第百二十二話 心臓に悪い休日
日曜の昼前。
新は駅前の時計台の下で、落ち着かないまま立っていた。
腕時計を見る。まだ待ち合わせの十分前。
早く来すぎた、と思う。思うのに、足はもうここに来てしまっていた。
人が通る。笑い声が通り過ぎる。
自分だけが妙に周囲から浮いている気がして、新は小さく息を吐いた。
デート。
頭の中でその言葉を口にするだけで、また少し心臓が速くなる。
「新くん」
声がして、反射みたいに顔を上げた。
鏡花がいた。
一瞬、本当に言葉が出なかった。
制服じゃない。白を基調にしたやわらかい服に、揺れるスカート。髪もいつもより少し軽く見えて、校内で見る鏡花より近づきやすそうなのに、逆に目を逸らせないくらいかわいかった。
じっと見てしまっていたらしい。
鏡花が少しだけ首を傾ける。
「なに、その顔」
「そんなに変?」
「いえ」
慌てて答える。けれど、その先がすぐに出てこない。
鏡花は急かさず、ただこちらを見ていた。
その視線が余計に落ち着かない。
「……すごく、似合ってます」
ようやくそう言うと、鏡花がぱち、と瞬きをした。
それから、少しだけ頬を緩める。
「ふふ」
「ありがと」
その笑い方が嬉しそうで、新の胸の奥がまた変にざわついた。
「じゃ、行こっか」
鏡花が自然に手を差し出す。
新は一瞬だけその手を見る。細くて、白くて、けれどためらいなくこちらへ向けられている手。
「え、じゃないでしょ」
「恋人なんだから」
恋人。
改めてそう言われると、指先まで熱くなる。
そっと触れると、鏡花は待ってましたみたいに指を絡めた。
「うん、よし」
その「よし」が、鏡花の方が少しだけ得意げで、少しだけ照れ隠しみたいでもあって、新は余計に何も言えなくなった。
◇
最初に入ったのは駅ビルの雑貨屋だった。
鏡花はこういう店が好きらしい。ガラス小物やアクセサリーの並ぶ棚を、楽しそうに見て回っている。
「新くん、これどう思う?」
そう言って持ち上げたのは、光を閉じ込めたみたいな青いペンダントだった。店内の照明を受けて、きらりと色を変える。
「綺麗ですね」
「でしょ?」
鏡花は笑う。
「こういうの好きなんだよね。光で表情変わるやつ」
その言い方が、少しだけ鏡花自身に似ていると思った。
明るくて、からかうようで、でもふとした瞬間に全然違う顔を見せる。
そういうところがきれいだと思う、なんて、口にしたらたぶん終わる。
「じゃあ、こっちとどっちがいい?」
今度は細い銀のブレスレット。
「……さっきの方が先輩っぽいです」
「先輩っぽい?」
鏡花が笑いながら振り返る。
「どういう意味?」
「えっと……」
新は少し考えてから言う。
「綺麗で、でも、ちゃんと目を引く感じが」
鏡花がじっとこっちを見る。
やめてほしい。そんなに見られると、自分が何を言ったのか急に恥ずかしくなってくる。
「新くんって、たまに変なところで真っ直ぐ言うよね」
「変でしたか」
「ううん」
鏡花は小さく首を振る。
「好きだよ、そういうの」
その一言で、新の鼓動がまた一段上がる。
結局、鏡花は最初のペンダントを買った。
会計のあと、小さな袋を揺らしながらこちらへ見せる。
「今日の記念」
「まだ始まったばかりですけど」
「いいの」
「待ち合わせして、一緒に見て、一緒に選んだでしょ?」
「それでもう記念になるの」
鏡花がそう言うと、本当にそういうものなのかもしれない気がした。
◇
昼は駅近くのカフェに入った。
窓際の席。
明るい陽射しと、昼の街のざわめき。
水の入ったグラスの表面に光が揺れていて、それを見ているだけで少し落ち着く――はずなのに、隣に鏡花がいるせいで、全然落ち着かない。
「まだ緊張してる?」
メニューが来て少し経った頃、鏡花が頬杖をついて言った。
「……してます」
新が正直に答えると、鏡花が吹き出した。
