決断の末
走り続けた。後方から聞こえた獣の声は次第に聞こえなくなったが、レストは足を止めることはなかった。それはルスカも同様で、必死に足を動かしていた。
気配は消えている。ガルフリアは追ってきてはいないはずだ、とレストは理解していたが、止まることはできなかったのだ。
――あれは一体、何だったのだ。
遠くにいたガルフリアを射た後、すぐ後方にガルフリアが現れた。やはり、そうなのだ。奴は一人ではない。複数いる。ガルフリアという人間が、何人も存在している。それがどういう原理で行われているのかまではわからない。だが確実に、ガルフリアが一人ではないということがわかった。
レストは速力を維持したまま、後方を振り返った。
すでに走り始めてかなりの時間が経っている。気配はない。追ってきてもいない。それでも止まれないのは、あまりに非現実的で空恐ろしい光景に魅入られているからだ。英雄は世界を救った存在。それほど強大な存在を殺そうとしている、その実感に濃く感じられていた。
逃げなければ、殺される。
奴は殺した。これまで二体のガルフリアを殺したはずだ。そして、最後、森の中に突如として現れたガルフリアにも毒矢を射た。そのおかげか、追ってきていない。つまり、奴には毒が効くということだ。だがそれが何だというのか。何度殺しても、また現れる。奴を殺さなければ、英雄の魂は得られない。それでは意味がないのだ。
実際、集魂の首飾りには変化が一切なかった。つまり、英雄の魂は依然として吸収できていないということだろう。
英雄を殺さなければならない。ガルフリアを何度も殺したが、それでは正しく殺したということにはならないということはわかった。ならばどうすればいいのだろうか。そんな疑問が延々と脳内を巡る。
しかし、レストの思考は偏向的になっていた。ガイゼンに戻ろうという意思へと。あの化け物と真っ向から対峙しても勝ち目はないのではないか、そう思ってしまったからだ。殺しても死なない。殺したはずなのに、別のガルフリアがまた現れるのだ。分身、なのか。そんな考えは荒唐無稽だと心の奥底では思っていたが、やはりその線が濃厚だと思い始めていた。
問題は、どうすれば殺せるのか、だ。
何も情報がない状態で、戦いを挑むのは無謀に他ならない。ならばやはり、現時点で最も必要なものは時間だ。奴の弱点を探る時間。だが、ガルフリアから逃れ、思考を巡らせても、答えに行き着くのかという疑問が鎌首をもたげる。
疑問、否定、肯定、疑問。答えに行き着かないまま螺旋は頭上へと延び続ける。肉体だけが前に進んでいた。
「はあはあ、はっ、はっ……んっ、くっ……!」
レストは振り返り、弾む吐息を聞いた。
ルスカが苦悶の顔のまま、必死でレストの後ろを走っている。リオンはルスカと並走しているが、時折、ルスカを気にしている様子だった。彼女はレストやノアにしかなつかないが、一応はルスカを仲間だとは思っているようだった。
これまでよく頑張った方だろう。奴隷となってから、鍛練を続けた効果が出ているとは思うが、それでは圧倒的に足りない。すでに速度は遅くなり始めているし、ルスカの足は痙攣しているようだった。間もなく、脚は石のように硬くなり、地面に張り付いて動けなくなるだろう。ガルフリアは追ってきていない。『レストが見たガルフリア達』は、だ。
奴はどこから来るのか、いつ出没するのか、どんな存在なのか、まだ判明していない。だから気配がなくなろうと、距離をとるために走り続けているのだ。神出鬼没な英雄に対して、警戒心を強くしている表れであるが、無為に思えなくもない。
ここからガイゼンまで徒歩で一週間程度。だが、走れば二、三日で着く。徹夜で走り通すなんてことは危険極まりないが、レストであればできなくはない。相当な体力、精神力、経験が必要だが。それはルスカには備わっていないし、もうすでに心は折れかけているだろう。
休むしかない。だが、本当に大丈夫なのか。
奴が後方に現れた時、レストは気配に気づけなかった。視界にいたガルフリアに集中していた、という理由もあるだろうが、あそこまで接近されて気づかないはずがない。気配を察知し、気配を消すという能力は、狩りにおいて必要不可欠なものだ。それがあの瞬間だけ失われていたとは考えにくい。
つまり、ガルフリアはレストの察知能力を超えて、気配を消すことが可能な人物、という可能性が高い。英雄なのだ。それくらいの能力があってもおかしくはない。
かなり走った、気配はしない、もう大丈夫、そう思って休憩をすれば、奇襲を仕掛けられるかもしれない。真っ向から戦って勝てるとは限らないし、さっきのような幸運は何度も起きるものでもない。
