表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/34

縋った者達の末路

 ――英雄ガルフリアが死んでからしばらく経った、ある日のこと。


 村長は自宅で頭を抱え、テーブルに突っ伏していた。居間には子供の遊び声も、主婦達の談笑も、仕事帰りの男達の語らいも聞こえない。閑寂とした空気の中、ただただ無為な時間を過ごしていた。


 ここはあの村。レスト達が訪れ、ガルフリアが訪れた、あの村だった。


 村長は緩慢に顔を上げた。その顔は、以前とは違って疲れ切っており、生気がない。皺が幾つも走り、若々しさだけが取り柄だった村長は、たった数ヶ月で老け込んだ。


「なぜ、こんなことに……」


 村長は嘆いた。この言葉は何度目かわからない。何度吐いても、再び何度も吐いてしまう。どうして、どうしてこうなったのだ、と。


 静まりかえった村内に足跡が響く。それが村長の自宅前にまで辿り着くと、扉が乱暴に叩かれた。


「村長! またです!」


 ああ、聞きたくない。


 耳を閉じて、目を閉じて、すべての情報を遮断してしまいたい。しかしそんなことはできない。そんなことをすれば村中から非難され、下手をすれば殺されてしまうだろう。それほどの切迫した状態なのだから。


 村長は重い足取りで玄関まで行き、扉を開けた。そこには初老の男性が血相を変えて、立っていた。


「ま、また来ます! あと数時間後には、ここに」

「また、ですか」


 二人して肩を落とす。未だに、とりあえずは無事な二人は幸運なのだろうか。


「差し出すものは、もう何も」


 この村では、いやこの村だけではない。官憲の少ない村々では日々、盗賊のような荒くれ者の存在に怯えて過ごしていた。英雄ガルフリアがいなくなり、鳴りを潜めていた悪党共が活発的に行動を始めたのだ。辺鄙な村、都市部から外れた場所へ逃げていた賊達は、英雄が死んだことを皮切りに、我が物顔で戻ってきたのだった。そのため、閑散とした村の方は以前よりも安全になったらしい。皮肉なことだった。


 これで三度目。一度目は女達と若い男と子供が奪われた。いくらかの子供と女性は隠れていたため難を逃れたが、それでも大半の女性は賊達の慰み者となっているか奴隷に堕ちただろう。二度目は、村の財産をほとんど奪われた。隠していた貯蓄を見つけられ、強奪されたのだ。その際、抵抗した村人が何人も殺された。そして、三度目。今日。もう金品もないし、女はいない。残っているのは老人ばかり。


 この村は終わりだ。


 賊の襲来は、ガイゼンの官憲や領主にも報告している。だが、手が回らないらしく、この村のような小規模の村落には憲兵は派遣されない。見捨てられているのだ。


 ガルフリアがいた時はこんなことはなかった。どれほど英雄に助けられていたのか、村長は痛く実感していた。しかし後悔しても遅い。感謝しても意味はない。誰かが、英雄を殺してしまったのだから。彼は生き返るわけもないのだから。


 ガイゼンでの英雄の死は、瞬く間に雪の国内中に広がり、そして全世界に知れ渡った。世界中が彼の死を悼んだ。他の英雄達も参列し、各国の王からの弔辞も届いた。


 村長自身も彼の死に胸を痛めた。そして、その日から悪夢は訪れたのだ。


 この村だけではない。他の村々も同じ状況らしい。中には積極的に行動し、村同士で一致団結し、どうにか一所に集まれないか、という改革的な発案をした村長もいたが、彼は道中で殺された。どこでも、雪の国内は治安が悪くなっている。ここ十年ほど、英雄が守っていた場所は、平和に塗れて、こんな状況を想定していなかったのだ。


 長い間、盗賊達の標的になっていた辺鄙な村々は、そこに含まれてはいない。


 どれほど、英雄に頼っていたのか。それを誰しもが痛感していた。雪の国の王もなんとか状況を改善しようとしているらしいが、無駄だ。王もまた英雄の存在を当たり前だと思い、対策を講じていなかったのだから。


