狂気と狂喜と
地を駆け、レスト達は村から離れた。村周辺の平原を抜け、森まで足をのばす。走りっぱなしだったため、ルスカは息を荒げていたが、レストは慣れたもので軽く息を弾ませただけだった。
一先ず、人目から逃れることはできる。木々の生い茂った空間で、レストは周辺を警戒しつつ、足を止めた。ルスカは息を整えるため、膝に手を乗せて、半身を折った。
「も、もう、何が、はあはあ、な、何だかわからないんだけど!」
「私もだ」
村の方向には街道がある。平原上の道は比較的舗装されており、見通しが良すぎる。樹林に入ると、徐々に獣道じみてくる。そこまで来れば人はあまり行き交うことはない。
「とにかくもう少し移動する。走るぞ」
「え、えぇ……まだ、走るの? 結構、は、離れたと思うけど。それに、そんなに焦らなくても、あの人、気づいてなかったじゃない。だったら、大丈夫なんじゃ」
「いや、奴は村長の家に行っていた。だったら村長から『英雄の話を聞きに来た人間がいる』と聞くだろう。英雄のことなのだから、確実に村長は話す。そして暗殺されそうになった……いや、暗殺された、のか、わからないが、とにかく、そういうことが少し前に起こった。ならば、疑うに決まっている。時期が重なっているし、近くの村での出来事だ。疑念を持たない方がおかしい。よほど察しが悪いなら別だが」
「察しが悪くて、ごめんなさいね!」
無意識の内の言葉だったが、見事にルスカを煽るような内容だった。
ルスカは顔を真っ赤にして語気を荒げたが、レストは涼しい顔をしている。
「そんなことは今はどうでもいい。急ぐぞ。ガイゼンまで戻れば、村長が話していた人物が私達だとわかりにくくなるはず。おまえも、私も目立つがここにいるよりはいいだろう。とにかく、出発だ」
「ううっ、わ、わかったってば!」
レストは迷っていた。
本当は、ガイゼンに戻らずに別の街へ行くべきなのではないかと思ったのだ。だが、レストの目的は英雄であるガルフリアを殺すことだ。彼から逃れるために、離れすぎて居所を見失ってしまっては、本末転倒だ。もちろん、追われれば勝機は失われる。相手が感づいていない状態で暗殺しなければ失敗する可能性が高くなるからだ。
ガイゼンにいれば、ガルフリアの情報は入ってくる。仮に相手を見失っても、別の場所へ移動しても、追うことは可能だろう。しかしそれは危険でもあるということ。失敗すれば命はない。そうすればノアは助からない。だが、もたもたしても同じことなのだ。どこかで線引きをしなければならない。ガイゼンに戻り態勢を立て直す、これがレストが考えた安全と危険の境界線だった。
「はあはあ、ほ、ほんと、し、しんどい!」
ルスカが苦しげに呼吸をしている前で、レストは思考を巡らせていた。
やはり英雄には特殊な力がある。魔女が言っていたように、奴らには魔力があるらしい。それがどういう力なのかまでは知らないが、常識では考えられないようなものに違いない。こんなことならばもっと、魔女に魔法のことについて聞いておくべきだった。だが、もう遅い。手持ちの情報で推理するしかない。
鏡の英雄、ガルフリア。奴の能力は、なんだ?
常識は度外視しよう。どんな能力か、それだけを考えるのだ。
まず、最初に殺したガルフリアについて。
奴の心臓を矢で貫いたことは間違いない。触った限りでは体温も失われていたし、脈もなかった。血液も間違いなく人間のもの。あの鼻につく、においは間違いない。盗賊と戦った時、嗅いだものと同じだった。ならばやはりあれは人間だった。ガルフリアだったのだ。容姿も、村で会った青年と同じ、つまり彼もガルフリアだった。
この時点で幾つかの仮定が浮かぶ。
一つ。ガルフリアは不死である。
奴は死んでも生き返るのではないだろうか。実際、殺したのに、奴は平然と村に現れた。だが、この仮定には幾つかの矛盾が浮かぶ。鎧や衣服が血で汚れていなかったこと。不死であったとしても血は出ていたことは間違いない。付着した汚れもなくなる、という可能性はあるかもしれない。例えば、血が体内に戻る、というような。あるいは着替えたとすれば。
だが、それでは馬はどうだ。時間的には、レストが殺したガルフリア。奴が跨っていた馬が先へ行き、あの村へ訪れたガルフリアがその馬に乗っていた、ということもありえる、のか?
