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閉幕と開幕

 ――レストはその場から跳躍した。ルスカに向けて。


「え?」


 ルスカは何かに気づいて、後方に振り返った。その瞬間、レストはルスカの身体を抱えて、地面に転がる。


 間一髪だった。満身創痍の状態で、これほどの動きができたのは奇跡的だった。横薙ぎの一刀がルスカの首を狙っていたが、それは何にも触れなかった。


 レストに抱きしめられたまま、ルスカは身動きがとれない。自らを覆い尽くされたまま、身体は硬直していた。


 レストは起き上がり、姿勢を正した。


 その正面には――ガルフリアが立っていた。


 一人。


 剣と盾を携えたガルフリアが、赫怒の形相でレストを睨んでいた。


 目は血走り、歯を食いしばり過ぎてギギッと不気味な音が鳴っている。こめかみには血管が浮かび、頬はひくひくと動いている。


 よくよく見ると、細路地の影にリオンが横たわっている。血は出ていないようだが、意識は失っているようだった。このガルフリアがやったらしい。


「こ、殺してやる、殺して、殺してやる、てめぇ、殺してやる……」


 ぶつぶつと呟いている。その異常な行動にルスカもレストも身動きがとれない。蛇に睨まれた蛙の心境がよくわかった。レストは二度に渡る召喚と、不眠不休の移動と戦いで、もう動くことさえ厳しい。気を抜けば意識を失うほどに。思考にも体力を使う。考え過ぎれば頭が働かなくなり、やがて集中力を失う。限界間際だった。


 ルスカも同じように体力は限界。戦う力もないし、その気力もない。だが、レストよりはまだ余力があるだろう。


 ゆらっと左右に揺れながらガルフリアがレストに近づく。生きていた。一人だけ。その理由がよくわからない。もう考える力も残っていない。


 視界が揺らぎ、身体の感覚も鈍い。視界も不明瞭で、目の前の情景が現実なのかどうかもわからなかった。だが、腕に触れた何かがレストの意識を現実に戻してしまう。それはルスカの手だった。縋るように触れたルスカの手に、レストは僅かばかりに自我を取り戻す。


 残っている矢は二本。ここで魔弓を召喚すれば、恐らくレストは死ぬ。体力が枯渇している状態で、あんな力を使えばもう耐えきれない。ならばこの残った矢で倒すしかない。死を覚悟しても、死が確実ならば回避しなくてはいけない。この英雄を殺すことだけが目的なわけではないのだから。


「ま、まさか、ここまで、俺を追い詰めるなんて、お、思わなかったぜ……く、くくく、くくっ、くくっ! ……ランスを、殺しやがった……てめぇは、楽には殺さねぇ……俺の相棒を……よくも……」


 少しでも時間を稼がなくては。そう思ったレストは不意に口を開いた。


「……白馬は、本体じゃなかったのか」

「いいや、本体だ。『半分は』な」


 半分? そうか。鏡とは、そういう意味もあったのか。つまり、愛馬と己、命を別つという意味の。半分の命、だから『ガルフリアの分身が死んだ』のか。ならば、白馬は分身の本体だったということ。しかしガルフリア自身、元となったガルフリアの命は残っている、ということ。別々の存在だったということだ。


「俺の力は『分裂』だ。だから俺の魂と俺の能力をランスに渡した。俺が死んでもランスが生きていれば俺の半分は生きられる。逆も同じだ。くくっ、まさかここまで真相に近づく奴がいるとは思わなかったぜ。だがそれもようやく終わりだ。ここまで手を煩わせやがって……!」


 ガルフリアは白銀の剣をグッと握った。蒼い月明りを照らす盾を横に向けたまま、剣を頭上へ振りかぶった。


 レストは瞬時に矢を構える。だが、近接状態においての剣と弓矢では、どちらが有利かは一目瞭然。レストが矢を引く前に白銀は煌めく。だがその軌道は今までのガルフリアと違いかなりお粗末なものだった。そのおかげで、レストは後方へ飛び退き、一撃を回避することができた。


