今夜の作戦本部だが、ムクゲたちにはそこがどんな様子なのか全然わからなかった。

 どうやらスタッフが休息をとるときにはついたてのこちら側に来るらしく、今も何人かがいたのだが、その彼らがいっせいに席を立ち、みな緊張したおももちで足早についたての向こうへ移動していった。

「全員配備完了。スタンバイ」

(ん? 急に部屋中がさわがしいな。まさか人工衛星の通信が始まったの?)

 ムクゲはあたりを見渡した。

 アカリをさがしたのだが、まず目に入ったのは里見総監だった。

 誰か男性がついたての陰から出てきて、里見のそばへ駆け寄って言った。

「報告! NASAは交信開始。約三十分以内に直接通話モードに変換できる見通しとのことです!」

「よろしい。全員配置につき交信待機」

 里見総監がふりかえると、そこには江奈裕一郎が立っていた。

「江奈、奴らほんとにコンタクトしてきたな。最後通告というのは本気かもしれんぞ」

 江奈は腕を組み、そのうちの片方の手をあごにあてていた。

「話がどういう方向に行くかは僕の助手のアカリくんにかかっていそうですね。やれるかい、アカリくん?」

 よく見ると江奈の背後にアカリも立っている。

「はい、もちろんです先生。アヤメちゃんも今はぐっすり寝ているし」

 アヤメちゃんという言い方がチクリとムクゲの胸をさす。

「いいぞ、アカリくん! がんばれえっ。里見のおじさま、もうバッチシですよ!」

 どうしても何か一言アピールしたくなってムクゲははじけた。

「おお、やってくれるんじゃね!」

 里見総監はニコニコ顔になって喜んだが、なぜかムクゲのほうを見つめていた。里見のおじさま、と呼ばれたのがよほど嬉しかったのだろう。

 ムクゲはしてやったりという顔をしたまま「あっち、あっち」とアカリの方角を指差して里見に会話すべき相手の所在を教えてあげた。

「うん、ここじゃったね柴咲くん。いやさ、アカリくん」

 里見がアカリと呼ぶので、「おや?」という顔を江奈はしてみせた。

「アカリくんはおまえの助手なんだろう? ならばわしの仲間ということさ」

 江奈は唇の両端をクイとあげてみせた。

「ふー、それにしても江奈。今夜はいろいろ起こるな。そうだそうだ。さっきの話だがな、中田元総理への手配はしておいたぞ。だが政治問題に重点が移ってしまいそうだよ。逮捕は望み薄だ」

「でしょうな」

(中田元総理? あのテロ事件の話? なんで過去形なわけ? まさかもう終わっちゃってるの? ええーっ、そんなの聞いてないよ! わたしだけ仲間はずれなわけ?)

 ムクゲはすっかりいじけた。

「すると先生、例の事件は真相がわかったんですか? ではあのグループがボクに変装した先生に接触してきたんですね?」

「うん、狙いどおりだった」

(なあんだ、アカリくんも知らないのか)

 ムクゲの笑顔が回復する。

(そんならまあ許してあげるわ。ふふ)

「今は詳しく話す時間がないが、ザッとこんな筋書きだったよ」

 腕時計をにらんでいた里見総監が無言で許しを与えたので、江奈はアカリ、ムクゲ、マクラに一連の経緯を要領よく話して聞かせた。

 ムクゲも感心して聞き入った。

(ふんふん、なるほど、悪どいなあ。え? 中村さんが出てくるの? へえー、そうなんだあ)

 だがムクゲの頭はすでにかなり消耗していて、中田元総理の陰謀の構図のあたりになると霧がたちこめてきた。

(ほおほお、そーゆーことですか、ってわかんなあい! もうだめ、わたし頭がこんがらがってきた。ほえええ)

 そこへマクラが話しかけてくる。

「ねえ、江奈おじさんがしてくれた事件の説明、ムクゲちゃん全部わかった?」

「あらかたオーライ」

「なによそれ?」

「戦前のギャグ」

「わかんないって! 要するにムクゲちゃんも理解できないってことか。複雑だね」

「マクラって数学とか得意じゃん」

「政治と数学って相性悪いみたい。それにこの説明だと私たちの出会いの謎はまるっきし解けてないと思わない?」

「出会いのナゾって?」

「やだ。アカリくんがどうして夜の海岸に倒れていたのかっていう。その……何も着てなくて……」

「そうだ全裸で!」

 無敵のこのひとことがムクゲの原始パワーを解き放った。

「フォフォフォ、そうだったそうだったよマクラちゃま」

 アカリも言った。

「そ、そーですよ先生。なぜボクはあんなとこで寝てたんでしょうか?」

「なぜにオールヌードの少年が夜の海岸でひとり砂に埋もれて……そういうの得意だろ、エロおやじ」

「そんな少年趣味ないよ! このガキいまにしばいたる(後半ひとり言)」

「だからどーなのよ。早く。早く。早く!」

「手拍子すんなっ! 今は時間がないって言ってるでしょう」

「いいからいいから、手短にひとつ」

「しょうがないなあ。じゃあいいかい? 中田元総理のヤラセ襲撃を実行したグループはアカリくんを鉄砲玉に使ったんだ」

「鉄砲玉?」

「そう。 撃った後当たればいいがはずれたっておかまいなしというのが鉄砲玉さ。つまりアカリくんを回収する意図はハナから持っていないってことだ」

「そんなあ、無責任じゃん」

「アカリくんはサピエス革命到来の印象だけを与えればそれでご用済みのはずだった。そのまま逮捕されようが射殺されようがどうぞご勝手に、というわけだ」

「ひどーい!」

「ところが襲撃は予想外に成功して、アカリくんは実行犯グループのところへ戻ってきてしまった。中田邸の外からアカリくんを送り出してその場で襲撃の成否をうかがっていたグループは、アカリくんの帰投にずいぶん戸惑ったそうだ。仕方ないのでとりあえずアカリくんを確保しようとしたが、興奮しやすい薬を投与されたあげくテロまでやらされてすっかり暴れん坊モードになっていたアカリくんは、それは激しく抵抗したそうだ」

「そのあたりのこと、ボクまったく覚えていません。なんか自分がこわい」

「薬のせいだよ、気にしないで。さてアカリくんは連中を振り切るとそのまま走り出し、近くを通りかかった砂利トラックの荷台に飛び乗ったらしい。車の用意などしていなかった実行犯グループは追うこともできずそのまま見送った」

「ドジねえ」

「初めから狂言の襲撃だから逃走用の車など用意しているはずもなかったのさ」

「でもどうして砂利トラってわかんだよ、江奈おやじ?」

「うん。きみらがアカリくんをここへ運んできたとき、彼の体中に白い砂ばかりついていただろう?」

「いただろうって、そこまで見てないよ。やっぱ少年趣味が」

「ないよ! メリケン粉にまぶしたくらい白かったじゃないか。それにも気づかないなんんて、ははーん、さてはムクゲちゃんが注目してたのは……フフ、困ったものだね」

「ほ、ほっとけ!」

「そんなことより、ボクはその後どうなったんです?」

「ああ、ごめん。まあここからは推測だが、その砂利トラックは観光海岸用の白砂でも運んでいたんじゃないかな。君が乗ったのも気づかずにそのまま海岸に砂ごと落として行ってしまったんだと思う。例の白砂はあの海岸本来のものとはまるで別の砂だものね」

「でも誰がボクの服を脱がしたんです?」

「それは君自身だろう」

「ボクが?」

「そう。薬で朦朧となった君は荷台で眠りこけて、砂利が暑いので次々と服を脱いでいったんだと思う。ちょうど熱帯夜の時みたいにね」

「わお、そのシーンてオレちょっと見たかったかも」

「おそらく今でも海岸にはアカリくんの服がそのまま白い砂に埋もれていると思うよ。行って探してみれば?」

「え? まだあるの?」

「顔が赤いよ、ムクゲちゃん?」

「だから、ほっとけって!」

「こうしてアカリくんが一時的かつ完全に消息を絶ったことで、今日の午後に僕が彼らに接触できたわけだ。それが真相の解明につながったね」

「じゃ帝劇ホテルのレストランでオレたちに特上フルコース、江奈おやじのおごりね」

「は? なんで『じゃフルコース』なんだ?」

「だってオレたちが海岸でアカリくんを救助したから事件が解決したんでしょ。だからオ・ゴ・リ」

「救助って、夜の浜辺で気を失った裸の少年みつけて喜んでただけだろうが」

「エロおやじといっしょにしないでよ! まあったく! ほんと腹立つわね、このおじさんは」

 そう言いつつもムクゲはにんまり笑っていた。完全復活近し。そう自分でも感じられたからだ。

 両腕を腰に当てる得意のポーズでムクゲはアカリのほうを見た。

(あら、アカリくんたらまた沈んだ目つきしちゃってる。がんばれよ、男の子!)