ルスカが見たという別のガルフリアにも疑問が残る。やはりこの案は妥当ではない。
二つ。ガルフリアにはそっくりな人間がいる。
兄弟、あるいはそっくりな別人。五つ子までならば実際に存在しているとレストは聞いたことがあった。ありえなくもないが、それならばなぜ、近隣の別々の場所で目撃されたのだろうか。わざと別行動をとり、陽動をしていた? 何の目的で?
互いに存在を知っているのならば、村で遭遇した際、もう少し慌てていたのではないだろうか。瓜二つの存在、例えば兄弟なのであればもっと動揺しているはずだ。
あの時点では知っていなかった? 何か、おかしい。もし、そっくりな人間が近場にいたとして、互いに知らずにいた、ということならば、ありえなくもないかもしれないが、あまりに非現実的だ。ガルフリアが何かの能力でそういう風に見せた、という方がまだ信じられる。
三つ。前述の通り、レストに錯覚させたのではないだろうか。
起きているというのに夢を見ている、白昼夢という名前は聞いたことがある。そのような情景を見せるような力、ではないか。それならば暗殺も、殺した姿も、死体もすべて幻だったということになる。
だが、おかしい。もしもそれが真実ならば、わざわざガルフリアそっくりの死体を見せる必要はないはずだ。そんなことをすれば、村で会った時、あれは幻影だったのだと思われてしまう。
それにだ、明確にレストにそういう光景を見せたのであれば、村で会ったガルフリアがレストのことに気づかなかったことには違和感を覚える。ガルフリアはレストのことを知っていなかった。能力として、相手を認識していなくとも使えるのかもしれないが、だったら、余計に自分の死体を見せたことに疑問を持つ。やはりこれも違うだろう。
四つ。ガルフリアにそっくりな存在を造り出せる。
姿、形そっくりの何かを作れるとしたらどうだ。例えば、そう、軟体動物のように、分離した身体を動かせるとしたら。仮に、その分離したものを己とそっくりな形にできるとしたら。つまり分身だ。あるいは残影かもしれない。
だが触った感覚や、血液などがあったことを考えるとやはり実態はあったと考えるべきだろう。ならばやはり分身。己とそっくりな存在を作り出すことができるのではないか。そう、そうだ。鏡の英雄。この呼び名は、そういうことなのではないか。鏡。つまり、自分を映し出すもの。自分の分身が目の前に見えるということ。
では殺したことに、村で会ったガルフリアが気づいていなかったのはなぜだ。もしかして、完全に独立しているのだろうか。別れた存在は、ガルフリアとは別の存在となり、記憶や意思も分かれる、ということでは。
この考えが一番近いが気がする。だが待てよ、何か気になる。
しかしその何かは、レストにはわからなかった。
ルスカは気分が悪そうに顔色を青くしていた。しかし足を止めるつもりはないようだった。中々に根性がある。隣でリオンは余裕綽々といった顔で、はっはと息を吐きながら走っている。だが、時折鼻を動かし、耳をピクピクと動かしていた。何かに気づいているのだろうか。今のところ、問題はなさそうだった。
レストは思考を戻す。
ガルフリアの能力が分身だとしたら、装備はどうなのだ。まさか武器、防具まで同じものを生み出すことができるのか? あり得るのかもしれない。だが、なぜかしっくりこなかった。装備の見目は、同じだっただろうか。
槍を持っていなかったり、持っていたりするが、鎧は全員が持っている。ならばやはり同じ自分を造り出せるのか。
四つの考え、どれも何かが違う。だが部分的に正解のような気もする。それともどれもが見当違いで、別の真実がある、のか?
