~最終話~ 12 還る処 ②
「あと1回だけ」
キクリはそう言いながら大河に足を踏み出し、舟べりをつかんだ。月光と星明りに照らされた川面に守礼の舟が浮かび、黄櫨と緑青がキクリを引き上げる。足が舟底につく寸前、キクリは消え、次の瞬間には砂浜に戻っていた。彼女は、口惜しそうに地団太を踏んだ。
「ああ、もう。乗れないよぉ。死んだと認めてるんだけど」
「あきらめましょうよ。わたしは、あきらめたわ」
睡蓮が波打ち際に立ち、残念そうに舟を見やる。舟の中央にいた烏流が腕を組み、睡蓮とキクリを見下ろした。
「死んだと認めるには痛みが伴う。その痛みを乗り越えないと、シギからは出られないんだよ」
「いいこと言うなあ。あ、真面目に言ってるの」
烏流にぎろりと睨まれ、緑青は慌てて両手を上げた。
「今回はあきらめるけど、『喋る箱』を必ず持って帰って来てね。忘れないでよ」
「喋る箱なら私が大河から持ち帰り、差し上げたはずですが」
「喋らなかっただろ? 喋る箱が欲しいんだよ。加奈が言うには、人が一杯出て来て喋るんだって。その中に、あたしの亭主になるべきいい男がいるかも知れないだろ?」
「いい男なら、目の前にずらっと並んでるじゃないの」
睡蓮が言いながらちらっと黄櫨を見て、頬を染める。キクリは「ええーっ」と呻いた。
「見栄えは悪くないけど……こいつら、中身がとっても残念なんだもん」
「どういう意味だよ」
不服そうに口を尖らせる緑青の横で、守礼が銀の櫂を持ち上げる。
「できるだけの事はしますが、生者の国の物を持ち帰れるかどうか分かりませんよ。黄櫨と緑青が生者の国に行くのは加奈さんの安否を確かめるためで、決して遊びに行くわけではありませんからね。彼女を送った後しばらくその場にいましたが、何も見えず物音も聞こえず、加奈さんが無事なのかどうかは2人に見て来て貰う以外に方法がないのです」
「分かってる。箱が無理なら『喋る板』でもいいよ。加奈が言うには、掌ぐらいの大きさの板が喋るんだって。頼んだよ」
苦笑する守礼が櫂で川底を突き、舟は静かに動き出した。3人は舟底に腰をおろし、ランプの下に立つ守礼が舟を操る。霧が流れ岸辺が見えなくなった頃、黄櫨が咳払いした。
「実は……女たちの前では話せなかったが、俺は男の責任をとって加奈を嫁にすることにした」
沈黙が降り、烏流が口火を切る。
「死にたいのか、黄櫨」
「殺すことには同意しますが、その前に男の責任とは何です?」
「それは……まあ、色々と事情が……」
「アレのことか? 黄櫨の奴、生者の国で狐だった時、入浴中の加奈を見たんだよ」
「何だと!」
緑青の言葉に、烏流の爪が金属音を立てて一気に伸びた。
「黄櫨、首を出せ!」
「落ち着け、烏流。加奈が承知するわけないだろ。睡蓮がいるのに」
「そこじゃねえっ」
緑青が烏流を押しとどめ、黄櫨は怪訝そうな顔をした。
「何で急に睡蓮の話になるんだ」
「何でって……睡蓮はおまえに対して、ものすごく優しいだろ?」
「ここの所、睡蓮は誰に対しても親切だが?」
黄櫨の返答に緑青は唖然として口をぽかんと開け、烏流が言葉をつなぐ。
「兵士全員に茶器を配る時、黄櫨にだけ笑顔で渡す。俺ですら気づいているぞ。それより首だっ」
「そうか?」
「おまえ、全然気がついてなかったのか」
緑青は激昂し、髪をかきむしった。
「おまえを見る睡蓮の色っぽい目。何かと言うとおまえに話しかけようとして、いつもおまえを見ていて、あれに気づかないとはどこまで鈍いんだよっ」
「つまり緑青が言いたいのは……まさか……」
「黄櫨の嫁にしてほしいと、睡蓮さんの目は語ってますね」
守礼が言った途端、黄櫨の顔は火がついたように赤くなり、烏流に殴られてますます赤く腫れた。
夕食を祖母と2人で食べながら、加奈はシギについてどう話し始めようかと知恵を絞っていた。
「寺の住職夫人が言うには、桔梗の間の霊気がすっきり消えてるそうだ。あの人には霊感があるからねえ。これで加奈が化け物にとり憑かれたなんて噂は、きれいさっぱり消えるだろう。祠の前で倒れていた時の姿があまりにひどかったものだから、憑きものだなんて噂になったんだよ」
「え……」
村では、加奈が桔梗の間の化け物にとり憑かれたという噂が広まっていたらしい。明日には、加奈が化け物を祓ったという噂が広まるだろうという祖母の口振りから察するところ、噂の出所は住職夫人なのだろう。