 しかしムクゲはアカリのその目に見入っていた。

(でもこの物思いに沈んだ深い湖のような瞳がまたいいのよね。こういう目をした男の子は今までわたし会ったことがない……)

 切なくうずくムクゲの胸に、またさっきの問いがよみがえってくる。

(ねえ教えてよアカリ。あの部屋でアヤメと何があったの……)

 そこへ里見総監の声が響く。

「江奈。お取り込み中すまんが」

 いつしか席をはずしていた里見だが、多くのスタッフをしたがえて今もどってきたのだ。

「じき直接通話チャンネルが開くよ。こっちへ来てくれたまえ。PR―Xからはすぐに彼と話したいと言ってくるだろう。準備はいいかね、アカリくん」

「江奈さん、ボクは……」

(アカリくん、緊張してるわ)

 いまひとつ元気のないアカリの返事がムクゲには気になった。

 江奈がアカリの肩に手をかけてゆったりとした口調で言う。

「とにかくこちらの誘導で着水することをオーケーさせてほしい。あちらの条件はすべて飲む用意で交渉してみてくれたまえ。さあ行こう」

 江奈にうながされてアカリは無言のまま歩きだした。

「あん! わたしも!」

 ムクゲとマクラもあとにしたがっていく。

 大広間を仕切っていた屏風のような何枚ものついたてをくぐると、そこはまるで空港の管制室のような様相を呈していてアカリやムクゲたちを一瞬立ち止まらせた。

「うわあ、警察の服だけじゃないわ。ねえムクゲちゃん、あれって本物の管制官の制服だよ!」

 マクラの制服マニアぶりが一気に高まる。

 長い作業用机の列と何十脚ものパイプ椅子とが三層に連なって扇のように並んでいる。

 机の上はパソコンやレーダーみたいな機器で占拠され、それらが吐き出すコードが行き場を失ってもがく蛇のように床をのたくっている。

 臨時の発電機がうなりをあげ、キーボードを叩く音が神経質に加速する。

 あちこちで何人かの翼がときおり急にワサワサとふるえるのが見える。

 そしてそれら扇状に連なる机と椅子とスタッフたちは、すべてアカリたちに背を向けていて大広間のバルコニーの方に集中しているようだった。

 開け放しにされたバルコニーの窓からは特大パラボラアンテナの丸みが一部見え隠れしている。

「……あそこに」

 あのアンテナに同胞の声が届くのかと思うとアカリはブルルと身が震えるのを感じた。

「江奈先生!」

「うん? なんだい、アカリくん」

「ぼくの席は!」

 黙ったまま唇の端をクイとあげると、江奈はアカリの背中を軽く押した。

 その先には里見総監が立っていてアカリを手招きしている。

 空いた席が三つあり、その中央の椅子の前では女性警察官がひとり直立の姿勢でレシーバーを両手にかかえアカリのほうを見つめていた。

 きびきびした動きでアカリが席につき、その頭にマイク付きレシーバーが装着されると里見総監の声が響いた。

「本作戦開始だ。全員リラックスしろ!」

 最高の冗談だぜ、と言わんばかりの苦笑をもらしつつ数人のオペレーターがスイッチを次々と入れていく。

 ブ・ワアン!

 背後の大型スピーカーが寝ぼけた音をたててアカリたちを振り向かせた。

「間もなくモード変換終了します。推定十秒後に通話可能!」

 里見総監はアカリの横からのぞきこみ、軽く手刀を何回かふる。

 きっと「よろしく」の合図だな、と思ったアカリは右の親指を上へ突き立ててみせた。

 江奈はほほえんだままうなづき、ムクゲとマクラは息をのんだ。

 ザピィー、ガガガ、キュイー、というスピーカーの雑音に続き大きな声が大広間にとどろいた。

 男の声だった。

「いるのか! おい、どうなんだ。いるのか!」

(これが人工衛星からの声ね。よく聞こえるわ。でもなんて粗雑な男の声かしら)

 歴史的な第一声にムクゲは顔をしかめた。

「こちら柴咲アカリ。ボクは……ニンゲンです」

「ほお! 出てきたな。じゃあおめえは血を飲まねえんだな? だろ?」

 血を飲む、というところでムクゲはびくりと身を震わせた。

「飲みません。ご飯を食べます。それよりあなたがたは本当に人間なんですか? 翼はないんですか?」

「あたぼうよ。そいつら翼もあんのか? そんな話聞いてねえぞ。翼があって血を飲むとくりゃあ、まるで吸血鬼じゃねえか」

 ムクゲはびっくりして立ち上がった。

(キューケツキ! あいつの口からもこの単語が出た! するとこれはアカリくんの創作語じゃなくて実在する概念なのかしら?)

 田舎じみた野太い声がたたきつけるように聞いてくる。

「そいつら吸血鬼なのか? どうなんだ、おい!」

「ここの人たちは、その……」

「はっきりしねえな。おめえ吸血鬼のグルなんか。おめえはほんとに人間か?……いてっ! 蹴っ飛ばすなよ。だいじょうぶだよ、おれにまかせ、いったた、あね、ザピュン、ガリガリガリ、ザザザザ、ビュイービュイビュイー、ガッ……。テステスッ、こちら感度良好。どうも失礼。ふふふ、選手交代したわ。いいこと? あたしのいうことをよく聞いて」

(急に女の声になったわ。なんて冷たそうな声なの)

 アカリが女性と話すと考えるだけでもムクゲには不快だった。

「聞いてる、坊や? 久しぶりに若い男の声を聞いたよ。ああ、若返るねえ」

「久しぶりって、どのくらい久しぶりなんです?」

(ああっ、うまいよアカリくん。自分から質問してちゃんと会話をリードしてる。そんな年増オンナやっつけちゃって!)

 アカリの後ろでムクゲは腕をブンブンまわしている。

「さあね。忘れたよ」

 スタッフ一同が、ちっと舌打ちをする。

 相手が会話の主導権など渡すつもりがないことをアカリも思い知った。

「おっと、最初にいっとくがあたしはコンピュータのプロなんだよ。小細工は無用だ。企業どころか政府の中枢に入り込むのだって自由自在だったもんさ。だけどこのフネのは完全にブロックされててね、肝心のところにはアクセスできてない。日付すらわかんないときてる。だけどね、データが読めないってだけでフネはもう自由に動かせるんだ。リクエストがありゃ東京だってニューヨークだってどこへでもぶつけてやる。ハッタリだと思うなよ、坊や」

(ハッカーなんだ。こいつらコテコテの犯罪者っぽいじゃないの。アカリくん、だいじょうぶかな)

 ムクゲは少しびびった。

「さあ、おしゃべりタイムは終了だよ。要求は一度しか言わないからよくお聞き」

 ここでアカリがくさびを打った。

「ちょっと待ってください。おわかりかと思いますけど、こちらはもう人間の世界じゃないんです。その、えーと、別の人類の支配下にある世界なんです。当たり前の要求と考えて出した条件がこちらでは不可能ということがあるかもしれないんです」

「ああん? その話マジなのか? まぁ確かにここんとこ何日間のやりとりで変だなと思うことはたくさんあるけどね。ほんとにもう人間は残ってないのかい?」

「ええ、ボク以外は、今のとこ……」

「そいつは好都合だよ」

「え?」

「核戦争があったか何か知らねえが、世界が変わったんなら法律も変わったろう? それとも法律ってもんもなくなったかい、ケケケ」

「ありますよ、法律は。ちゃんと」

「ともかくね、あたしたちをしばる法律はないだろう。さ、要求を聞くのか聞かないのか!」

「どうぞ」

「まずあたしたちを逮捕しないこと。これは絶対条件だ。次に速やかに住居を与えること。いいか!」

「……はい」

「それから着陸後にすぐメシを食わせろ。とびきりのごちそうだぞ!」

「そ、それは……」

「寿司と天ぷら、すきやきにしゃぶしゃぶ、それと極上松阪牛のステーキ。聞こえたか、牛の肉は絶対に忘れるんじゃないよ」

「キャー!」

 思わずムクゲが叫んだ。

「今の声は何? どうしたのさ? そっちで悲鳴あげた? おい、応答しろ、坊や!」

 実は叫んだのはムクゲだけではなかった。女性スタッフの多くが叫んでいる。

 ムクゲはぞっとして震えていた。

(何よ? こ、この人たち肉を、生き物の肉をじかに食べるの? あ、悪魔だわ! やっぱり極めつけの犯罪者だ!)

「なによ、どうしたってのよ。おおぜいの叫び声が聞こえたけど。おい、こっちの要求はちゃんと聞こえたの? 牛よ、牛の肉」

「……はい、すきやきですね……」

「牛のステーキもだよ」

 大広間は凍りついたようにアカリと人工衛星の交信を見守っていた。あるスタッフなど真っ青な顔で口を手で押さえながら片手でキーボードを叩いている。おそらく誰もがムクゲと同じく次のようなことに思いをめぐらせていたのだろう。

(どうしたのよ、アカリくん。どうしてそんな要求に受け答えなんかできるの? スキヤキって何? どうしてそんな料理の名前を知ってるの? まさかアカリくん、あなたも肉を食べるの……)

「待ちたまえアカリくん」

 大広間から声があがった。里見総監だった。

「里見総監。はい、なんでしょう」

「ウシの肉って、よもや君らは共食いの習慣があるんじゃなかろうね? サピエスがサピエスの肉を要求するなんて」

「んなものあるわけないでしょう! 彼らがいうウシってのは別の生き物です。こっちの世界では、えーと、ミルカっていってるあれです」

「ミルカ? あれ食べられるのか? というより、君たちまさか肉なんて食うのか? 食人鬼……」

「やめて! アカリくんが食人鬼なんて。そんな、いやっ!」

 恐怖に顔をひきつらせてムクゲが叫んだ。

 大広間の全員がアカリを注視している。

 異様なプレッシャーを感じながらも、なんとかアカリが次のように言った。

「その話はあとできちんと説明しますから!」

「そうですよ、里見さん!」

 江奈だった。里見のひじを江奈は強く握っている。

「アカリくんのいうとおりです。交渉が先です」

 悪夢から覚めたように里見総監はドスンと椅子に座った。

「す、すまん江奈。ついとり乱して」

 だがムクゲは立ったままだった。

(〝肉を食べる人間〟っていったい何なの? それが人間と呼べるの?)