わからない。考えれば考える程、真偽は見えてこない。何が正しいのか、それともすべてが間違っているのか。レストは顔を顰め、頭の奥がむず痒くなる感覚に陥っていく。この、答えがあるのに、証拠もある程度あるのに、道順がわからないような状況。気持ちが悪い。そわそわしてしまう。
レストは走りながらも思考を走らせる。だがそれ以上の考えは浮かばず、その場で足踏みをしている感覚だった。奴の能力がわからなければ、倒せない。また同じように殺しても、奴は死なないのではないか。それとも一度の失敗で決断すべきではないのだろうか。
何かの間違い、自分の想定できない要因によって、実は殺せていなかったのかもしれない。なぜかまではわからないが、真実が必ずしも理解できるとは限らない。結果からわかる答えもある。もっと情報が必要なことは間違いない。
「ウウッ!」
リオンが唸り、足を止めた。レストはその様子に気づき、伴ってその場に留まった。双方に倣い、ルスカも止まろうとしたが、脚に疲労が溜まっていたようで、たたらを踏み、そのまま転倒してしまった。顔面から地面に落ちたが、レストは気にせず周辺を見回す。
「いだい……」
「ふざけてないで、さっさと起きろ」
「わ、わかってるっての」
ふくれっ面のルスカは愚痴を漏らしつつ、立ち上がった。若干ふらついているが問題はなさそうだ。レストはリオンの様子を気にしている。リオンは小さく唸り、遥か後方の一点を睨んでいた。
「……来ているのか。気配はまだしないが」
「か、勘違いじゃ」
「リオンは他の狼よりも感覚が鋭い。私達が気づかなくとも、リオンならば気づく。移動するぞ。ここでは見通しが悪い」
「い、移動って、ガイゼンに?」
レストはルスカの問いに対して、僅かに逡巡した。だが、このままガイゼンに逃げのびる前に、試したいこともあった。無謀にも思えたし、危機が近づく前に逃げるべきだと、彼の本能が言っていた。だが、それでも知るべきだと思った。
逃げて逃げてその先にあったのは、何だったのか、レストは痛いほどに知っている。逃げた先には何もない。奇跡かそれとも望まぬ結末だけだ。奇跡は二度起きない。魔女はここにはいないのだ。もう、逃れた先にある希望は期待しない。
レストは丘陵を登る。樹林には傾斜が生まれ、やがて低い山となった。その先、高い樹木が並ぶ中、部分的に小さな丘がそこここで見受けられた。これならば隠れ蓑になるだろう。レストは走りながら地理を把握。そして突然、荷物を降ろして、獣道周辺からやや離れた場所にある大木に登った。
「は、はやっ」
ルスカの感嘆を地上に放置し、登る。ある程度の高度になり、枝葉の隙間から、遠くを覗いた。リオンが見ていた方向と、村の位置を繋ぐと、どうやら獣道に沿って、何かがこちらへ向かっているようだった。
奴なのか。それとも魔獣の類か。大型の魔獣は人の多い場所にはほとんどいない。魔王討伐後、国を挙げて大討伐隊が編成され、各地で駆逐されたからだ。それは今でも時折行われており、昨今では大型の魔獣の存在は、人家の近くでは確認されていない。
では、やはりガルフリアなのか。
レストは枝を渡り、全方位を眺める。その後、木から降りると荷物を背負い、すぐに移動を始めた。
「こっちだ」
ルスカの返答を待たずに、レストは木々を縫い、走った。一応、これでもルスカに合わせて速度は抑えている。だがルスカは必死の形相だった。彼女は森に慣れていない。旅にも、だ。なのについてきているのだから、大したものだ。
やがてレスト達は高台に到着した。最初にガルフリアを殺した時に利用した高台とは違い、隠れる場所が少ない。だが高低差があるので、姿勢を低くすれば相手からは見えないだろう。レストはルスカに姿勢を低くするように指示する。全員が腹ばいになると、ルスカの荒い呼吸だけが聞こえるようになる。
「こ、ここで、いいの?」
「ああ、ここで迎え撃つ」
「迎え撃つって……だって、あ、あいつ、殺せなかったんじゃ」