「祠といえば……お地蔵さんがあるでしょう」
「ユラ地蔵のことかい?」
「ユラ……?」
大河で白椿をくれた少女を思い出し、加奈ははっとした。
「大昔、舟石様の周囲には泉が湧いていたらしい。それがある時ぱったり途絶えて、村は困ったそうだ。今では近くの川から水を引いているが、その頃は泉が頼りだった。その頃というのは、江戸時代の初めぐらいかな。よその村でも水が枯れたが、人柱を使うと水が湧き出したという話を村人が聞き込んで来て、ユラという11歳の少女が犠牲になった。ユラが埋められると泉は生き返り、明治に入るまで村を潤した。明治何年かに川から水を引いた時、泉は役目を終えたように枯れてしまったそうだ。あの地蔵様は、ユラを祀ってるんだよ」
「そうだったの……」
少女は志希村の住人で、彼女が言っていた泉とは舟石様の泉だった。ユラは無事に死者の国に渡り、神様に会えたのだろうか。泉がなぜ復活したのか、仕組みはよく分からないけれど、きっと意志の力が働いたんだろうと加奈は思った。
「ユラの時代よりもっと昔、この辺りは『死と鬼の国』と呼ばれていたらしいよ。化け物や幽霊が住み、人間の住めない土地だったらしい。そこに偉いお坊さんがやって来て、この地を浄め、人の住める場所に変えた。以来シキ村は延々とつづき、何度も戦争で焼かれたが、生き残ってる」
「死と鬼の国だから、シキ村なの?」
「と言い伝えられてるが、本当のところは分からないねえ。死鬼の文字を志希に変えたという話は聞いたけど、そんな昔に漢字があったのかねえ」
首を捻る祖母を見ながら、「シギ」という名に「死と鬼」を当てはめたんだろうと加奈は思った。「死鬼」以前に、シギという名称が人々の記憶に残っていたに違いない。
「さて。話はこのくらいにして、そろそろ寝ようかね」
祖母に言われ、加奈は焦った。今日こそ死者の国の話をしようと思ったのに――――。
お皿を片付け始めた祖母を見ていると、本当に話していいんだろうかという気もする。祖母の心臓に悪いかもしれない。でも早くシギに戻りたい。みんなに会いたい。急に自分が消えたらもっと心臓に悪いだろうから、やっぱり話すべきだ。
「お皿洗い、わたしがやる」
「そうかい? すまないね。もう休ませてもらうけど、お風呂が沸いてるからね。入った後、元栓を閉めておいておくれよ。お休み」
疲れた様子で部屋に引き上げる祖母の背中を眺めながら、加奈は小さく溜め息をついた。話せなかった……。明日こそは話そうと、食事の後片付けをしながら固く心に決める。
お風呂の湯はちょうどいい加減で、ゆったりと湯舟につかりながら、窓の上部で輝く半月を見上げた。満月と満天の星と白夜に彩られたシギの空を思い出し、今頃みんなはどうしているだろうと思う。
キクリに、タルモイさんに会ったと伝えたい。祖母と一緒に寺に行った時、遠くから歩いて来る先生の背格好がタルモイさんそっくりで、息を呑むほどだった。きっと転生した後、シギの地に惹かれてやって来たに違いない。
黄櫨は、睡蓮とうまくいってるかな。朴念仁の黄櫨のことだから、睡蓮の気持ちに気がついてないかもしれない。誰かが橋渡しをしていればいいけれど。
緑青に会いたい。猫のココアが可愛過ぎて、緑青には申し訳ないけれど、ずっと猫のままだったら良かったのにと思わないでもない。
守礼――――。彼が心から笑う顔を見たことがない。生まれた瞬間から苦難つづきで、ようやく神官として認められたと思ったら死んでしまって、妹の罪をかぶって皆に憎まれて、心から楽しめる時が無かったのだろう。守礼は、可哀相すぎる。どうか幸せになってほしい。そのためには、どうすればいいんだろう。
烏流。彼に力一杯抱きしめられたことを思い出し、加奈の顔が熱くなった。「行くな。守ってやるからそばにいろ」――――彼の言葉を思い出すと、胸がドキドキする。頭に浮かぶ烏流の顔を、加奈は慌ててかき消した。
人との出会いは不思議だなと彼女は思う。シギで出会った人々だけでなく、今この時間を共有するすべての人々の存在が不思議だ。膨大な数であろう命の中で、ごく限られた命だけが宇宙から地球に降りている。果てしなく長い時間の中で何度も転生し、同じ時を過ごせるのは奇跡に近い確率だ。
今地球上で生きている同志とも言うべきすべての人達と手を取り合い、いつか光の世界に戻れたらいいな。