 村長は過去を想起し、そして再び大きなため息を吐いた。


「どう、しますか?」

「逃げましょう。もう、この村には財産はない。渡すようなものもない。かと言って、家と土地にしがみついては殺されるだけです。ならば、せめて逃げる努力をしましょう。ガイゼンへ行けば、少しは安全なはずです」


 ガイゼン内は人で溢れ返り、治安も悪化している最中だ。ガイゼンに入れない人達は外壁前で生活しているらしい。危険極まりないが、それでもこの村に留まるよりはいいだろう。少なくとも、盗賊達が頻繁に急襲してくることはないはずなのだから。


 ガイゼンは英雄が死んだ地。そのためか、官憲の数は多くなっている。それでも暴徒の鎮圧は依然として出来ていない。


 ガルフリア殺しについては、まだ犯人は見つかっておらず、調査中らしい。


 英雄の死を聞いた当初、一体どんな人間が彼を殺したのだろうか、という話題で持ちきりだった。あれほどの人間を殺せる人間がいるのか。まさか、魔獣が殺したのだろうか。だが、それでは街中で死体が見つかったのはおかしい。魔獣が街に入れば大騒ぎになっていただろう。


 事件当初、不穏な物音が聞こえた、という証言は幾つもあったらしい。それに官憲達が気絶させられていたことから、人間のように知恵を働かせる存在でなければ不可能だ、という結論に至っている。


 門衛の若者が殺されていたし、彼は矢に刺されて死んでいた。街中に幾つも矢が落ちていたことから、犯人は弓を扱う人間であると断じられている。門衛の彼には妹がいたらしいが、忽然と姿を消したらしい。まさか、彼女も犠牲になったのだろうか。


 ガルフリアは白馬と同じ場所で、門衛の若者と『二人』で死んでいた。それ以外に『死体は見受けられなかった』とのことだった。


 時期を同じくして村を訪れた、あの旅人の顔が浮かんだ。英雄の話を聞きまわっていた、あの男。張り詰めたような顔をし、不器用ながらも話していたあの体格のいい男。


 ――もしかして、彼が?


 村長はかぶりを振った。まさか、いくらなんでも偶々だろう。女連れだったし、それに英雄が一人の人間に殺されるとは思わない。よほどの腕利きでも、盗賊何十人、いや、何百人を相手に戦ってきた英雄が一人に殺されるなんてありえないことだ。


 何を考えている。今更、こんなことを考えても無意味だ。犯人を捕らえても、村の状況が好転するわけではないのだから。


 村長は自分達のことで手一杯で、怪しげな訪問者の情報を誰かに話すことはなかった。故に、レストが被疑者であるということは、雪の国内の誰も気づいてはいない。


 他事に意識を奪われるほどに、疲れているらしい。現実はあまりに厳しく、逃避したくなる気持ちも自覚していた。だが、それでは生きていけない。村長である自分がしっかりしなくてはならない。


 村長は目頭を指で圧し、グッと目を瞑った。


「そう、ですね。逃げるしかない、かもしれません……では、村人達に知らせてきます」

「ええ、おねがいします」


 慌ただしく出て行く男性の背中を見送って、村長はとぼとぼと室内を歩き、荷物をまとめ始めた。その背中は小さく、儚げだった。

 


 ――数十分後。村外を見回っていた、馬乗りの村人達も戻ってきた。彼等が盗賊達の存在を見つけてくれたのだ。全方位を哨戒することは不可能なので、運が良かっただけだった。偶々、ガイゼンから村へ戻る最中に盗賊達の姿を見つけたらしい。


 荷造りを終えた、総勢二十人程度の村人達は広場に集まっていた。


 ほとんどが老人か、ある程度、年齢が高い男性だけだった。子供は二人。全員が不安そうにしながら村長を見ている。そんな顔をされても、もうどうにもできない。村長も必死だった。


「これで全員ですか?」

「いえ、あそこの父子が」

「ああ、あそこの。伝達はしたんですね?」

「はい、父親に言ったのですが……」


 男性は言い淀んでいた。


 何か不都合でもあったのだろうか?