 アカリを直視できず、ムクゲは床に視線を落とす。

 そこに緊張したアカリの声だけが響いてくる。

「PR―X、PR―X、聞こえますか。どうしちゃったんだ。切れちゃったのか。くそっ。PR―X応答ねがいます!」

 アカリが机をドンと叩くと「ふふふ」という音がスピーカーからもれてきた。

 アカリもスタッフも、あっと顔をあげてスピーカーにかじりつく。

「ああ、聞こえるさ。よーく聞かせてもらったよ。ふーん、変な連中だね。日本語ペラペラのくせに松阪牛も知らないなんてさ。こりゃあ坊やの言うとおりあたしの知らない世界らしいや。この話、やっと信用してもいいかなって気になってきたな。だけどごちそうの件はどうしてくれるのよ。こいつも絶対条件なんだからね。こちとら食料貯蔵庫がヒートしちまって、もう二日もろくに食ってないんだ」

「それで急いだのか……」

「これでよくわかったろう! こっちはもうカリカリしてんだ。人工カロリー食だけじゃ煮詰まっちまうんだよ!」

「しかし、ごちそうを用意する地点まで正確に誘導するのはNASAにしかできません。墜落と違って無事帰還が目的なのですからNASAに任せてもらえますね?」

(う、うまいわアカリくん。そうなのよ、アカリくんは奴らに話を合わせて肉の話をしただけよ。あとできちんと説明するって言ってたし。ああもう、わたしったらさっきから二度も疑ったりして、ごめんねアカリくん!)

 自分自身を説得するかのようにムクゲは心の中でそう叫んでいた。

「わかったよ。どうせまた軌道がどうとか気象条件がどうとかいうんだろ。で、いつ帰れるんだ?」

「えーと、いつですか江奈先生?」

 指示をあおぐアカリに江奈は無言のまま右の人差し指一本と左の手で三本指を示した。三本指はアルファベットのダブリューの字に見える。

「え? 一週間ですか」

 バシンバシンと何か金属でもたたきつけるような神経質な音がスピーカーから聞こえてきた。続いて女の荒れた声も。

「なんだって! 一週間だと! もうマジ切れすんぞ!」

「一週間以内ということです。それで帰還できるんですからぜひここはNASAに」

「ちぇ、勝手にしな。もういいよ坊や、あんたの声も聞きあきたよ。とっととNASAにかわんな」

「わかりました」

「おっとっと、ひとつ忘れ物」

 女の声が一転して猫なで声になったのでアカリは眉をひそめた。

「なあ、坊やも絶対にあたしたちを迎えにくるんだよ」

「もちろんそのつもりです」

「いい子だ。その時ね、教会から聖水をもってきておくれよ」

「聖水?」

「それとも教会なんてないのかい? 吸血鬼の世界だからなあ」

「教会はありますよ」

「じゃあ頼む。実はさ、これでもあたしたち熱心な信者なんでね。無事帰還の際は是非とも聖水で浄めの儀式をしたいのさ」

「そんな儀式あるんですか? ボクも信者だけど」

「あたしたちの宗派ではあるんだよ! 大事なことなんだ。二リットル頼む。聖水なんて教会の入り口にでもたんとあるから簡単だろ。これも条件のうちさ。坊やから直接手渡しだよ、人間同士ね」

「わかりました。持って行きますからNASAの指示に従ってくれますね」

(アカリくん、ほんとに交渉上手だわ)

 こうムクゲが感心するほど、このわずかな時間にアカリは成長していた。

「了解。じゃあNASAにかわっとくれ」

(あ、里見総監のおじさまがアカリくんからマイクをはずした。終わったんだわ。成功ねアカリくん!)

 ムクゲはアカリのところへ走りだしたが、すぐにその足がとまった。

(でも肉の話は……。ま、それはいつでもいいじゃない! ね?)

 同意を求めるようにムクゲは周囲を見渡したが、アカリの労をいとう雰囲気はそこになかった。みな一様にアカリと距離を置きたがっているのがみえみえだった。

(アカリくんはよくやったわ。だけどまわりの人たちのアカリくんを見る眼つきはちょっと冷ややかになっちゃったね。それも無理ないけど……)

 ムクゲは顔を起こし、朗らかな表情をつくった。

(でもね、わたしは変わらないよ!)

 今度こそムクゲはアカリのところへ走り寄り、やわらかくポンと背中をたたいた。

「よっ、お疲れさん。お見事でした! オレ感心しちゃった」

「ありがとうムクゲちゃん!」

 孤立無援の空気を感じてしょげていたアカリの顔がほころぶ。しかしそれもすぐにしぼんでしまった。

「あの、さっきの話、食べ物のことなんだけど……」

「いいっていいって、そんなこと」

「ほんと? 肉のこと気にしてない?」

「あ、ニクって単語をダイレクトに聞くと、さすがにちょっと気にはなるかもしんないけど」

「そうだろうね………。アヤメちゃんにはまだ言わないほうがいいかなあ」

 うっ、とムクゲは返事につまる。

 複雑な思いが胸に交差する。

「言っちゃえば?……」

 え、と自分の耳を疑ったアカリはムクゲの顔をのぞきこむ。

 大急ぎで笑顔を修復するとムクゲは元気よく言いなおした。

「もちろん、だめだよ。今そんなこと言っちゃ絶対ダメ!」

「そうだね。でもあさってまでにはクラスのみんなにも伝わっちゃうんじゃないかな」

「うーん、可能性あるね」

「そんな雰囲気の中で講義するのは、想像しただけでもボク……」

「ええっ、スクーリングは中止なの!」

 ムクゲは急激に涙が出そうになって胸の前で手を合わせた。

 その様子にアカリはあわてて言った。

「そんなことないよ! やる、もちろんやるよ。だって約束したんだもの! でも……みんなボクのことをどう見るかって考えるとなぁ、憂鬱。中村さんとかのツッコミもあるだろうし、なにを講義していいか迷うでしょ?」

 中村さんと聞いてムクゲの涙は乾いた。

「それは言えてる」

「どうしようか?」

「オレに言われてもねえ。どうしよう」

(うん? わたしの肩を軽くつつくのは誰?)

 ムクゲはふりかえる。

(あ、江奈おやじ)

「なんだよエロおやじ。いま悩み事中なんだからね。ピチピチ小麦色の肩に気安く触らないで」

「話が聞こえちゃったんだけど、僕にひとつ提案させてもらっていいかな? 講義のことだけど」

(やけにニコニコしてるね、このおじさん。事件も解決、交渉も成立で言うことなしってとこか)

 たしかに江奈はいつにもましてにこやかだった。

 きっとアカリが肉を食べるとか何とかいう話もとっくに了解ずみでショックもないんだろうな、とムクゲは推察する。だがそう考えるとどうしても嫉妬ぶかくなってしまうムクゲだった。

「じゃ言ってみなよ。エロ抜きで」

「うん。ひとつ社会見学というのはどうかな。教室の外に出ればみんなの気分も違うだろうし、それに君たちの学校はファンタジーの追求が目標なんだろう? ちょっと面白いところを知っているんだが」

「どこですか、それ? 江奈先生のよくご存知のところなんですか?」

「うん。ぜひ一度アカリくんにも行って欲しいと思ってたところなんだよ。だから同伴の保護者代表は僕ということで学園長先生にも頼んでおくから」

「だからどこなんだよ。エッちい所じゃなかろうね、おじさん」

「ふふん、ちがうもん」

「言えよ、早く」

「ロボット霊学研究所だ」

「ロボット、なに?」

「霊学研究所。ロボットの霊魂を調べる研究所なんだよ」



          # 14


 後にあれほど有名になったロボット霊学研究所も、今はまだただの偏屈じいさんの掘ったて小屋にすぎない。

 一歩はいれば壁はボロボロ床もデコボコで、そこらの町工場と変わりない。だからこそ研究所の完成品たるロボットの精巧極まる造りが鮮やかに際立つのだ。

(だから見ろ)

 研究所入り口で腕組みをしながら、江奈裕一郎はご満悦の様子だった。思わず口の端がクイと引き上げられる。

(学園からの送迎バスで、いくらこの俺が保護者代表として研究所の説明を熱心にしてやってもこの子たちはただやかましくはしゃぐだけ。研究所見学なんてまるで無関心だ。ところが見ろよ。生徒たちのこの変わりよう。ピタリと黙ってしまった。このロボットを見た瞬間にな)

 ロボットADA―M9000通称アダム。ロボット霊学研究所が自前で作り出した最新式ヒューマノイド。

 その現物を前にしたとたん、アルカディア学園一年紅組の生徒たち約三十名の目はくぎ付けとなりひと言も口がきけないでいる。

(無理もないさ。アダムのボディは『竹』で作られているんだからね。誰だって初めて見るシロモノだ)

 その感触と輝きはまさに〝肌〟を意識させる。表情は豊かとはいえないがその最小限の動きがかえってレオナルドのモナリザを思わせる。それにアダムはなかなかハンサムなのだ。

「この肌、なんか初々しいね」

 腰まで伸びる茶色の髪の間から眠たげな目をのぞかせてそう言うと、大河内さんは指でつまんだ自分の髪の毛の束でアダムのうなじをブラシのようにさすっている。

「アハハ。みずみずしい、でしょ? こうするとポニョってへこむのかな? キャハハ、さすがにそれは無理か。うわわっ! ちょっとへこんだよ? キャハハハ」

 桃山さんは大はしゃぎ。アダムのほっぺたをグイグイ押した人差し指をみんなに見せてまわって跳ねるのでピンク色のツインテールがぴょこぴょこゆれる。

「みずみずしいと言うか、なんかイコンみたいですね」

 そう言いながら神父の娘神宮寺さんはアダムのブレザーの袖をさすっていたが、ほんとはその下の腕がどれほどツルツルなのかを確かめたくてうずうずしている。

「カチカチとか音がしないなあ。タイマーの歯車とかも竹で出来てるのかなあ」

 いつも時間が気になる近衛さんは、なぜかアダムの膝頭に耳をつけてぼそぼそつぶやいている。

 アダムは椅子に座っていた。黒い髪は整髪剤できれいに七三分け、紺の胸ポケットの上に派手なワッペンをつけたブレザーに白の開襟シャツ、そこにえんじ色のスカーフを巻き、ベージュのストレートスラックス。靴は濃い茶色のカジュアルな革靴で赤の二本ストライプのテニスソックスをのぞかせるという六十年代アイビールックできめている。ただ直立歩行の機能がないので座ったままだ。