「正直でよろしい」
「でも、その方がかわいいからいいや」
「かわいいはやめてください」
「やだ」
即答だった。
鏡花は本当に、押すところで一切ためらわない。
それに毎回きちんと振り回される自分が、少し悔しい。
「でもさ」
鏡花がストローをくるくる回しながら言う。
「新くんって、戦ってる時は全然こんな感じじゃないのにね」
「それは……」
新は視線を少し落とす。
「戦ってる時は、考えることが一個だからです」
「今は一個じゃないんだ」
「はい」
「へえ」
鏡花の目が楽しそうに細くなる。
「何考えてるの?」
「言いません」
「けち」
そう言いながらも、鏡花はどこか嬉しそうだった。
料理が運ばれてきて、他愛のない話をする。
校内予選の話。代表になったこと。クラスのこと。
そういう普通の会話をしながら、時々ふいに目が合うたび、新の胸は小さく跳ねた。
会話が一度途切れた時、鏡花が少しだけ柔らかい声で言った。
「こういうの、してみたかったんだよね」
「こういうの?」
「うん」
「買い物して、ごはん食べて、一緒に歩いて」
「普通のデート」
鏡花は笑っていたけれど、その笑顔はいつものからかう時のものとは少し違った。
新はスプーンを置く。
「……俺も」
「うん?」
「思ってたより、かなり楽しいです」
言ったあとで、少しだけ恥ずかしくなる。
でも鏡花は、まっすぐこちらを見て、ふっと笑った。
「そっか」
「じゃあ、もう今日成功だね」
◇
午後は水族館へ行った。
館内は少し暗くて、ガラス越しの青い光が静かに揺れていた。人の声も小さく反響して、さっきまでの街中とは空気が違う。
「わあ……」
大きな水槽の前で、鏡花が素直に目を輝かせる。
その横顔を見て、新は少し驚く。
校内で見る鏡花は、いつもどこか一枚余裕を持っているのに、今はただ綺麗なものを綺麗だと思っている顔をしていた。
「クラゲ、好きなんですか」
「好き」
鏡花は水槽から目を離さないまま答える。
「ふわふわしてるのに、なんかちゃんとしてるとこ」
「鏡花先輩っぽいです」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
鏡花がくすっと笑う。
人の流れが少し混み合ったところで、鏡花が自然にこちらへ寄った。
「人多いね」
「そうですね」
「はぐれたら困るし」
そう言って腕を組んでくる。
はぐれないためにしては、だいぶ近い。
肩に柔らかさが当たって、意識するなという方が無理だった。
「……鏡花先輩」
「なに?」
鏡花が上目遣いに見てくる。
「近いです」
「知ってる」
さらりと返される。
「嫌?」
「……嫌じゃないです」
「じゃあいいじゃん」
そう言って、また水槽へ目を向ける。
ずるい。
こういう時だけ平然としているのがずるい。
そう思うのに、腕をほどいてほしいとは少しも思えなかった。
それどころか、水槽の青い光が鏡花の横顔を照らすたび、ずっと見ていたくなる自分がいた。
◇
水族館を出る頃には、空は夕方の色に変わっていた。
近くのベンチに並んで座る。
少し歩き疲れているはずなのに、隣に鏡花がいるせいで変に神経だけは冴えている。
「ねえ」
鏡花がぽつりと言う。
「今日の私、何点?」
「急ですね」
「いいから」
新は少し考える。
「高いです」
「雑だなあ」
鏡花は笑った。
「でも嬉しいから許す」
夕方の風が吹く。
鏡花の髪が少し揺れて、頬にかかる。
「新くん」
「はい」
「今日、ちゃんと楽しかった?」
「楽しかったです」
「そっか」
鏡花はそれだけ言って、目を細めた。
冗談でも、からかいでもない。
今までで一番まっすぐな顔だった。
「私も」
「すごく楽しかった」
その言葉は小さかったのに、妙にはっきり胸に残った。
何か返したいと思った。