「クソが……!」


 舌打ちをしながらも、ガルフリアは尚もレストに迫る。


 レストは二度三度と後方へ跳躍するが、身体が思うように動かず、距離を離せない。


「死ね! 死ね! 死ね!」


 怨嗟を隠しもせず、叫びながらガルフリアは剣を振るった。不恰好な所作で、特に盾を使うつもりもないのが、滑稽さを浮き彫りにしている。これではルスカと同じくらいの腕前だ。ガルフリアもかなり疲れているだろうが、それでも、かなりお粗末だった。。


「やめて!」


 レストに比べるとまだ気力が残っているルスカが間に入った。ガルフリアの一撃を剣で受け止め、鍔迫り合いをしている。


「そこをどけっ!」

「ど、どかない!」


 剣技はお粗末だが、膂力は健在なのか、ガルフリアは力任せに剣を押し付けた。


 弾かれたルスカは僅かに後方へ下がったが、剣を構えて次の攻撃に備えた。初戦、その上、相手は英雄。なのに、一歩も引かない。技術的には相手の方が上だ。しかし、ルスカは類まれな動体視力と身体能力で対抗している。押されてはいるが、少しの時間ならば耐えられるかもしれない。


 レストはルスカの後方で、矢を番えてガルフリアを狙う。心臓か、それとも足を狙うか。視界が歪む。手も足も震えて照準が定まらない。もう限界が近い。


 ルスカの背中が間に入って、ガルフリアを狙えない。これではルスカに当たってしまう。落ち着け。平静を取り戻せ。


「オラアアアァッ!」

「きゃっ!」


 ガルフリアの気合い一閃。強引な袈裟斬りでルスカは弾き飛ばされた。その瞬間、ガルフリアの全身が視界に入る。集中力の残滓。そのおかげで、突如として情景が、すべての物質がゆっくりと動き始める。


 レストは冷静にガルフリアを見据えた。

 そして、矢を放つ。


 綺麗な直線を描き、矢は走った。ガルフリアの心臓へ向けて。


 会心の射撃だった。力が入っているのか、まともに状況を理解出来てもいなかった。だが、たゆまぬ鍛練から生まれた一矢は、今までにない程の速度を生み出した。あり得ないことだった。それは非現実的なことだった。


 レストの放った一矢を、ガルフリアは回避するために身体を捻る。それはレストが矢を射てからの行動だった。当然、完全には避けきれず、だが脇腹の、浅い部分に矢を受けた。それが岐路だった。


 レストはガルフリアの身体が横に移動した時、ようやく気づいたのだ。


 ガルフリアの後方に、シャールが立っていた。怯えた表情だったが、こちらへ、いやルスカの下へ走り寄ろうとしているところだった。


 矢の軌道は、シャールに向かっている。


 これからどうなるか、レストは瞬間的に理解した。


 だがもう遅い。レスト自身にもどうにもできない。 


 やがて。


 放たれた矢は――『ゼノの背中に突き刺さった』


 路地裏から飛び出たゼノは、シャールに飛びかかった。不幸にも間に合わず、シャールを庇ったゼノに、矢が当たってしまった。


「え? な、何が」


 シャールは状況を理解していない。おろおろとして、自分に覆いかぶさっている兄の姿に気づいた。


「お兄ちゃん?」

「シャ……ル……」

「お兄ちゃん? お、お兄ちゃん!?」

「ガフッ……が……ぶ、無事……か……」

「私のことより、お兄ちゃんが!」


 シャールはゼノを揺さぶった。だが、ゼノは反応せず、呻くように何か言ったと思ったら、動かなくなった。


「お、お兄ちゃん……お兄……うそ……これ、何……? な、なんなの……?」


 呆然自失としているシャールは、ゼノを抱きしめ、震え続けている。

 レストは二人の様子を一瞥したが、すぐにガルフリアに向き直った。どうやらガルフリア自身も想定していなかった事態のようで、ほんの僅かだけ気にしている素振りを見せたが、すぐに興味なさ気にレストに向き直った。


「無実の市民を巻き込んだ心境は?」

「……何もない」


 それは事実だった。レストの心は穏やかなままだった。それは覚悟の証。罪悪感を抱いてしまっては何もできない。謝辞は必要ない。今、すべきことはそんなことではないからだ。