ルスカを見ると、顔色が悪くなっていた。もうすぐ限界が訪れるだろう。
空を見ると、橙色に染まり始めていた。もうすぐ日が沈むだろう。
休息をとるか、あるいは……ルスカを置いて行くか。
さすがにレストもルスカを抱えて走り続けることは難しい。荷物とは違って、人間は動くし、体重そのものとは違った重さがある。負担も大きく、体力を削られる。逃げるために体力を消費し過ぎていざとなった時、疲労し過ぎていて何もできないのでは意味がない。
もうすぐ夜になる。狩人のレストにとっては夜は恐れるものではない。
だが、ルスカは。
レストは走りながらも迷った。その時、突然、後方で大きな音が響いた。
「あぐ……はっ、はっ、はあ、はあ……んっ……はあはあっ」
振り返ると、ルスカが転倒したらしかった。どこか怪我をした様子はないが、起き上がる気配もない。いや、動こうとしているが、身体が言うことを聞かないようだった。全身は痙攣しており、横たわったままだ。体力の限界、ということらしい。
よくやった、頑張った。そんな思いはレストにはない。そんな言葉には意味がないからだ。経緯は関係ない。結果を出さなければ意味はない。ルスカが足手まといであることは明々白々であった。
一度、森の中で、思わずルスカを抱えて逃げた。助けた。それはまだ役に立っていないから、もったいないからという思いからだと、レストは考えていた。だが、今度はどうする。ガルフリアから距離をとれたのだから休息するか、それともやはり警戒したまま、少しでも進むべきなのか。そうすれば、ルスカは置いて行くしかない。
レストが逡巡している中、ルスカは緩慢に顔を上げ、顔を顰めながら言った。
「ご、ごめん、なさい……あ、あたしは、置いて、行って」
声音も瞳も身体も震え、叱られた子供のように怯えていた。
レストはルスカの姿を見て、心情を理解してしまう。
彼女は、己を道具だと言った。物なのだと。物は価値がなければ意味がない。使われなければ捨てられる。便利だ、必要だ、そういう意味があってこそ、道具の存在価値は生まれる。だが、今のルスカにはその価値すらない。奴隷の役割を全うできず、ただレストの足を引っ張っている。
ルスカの目には諦めの色が浮かんでいた。そこにはレストに対する疑問や非難は一縷もなかった。なぜ走り続けるのかも、休息をしない理由も、自分へどういう考えを抱いているのかも、聞こうとすらせず、針のむしろになっていると錯覚している。
足手まといだと自覚しているからこそ、すぐに己を捨てろという言葉を吐いたのだ。
奴隷なのだから、そうされて当たり前で、無価値ならば置いて行けと、そう言っている。
当然だ。奴隷はそういう存在なのだ。レストはルスカを物とは思わないが、利用するつもりだ。だからルスカの言葉には賛同すべき立ち位置のはずだった。
だが、レストはどうしてか、その言葉が気に食わなかった。
「休むぞ」
気づけば、そんな言葉を吐いていた。林道で止まっていた面々の中、レストは周囲を見回した。道から外れた場所に、開けた空間があることに気づいた。ルスカの反応を見ず、勝手に抱えて、その広場に向かった。
「ま……って……どうして、あ、あたしは、足手まとい……」
「ガルフリアと距離はとれた。一先ずは問題ないはずだ」
嘘だ。そう思いながらも足を止めなかったのは、まだ危険だと思っていたからだ。言葉に出すと、空々しく、言い訳がましく聞こえた。だが完全な虚言でもない。実際、常識的に考えれば、もう追ってはこない、という帰結に至るだろう。鏡の英雄は、どこに現れるかわからないが、村から移動してきたところを見ているし、どこにでも現れるというわけではなさそうだった。
瞬間的に距離を詰められるのならば、すでに追いつかれているはずだ。だが、まだ無事だ。ならば今は、安全だという考えはあながち間違ってもいないかもしれない。レストはそう自分に言い聞かせた。
ルスカの縋るような視線を受けつつも、レストは目を合わせない。そのままルスカを運び、広場へと降ろす。次いで野営の準備に取り掛かった。
ルスカの荷物はレストが持ったままなので、肩から鞄を降ろしてそのまま作業に入る。ルスカは必死の形相で上半身を起こして整った唇を震わせた。
「あ、たし、が」
「寝ていろ。気遣っているわけではない。できないのに、させると手間が増えるからだ」
端的に、完全に拒絶したレストに対し、ルスカはどうしていいかわからないという顔をした。目を泳がせ、何か言おうとしたり、口をつぐんだりを繰り返す。だが、作業をテキパキと続けるレストを見て、ルスカは何もしようがなく、地面に横たわった。