でも、うまい言葉が出てこない。
言葉にできない代わりに、新は少しだけ手を動かす。
ベンチの上で触れた指に、鏡花がすぐ気づいた。
そっと絡められる。
手を繋ぐだけで、どうしてこんなに落ち着かなくなるのか、自分でも分からなかった。
◇
帰り道。
駅へ向かう途中で、鏡花が急に別の方向へ新の手を引いた。
「ねえ、新くん」
「こっち行ってみよっか」
何気なくついていきかけて、新は途中で足を止めた。
ネオンの色。
並ぶ店の雰囲気。
さっきまでの通りとは、明らかに空気が違う。
新の喉が変に鳴った。
「……鏡花先輩」
「なに?」
「さすがに、それは……」
言った瞬間、自分でも分かるくらい顔が熱くなった。
鏡花は一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「ふふっ」
「冗談だよ」
「っ……」
「そんな顔するんだ、新くん」
鏡花は楽しそうに笑う。
でも、新はじっと鏡花の顔を見る。
「……先輩も赤いですけど」
「え」
鏡花がぴたりと止まる。
本当に、少し赤かった。
夕方の灯りのせいだけではないくらいに。
「そ、それは」
鏡花は一度そっぽを向く。
「からかった方だって、ちょっとくらい恥ずかしい時はあるの」
「じゃあやめてくださいよ」
「やだ」
鏡花はすぐに戻ってきて、新の腕にまたくっついた。
「そういう顔する新くん、かわいいし」
「……先輩」
「なに?」
「行きましょう」
そう言って、新は鏡花の手を引くように歩き出した。
「え!? ちょ、ちょっと、まだ心の準備が――」
そこで新が足を止める。
鏡花が思わずたたらを踏み、目を丸くしてこちらを見る。
「ドキドキ、しました?」
一瞬、鏡花が言葉を失う。
それから、くしゃっと笑った。
「もうっ」
「……したよ?」
その言い方が、どこか本当に嬉しそうで、新はそれ以上何も言えなくなった。
◇
駅前に戻る頃には、すっかり夜だった。
人の流れの中で立ち止まる。
ここで別れるのだと思うと、急に今日が終わる実感が出てくる。
「じゃあ」
鏡花が言う。
「今日はここまでだね」
「はい」
「……ちゃんとデートだった?」
「ちゃんとデートでした」
新が答えると、鏡花は満足そうに頷いた。
「よし」
「じゃあ、また行こうね」
「行きましょう」
鏡花は一度だけ、新の手をぎゅっと握った。
そのまま離れるかと思ったのに、離れない。
鏡花はじっとこちらを見上げる。
昼間より少しだけ静かな目。
でも、その奥にいつものいたずらっぽさが残っている。
「ねえ、新くん」
「……何ですか」
鏡花が一歩だけ近づく。
距離が急に近くなって、息が詰まる。
「今日はいい子だったから」
「最後にご褒美、いる?」
「え」
思考が止まる。
鏡花は少しだけ背伸びした。
その唇が近づく、と思った瞬間――耳元をかすめて、囁きだけが落ちる。
「……なーんてね」
「っ!?」
新の肩が跳ねる。
鏡花はその反応を見て、堪えきれないみたいに笑った。
「ふふっ、やっぱり」
「その顔、ほんとかわいい」
そう言って、鏡花は新に抱きつく。
「先輩……!」
「でも」
鏡花は笑いを少しだけ引っ込める。
上目遣いで新の目を見て言う。
「次は冗談じゃないかもよ?」
そう言って、新の胸元を指先で軽くなぞる。
心臓が、今度こそ本気で跳ねた。
「じゃあね、新くん」
鏡花は手を振って、くるりと背を向ける。
でも数歩進んだところで立ち止まり、振り返った。
「ちゃんと考えといてね」
「次、私が本気だった時のこと」
それだけ言って、今度こそ人混みの中へ消えていく。
残された新は、しばらくその場から動けなかった。
今日は戦いはなかった。
魔法も、結界も、先読みもいらなかった。
それなのに。
たぶん今日が、一番心臓に悪かった。
思わせぶりデート