「人でなしだな、てめぇは」


 レストはガルフリアの挑発には答えない。ただ、一点。ガルフリアの心臓を見据えた。


「心臓はここだぜ?」


 ガルフリアは、トントンと自分の胸を指差した。その余裕ある態度を前にしても、レストは動揺しない。何があっても、冷静さを保っていた。


 後方でルスカが小さく呻いている。何が起こったのか、遠目にでも理解したようだった。だが走り寄る様子はない。感情的になり、ガルフリアを無視するようなことはなかった。ルスカも覚悟を決めている。この状況は想定していなくとも、誰かを巻き込む可能性は考えていたのだから。


 矢は最後の一本。外せば、ナイフしか残っていない。ナイフを振る体力は残っていないし、ルスカではガルフリアに勝てない。終わりだ。


 レストは再び弓を構えた。だが、ガルフリアの態度は変わらない。余裕のある態度。

 まるで『自分は死なない』と思っているかのように。


 その態度が気になった。その瞬間、レストはずっと引っかかっていたことを思い出した。


 目の前にいるのはガルフリア。剣と盾を持っている。槍ではない。なぜか剣と盾。わざわざ剣を扱っている理由は? 分身が多い場合ならば、狭い場所で有利にするため、と考えられなくもなかった。だが、本体であるガルフリアがなぜ槍を扱っていないのか。


 それは。

 剣である必要があったから。

 剣を扱う必要があったから。

 剣を扱う、剣でなければならない理由。


 レストは呼吸を止め。


 矢を番えて。


 『ガルフリアの盾に向けて矢を放った』


「あ?」


 キンッ、と高い調子の音が響いた。


 静寂。


 盾は硬い金属ではなかったようで、矢の先端が綺麗に突き刺さっていた。


「ああ?」


 ガルフリアは盾を見下ろし、そして。


「ああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 叫んだ。


 同時に、目や鼻、口から血を噴き出した。


 血濡れの身体のまま、空を見上げた後。


 緩慢に地面に膝をついて、そして正面に倒れた。


 びくびくと痙攣したまま、横を向いている。


 レストはゆっくりとガルフリアに近づく。


 ガルフリアは濁った双眸を地面に向けて、唇を震わせていた。


「あ、あ、あ……お、俺が……死ぬ……死ぬ……」


 もうガルフリアの目には誰も映ってはいない。ひたすらにぶつぶつと何かを呟き続けていた。


「騎士道、その百二……騎士とは……人馬一体の理。馬と共に……生きるべし……。騎、士道その、八十九……騎士とは……嘘を吐いては……ならぬもの、なり……騎士道その百八十一、騎士、とは……『盾を持って』はならぬ……両の手は、戦うために、あるもの……なり……騎士道……その……騎士、とは……騎、士……とは」


 ガルフリアは喉を鳴らし、笑った。


「騎士、道って……なんだ、よ……」


 その一言を最後に、息を引き取った。目を見開いたまま、そのままに、ガルフリアは動かなくなったのだ。


 その瞬間、集魂の首飾りが不気味に光った。紫色の光を生み出し。周囲を照らす。ただの石だった首飾りの装飾は、美しく光る宝石へと変貌した。


 これで、英雄の魂を奪えたのだろうか。


 英雄を殺せた。殺したのだ。


 だが、達成感はなく、ひたすらに身体が重かった。


 ガルフリアの本体、その魂は『盾』に宿っていた。盾に宿っていたが故に、ガルフリアは剣を扱わずを得なかったのだ。盾だけ持っていれば目立つ。だから剣を持っていた。槍の名手であるのに、剣を扱っていた理由はそういうことだった。


 剣だけならば扱いには長けている。だが『盾を持っての戦いには慣れていない』のではないか。騎士道の家訓を加味すれば盾を持つことさえ許されていない。だからこそ盾を持っての鍛練はできなかった、ということなのだろうか。だから盾を持っていたガルフリアの動きは拙かったのではないか。


 思えば、最初に殺したガルフリアも盾を持っていた。それはただの偶然だったが、恐らくはガルフリアにとって最大の不幸でもあった。


 ガルフリアは盾を一つしか扱っていなかったのだろう。そしてその盾には己の命の半分が入っていた。恐らく、最初に殺されたガルフリアが盾を持っていたので、ガルフリアは敢えて、森の中で再び対峙した時、盾を装備した状態でレストの前に現れた。


 それはつまり、盾を装備しているということを当たり前だと思わせるためだった。白馬と同じように。いや、もしかしたら『白馬と同じようにすることで、馬を隠しみのにした』のかもしれない。この部分も、二段階の謀略だったのだ。