 しかし手足の自由度はかなりあり、女生徒たちにもけっこう派手な腕のポーズで応えてみせて受けていた。

 マクラも興味深げに言う。

「継ぎ目とかもないよ、ムクゲちゃん。でもマネキンとは全然ちがうね。ちょっと表情も変わるみたいだし、けっこう健康的かも」

 アダムはやや褐色の肌をしている。ヨット遊びで日焼けした好青年、という設定なのだそうだ。服から露出している部分、つまり手や頭部は自然な肌の感触を見るものに与えていた。

 顔のつくりは目がくっきりと大きくカットされており、眉毛はあくまでりりしく、高い鼻と形のいい耳は比率が完璧すぎてややマンガチックにも思えたが、そのくせ肌合いは竹製のわりには柔らかい印象で、桃山さんがつい指をほっぺたに持っていきたくなるのも無理からぬことだった。

 しかし、ムクゲの顔つきはいまひとつさえなかった。

 メカ好きのムクゲは、機械の関節むきだしでガンブルーの光沢を放つギンギラのメタルボディを期待していたらしい。ところが機械人形とはおよそ似つかわしくない素材感の物体が出現してとまどっているのだ。

(フフ困ったものだね、というところかなムクゲちゃん)

 ムクゲの眉間に寄ったしわの数を数えながら、江奈は悦にいっている。

(だけどねムクゲちゃん、この竹にはちゃんと意味があるのだよ。どうしてロボットに竹なんかを使っているかというと……)

「どうして竹なんですかぁ」

 ムクゲがロッキングチェアにゆられながら空パイプをくわえている老人男性に質問した。

「ねえ、おじいちゃん。なんで竹なのぉ? どうもオレ、しっくりこないけど」

 ムクゲのこの口調にちょっぴり江奈はあせった。

(チッチッチッ、ムクゲちゃん。「おじいちゃん」はないでしょう。口に気をつけないと。この人は仮にもロボット工学第一人者の大道寺博士なのだよ。足が悪くてこんな椅子に座りっぱなしになっていても覇気盛んなプライド高き孤高の学徒なんだから)

 大道寺博士はいかにも気むずかし屋の仏頂面をさらしていた。

 真っ白ながら豊かな髪の毛はちょうどそのてっぺんでツルツルにはげている。ひげみたいに長いもみあげも真っ白だが、江奈が知り合ったころはまだ黒のまじるごま塩模様だった。だいぶ以前にある事件がきっかけでふたりは知り合ったのだが、体格のほうは昔と変わらずずんぐりむっくりとしていた。そのむくむくとしたぬいぐるみみたいな腕にはもじゃもじゃと毛がからまっていて、そっちのほうはまだ黒かった。

 翼のほうは骨格だけはしっかりしているが、全体としては灰色がかってあまりパッとしない。昔は立派だっただろうと思わせるものの、青菜に塩のごとくややげんなりした感じだ。

(この人はね、天才と呼ばれるタイプに多いかんしゃく持ちの強情っぱりなんだ。相手が誰でもすぐ叱り飛ばすことですっごく有名なんだぞ。言葉を選ばないとどなりつけられるよ、ムクゲちゃん)

 その老人が、ムクゲの質問を聞くなりわっさわっさと大きくロッキングチェアをこぎだした。しおれかけた翼が、なんだか少しずつ容量を増していくようだった。

(ほら始まるぞ。カミナリの充電中だ。こりゃオレが避雷針にならんといかんかな)

 江奈が前に進み出ようとしたとき、何を思ったか大道寺博士はチェアの後ろから帽子を取り出し、それをツルツル頭の部分にグイとかぶった。それはレーシングカーのコックピット組が使用するようなスポーツキャップだった。

「あ、お嬢ちゃん。今ワシのこと、おじいちゃんて言った?」

 そう言った大道寺博士は満面に笑みをたたえている。

「うん、言ったよ。おじいちゃあん。へへ」

 ムクゲがくったくなく答える。

「キキキ、おじいちゃんかあ。あんたが言うと、なんじゃかホンワカしたよか響きじゃのう。ワシもはようあんたみたいな別嬪の孫娘がほしいがな」

 江奈のあごがアングリと開いた。

(え、なに? ほ、誇り高き孤高の人が………)

「まあ、おじいちゃんたらお上手なんだから。ほめてもオレ、なんにも出ないよ」

 と言いながら、ジャケッツ姿のムクゲはくるりと半身になって横ブイサインの指を片目にあてながら軽くウインクした。

 大道寺博士のほほの筋肉が限界直前までいっきにゆるむ。

「ほひゃああ。ええキップじゃのう。うちの娘もあんたくらい愛想が良ければのう。ほれ、メグ! ちょっと来なさい」

「えー、めんどくさぁ」

 生徒たちの人垣をかきわけてずるずる出てきたのが博士の娘、大道寺メグだ。

 油だらけの作業ズボンとTシャツに半そで白衣をひっかけて、頭に巻きつけたバンダナを手にしたマイナスドライバーでごりごりかいている。その背中にはまるでアルカディア学園の生徒たちのようにどこにも翼が見当たらないところをみると、まだけっこう若いのかもしれない。

「メグ。もっとこっちへ来んかい。これはワシの娘じゃよ。ほれ、頭を下げて」

「えー、めんどくさぁ」

 大道寺メグが頭を下げると彼女の眼鏡が下へずり落ちそうになった。レンズが厚くてその重みのせいだった。

「よろしくおねがいしまあああす!」

 クラス全員の声がそろうと大道寺博士は高速メトロノームのように激しくロッキングチェアを動かした。そのにやけきった顔を冷ややかに見つめて江奈は思う。

(そうかいそうかい、これが大道寺のおっさんの本性だったのか。そこそこ長い付き合いなのに、こんな強度のロリコン傾向が見抜けなかったとはうかつだったよ。一人娘のメグさんもまるで化粧っ気がないから研究一筋の堅い親子かと思ってたのに)

「メグはのう、ワシが年になってから生まれたもんで甘やかしたし男手ひとつで育てたもんでこんなカタブツになっちまってのう。メグ、おまえもこの娘さんを見習ってそのボサボサの髪と厚底牛乳ビン眼鏡くらいなんとかせんかい」

「えー、超めんどくさぁ」

 やれやれ、と江奈は心の中でつぶやいていた。

(さあ、もういいだろう大道寺のおっさん。本題に入ってもらおうか。今日は俺にとってとても大切な日なのだからな)

 江奈は表情をひきしめて言った。

「では生徒の質問に答えていただけますか、〝おじいちゃん〟?」

「大道寺博士と呼ばんか! だいたい今日の君の格好はなんだ、江奈くん? ちゃらちゃら和服なぞ着流してからに。それで大事な生徒さんたちの引率がつとまるのかね。ここは祭りの夜店じゃないんだよ!」

 今日の江奈は和装できめていた。

 落ち着いたかすり柄にシックな帯、根付にひっかけた小さな袋。それなりにきちんとした着こなしなのだが、真夏なのでその上に何も羽織らず、おまけに足袋もはかない素足のせいで大道寺博士の目には遊び人風の浴衣姿に映ったのだ。

(和服とはすなわち正装。俺が気合いを入れて心身の力をすべて解放すべきときにこそ用いる重要アイテムだとご存知ないな、大道寺博士? )

 江奈は和服に関して異常なほどのこだわりを持っていた。

 和服を着たときにこそ、おのれの全経絡から生命力が満ち溢れて最高の仕事ができる。それが江奈の言いぶんだった。

(何を隠そう、一昨晩の思わぬ事態に乙女ごころが傷ついたアヤメと、俺のすべての希望を託したアカリくんにこの研究所を見せるため、俺はあえて和服で来たのですよ)

 人知れず見得を切る江奈だが、和服の効用を人前で説いたことは一度もなかった。

「こういう服の方がいかにも保護者って感じが出ると思いましてね」

 その江奈の横にムクゲがツツツとすり寄ってきた。大きく歯をだしてニカッと笑っている。

「ふーん。じゃ江奈おやじに聞くけど、保護者ならどうしてさっきからうちのクラスの女の子の肩やら背中やらをベタベタ触りまくってるのさ」

 江奈は目を見開いてムクゲをのぞきこんだ。

「え、ムクゲちゃん? 僕そんなことしてた?」

(こりゃいかん。和服を着る唯一の欠点がこれだ)

 たしかに江奈は和服を着るとモチベーションが極端に高まる。

 ところがこれは両刃の刃なのだ。

 内なる力の源泉が引き出されるのはいいが、つい度を越して解放されすぎてしまいリビドー過多になる。そして無意識に体が動き、江奈自身も予期せぬ場所に手足が伸びることがある。実にやっかいな副作用だった。

(自制せねば。どうやらいつも以上に力が湧き出ているようだ。まったく覚えてないなんて、よほど気合を入れすぎたかな)

「なーにふところ手にしてあごさすってんだ?」

 ドンとムクゲが江奈のわき腹をつつく。

「オレのところへ生徒たちからの苦情がもうたっくさん集まってんだよね。警察に知らせるって涙ぐむ子もいたぜ。どうするエロおやじ?」

 江奈は本気であせった。

「いかん! だれだいその子は? 誤解を解くから教えてくれ、ムクゲちゃん」

 ムクゲは丸い目で江奈の顔をじいっと見つめたあと、「ばひゃひゃひゃあ!」と大笑いした。

「やだっ、マジかよ。本気にしてるよ、このおじさん。ぶひゃひゃひゃ」

 ムクゲは笑いすぎてこぼれた涙をぬぐいながら話す。

「うーそだよん。ヒヒ。こんな話にマジで反応するようじゃ午前中にはもうクラス中から〝エロおやじ〟って呼ばれっから」

 やったな、如月ムクゲ。江奈はかなり真剣に歯ぎしりした。

「そうじゃよそうじゃよ、お嬢ちゃん」

 大道寺博士がレーシングキャップを振り回しながら喝采する。

「この研究所見学に着流しで来るような不真面目ものにはガツンと一発やったれ。ほほ、珍しく娘のメグも笑っとるわ。お嬢ちゃん、あんたみたいに気の利いた人たちに来てもらえて光栄じゃよ」

(この娘、いつか本当に一度しばいたる。だが今は大事の前の小事。我慢の子だ)

 クールな名探偵でならした江奈の思わぬ情けない姿に一年紅組のみんなはちょっとざわついた。それを見てムクゲは鬼の首をとったみたいな勢いで鼻をこすっている。

(事件解決と違ってプライベートだとどうも勝手がちがうな。自分のことに集中するなんて何年ぶりだからか?)