「それを確かめる。もう一度、殺してな」
レストは弓に弦を張り、調子を確かめると、矢をつがえた。そう言えば、前回は毒を使用した。あれは関係あったのだろうか。いや、恐らく、ガルフリアに効果はなかった。ならば使用する必要もないかもしれないが、もしも避けられた時のことを考えるとやはり使用すべきか。毒は微細な傷でも効力を発揮するのだ。一度の失敗があったからこそ、毒を使うべきだ。
そう思ったレストは矢に毒を塗った。そして姿勢を低くして、ルスカに声を出さないように無言で伝える。ルスカはコクリと頷いて、前方をそっと眺めた。顔の一部を出すだけならば問題ないはずだ。
静寂。その中でルスカの呼吸も整う。そして鳥のさえずり、葉の擦れる音、風音、心音、木々の枝が折れる音、自然の音が聞こえるだけだった。
そのまましばらくして。
リオンがピクリと耳を動かした。
気づいた二人は同時に、目だけを動かし、リオンを見た。
次の瞬間。
遠くから甲高い音が響いてくる。
何事かと視線を泳がせると、森の中央から鳥達が飛び去って行った。数十。かなり多い。何かあったのか、と凝視していると再び、鳥達が森から逃げる。今度は更に近い場所。鳴き声も徐々に大きくなっていた。また聞こえた。鳥が飛ぶ、鳴き声、そして、ガサガサと木々が生み出す音も混じり始める。
「な、なに……?」
小声でルスカがレストに尋ねる。だがレストもわからない。しっ、と人差し指を立てると、ルスカは口を両手で押さえた。
どんどん近づいてくる。
同時に何か、遠吠えのような声が聞こえた。その正体がわからず、首筋がピリッと痛みを訴えた。
鳥が、音が、何かが近づいてきていた。その何かが、レスト達の見える距離、その間近まで来ていた。レストは弓を構え、できるだけ岩陰に隠れつつ、何かが見えるまで待った。
鳥が飛び立った。
そして、見えた。
ガルフリアだ。
奴は、白馬にまたがっている。
三度目の遭遇だった。だが、レストはガルフリアの姿を見た瞬間、今までとは全く違う感覚に襲われる。鳥肌が立った。本能が逃げろと言っている。手が震え、全身から汗が溢れた。
ガルフリアは無表情だったのだ。今までは。二度の遭遇では。だが、ガルフリアの顔が見えた瞬間、レストは気づいた。
激怒している。
なぜかは察しがついた。レストの存在に気づいたのだ。自分を殺そうとしている、殺した存在に憤怒している。恐らくはそうに違いない。レストの中でそれが確信に変わるまでそう時間はかからなかった。
「俺を殺そうとしている人間ッッッッ!! 聞こえるかッ!!」
ガルフリアは怒りを隠そうともせず、鬼の形相のまま叫んだ。
猛獣の吠え声かと思っていたが、そうではなかった。ガルフリアが激昂し、叫んでいたのだ。その声は大気を震わせ、レストとルスカに強烈な威圧を与える。
声だけで人を殺しそうな、それほどの圧力があった。
「今から、殺しに行くッッ! 待っていろッッ! 逃げても無駄だッッ! 絶対に追い詰めて殺してやるッッ!!」
英雄とは思えない言動。だが、彼も聖人君子ではない。英雄も感情がある。ならば怒りも抱くだろう。自分を殺した、殺そうとした人間を許す道理は彼にはない。そしてそれはレストに現実を見せつけた。
レスト達のことを村長から聞いたのは間違いない。
容姿などの特徴も聞いているだろう。ならば、このままガイゼンに逃げるのはやはり得策ではないかもしれない。目立つ二人のことを、必ず誰かが記憶しているだろう。見つかるまでは時間の問題。まさか殺したはずの英雄が村へ現れるとは思わなかった。それ故に、レストは警戒度を下げてしまったのだ。それは悪手だった。だが、そうでもしなければ情報は得られない。行動をしなくては成果は得られないのだから。
ルスカが不安そうにレストを見上げる。震えて、瞳も揺れている。ガルフリアの形相を目の当たりにしたのか、目尻に涙を浮かべてもいた。カチカチと歯を鳴らしている。恐れていることは明白だった。