 もし、最初のガルフリア以外が盾を持たなければ、盾を持っているという部分が際立ってしまう。ガルフリアは相当数いるので、すべてのガルフリアに注意を払えない。だから、二度も実例があれば気にならなかったかもしれない。


 だが、その行動が余計に違和感を与えてしまった。


 あの時、盾を持ったガルフリアやその周辺、別のガルフリアの行動には違和感が僅かにだがあった。剣持ちと槍持ちのガルフリアが、剣と盾持ちのガルフリアが死んだ時に、その姿を見つめていたのだ。顔は見えなかったし、その直後に、別のガルフリア達が現れたから『援軍が到着したから反応した』のかと思った。だがそれは違ったのだ。恐らくは、あの時、剣持ちと槍持ちのガルフリアの表情は恐怖に染まっていたはずだ。なんせ、魂の半分を注いだ盾に、矢が刺さったかもしれないと思ったのだから。


 もしも、その出来事がなければ、レストも気が付かなかったのかもしれない。あるいは、複数の白馬を用意すれば、もう片方の命も奪えなかっただろう。だが、ガルフリアにとってそれは騎士道に反するに違いない。人馬一体でありながら、複数の馬と共に生きることはできなかったのだと、レストは思った。


 そしてこれも推測だが、白馬であるランスが分身を生み出す能力を分け与えられていたのならば、残りの半分の能力は、他の分身を操るような能力だったのではないだろうか。そしてその範囲はそう広くはない。故に、彼は危険だと言うのに、この場にいた。だから半分の命である盾を持っていたのではないか。


 雪の国内中を巡回する経路やその範囲、分身の数、状況などを考慮すれば、間違った結論だとは思えなかった。


 だが、他にも疑問はあった。


 ガルフリアの能力は分裂。自身の能力なのに、どうして自身の魂を盾に宿らせたのだろうか。なぜわざわざ盾に。もっと別のものにすればよかったのに。それとも、何か理由があったのだろうか。盾に宿らせた別の理由が。


 もしかしたら先程の最後の言葉。『盾を持ってはならぬ』という家訓に、その想いが込められているのかもしれない。


 ガルフリアは騎士道に拘り、騎士道に縛られて生きてきた。


 そういう生き方しかできなかったが、同時に、そういう生き方を忌避していた部分もあったのではないか。心の奥底にそういう反発心があったからこそ『家訓に逆らうような行動をとった』のではないか。その本音は最後の最後に溢れだしていた。


 家訓に逆らわずを得ないような状況に自分を追い込んだのではないか。盾に己の命を吹き込めば、必然的に持ち運ぶしかない。盾を装備しない状態が続けば、どうしても違和感が出る。だから『仕方なく装備している』という風を装ったのではないか。


 そうすることで、自身の中で言い訳をしていたのではないか。


 例え、それが荒唐無稽で意味がなくとも。その矛盾が彼自身を支えていたのではないか。その反発心があり、言い訳を並べ、それでも『盾や馬を複数持つことは憚られた』のではないか。矛盾だらけで推測の域を出ない。真実はわからない


 今更、知ろうとしても、もう知る方法はない。本人はもう死んでしまったのだから。


「レスト!」


 ルスカはレストに走り寄って来た。レストの肩を支えると、顔を見上げる。


「た、倒せた、の?」

「みたいだ」

「そ、そう。終わったんだね」

「一人目は、な」


 これで、これほどのことを終えて、ようやく一人目。

 身体はボロボロで、言うことを聞かない。それでも一人は殺せたのだ。進んだのは一歩だけ。だが確実に進んだのだ。


 ルスカは視線を動かした。その先にはシャールが呆然としたまま座り込んでいる。ゼノを抱きしめたまま、現実を受け入れられずにいる。瞳には光がなく、じっとゼノを凝視していた。


 レストはリオンの近くに移動した。


 触れると心音が伝わる。呼吸もしっかりしている。外傷はない。ただ地面に叩きつけられたか、蹴られたかしたのだろう。無事らしいことがわかり、レストは小さく安堵の息を吐いた。