そんな事を加奈が考えていた頃、烏流は舟石様の祠で怒声をあげていた。扉を開けようとするが開かず、何度叩いてもびくともしない。
「無駄ですよ。生者の国の獣を持たない者は、ここから先には行けない。私が何度も試しましたから、間違いありません」
厚い扉を黄櫨と緑青が簡単に通り抜けて行くのを見て、烏流は歯噛みした。
「おい、戻って来い。言っておくことがある。戻れ!」
「何だよ」
緑青が顔だけを扉から突き出し、烏流を見る。首から下は見えず、まるで生首の化け物のような様相である。
「加奈をここに連れて来い」
「へへーん、無理。僕がこれから加奈の寝床にもぐり込んで、思いっきり可愛がってもらうんだから。そんな暇ないよー」
「そんなに死にたいのか、緑青」
「ここから先に進めるのは僕と黄櫨だけ、おまえは進めない。脅しても無駄。おまえが必死に頼むなら、考え直してやってもいいけど?」
烏流はぎりぎり歯ぎしりし、急に真剣な顔つきになった。唇を引き締め、咽喉の奥から声を絞り出す。
「……頼む。連れて来てくれたら、おまえを殺す話は無かったことにしてやってもいい」
「それが人にものを頼む態度かよ。何で連れて来るの? 理由は?」
「理由……だと」
「当然だろう。まっとうな理由があれば、連れて来てやってもいいよ?」
再び歯ぎしりしながら、烏流は緑青を睨みつけた。噛みしめた歯の奥から、呻き声が洩れる。
「会い……たいからだ。くそっ」
「たまには素直になれよな」
笑顔と共に緑青の顔が消え、扉の向こうが静まり返る。守礼が石舟にもたれかかり、烏流が腕組みをして狭い祠の中を歩き回る様子が、緑青と黄櫨からは見えた。
「さ、行くぞ。加奈~、待っててね~。しっかし暗いなあ。シギより暗いよ」
緑青は言いながら、その場でくるりと回る。どちらを向いても真っ暗闇で、月や星はおろか灯り一つ見えない。
「生者の国は、以前もこんな風だったぞ。それより睡蓮が……俺の嫁になりたがっているとは」
緑青の目に薄ぼんやりと映る黄櫨は、嬉しそうに笑っていた。
「舟で黙りこくってたのは、ずっとそれを考えてたのか。加奈は僕にまかせて、睡蓮とシギに残れば良かったんだ。いまさら遅いけど。加奈の家はどこだ? あ、あれかな」
暗闇にうっすらと浮かぶ一軒の家。2人を呼び寄せるように、灯りが一つぽつんと点いている。緑青は急ぎ足になり、黄櫨は緑青の後ろを大股で歩いた。
「守礼はああ言ったが、俺はできることなら加奈をシギに連れ帰りたいと考えている。新たなるシギにとって、加奈は新たなる姫神だ。これまで積み上げて来た俺の功績と、加奈を連れ帰った手柄。嫁を貰い一家の主となった威厳。ひょっとしたら老亥が引退したあと……。俺は目立ちたくないんだが、断り切れない場合もあるからな……ニヒッ」
「笑うなっ!!」
時遅し。緑青が振り返って制止したにも関わらず、黄櫨の変化は止まらない。みるみる小さくなって、地面に落ちた衣の間から金色の狐が顔を出す。
「欲を出すと狐になるってことに、いい加減気づけよ! 僕はもう知らないからな。加奈が先だ。おまえは後から来い」
家に向かって駆け出した緑青を狐が追い、すぐに立ち止まる。引き返した狐は脱ぎ捨てられた衣とサンダルをくわえ、ずるずる引きずりながら、再び緑青の後を追った。
「加奈~、どこ~? あっ」
足を止めた緑青の目に、見覚えのある部屋が映る。暗い屋敷の中で、唯一明かりのついた部屋。
「浴場だ!! 一緒に入っていいよね? 止めたって止まらない。止められるものなら止めてみろ」
歌うようにつぶやき、足取りも軽く、彼は風呂場に近づいた。曇ったガラス窓の向こうに人影が見えたと思った瞬間、彼の視界は土壁に覆われる。
「ふぎゃあああああ――――っ」
猫が一匹、風呂場の下の壁を引っ掻いている。どうしてこの壁は通り抜けられないんだ、おかしいだろっと頭の中で考えながら、口惜しそうに心底無念そうに壁をガリガリ引っ掻く。
湯舟につかり遠い光の世界に思いを巡らせていた加奈には、猫の鳴き声も壁を引っ掻く音も、狐が衣を引きずる音も聞こえなかった。
無性に夜空が見たくなり、お風呂上りに祠まで散歩して、ユラのお地蔵様にもお参りしようと思った。
完
本作品は、これにて完結とさせて頂きます。
長らくご愛読くださり、ありがとうございました。




