そちらの様子はどうですか?
本来であれば、前の話が最後になる予定だった。
借家である我が家の取り壊しが行われ次第執筆し、「僕らの葬儀。」でピリオドとするはずだった。
それが終わりの形だと思っていたから。
でもそうしなかったのは、ちょっと違う解決方法に出会ったからだ。
きっかけは突然だった。
6月の初め、秋田に帰省していた僕は、青春時代を過ごした浜辺を走っていた。
晴れた午後、熱い日差しの下、潮風に吹かれながら走っていた。
唐突に僕は、あの日のことを思い出した。
東電の方による搬出作業が終わり、家の最終点検をした日のこと。
溜まりに溜まってた荷物をかたしてすっきりとした家の中を、僕らは半ば感心しながら見て歩いた。
最後に辿りついたのが居間だった。
引っ越し前と同じように何もなくなった、畳敷きの居間。
その光景は、ある場面を想起させた。
ドラえもんだ。
「ドラえもん のび太の宇宙開拓使」の、別れのシーンに似てた。
のび太の部屋の畳の下が、遥か宇宙を駆け巡る宇宙船と繋がるところから始まるあの映画。
様々な冒険の末に、のび太たちと「彼ら」の繋がりは途切れ、二度と戻らなかった。
あの光景に似ていた。
いままで繋がっていたのに、もう繋がらない。
いまでも「彼ら」は向こうにいるはずなのに、もう会えない。
あの無情な別れの感慨に似ていた。
子供心に僕は思っていた。
彼らが生きているのなら、それでいいではないか。
少なくとも死んだわけではないのだから。
もし二度と会うことが出来なくても、生きているなら悪くない。
大人になった今、僕は思った。
もしかしたらあの畳の下には、何も起こらなかった世界線が存在しているのではないだろうか。
地震なんて起こってなくて、みんなが普通に暮らしてる世界線が存在しているのではないだろうか。
ただ枝分かれしただけで、二度と合流しないというだけで。
いまもきっと、もうひとりの僕とともに、向こうで生きているのではないか。
くだらない妄想だ。
逃避にすぎない。
でもそれでいいんだと、僕は思った。
忘れるでなく、捨てるのでもなく、また別の世界線を想像する。
それぐらいのことは許されていいのではないか。
そうでなければ、この世界は辛すぎる。
「あの日」のことで苦しむすべての人に、僕は言いたい。
向き合うことは善ではない。
顔を背けぬことは勇気ではない。
辛いことに立ち向かうのは義務ではない。
もっと気楽に構えていい。
僕らはもっと、簡単に救われていい。
たとえばこうだ。
「彼ら」はまだ生きている。
「彼女ら」はまだ元気でいる。
ここではない世界線で、今も平和に暮らしてる。
もう会うことは出来ないけれど、向こうは向こうで呑気にやってる。
あれから5年が経った。
「彼ら」はどんな日常を送っている?
「彼女ら」はどんな日々を過ごしてる?
ほら、想像してみるんだ。
「あの日」までの生活から類推される未来を。もうひとりのあなたの未来を。
どんなにバカバカしくても、愚かしく思えても、それはきっと、あなたを救うはずだ。
ねえ、向こうのあなたは今どうしてる?
わからない? だったら問いかけてみるんだ。
向こう側にいるあなたに、話かけてみるんだ。
学校は楽しいですか?
職場は楽しいですか?
友達はいますか?
恋人はいますか?
結婚してますか?
子供は出来ましたか?
老後の暮らしは健やかですか?
身体の調子はどうですか?
みんな、元気にやってますか?
ご家族に、変わりはありませんか?
ねえ。
そちらの様子は、どうですか?