 めずらしくあがっている自分を自覚した江奈は、態勢をたてなおしにかかった。

「ゴホン。では大道寺博士、すみませんが」

「わかっとるわかっとる。あー、今日は気分がええわい。ワシが自分で説明して進ぜよう」

 江奈の表情が明るくなった。

「それはありがたいです。みんなを集めてきますから」

 みんなといってもクラスのほとんど全員がすでに目の前にいるのだが、一番いてほしい人物が欠けている。江奈はとっくにそのことがわかっていた。

(アカリくんはどこなんだ。それに、アヤメも)

 ぐるりと見渡す江奈の視界のはじにちらと人影が入った。

(なんだ、アカリくんはあそこか。まだ入口のところにいるなんて。彼に一番興味を持ってほしいのに消極的だな)

 和服のすそを片手で軽く引き上げて、江奈は早足で入り口に向かおうとした。

 だが、すぐにその足をとめた。もうひとつの影が目に入ったからだ。

(ん? アヤメもそばにいるのか。どうしたんだ、あのふたり。何か言い争ってるのか? ふむ、これくらいの距離なら二人の話が聞けそうだ)

 江奈はこれくらいの距離と言ったが、実はそこから入り口までは五十メートルくらいあった。作業場兼用の広い研究所だ。ふつうならとても盗み聞きなどできる距離ではない。

 ところが江奈はその場に立ったまま、じっと耳を澄ました。

「だからアヤメちゃん! さっきから言ってるよね? おとといのあれは……」

 そしてアカリの鮮明な声が江奈の耳にとびこんできた。和服を身につけると、江奈の身体能力は無限に拡張できるのだ。

「ねえ聞いて、アヤメちゃん。だから、あれは……」

 アカリは何かを懸命に説明しているようだ。

「いや! いやです!」

 ところが対するアヤメの態度はいつになくかたくなだった。

「やはりわたくしのことをお化けだと思ってらっしゃるんでしょう。それにアカリさんはアヤメのことになどご興味ないのです! わたしなんてそのへんにある道ばたの小石なんです!」

「そうじゃないって。あれはきっとボクの見間違いだって言いたかったの。ほら、あの部屋暗かったし」

 江奈には声だけでなく、ふたりの微妙な表情まで手に取るように見えた。まるでスナイパー専用の長距離用スコープのようなその目は、アヤメが一瞬やわらげたまなざしの光をとらえていた。

「ほんとうに?……ほんとうにアカリさんは、わたくしのこと、変な子だと思っていらっしゃいませんか?」

「もちろんだよ」

 アカリが手を伸ばす。しかしアヤメは一歩さがった。

「あ、でも……。でも、その首の傷は!」

 アカリは反射的に首のバンソウコウに手をやったが、すぐになんでもないという仕草でその手を払いのけてみせた。

「これだって、アヤメちゃんが気分が悪くなって倒れたとこにたまたまボクがいただけのことさ」

 このアカリの説明を喜ぶどころか、アヤメは彼に背を向けてしまった。

 アヤメは親指をかみながら、つぶやくように言った。

「いいえ、わたくしの口には血の跡があったそうですもの。やはりわたくしがアカリさんを……」

 ふう、と江奈はため息をついた。

(そうか、思ったより深刻だな。なるほど、どおりでクラスメイトたちが遠巻きにして知らんふりしてるわけだ。しかし肝心の二人がこれだと困るな)

 迎えに行こうか行くまいか、江奈の足が逡巡する。

「だからあれは事故だって!」

 アカリの声が江奈の耳に入ってくる。

「それよりもボクのほうこそアヤメちゃんに聞きたいんだ」

 え、と意外そうな顔をしてふりかえるアヤメの顔が江奈の目に映る。

「アヤメちゃんのほうこそきのうからボクのこと避けてるみたいだけど、どうしてかなって……。やっぱり『肉を食べる』って話が気になってるんだね。アヤメちゃんこそボクのことをきっと〝食人鬼〟だとかそんなふうに思ってるんでしょ?」

 見ているほうが気の毒になるくらいにあたふたした様子で両手を胸の前で高速ワイパーのように交差させながらアヤメが言う。

「そんな、ちがいます! アヤメはアカリさんのこと、決してそんなふうに思ってなどいませんわ!」

「だったらボクだってアヤメちゃんのこと、お化けだなんて思ってないって! 信じてよ」

「信じる?……」

「それともボクのことなんて信じられない?」

「し、信じてます! アカリさんのことは信じています」

「だったら」

「だめです!」

 アヤメがぴしゃりと言ったので、アカリは一歩しりぞいた。

「アヤメが信じられなくなったのは、わたくし自身なのです」

「え?」

「アヤメ、おとといのことはほんとにぼんやりとしか覚えてないのです。それなのに、たった一つだけはっきりと思い出せることがあるんです」

「それは何?」

「それは……あの、アカリさんの」

「うん、ボクの?」

「アカリさんの……恐怖におののく表情です……」

「ええっ!」

「そうなんです。アカリさんの顔は恐怖を全面に表していて、そして……」

「そして?」

「そして、それを見ているわたくしの心は深い歓喜に……喜びの渦に沸き立っているのです! ああ」

「アヤメちゃん……」

「イヤイヤイヤッ! わたくしどうしたというのでしょう? 確かあのとき体が変に熱くてわたくしの何かが変わったような気もするのです。アカリさんはそれをご覧になったのでしょう?」

「えーと、見たっていうか、それは、つまり……」

「はっきり教えてください! アヤメどうなったのですか? なぜわたくしの服の肩ひもは切れていたのですか? まるでハサミで切ったようにスパッと切断されていました。何があったのですか? どうして黙ってらっしゃるのです? アヤメを避けているのはアカリさんの方ですわ」

(ちょっとまずい雰囲気だな)

 江奈は腕組みをして地面を見た。そして顔をあげると少女がふたり、アカリたちのほうへ走っていくのが見えた。

(お、ムクゲちゃんとマクラちゃんが迎えに行ったか。よしよし、持つべきものは友だ)

 ところがもうひとり、走っていく女の子がいた。

(おや? あのふたりを追い越したぞ。誰だ? あっ、あれは、中村くんだ!)

 ゆさゆさと豊かな髪の毛をゆらしながら、中村エリカはアカリへまっしぐらに走ってゆき、ムクゲたちよりも先に到着した。

「アカリ先生、今から研究所長のご説明が始まります。みんなを集めてください。はあ、はあ」

(なんだ、クラス委員として講師を呼びにいっただけか)

 両手をひざについて息をきらしている中村委員長を見て江奈は安心した。

「それと、アカリ先生……おとといはほんとにありがとうございました。パパと、それにわたしも助けていただいて……」

(やっぱりそのことで行ったのか。俺がアカリくんに変装していたことを中村くんは知らないからな)

 江奈は歩き出した。

(だが、アヤメたちもアカリくんも事情が分かっているからうまく話を合わせてくれるだろうが)

「アカリ先生、お願いがあるんですけど」

 あいかわらず中村エリカの声が江奈の耳に入ってくる。

「なんですか、中村さん?」

「この社会見学が終わったら、あの、わたしの家へ来てもらえませんか。お礼にお食事でもさしあげたいと……」

 江奈は彼女の顔を注視した。

(おいおい、中村くんの顔が赤いな。どうやら走ったばかりで赤面しているというわけではなさそうだな。たのむぞ、中村くん。話をややこしくせんでくれよ。今日は俺にとって大事な日なんだから)

「ちょっと、おい、中村さん」

(あ、ムクゲちゃんの声だ。なんかとんがった感じだな)

「おとといって、なんのこった? その日はアカリくんとオレたちずっと一緒に……」

「ムクゲちゃん!」

「なーにマクラ? あ! そうだったっけ。いけね、へへへ。そうそう、聞いたよ中村さん。おととい大活躍したんだってね。このアカリ先生ときたら、そりゃあもう……」

「ムクゲちゃんは黙っててください!」

(アヤメ? どうした、その剣幕は?)

 アヤメが中村委員長とアカリの間に割ってはいる様子が江奈の眉間にシワをつくった。アヤメにはめずらしく、びしっと人差し指を相手の鼻先に毅然と突き立ててしゃべっている。

 江奈はつい立ち止まってしまった。

「中村さん、何をおっしゃっているのかわかりませんけれどもアカリさんはおとといの夜からずっとわたくしとご一緒です。それと変なお誘いはご遠慮くださいませ。わたくしアカリさんと大切なお話がございますから午後もお時間などお取りできません!」

 ぽかんと口をあけた中村エリカは、思い出したようにブルッと短く顔を左右にふるとアヤメにくってかかった。

「なんですって! 赤城小路さん、あなたは!」

「おいアヤメ、ちょっと。それじゃ話が合わないよお……」

 ムクゲもそう言った。

 江奈は顔をしかめて心で叫ぶ。

(何やってんだアヤメ! 話を合わせるんだろ。頼むぞムクゲちゃん、何とかしろ!)