「よくやった」


 レストはリオンを軽く撫でてやると、視線をルスカに移した。


 ルスカはシャールの下に移動していた。


「お兄ちゃん……ねえ、お兄ちゃん……?」


 シャールは病的に呟き続ける。


 その様子にルスカは思わず声をかけた。


「シャール……」


 するとシャールはルスカを見上げる。三白眼がギョロっと動いたのだ。その常軌を逸した表情を見れば、シャールの精神状態が窺えた。実の兄を失ったのだ。冷静でいられるはずがなかった。


「ねぇ、ルスカちゃん、どうしてですか? どうして、お兄ちゃんが死んじゃったんですか? お兄ちゃん、そんなひどいことしたんですか?」

「そ、それは」

「不真面目なところもあったけど、とても優しい兄だったのに。どうして、死んじゃったのですか? どうして?」


 シャールはうわ言のように、ただただ疑問を口にした。


「これ、この刺さってるの、これ、そっちの男の矢なのですね?」


 シャールは生気のない顔をレストに向けた。


 レストは無言でその視線を受ける。


「そうですね? 殺したのはそこの、そいつ、そこの……おまえ、おまえぇ、おまえええええええぇっ! おまえがああああぁぁ! お兄ちゃんを殺したんだ! おまえが、おまえが!」


 シャールは少しずつ語気を荒げる。言い終えると、はあはあと呼吸をして、ゼノをゆっくりと横たわらせる。不意にふらふらと歩き出し、地面に落ちていた、ガルフリアの剣を拾った。


 ゆっくり振り向いたシャールの顔は、もうルスカの知っているシャールではなかった。狂気に魅入られた復讐心の塊。その視線の先にはレストがいる。


「キィィィィアアアアァァァア!」


 奇声と共に、シャールが迫ってきた。


 素人の行動。だがその常軌を逸した見目に、ルスカは小さく悲鳴を漏らした。


 レストはリオンから離れ、半月の剣閃を避けた後、シャールの後頭部を軽く殴った。すると、一瞬にして意識を失い、シャールはくずおれた。


 あまりに呆気ない。そして無感情な対応だった。


 レストはそっと、シャールを抱え、そして地面に寝かせた。

 それだけで、レストはシャールに何もしなかった。


 謝辞も、罪悪感もない。ただ、じっとシャールを見下ろし、そして視線を逸らした。


 なぜだ。なぜ殺さなかった。彼女は、シャールは間違いなく自身の顔を見ている。指名手配されるかもしれないのに。英雄を殺した存在だと知られてしまうかもしれないのに。そうなれば、これから行動しづらくなる。他の英雄を殺せなくなるかもしれない。


 だがレストはシャールを殺さなかった。殺せなかった。


「……生きてる、よね?」

「気絶しているだけだ」

「そ、か……」


 ルスカは何か言おうとしたが、言葉が浮かばなかったらしく、閉口した。


 レストも同じように何も言わなかった。言い訳をする気も、その必要もない。もう起きたことなのだ。ならばもう、どうしようとなくなりはしない。


「行くぞ」

「……うん」


 ルスカがリオンを抱えた。


 レストは自分の身体を動かすことだけが精一杯だったが、ガイゼンに留まることはできない。これだけのことをしたのだ。朝になれば大騒ぎになる。英雄が死んだとなれば、官憲達が本格的に動く。犯人を捜すだろう。そうなれば街から出ることも難しくなる。


 それよりも、シャールはレスト達の存在を記憶している。レスト達が何をしたのかを理解している。シャールがその気になれば、官憲達にレスト達のことを話し、国内、いや全世界でレスト達の首に賞金がかけられるかもしれない。なんせ世界を救った英雄の一人を殺したのだから。


 だが、彼女を殺す気にはならなかった。彼女が目を覚まして何をするにしても、周りにレスト達のことを話したとしても、それでも殺す気にはならなかった。 


 実の兄を殺され、更に自分も殺されるなんてあまりに残酷だからだろうか。いや、もしかしたら生きることの方が残酷なのかもしれない。それは誰にもわからないことだった。


 そしてレストもなぜ殺せなかったのか、己の本心までは理解出来なかった。


 闇夜の中、死体が転がっている。


 一人目の英雄。鏡の英雄、ガルフリアを殺したのだ。


 だというのに。


 目的に近づいたというのに。


 レストの心には深い影が覆っているだけだった。

 

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