 母親が結晶病に侵され、一時、家族が離反した家族。それぞれの心は離れ、自己中心的な行動ばかりしていたあの家族だ。特に父親の狂乱ぶりは見るに堪えなかったが、母の死後、父は改心し、虐待を受けていた子供は徐々に元気を取り戻していった。


 母を殺したのはガルフリア。それを知っているのは村長と父親だけだった。もちろん、村長は父親が真実を知っていることは知らない。


 村長はふと思い出す。


 最近、少し問題もあった。あの父子が、また家に引きこもっているという報告を受けていたのだ。その変化が訪れたのは、盗賊達が最初に村を襲った次の日からだった。いや、もしかしたら英雄ガルフリアが死んだと噂が流れてから、小さな変化はあったのかもしれない。村長を初めとした村人は日々に追われ、周りに気を割く余裕がなかった。そのため、父子のことも深く考えなかったのだが。


 父親は真面目で息子想い、息子も父親を敬愛し、子供ながらにしっかりしていた。息子は中世的な顔立ちで、少し、母親の面影が窺えた。そんな仲睦まじい親子だった。


「どうかしたのですか?」

「い、いえ、どうも父親の様子がおかしかったような」

「おかしかった?」

「え、ええ、その、何がと言われてもよくわからないのですが」


 どうも要領を得ない。時間がないのに、何をしているのだろうか。


 村長は内心では苛立っていたが、立場上、感情を表に出せない。そんなことをすれば、全員に不信感を抱かれてしまうし、内輪で問題が生じかねない。こんな状況だ。村人の中で不和があってはいけない。協力し合って生き抜かなければならないのだ。


 村長は深呼吸し、感情を抑制すると、冷静な口調で言った。


「……とにかく彼等の家に全員で行きましょう。その方が時間の短縮になる」

「わ、わかりました」


 ぞろぞろと村人達を引き連れて、父子の家へ行った。


 トントン、と玄関の扉を叩いても返答がない。どうせ村を出るのだ、ならば多少強引にしてもいいだろう。早く出立しなくては危険であることは変わりないのだから。


 ドンドン、と扉を叩いた。だが、まだ反応はない。不審に思い、村長は初老の村人と顔を見合わせる。


「いないのですか!? 早くここを出ないと危険です!」


 強めに扉を叩いて叫んだ。するとギィッ、と扉が開いたのだ。施錠はされていなかったようだった。不穏な空気を感じつつも、村長はゆっくりと扉を開けて、中を覗いた。


 光がない。ほぼ真っ暗で室内の様子が見て取れない。玄関から射す日光が何とか入口付近を照らしているだけだった。


 不気味だった。理由はわからないが、これ以上足を踏み入れてはいけない、そんな思いに駆られた。だが、村長は勇気を総動員し中へ入った。


 何か臭う。不快な異臭。その原因を考えたくもない。


 暗闇の中、男性数人と村長が中へ入って行く。他の連中は怖がって動こうとしなかった。村長は近くにある、窓をよくよく観察した。内側から板が打ちつけられている。そのおかげで遮光されているらしい。強固で取り外すには時間がかかりそうだった。しかし奥へと進むには暗すぎる。どうするか、と考えていた時、入口付近にいた村人が言った。


「あ、あのランプを」

「ああ、すみません」


 会話はそれだけだった。誰しもおかしいと思いつつも、言葉にしなかった。異臭のする室内の中、二つのランプを頼りに、村長は居間を探った。人の気配はない。床には物が散乱している。それは『結晶病に侵されていた母親がまだ生きていた時、父親が乱心していた過去と同じような状況』だった。


 まさか、また正気を失ったのか。妻はもう死んだのだ。それを本人も受け入れ、しばらく経っていたはず。なのに、また思い出してしまったのか。では、息子は……。


 村長は本能的に息子の安否を気にした。少し先へ進むと正面に扉が見える。そこは子供部屋だったはずだ。扉を開こうとしたが、硬い感触が返ってくるだけだった。


「壊しましょう」


 中に閉じ込められているかもしれない。そう思い、村長と村人で扉に体当たりした。思いの外、簡単に扉は開いた。子供の姿はない。閉じ込められていたわけではないようで、一先ずは安堵する。