 中村エリカはムクゲなどはなから無視してアヤメだけをにらんでいた。

「赤城小路さん知らないの? アカリ先生はね、おとといの晩わが家へ来てパパを助けてくれたのよ! とっても難しい政財界のお話なのよ。あなたがたみたいなお子様にはとても理解できないでしょうけど」

 これにはアヤメよりも先にムクゲが反応した。

「オレたちのどこがお子チャマなんだよ!」

(うわあ、熱くなってどうするムクゲちゃん。こりゃだめだ)

 江奈は足に力をこめて歩き出した。

「わたしはね、中村家を代表してアカリ先生にお伝えする大事な要件がありますの。部外者は引っこんでなさい。ねえアカリ先生?」

 中村委員長が正面に立ったのでアカリはつい気をつけの姿勢をとってしまった。

「あ、そうだ、アカリ先生。ひとつ言い忘れていました。あのテロ対策課の婦警さんなんですけど、実はもう自分で目を覚ましてたんですよ。でもご指示通りにビデオはちゃんと見せましたから」

 アカリには委員長が何を言っているのか見当がつかなかった。

「は? 婦警って中村さん、なんのことかな?」

「なんのことって、ほら、大暴れしたあの女の人ですよ。縛って寝室の戸棚に押し込めた」

「戸棚に? 縛って?」

「どうしたのアカリ先生? まさかおとといのこと覚えてない?……」

 さすがにエリカも首をかしげる。

「よっ、アカリくん。おとといはそんなすごい事やったのか。すみにおけんな」

「あっ、江奈先生」

 やっと江奈が到着した。江奈はさかんにアカリに注意をうながす。

(ほれっ、俺の目くばせに気づけ、アカリくん。アヤメの顔ばかり見つめてないで、こっち見て、こっち!)

「江奈先生? その目は? は! そ、そうそう、そうだっけか。ありがとう中村さん。あの人ね〝牙〟っていうんだ。暗号名だよ」

「暗号名? 警察官がコードネームを?」

 へへへ、とムクゲまでが鼻をこすっている。

 微妙に自分だけがういているのをエリカも感じ始めていた。

(おっと、ここらでそろそろ水入りにしてもらいましょうか。今こじれるわけにはいかないからね、中村くん)

「さあ生徒諸君。大道寺博士を持たせちゃいかんね。クラスのみんなもお持ちかねだ。えーと君、中村さんと言ったっけ? そんなところで腕ぐみして頭をひねってないで君もこっち来て」

 ふと江奈が見ると、アカリが「さあ、行こう?」とでも言うようにアヤメに手をさしのべているところだった。

 ふわっと腰が浮いたようにアヤメは手を伸ばしかけたが、小さくイヤイヤをしてマクラの後ろにかくれてしまった。やれやれ、という仕草でマクラは肩をすくめてアカリに両手を広げる。

(アカリくんはやさしい少年だな。でもアヤメのほうは、まだ無理なんだな)

 黙りこくってしまった少女たちの様子を背中で見て歩きながら江奈は考えた。

(あの晩のアカリくんからの報告がもし事実ならばアヤメのショックは相当なものだったはずだ。俺でも信じられんくらいの変貌だからな。本人にとっては心の傷も深かろう。せめてアカリくんだけでも人を気遣う余裕を取り戻してくれたことで今は満足すべきかもしれん。まあいい。いずれこの二人には時を選んで俺の計画をうちあけるのだから、その時にはふたりの心の傷もいえるだろう)

 そうこうするうちに江奈たちは大道寺博士のところへ戻ってきた。

 一年紅組の生徒たちが輪になって大道寺博士を囲んでいる。

「うわあ。すごいわ、おじいちゃん。拍手ぅー!(生徒たちのどよめき)」

「なんのなんの、これしきのこと。次はもっとすごいぞ(大道寺博士)」

(大道寺のじいさんめ、ノリノリだ)

 半分あきれて江奈が言った。

「いやあ、盛り上がってますね、大道寺博士」

「はっはっは。久しぶりにいい気分じゃ。おたくの生徒さんは感性豊かじゃのう。まさに理想の聴衆じゃったよ。いい講義ができたわい」

「すると説明はもう終わりですか?」

「そうじゃよ。基本構想の説明は終了じゃ。聞いとったろう?」

「実はその、この五人が遅れまして。申し訳ありませんがもう一度かいつまんでご説明願えませんか」

 大道寺博士の顔がみるみる怒りの赤に染まっていく。

「なんじゃとおー!(大道寺博士)」

「えー、めんどくさぁー(大道寺博士の娘メグ)」

 苦笑いしながら江奈がなだめにかかる。

「きっと埋め合わせしますから、大道寺博士」

 プイと大道寺博士は横を向いたが、そこにムクゲが待っていた。

「ごめんねぇ、おじいちゃん。にゃーお」

 ムクゲ得意の子猫の上目づかいが炸裂する。

 大道寺博士の目が大開きになった。

「オレほんと反省してるの。だからもう一回だけぇー、お願い、ね?」

 軽く重ねた手の甲におさまったムクゲのかわいいあごが大道寺博士の肩にのる。

 すると大道寺博士の目じりが急降下していった。

「ほひょひょ。いやあ、あんたが聞き逃したのかね? ああ、いいともいいとも。話はこれからじゃよ」

 ここで博士はひらめいたように上半身を起こした。

「そうじゃな。ついでだから実地にアダムを動かしながら説明といこうかい。メグや、アダムを起動」

 うさんくさそうにムクゲを横にらみしていた大道寺メグが天をあおぐようにして言った。

「あー、めんどくさぁー」

 口ではそう言いながらもメグの指先はすばやくキーボード上を舞っていた。アダムにつながれたノートパソコンがひときわ大きい作動音をあげ始める。

 江奈は大道寺メグの動作に感心していた。

(面倒だといいながらもこの手際。彼女は相当なひとだな。それにじいさんも機嫌を直してくれて助かった。ムクゲちゃん、さっきの黒星は帳消しにしとくよ)

 アダムが本格的に動くというので一同はちょっと興奮していた。

 その中にあってアヤメだけが沈んだ面持ちで下を向いている。

「アヤメ」

「あ、はい。おじさま」

「博士がこれからしてくれる説明を、よおく聞いておくんだよ。今のお前にこそ必要な話なんだから」

 アヤメはびっくりして困ったような顔で自分の叔父を見上げた。

(そんな驚いた顔をしないで、アヤメ。これから始まるのは魂の話だ。自分の体に悩んだときは魂に想いをはせるんだよ。おまえも自分の魂を開いてよく理解するんだ。そして自分の中に眠る真の偉大な力に触れるがいい。そうすればおとといのことも、きっと……)

 アヤメに心で語りかけるつもりが、いつしか江奈は自分で興奮していった。

「きゃっ! え、江奈さん、何するんです!」

 いきなり隣の女の子が叫んで江奈を驚かせた。それはマクラだった。

「も、もう一度こんなことやったら大声あげて蹴りますよ。わたしはムクゲちゃんほど甘くありませんからね。早く手をどけてください!」

(はっ! いつの間にかマクラちゃんの腰に俺の手のひらが?)

 大急ぎで手をどけた江奈を口をくいしばったマクラがにらんでいる。その目には少し涙がたまり始めているようだった。

 江奈は無言で会釈して許しを請うた。

(これだこれだ、いかんぞ俺。ついつい魂が高揚して無意識に体が動いて……。こりゃしばらくアカリくんのそばにいるのが無難だな)

 逃げるようにその場を離れる江奈をマクラがずっときつい目つきで追っていた。

「あ、江奈先生」

「うん」

 アカリの肩が江奈の手をごく自然に受け止めてくれたので、江奈もほっとして大道寺博士の講義に耳をかたむけた。

「さーてお嬢さんがた、さっき話した〝前世の記憶〟じゃが、自分の前世の記憶をふと感じるような経験があると言った方はどなたじゃったかな?」

 大道寺博士の声にはなるほど熱がこもっていて江奈を喜ばせた。

 また聴衆のほうもこの話を楽しんでいるようだった。

「ハイ、ハイ、ハイ」と何人もが競って手を挙げた。

「ん? あんたとあんたか、よしよし他のみんなもいい子じゃ。で、ヒトの記憶がどこから始まるかという話はみんなわかったかね?」

「はあい」と大河内さんが軽く腰のあたりで手のひらだけを上に向けた。眠たそうな目つきのわりには一番乗りだ。

「ですからあ、人間の生命は子宮内の受精の瞬間から始まるっていうとっても初々しいものなわけだから、そこからでーす。だからそれ以前の記憶は持ちようがないってお話でした」

「キャハハ、そうなんだよね。でもさ大河内さん」

 笑いながら桃山さんが割り込んできた。

「DNAはあるんだよ。親からの遺伝情報ってのが」

 むっとして大河内さんが桃山さんを眠たげに見つめかえす。

「そうだけどぉ、自分がヨーロッパ中世の騎士だったとかいうような〝前世の記憶〟はDNAとは無関係だって博士が言ったもん」

「ヨーロッパ中世と言えばカトリック全盛期ですわね」

 神父の娘神宮司さんが後を受ける。

「つまり、前世の記憶というのはDNAとも個体の発生とも無関係なのであるというお話ですわね」

 今さら何よとでも言うように、腰までかかる髪をたっぷりとたぐりあげながら大河内さんが後ろにいた神宮司さんを眠たげな目でふりかえる。

「だからそう言ってるじゃないの、あなた。もしそんな前世の記憶なんてものが残っているとしたら霊魂とか心とかいうのは生物学の範囲外になるって」

「そうそう、時間も超越するってことなんですよねえ」

 いつも時間が気になる近衛さんがそう相槌をうつと、やっと大河内さんもうなづいて満足気にその眠たげなまぶたを軽く閉じた。

 近衛さんは続ける。

「要するに前世の記憶とか霊魂ってのは生命とは別ものかもしれないって話よねえ。時間にしばられないなんて、なんかワクワクする」

「わたしも! ふふふふ」

 桃山さんも同意する。

「そんでもって、生命とは無縁のロボットにもしも心があるならばそれこそが霊魂の存在証明になるんだ! って断言したときの博士ってキマってたよねえ、キャハハハ」

「うん! 超キマってたよ。主役級の貫禄!(全員拍手)」

 さすがに舞台専門の学園生だけあって拍手のうまさはハンパじゃない。全員がそろって手を打ち鳴らすと、研究所の高い天井のスペースがあっという間にオペラハウスに変身したかのようなド迫力の響きを生み出した。