火は起こせない。だが干し肉のような保存食量はいくらかあるので問題はない。光源なしで森の中で過ごすことは危険ではあるが、仕方がない。魔獣に襲われるより、英雄に襲われる方が何倍も危険だ。神経を張り詰めれば、ある程度の気配は感じられる。一先ず、脚を休めれば、ルスカも多少は体力が回復するはずだ。レストは余力があるが、それでも休憩した方がいいのは間違いない。
燻製肉と水をルスカに渡し、リオンにも与える。自分も咀嚼し、さっさと胃袋を満たした。すると沈黙が訪れ、張り詰めた空気が漂い始める。何か話すつもりもなく、レストはひたすらに周囲に注意を払った。
「どうして……置いて、行ってくれればよかったのに」
泣きそうな顔をレストに向けているルスカ。
レストはルスカを一瞥した後、すぐに視線を逸らした。気まずさからではない。興味を持たなかったからだ。
「それで?」
「……え?」
まさか聞き返されるとは思っていなかったのか、ルスカは曖昧な返答しかできない。
「奴隷としての使命を、義務を全うできたと、奴隷としての価値はあったのだと、そう思いたいのか? そんな最後を、人生を、意味があったと思い込みたいのか?」
レストの言葉を受け、ルスカは狼狽していた。唇をわなわなろ震わせて、顔をしかめた。ほんの少し顔が赤いのは、図星だったからだろうか。
「あ、あたしは、ただ、レストの足手まといになるくらいなら、捨てられた方が……いいって。奴隷だから、道具だから……価値がないなら、邪魔なら捨てるのが当たり前だから」
「建前だな。おまえはただ、自分の価値がなくなるのが怖かった。奴隷として存在価値を見出せなくなるのが怖かっただけだ。主人の足手まといになり、なにもできない自分を恥じて、奴隷としても役に立たない、そんな状況に我慢できなかっただけだ。逃げたかったのだろう? だから死ぬなんて簡単に言う。囮になって、主人のために死ねば、奴隷としての価値はある、そう思ったんだろう。違うか?」
「そ、それは……」
レストが言葉を紡ぐにつれ、ルスカの視線は地面へと向かう。やがて閉口してしまった。
「おまえは自分で選んだ。私の奴隷になることを選んだ。だが、それは私のために、無駄な死を遂げるということではないだろう。おまえは、おまえ自身に価値を見出したかったのではないか? だから自ら奴隷としての道を定めた。こんなところで、足手まといになったからと捨てられる結末をおまえは望んでいるのか?」
「そんなこと! あ、あるわけ……ない」
「だったら、逃げるな。できないからといって諦めて逃げるくらいなら、最初から流されるままに生きていればよかったんだ。何も思わず、現状を嘆くだけで、ただその場で膝を抱えて座り込んでいればよかった。だがおまえはそれを良しとしなかったんだろう。ならば、どれだけみじめでも、生き長らえて、苦難を乗り越えて力を身につけろ。死を選ぶ時は今じゃない。私の目的を達成するために命を捨てろ。安易に生を手放すな。必死で生き、必死で努力し、そして必要な時、そうすべき時に私のために死ね。おまえはその覚悟を持ち、私の傍にいるんだろう?」
ルスカははっとした顔をして、じっとレストを見つめた。その瞳は揺れ、やがて濡れた。眉を傾け、手を震わせた。
レストは慰めの言葉を吐かない。冷たく、ただ淡々と言葉を紡ぐだけだった。それでも、ルスカの胸に、何かしらの想いが去来したことは間違いなかった。偽りの優しい言葉よりも、真なる辛辣な言葉の方が人を助けることもある。
「すぐに休め。今後のため、私のため、そしておまえ自身のためにもな」
「………………うん」
ルスカは殊勝な態度で、緩慢に横たわった。レストに背中を向けたが、肩が震えており、彼女がどんな感情を抱いたのか、レストは気づいていた。
だが、何も言わない。一方的に、考えを押し付けた自分を僅かに恥じただけだ。建前だったのは己の言葉だ。本当は捨てるかどうか、考えていたのに。捨てられなかった。足手まといなのに、見捨てるということができなかった。
ルスカに情を持ったわけじゃない。娘と重ね合わせたわけでもない。
ただ感情が浮かんだ。
なんと憐れな娘なのか、と思ってしまった。
他人はどうでもいい。そう思っていたはずなのに、実際そうだった。ルスカ以外にはそんな感情は抱かなかったはずだ。だが、抱いてしまった。それは……あまりに無防備に近づいてきたからだろうか。それとも、奴隷という存在に初めて触れ、その強烈な印象に頑なな心が揺れたのだろうか。その理由はレストにはわからなかった。
レストは沈黙を守った。耳を澄まし、肌の感覚に意識を研ぎ澄ませた。少しの変化も見逃さず、地面の一点を見つめ続ける。心の波を穏やかにさせるためにもそうすることしかできなかった。




