第6話
そんな私の気持ちなど知らずに、バーナルドは記憶の戻った私と、遊びに行きたいだの、食事に行きたいだの、旅行にも行きたいだの、夢想の限りを囁き続けている。
……まったく。
この人にとっては、自分の願望がすべてで、人の気持ちは二の次なのね。そりゃ、自分の人生を犠牲にしてまで、記憶を失った私に寄り添おうとはしてくれなかったわけだわ。
若さゆえの高揚感で、一緒にはしゃぎ、遊ぶ分には楽しい人だったけど、とても、長い人生を一緒に歩んでいくべき人じゃないわ。結婚前にそのことに気づけただけでも、あの記憶喪失には、大きな意味があったかもね。
私は小さくため息を漏らしてから、喋り続けるバーナルドに割り込むようにして、淡々と言う。
「バーナルド、悪いけどあなたとは、これ以上話すことも、一緒に何かをすることもないわ。婚約、やめにしましょう。面倒な書類は全部こっちで出しておくから、あなたは何もしなくていいわよ。それじゃ、さようなら。元気でね」
そして私は、家の中に入り、階段を上って自室に戻った。
……少し経ってから、外のバーナルドが、大声で喚く声が響いてくる。
はぁ……、やっぱり、納得してくれないか。
私はベランダに出ると、「なぜ!?」「どうして!?」「理由がわからない!」と、両こぶしを力いっぱい握り締めて抗議しているバーナルドを見下ろす。
その瞳のあまりの冷たさ――そして、それ以上に、見る対象にもう何の関心も持ち合わせていない無感情ぶりに、さすがのバーナルドも黙り込んだ。私は、これで最後と、彼に言い聞かせる。
「ねえ、バーナルド、覚えてる? この前、十字路で会ったとき、あなた、今の私みたいな目で、私のことを一瞥して、無視したのよ。……こんな目で自分を見るような人と、結婚できるわけないでしょう?」
バーナルドは、何も言わなかった。
ただひたすら、絶望した瞳で、こちらを見上げている。
目は口ほどに物を言う――
恐らく今のバーナルドは、あの時私が感じたのと同じだけのショックを、どんな言葉よりも強く感じ、その身で受け止めているのだろう。
しばらく立ち尽くしたままだったバーナルドの瞳から、一滴の涙がこぼれた。……壊れてしまった愛が、もう決して元に戻らないことを悟ったに違いない。バーナルドは最後に小声で、「すまなかった」と言い、背中を小さく丸め、路地の向こうに消えていった。
去っていく彼の背に、私も小声で言う。
「いいのよ、バーナルド。あなたと過ごした時間は、きっと、私にとっても、あなたにとっても、夢だったのよ。……夢から覚めて、お互い、別の誰かと、幸せになりましょうね」
この日以降、私は二度と、バーナルドに会うことはなかった。
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「ええっ、それで、バーナルドさんとの婚約、解消してしまったんですか?」
数日後の病院にて。バーナルドとの婚約破棄騒動の顛末を聞いたダンストン先生が、素っ頓狂な声を上げる。……驚いた様子とは裏腹に、その態度は、どことなく嬉しそうだった。
私はカルテの整理をしながら、ダンストン先生を見上げ、ちょっとだけからかうように、言う。
「先生、なんだか嬉しそうですね」
「そ、そんなことありませんよ。……いえ、そうですね。正直に言えば、嬉しいというか、ホッとしています。入院中のあなたに対するバーナルドさんの態度を見ていて、『この人にエリザベラさんを任せて、本当に大丈夫だろうか』と、多少なりとも心配はしていましたから」
「それって、お医者さんとして、患者である私のことを心配してくれていたってことですか? それとも私を、一人の女として認識して、問題のある男とくっつかなかったことに、ホッとしてくれたんですか? ……先生は私のこと、どう思っていますか?」
私の質問を受け、ダンストン先生は黙り込んだ。
……自分でも、驚くほど大胆なことを聞いたと思う。
でも、聞かずにはいられなかった。
ダンストン先生は、どんな患者さんにも優しい。
当然、私にも優しかった。
その、私に向けられていた優しさが、所詮、一患者に対する博愛的なものにすぎなかったのか、それとも、私をちゃんと異性と認識して、特別な想いを注いでくれていたのか、知りたくて知りたくてたまらなかった。
だって私は、記憶を失ってから今までの間、誰よりも親身に接してくれたダンストン先生のことを、好きになっていたから。
自惚れかもしれないが、ダンストン先生も、私に対し、好意を持ってくれていると思う。少なくとも、嫌われてはいないはずだ。いくら親切なダンストン先生でも、好きでもない相手のために、勤務時間外に、長々と記憶を取り戻すセラピーをしてくれたりはしないだろう。
……いや、しかし、誰にでも優しいダンストン先生なら、嫌いな相手にでも、親身に接するかもしれない。そう思うと、どんどん自信がなくなってくる。
しばらくして、ダンストン先生は閉じていた唇をゆっくり開いた。
その瞳は、いつも通り、どこまでも柔和で、限りなく優しい。
「……もう何ヶ月前になるでしょうか。覚えていますか? エリザベラさん。あなたが、『記憶を取り戻すためのセラピーをやめたい』と言った日のことを」
いきなり、何の話だろう。
そう思ったが、私は特に口を挟まず、小さく「はい」とだけ頷いた。