 だが、居間とは違った意味で異常な情景だった。物が散乱してはいない。しかし埃だらけで、長い間、人が住んでいなかったような様相を呈している。これほどの状況、まさか、親子は仲が良いと思っていたが、もしかしたら『父親と暮らし始めた時からこの部屋に息子は戻っていない』のではないか。それほどに、長い時間、放置されていたように見えた。


 村長は、子供部屋を出て、一階の台所へ向かった。扉に仕切られているわけではないので、そのまま進むだけだ。ただ光が届かないので、近くに行かないと様子がわからない。


 臭いの元はここらしく、腐臭が漂っている。床には腐った食料が転がっており、そこに群がる虫達がうじゃうじゃといた。蚊や蠅、足元にはうねる軟体の昆虫達が台所を蹂躙している。足の踏み場がない程に、そこは人間の住んでいる残り香さえなかった。ここにはいないだろう。


 やはり、二階か。


 二階には亡くなった母親の部屋と、確か物置のような部屋がある。あの不気味に、目を開いたまま凝視していた母親の姿が脳裏に浮かぶ。生きているのか、ただの人形なのかと思うほどに、人間的な行動を一切しなかったあの母親の姿が。


 村長はかぶりを振って、階段をゆっくりと昇った。ギシギシと軋む音と荒い呼吸音だけが辺りを漂う。ランプ以外の光源はなく、奥へ進む度に深淵が村長たちを包み、捕まえて離さない。このまま奥へ行けば、もう戻れないのではないか、と錯覚を覚えるほどに、そこは現実とはかけ離れた空間だった。


 二階へ辿り着いた。手前の部屋は物置のはず。ならば奥の部屋。母親の部屋。そこに二人はいるのか。それとも……。


 村長は生唾を飲み込む。いつの間にか、心臓は早鐘を打ち、逃げろと言っているかのようだった。だが、あの父子も村人なのだ。村長として放置するわけにはいかない。怖い。怖いが、逃げてしまえば、自分の尊厳も、これまで培った誇りもなくしてしまう。ならば立ち向かうしかない。


 村長は意を決して扉を開けた。


 息を飲んだ。


 そこは別世界だった。一階と同じように窓は木板で打ちつけられ、外とは遮断されている。光源は部屋に置かれた蝋燭だけ。棚、床、机の上に置かれた蝋燭が放つ光はゆらゆらと揺れている。無数に。足の踏み場は一切なく、どうやって置いたのかもわからなかった。床には何かの紋様が。魔法陣、のようだ。見たことのない文字が羅列されており、その形も村長は知らなかった。線は赤く、まるで血のように鮮やかだった。


 部屋の中央にはベッドがあり、その横に父親は立ち尽くしていた。ぼーっとして、表情は強張っている。時折、きひっ、と奇声じみた笑いを漏らすだけだった。


 もう正気を失っている。狂ってしまっていた。それがいつからだったのか、誰にもわからないことだった。


 言葉を出すことさえ憚られた。こんな異常な光景を、村長も村人も想定はしていなかったのだ。村長は足が震えていることに気づいた。こんなことが現実に起こるとは思わなかった。何が、何が彼をそうまでさせたのか。


 これではまるで、邪教の儀式ではないか。


 見るに、かなり調べつくしたのか、陣の形も、その様相も粗雑には見えなかった。もしかしたら、かなり本格的な様式なのかもしれない。


 村長はあまりの恐怖に腰を抜かし、地面に座り込んだ。


「ひ、ひぃっ!」


 恐怖に抗えず、他の村人はその場から逃げて行った。村長だけを置いて、階下へ降りてしまう。誰も振り返りもしなかった。


「ま、待って、待て、わ、私を置いて行くな!」


 村長は叫んだが、誰も足を止めなかった。一階で悲鳴が昇り、そして――村人達が逃げていく音を聞いた。


 村長は絶望に駆られた。あれほど長として皆を引っ張ってきたのに。誰も助けにも来ず、あっさりと見捨てられたのだ。こんなことがあっていいのか。こんな、ことが。今まで、村のため、村人ために努力し、邁進して来た日々はなんだったのだ。