 喝采に酔うオペラ歌手のごとき錯覚をおぼえた大道寺博士は深い満足を感じるのだった。

「いやいやそれほどでもなかろうて。かっかっかっ!」

(ほお、みんな結構やるじゃないか。ちゃんと把握している。そうなんだ。この単純にして力強い基本理念こそがロボット霊学研究所の土台柱なのだよ)

「それにしてもあんたがたよう飲みこんどるのう。ワシゃ嬉しうて涙が出てきよった。メグ、ティッシュとってくれ」

「えー、めんどくさぁー」

 というそばからメグは父親の鼻にティッシュをあてている。

 ちん、と鼻をかむと大道寺博士はメグに聞いた。

「アダムは起動したか?」

 無言のメグが、分厚い眼鏡を一回眉毛まで上げてからまたおろした。

「よし。ではこれから当研究所の最新作アダムの動きをお目にかけよう」

 大道寺博士が宣言する。

「えー? でもこのロボットさっきから動いてましたけど。わたしたち、握手とかしたよね」

 大河内さんがまた一番に答える。

「まあ、大河内さん。もう握手なんてしたんだ。眠そうなのに活発だね、キャハハハ」

 そう笑う桃山さんにつられてみんなも笑ったが、大道寺博士がそれを手で押さえて続けた。

「そういう動きはいわばスクリーンセーバーみたいなものじゃ。ごく基本的・機械的な対応は反射的にできるでの。これからやってみせる対話プログラムみたいな本格的起動前のウォーミングアップにすぎんのじゃよ」

「へー、すっごーい、おじいちゃん(クラス全員)」

「いやいや、なんのこれしき」

 すっかり大道寺組の雰囲気ができあがっている。

「あのう、オレちょっとしつこいかもしんないけど、質問いいすかね?」

 そこへムクゲが照れくさそうに発言した。

「おお、あんたか。よしよし、何でも聞いておくれ」

「どうしてボディが竹なのかってさっきも質問したんすけど」

「ああ、それか。うん。実を言うとねワシの先祖は江戸時代のからくり人形製作師での、幕府の御殿でお勤めしておったんじゃよ」

「すっごーい(クラス全員)」

「ははは、なーに、おかかえ技術屋にすぎんよ。そういうわけで大道寺家伝来のロボットは木製が基本になっとる。これが第一の理由」

「っていうとほかにも理由が?」

「第二の理由は竹製のボディがもの珍しいから」

「ハハハ、バカ受けえー(クラス全員)」

「いやいや、ここは笑うトコじゃないんだよ、諸君。こういうレアなボディだと見る人がみんな面白がって寄ってくる。竹製だと分かるとさらに興味を持って触ったりもする。金属製に比べて親近感もわきやすい。加えて竹特有のなまめかしい肌のツヤが出る」

「やだあ、おじいちゃんたら。なまめかしいですって(クラス全員)」

 照れ隠しなのか、大道寺博士はレーサーキャップをとって自分のハゲ頭をひとなでしてからまたキャップをつけた。

「とにかくのう、こうした珍しいボディのおかげでアダムに接する人間たちは知らず知らずのうちに情動の揺れが大きくなるんだね。好奇心やら嫌悪感やらが増幅し、冷静にアダムと対することができんようになっちまう。つまりアダムに対する心の動きが激しくなるわけじゃね。珍しいボディで人目をひき、さらにそのボディの珍しさで人の心に波風を起こして、その波を少しでも多くアダムに吸収させようというのも狙いのうちなんじゃよ。あんたがたもここへ入ってくるとすぐにアダムに近づいとったろう?」

 これには江奈も感じ入った。

(そうだったのか。竹ボディの第二の由来は初めて聞いたな)

 ムクゲも素直に感心したようで、さっぱりとしたボーイッシュなくるくるまなこを大道寺博士に向けた。

「へええー。おじいちゃんてよく考えてるんだねえ。オレすっかり見直しちゃった。でもねえ、そんなによく考える人がなんでまた江奈おやじなんかと知り合いなの? あんなのと付き合って得あるの?」

「あるともさ。江奈くんには推理力導入に協力してもらっとる。さっきもちらっと言ったが、ロボットというかAIすなはち人工知能の最後のハードルは推理力でね。人間からみたら笑っちゃうほど人工知能は推理というものができん。そこで探偵という推理のプロに助言をあおいどる。生命知能の代表サンプルとしてな」

 ちょっぴり誇らしげに胸をはった江奈の動作をムクゲは見逃さなかった。

 ふん、と鼻をならしながらムクゲは質問を続ける。

「じゃあ電話帳かネットで江奈おやじを探したの?」

「いやいや、ある事件で偶然知り合ったんじゃよ。みんなも知っとるんじゃないか? ほれ、五年前に起きたあれじゃよ。若い女性が生皮を剥がれて路上に放置されるという連続猟奇事件」

「きゃあー、やめてー!(クラスの大半)」

「す、すまんすまん。ごめんよ。こんな話はもうやめじゃ。江奈くん! 君の話になった途端に人気が落ちたわい」

 ひひひ、と声なき笑いを満面にあらわしたムクゲに江奈は一瞥をくれた。

(どうぞどうぞ、なんとでもいいなさいよ。大道寺のじいさまが話を本筋に戻してくれるなら今日はいくらでも悪役になりますよ)

「パパ」

「わっ、ロボットがしゃべったよ!」

 アダムの横にいた近衛さんがとびあがった。しかしすぐにアダムをのぞきこんで言った。

「この声、けっこう甘いバリトンかも、です」

 アダムのほうは近衛さんを見ず、真っ直ぐ前を見つめたままだ。

「パパ」

 アダムが言った。

「なんじゃい、アダム」

「きょうの江奈さんは怒っています。平静を装おうと努力していますが怒りの兆候が見えます」

「そうかいアダム。だが何を怒っとるんじゃろうのう?」

「わかりません」

「江奈くんはほっといて生徒さんたちとの問答を始めるかのう。しかし暑いなぁ。メグや、冷房を強くしてな」

「えー、めんどくさぁ」

「ママ、私にはうちわを持ってきてください」

「ええー、めんどくさぁめんどくさぁ」

 ここまできてクラスがざわめいた。

「大道寺博士がパパでメグさんがママなんですか?(神宮司さん)」

「ほらね、このことなんじゃよ。人工知能というのは関係性を把握するのがとても不得意での。アダムを作ったのはワシと娘だと教えたとたんにこう呼ぶようになった」

「まあ、初々しいこと(大河内さん)」

「キャハハ! なんか、かわいいー(桃山さん)」

「じゃがこう見えてもアダムの持っている話題は豊富じゃよ。実に多数のジャンルに対応できる。アニメやゲームの動向は常時ネット経由でチェックしてるし、『きょうの星占い』なんてのは得意中の得意じゃよ」

「あの、博士」

 アカリだった。

「なんじゃね。おや、君は男の子か? 今日は女の子ばかりかと思ったのに。ま、ええ」

「霊魂とは、なんていうかその、生物の種類によって違ってくるのでしょうか?」

「ほお?」

「えと、つまり、人間には人間だけの霊魂のカタチがあるとか……」

「いや、ワシはそう思っとらん。ワシの霊魂の定義は思考コミュニケーションが取れる存在、というものなんじゃ。言葉でもテレパシーでも、とにかく考えの通じる存在、それが霊魂さ。その立場に立脚する限り生物の種はおろか、生物・無生物の差も問わん。これが当研究所の基本理念じゃと初めから言っておろう?」

「す、すみません」

 アカリはすっかり萎縮した。

 だが大道寺博士はアカリに向かって親しみをこめてびらびらと手をふった。

「いやいや、謝ることなんかないよ。いい質問じゃ。そういう質問なら男子からでも大歓迎じゃよ」

 これに勇気を得たアカリは思い切って言った。

「じつはボク、なんていうか、サピエスなんですが。こっちでは」

「ええっ!」

「いえ、ほんとは人間なんですよ。でもこっちの世界じゃサピエスで」

「人間だサピエスだ、なんてどうでもいいんじゃ。こりゃすごい。そうか江奈くん、このことだったのか、今日の目玉って。ワシゃてっきりこのナイスバディ軍団が目玉なんだと思ってたら、これはこれは」

 ようやくアカリが参加したことに満足していた江奈は続けて大道寺博士からの謝意を期待したが、興奮した博士は江奈のほうを見向きもせずにそのまましゃべった。

「違う種の高等生物というのはアダムにとって今までの最高材料だぞ! どうじゃな、アダム?」

「興味深いです」

「そうじゃろそうじゃろ」

「ですが、パパ」

「あん?」

「現在のところこの男性と普通の人間との差を感知できません。データ不足」

「ふーん……」

「あのう……博士、ちょっとおじゃましてよろしいでしょうか?」

 アヤメのか細い声が博士の耳に届いた。

「ん? 誰かね? おほほお! こ、これはまたお美しいご婦人じゃね。その長い髪も翼が小さい方がよくお似合いだし」

(アヤメが質問を?)

