9 期待してはいけない。期待させないで。
「って、大丈夫じゃないよな。立てる?」
「……!」
思わず顔をあげてしまった。
声には聞き覚えがあった。
あいつが、あのヘンタイ骨董商が、アタシに傘をさしかけて立っていた。
アタシの周りだけ雨がやんだのは、その傘のおかげだった。
差し出された手を思わず掴みそうになって、引っ込めて。
びしょびしょのドレスの裾で目の周りをぬぐって、
「大丈夫……巡察隊にしょっぴかれたんだから、生きて出られただけでもオンの字よ」
立ち上がると、髪や、安いドレスの裾からぽたぽたと雫が落ちた。
彼はきまり悪そうに手を引っ込めると、
「すまない。ここまでひどい有様になってるとは……判っていたら服くらいもってきたんだが……」
「面倒ごとに巻き込まれた娼婦の扱いなんて、これが普通」
「これでも、あちこち金ばらまいて、早く出られるようにはしたんだが……悪かった」
アタシは首を振った。
こいつが謝ることじゃない。
どうでもいい娼婦を、留置所から引っ張りだしてくれた上に、こうして迎えに来てくれたんだから。
「……ありがとうございます」
「ここだと濡れる」
そう言うと、彼は手をこちらへ差し伸べて、慌てて引っ込めると、先を歩き出した。
黙ってついていくと、すぐ側の路地に馬車が停めてあった。
輸送用の幌付きおんぼろ馬車。骨董商の商売に使っているものなのだろう。
つながれたロバが、退屈そうにあくびをして、ぶるっと頭を振るった。
幌に囲まれた荷台へ入ると、雨が遠ざかる。
といっても、幌の天井部分から、ぽたり、ぽたりと雫が落ちて来るけど。
彼は、天井からぶらさがったランプに火を入れた。
あたたかい灯りがともる、
「これ使って」
乾いた布切れを数枚さしだされる。
みんなボロボロで、油のにおいがした。
「すまない。それしかないんだ……」
もしかしたら、この布切れで、骨董品を磨いたりホコリを払ったりしているのかも。
アタシは髪をふいて、ドレスの中へ手をいれて体を拭いた。
彼は慌てて後ろを向いた。
「見ててもいいのに、今さらでしょ」
「……」
後ろを向いたまま、ごそごそとその辺を漁って、追加の布切れを何枚も渡してくれる。
見ようとしないのは、お代を払っていないからなのかな。
この人には、そういう律儀なところがある。
「ありがとう。もういいよ」
こちらを向いてくれた彼の、気遣わしげな視線で、今のアタシがひどいありさまなのを自覚させられる。
化粧なんてとっくに剥げ落ちて、肌はいつもよりもさらに生傷だらけ。
このドレスだって二度と着られないだろう。
「これからどうするんだ?」
その声に、あざけりが含まれてなかったのは救いだった。
救いだなんて感じてる自分に少し驚く。
よっぽどアタシは疲れてるんだ。
でも、心には救いでも、現実には何の救いにもならない。
「……昼も夜も男の相手をするだけ。あんたもアタシを以前のようになめまわせるってわけ。あんたはずっとタダでいいよ」
こんなじゃなめまわしたくないだろうけど。
娼館に戻れば、身体くらいは洗わせてくれるだろう。
そして新しいドレスのせいで、また借金が増える。
「いや、ボクは当分、あの娼館に顔を出せない」
「……そうなんだ」
ああ、アタシ、とってもがっかりしてる。
もしかして、迎えに来てくれて、そのまま助けてくれるとか思ったりしちゃった?
そんなわけないじゃない。バカ3号なアタシ。
これじゃあバカ2号のママとおんなじだ。
ここへ迎えに来てくれただけでも、奇跡みたいなものだ。
「店をちょっと畳んで、新しい仕入れ先開拓のために、海の向こうの国へいくんだ」
「……どれくらい?」
思わず聞いてしまった。
ああ、アタシ、こいつが自分のところへ来て欲しいんだ。
客なんて誰でも同じだったはずなのに。
「3年か……5年ってとこだ」
3年。
アタシはまだ生きているかな?
あの娼館で、まだ働かされているかな。
望みは薄い。
アタシに読み書きを教えてくれたやさしいお姐さんたちと、同じ末路を迎えてそうだ。
それに借金の多い娼婦ほど、娼館の主人に便利に使われて、ボロボロになる。
死んでるか、捨てられてるか、死にかけてるか、別のところへ売り飛ばされているか。
この人が磨けば美しくなるのに、と惜しんでくれた肌も身体も、見るも無残になっているだろう。
ああ、いやだ。
未来なんて考えると、悪いこと以外なんにもないのに。
「そっか……アンタ変態でどうしようもないヤツだけど、金払いはよかったから、残念だね」
「残念か」
「このお礼は……」
アタシの体で、と言いかけて、それ以上言葉が出てこない。
娼館にも来てくれなくなるなら、アタシのカラダさえもあげられない。
払えるものなんてなにもない。
「……ボクが」
彼は何か言おうとして、ためらった。
「ボクが……ボクがいなくなって、ほんとうに残念?」
残念。
ちがう。
分かってしまった。
ほんとうはそんな言葉では言い尽くせない。
2度と会えない。
この人だけがアタシを褒めてくれて。
この人だけが、安いからじゃなくて、アタシだから選んでくれていた。
この人の変態的な行為も、キモいとは思っていたけど、イヤだとは思っていなかった。
でも、
アタシはへらっとした笑いを顔にはりつけて、
「いやだな。娼婦が客に言う残念なんて、シャコージレーみたいなものでしょ」
「何かしたいこととかないのか?」
そんなものあるはずが――
「……」
顔がこわばるのを感じる。
張り付けた笑顔が、ひきつる。
ある。
あった。
この人についていって、話にだけ聞いた美しいものを見て見たい。
『どんなことでもするから、自分の分のお金は、その土地で体を売ってでも稼ぐから、連れて行って!』
そう叫んで。みっともなくすがりつきたい!
だけど、そんなことは、できない。
アタシは助かったみたいだけど、たぶん、娼館にしてる借金は残ってる。
逃げられない。
万が一、つれてってくれたとしたら、こいつを犯罪者にしてしまう。
アタシは膝の上の握りこぶしを、ぎゅっと握る。
「……あるわけないでしょう。そんなの。アタシは男に媚びを売る以外、何も知らないもの」
うまく笑えてるかな。
へらへら笑えてるかな。
「……ないんだな。なら」
彼はためらって、少し下を向いて、何かを決意したようにアタシを見た。
男に見つめられて、生まれて初めて、心臓が跳ねた。
その視線は、特別で、アタシだけに向けられたもので……。
こんな流れを作らないで。
期待してしまう。都合のいいことを考えてしまう。
わかったよママ。
あの男に、奥さんを殺してお前をって言われた時、信じたかった気持ち。
でも、そんなことありえない。
アタシは、やせっぽちで、がりがりで、借金だらけの、安い娼婦でしかないんだから。
「どこへ行っても同じなら……ボクと一緒に来ないか」