 憤怒の感情と、著しい恐怖の中、村長の思考は日常から逸脱した。全身が熱を持ち、次の瞬間、青ざめ、そして理性を失いかける。意識を保っていた最後の瞬間、村長はベッドに横たわっているモノを見た。そして思わず悲鳴を上げる。


「ひ、ひっ、ひぃ、っ!」


 痩せじしで、毛布の上に乗せている手は骨ばっている。小枝のような両腕の付け根には、病的に脂肪の削り取られた胴体がある。双眸は村長を見つめている。理性の光はなく、作り物のように微動だにせずに、凝視している。


 息子の姿だった。


 整っている顔は青白く、頬はこけて、髪は肩まで伸びていた。中性的な顔立ちなため、女の子にも見えなくもないが、思春期の成長の兆しが見え、性別の差を浮き彫りにし始めている。服装は女性物。ダボダボで、明らかに大きさはあっていない。


 あれは、母親の衣服か。


 これでは、まるで母親に見立てているようだった。もう死んでいるのに、息子をこんな風に扱っているなんて。凄惨な光景を前に村長は涙を流した。悲しさからではない、あまりの恐ろしさから。


 父親はゆらりと首だけを動かし、村長に瞳を向ける。血管が浮かび上がり、瞳孔は開ききっている。もう、彼に理性は残っていない。すでに狂気に魅入られている。


「あ、ああ、あっ、あ」


 村長は床を這いずる。部屋から出ようと必死だった。腰が抜けて、それくらいしかできなかったのだ。だが、父親に踏みつけられ、動けなくなった。彼の手には刃物が握られている。そして村長はようやく気づいた。父親の足元は血濡れで、ベッドの影には死体が何体か倒れていたことに。


 ああ、そうか。


 この男は。


 最初から狂っていたのだ。


「最後の、生贄が来たよ。――――――。これで、また一緒にいられるから。きひっ」


 四白眼を村長に向けた父親は、凶刃を振るった。


 村長は死の瞬間、走馬灯を見た。


 これは罰なのだろう。きっと、父子を助けなかった、助けようともしなかった己への罰なのだ。英雄の存在が彼等を一時的に救ったように見えて、彼が抑止力になっていただけだった。彼がいなくなれば、すべては瓦解する。そう、国内の状況と同じように。


 背中に何度も何度も激痛が走る。余りの痛さに慟哭したが、やがて痛みはなくなり、代わりに睡魔が襲ってきた。


 ……死ぬ。


 死んでしまう。


 イヤだ!


 まだやりたいことは沢山あるのに。


 死にたくない。


 死にたくない。


 死に、たく、ない。



 死に……た、く……。



 涙を流し、だらりと舌を垂らして、赤い唾液を床に漏らす。


 断続的に痙攣していた村長だったが、やがて動かなくなった。そんな村長を見下ろし、父親は嬉しそうに血を舌なめずりした。


 そして大量の血液を丁寧に容器に入れると、綺麗に拭き取った。絵の具のように赤い液体を指先に塗り、地面に滑らせた。


「できたぁ」


 血で陣を描き終えると、満足そうに頷く。


 そして。


「やっと君の下へ行けるよ……」


 その言葉を最後に、己の心臓にナイフを突き立てた。


 これで、すべては完成した。


 これで、永遠に一緒だ。


 二人で。一緒に。ずっと共に。


 死は二人を別つ。だが死して共に生きるためには、共に逝かなければならない。きっと、君ならそこにいるだろう。一緒に堕ちよう。涅槃へ。


 破滅的な願望の下、父親は自殺した。だが、彼の表情には後悔の念など一縷もなかった。


 息子を妻と見立て、物のように扱った父親は、最後まで子を愛することはなかった。


 息子はすでに死んでいた。父親の好きなように扱われ、殺された。


 父親が息を引き取ると、その部屋では誰も動かなくなった。


 誰も。

 誰も。

 誰も……。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