 江奈にもちょっと意外だった。気がつくと隣のアカリもその様子を熱心に見つめていた。

「ありがとうございます大道寺博士。博士はご紳士なのですね。お褒めに預り光栄です」

 そう言ってアヤメはスカートのすそを軽くつまんでお姫様のような宮廷式のおじぎをした。その可憐さはまさに名花だった。いまひとつ元気のないさびしげなきょうの風情までがアヤメの優雅さをひきたてているようだった。

「いやいや紳士だなんて、デヘヘ」

「博士のお話からすると、魂のあるものはみな平等だとゆうふうに聞こえますがそうとってよろしいのでしょうか?」

「うん、わしはそう感じとるよ」

「魂を持つ者同士でさえあれば種の違いは越えられると? たとえ種が違っていても互いに理解し合えるということでしょうか? 種の違いに阻まれることなく、互いが互いを思いやり慈しむことさえできるということでしょうか?」

(アヤメ、おまえはそれほどまでにアカリくんのことを……)

 すがるようなアヤメの質問のしかたは江奈の心を打った。その隣ではアカリが食い入るようにこの問答の行方を見つめている。

「種の違いなんて無意味だね。もしアダムに霊魂があるとわかったらその日からワシはアダムを同じ人間だと思うだろう」

「では魂があれば理解し合える、みんな平和になると?」

「それはわからん。別問題じゃからね」

「え?」

 アヤメの顔に落胆の色がうかぶ。

「魂があっても個性というものはそれぞれ違うじゃろ? 魂があるからこそ意見の対立も出るんじゃろうし」

「あ、いえ、そういうお話ではなくて、わたくしは、その、アカリさんが……」

「大道寺博士、質問があります! 推理力のことですが」

 誰かがアヤメの言葉じりをかき消すように大声で質問した。

(中村くんか。ああっ、アヤメがすっかり引いてしまった。なんて余計な横槍を!)

 江奈は顔をしかめた。

「推理力がどうしたかね?」

 しかし大道寺博士はなにも気にしていないようなので中村エリカは遠慮なく続けた。

「さっきの説明では推理力さえ身につけばアダムも霊魂を手に入れられるとお考えのように聞こえましたけど」

 しょげかえって下を向くアヤメの姿が目に入ったのでエリカは満足そうに笑みを浮かべながらそう聞いた。

「そうじゃのう。まあきっとそうなるんじゃないかと期待はしとるよ」

「なぜそうお考えに?」

「今のアダムは『どうしてだろう』とか『なぜだろう』という考え方ができん。だからせいぜい情報の整理しかできん状態だ。しかしいったん〝WHY?モード〟が可能になればアダムは変わる」

「と言いますと?」

「だって『なぜ?』という考え方をもてばすぐに『この世はどうしてできてるんだろう』だとか『自分は何者なんだろう』とか考えるじゃろう? そしてそういう考えこそがすなはち心そのもの。単純な話じゃよ。しかし言うは易く、でのう。まあこれ以上口で説明するよりも実際にアダムを使ってその難しさをご覧にいれようか。たとえば、と。そうじゃ、

みんなでアダムと会話してごらん? あるいは何か相談ごとでもいいよ。対話になっていればいいんじゃ。それに身の上相談はアダムの専門じゃからな」

 この博士の提案におおぜいの子がわっと身をのりだした。その勢いがすごかったので今度は中村エリカが押し飛ばされてしまった。

「へえー面白そう。やろうやろう。わたしやります。わたしも!(クラスの大半)」

 江奈は和服の袖の中で手を組んでこの様子をながめていた。

(みんなこぞって手を上げているのにアカリくんは考え込んでしまってるな。アヤメにいたっては完全に戦意喪失か。うーん。せっかくの研究所見学もこれまでのところあまり効果なし、か。こんなことじゃあ俺の望み達成はどうなるんだ)

 そのとき江奈の帯についた根付にびりびりとする振動が伝わってきた。

(む、携帯の着信だな。メールか、どれどれ。里見さんからだな……)

 一読して江奈の顔色が変わった。

(なにっ! 何だ、これは!)

「失礼。すぐ戻ります」

 大道寺博士にそう言ったつもりだったが、みんなアダムに夢中で誰も江奈のことを気にしていなかった。

 好都合とばかり、江奈はすぐに携帯を取り出した。

「もしもし里見さんですか、江奈です。あの緊急マークは久しぶりですねえ。何年ぶりかですよ。そんなに緊急を要する件というのは……。はい。は? なんですって! どういうことです!」

 キャハハハハ。

 生徒たちの華やいだ嬌声が江奈の怒号をかき消す。みんな車座のようになってアダムを囲み、江奈を見ている者はいない。

「信じられん。あのバカ者どもが! せっかくのお膳だてが台無しだ。で、里見さんどうするんです? おそらく明日の午後? わかりました。一時間ごとに連絡を取り合いましょう。きっとですよ!」

 江奈は携帯を閉じるとその手を小刻みに震わせた。

(人間だかサピエスだか知らんがPR―Xの乗組員は最低の奴らだ! 勝手なことをして! 俺の望みをぶっつぶす気か!)

 江奈は目を閉じ深呼吸をしてみた。

(あせるな。どっちにしろPR―Xが俺の最大の希望である以上ここで放り出すわけにはいかん。今は何もできなくても次善の策をひねり出さねば)

 江奈は飛ぶような足取りでまたアカリの横へ行った。

「アカリくん、ちょっとこっちへ」

「どうしました、江奈先生?」

 ふたりは少し離れた場所へと移動した。

 江奈が小声で助手に告げる。

「PR―Xが暴走した。奴らNASAが用意したスケジュールを無視して勝手に突っ込んだんだ」

「で、ではもう地球に?」

「いや、無理に軌道を変えたため幸か不幸かすでに奴らはPR―Xのコントロールを失った。今はある程度NASAが調整できるそうだ。なんとか太平洋着水に持って行けそうだが実行は明日か明後日になるらしい。今のところ天候が悪く、何とも言えないそうだが今日ということは絶対にないと言ってる」

「そうですか。ふう……」

「いや、落ち着いてるわけにもいかん。着水まではNASAまかせだが、その直後にはこちらが主導権を取るようにしないと、それこそ衛星本体ごとNASAに持っていかれる可能性も……」

「これこれ江奈くん。おおーい」

 遠くから大道寺博士が江奈を呼んでいた。

 みるとクラスの全員が江奈とアカリを見つめていた。

「あ、すみません。携帯がうるさかったですか? ほんとすみません、講義のお邪魔をして。ただ緊急要件だったものですから」

 江奈は平謝りだが、どういうわけか大道寺博士はかんしゃくを起こしていないようだった。それどころか興味津々という目つきで江奈を手招きしている。

 江奈とアカリはゆらゆらゆれるロッキングチェアのほうへ近づいていった。

「今の話。そりゃもしかして人工衛星PR―Xの話じゃなかろうね。最近きみがご執心だったろう」

「ええ、そのとおりです。いよいよ明日あたり着水という見込がたちました」

「それはちょうど良い。なあワシらも立ち会わせてもらえんかのう」

「立ち会うって、PR―Xの回収作業に? あの……」

「ワシとこのアダムと。もちろんメグも同伴するが」

「えー、めんどくさぁ」

(何を言い出すんだ、このじいさん)

 江奈は内心めんくらった。

 大道寺博士はこどものように目をキラキラさせて江奈を見上げている。

 それにつられるようにクラスのみんなもどこか高揚した空気の中でこの会話を見守っている。

「江奈くんの話だと人工衛星の連中もワシらとは別種の人間だそうじゃないか。じつはこの話を聞いたときから回収現場に同行することを頼もうと思っとったんじゃ」

「何もあわただしい回収作業中でなくてもいいでしょう。あとで病院なりどこなり静かな場所にしませんか」

「何とぼけとる。一度政府に回収されたらワシなどに見せるものか。ごったがえした回収現場だからいいのじゃよ。きっとそれがラストチャンスになるでのう」

 にこにこした顔を見せながら江奈は迷った。

(これから大勝負だっていうのにじいさんなんかに来られたら足手まといだな。しかもロボット付きだなんて。しかしなあ、もしここでむげに断れば間違いなく出入り禁止をくらうだろう。それはもっと困るし……。よしっ! 最終目的がすべてに優先する。これが鉄則だ。ここはひとつ面倒見るか)

「わかりました。ご一緒しましょう。大道寺博士のたっての頼みとあれば断れませんよ」

「えー、断ればいいのに。めんどくさぁ」

(だが、困ったぞ)

 江奈はそう思ったが、大道寺博士の申し出についてのことではなかった。

 それはアカリのことだった。

(どうしよう。PR―Xの落下が明日かもしれないとなると、肝心のアカリくんにうち明けるのは今日しかないわけだ。どう切り出したものか……)

 江奈はふと自分が和服を着ていることに気がついた。

(俺は何をためらっているんだ? ええい、どうとでもなれだ。うん、今日は和服にしといて本当によかった。虫が知らせたかな。朝からこの服でたっぷりとエネルギーをためておいたからね。きっと夕方にはアカリくんにうち明ける力も出せるだろう)

 江奈がアカリを見ると、彼はアヤメの姿をさがしているようだった。

 自分の姪を気遣ってくれるアカリの真摯な態度を見ると、江奈の胸がチクリと痛んだ。

(アカリくん、いよいよきみに話さなければいけないときが来たよ。どうか俺の気持ちをわかってくれ。頼むよ?)

 そして江奈の頭に一抹の不安がよぎった。

(しかし、もしも、俺の要望を聞いた後にアカリくんが俺を拒絶したら? もしそうなったら俺はどうすればいい?)

 江奈はそれ以上アカリを直視できなくなり目をそらした。

(しかたがない。そのときは、彼を、この手で……)

 いつの間にか再開したアダムと生徒たちの会話で、研究所はますますにぎやかに盛り上がっていた。


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