だが、レストは彼女とは逆の心情になっていた。
レストはすでに追い詰められつつあることを知り、冷静になっていったのだ。矢をつがえ、ゆっくりとガルフリアを見据える。
距離はそれなり。風も強い。相手の死角ではあるが、外せば間違いなく場所が露呈する。そうなれば逃げられないかもしれない。殺されるだろう。そう思いながらも、動揺はなかった。冷たい。温度の低い場所。何も聞こえず、何も心を乱さない。己と向き合い、無心で一つのことを終えようとする。意識はない。意思はない。ただ、レストはガルフリアを注視した。
そして、矢を放つ。
途端に、風がレスト達を襲った。強風ではないが、矢の軌道に影響を与えるであろう風圧だった。が、レストの矢は、その風さえを味方にし、揺れながら、不安定に虚空を滑りながら、ガルフリアの頭部に突き刺さった。
「が」
遠くでも聞こえる声音。一言、意味のない言葉を漏らし、ガルフリアは馬上から落ちる。間違いなく脳を破壊し、奴は死んだ。今はまだ意識があるかもしれないが、すぐに死ぬ。
「す、すご……」
ルスカが、ほぅ、と漏らし呆気にとられてガルフリアだったものを見つめていた。一矢で確かに英雄を殺した。レストの強じんな精神と、圧倒的な技量によって放たれた矢は、間違いなく英雄を屠ったのだ。
英雄は動かない。
だが馬は、やはり英雄を置きざりにし、去って行った。
レストはその光景に強い違和感を覚えた。理由はわからないが、去ろうとする白馬が気になってしょうがなかったのだ。
レストは再び矢をつがえ、弓を構える。その先には白馬の姿があった。動物に罪はない。だが狩らなければならないような気がした。隣でルスカが戸惑っていたが、逡巡するべきではないとレストの直感が叫ぶ。
が。
「なにしてんだ?」
すぐ後ろで声がした。
違う。
正確には『肩の上から』声が聞こえた。
顔のすぐ横、肩の上にそれは乗っていた。
ガルフリアの顔。
赤毛が頬をくすぐる感覚にレストは一瞬にして怖気を抱いた。
僅か前に殺したはずの男が、遠くで倒れている男が、すぐ後ろにいる。レストの肩に顎を乗せて、体重をかけ、もう片方の肩に腕を乗せている。
「ひぃっ!」
ルスカは小さく悲鳴を漏らした。それを皮切りに、レストの身体が反射的に跳ねた。その場から飛びのき、ルスカを脇の下に抱えて、レストは高台から飛び降りた。滑り、勢い余って地面に身体を強打した。
「ぐぅ……!」
呻くがそれは一瞬。リオンもレストの傍に降り立った。ルスカは怯えたまま、動けない。石化してしまったかのように、身体を硬直させていた。あまりの恐怖に自我を失っている。レストの荷物は高台に置いてきたが、仕方がない。金はルスカの鞄に入っているし、武器はすべて持っている。ならば構いはしない。
レストは走った。ルスカは我を失って、走れそうにない。彼女を抱え、リオンと共に逃げた。ガルフリアの気配が近づいてくる。速い。当然だ。奴は身軽なのだ。こっちはルスカを抱えているし、ルスカの荷物もある。
だが近くにいるガルフリアは白馬には乗っていないし、槍も持っていない。速度も攻撃範囲もさほどないはずだ。
「待てええぇェェェッッッ!」
化け物の咆哮が聞こえた。鳥達は逃げ惑い、飛び立った。距離は近づいている。
このままでは追いつかれる。そう思った時、レストは視線を落とし、ルスカを見た。
何をしている。何を守ろうとしている。奴隷なのだ。道具なのだ。見捨てればいい。足手まといならば捨て置けばいい。囮にすれば、少しは時間が稼げるだろう。
そうだ。そうしなければ奴に捕まる。そうなればどうなる? 殺され、ノアも救えない。それでは何のために、こんなところにいるのかわからない。
目の前で見た。あの化け物を。人間の皮を被った化け物だ。あんな、あんなものを英雄だと? 優しい? 騎士? 立派な人? 信じられない。本当に見たのか、あれを。あんな狂喜に満ちた顔をした人間はいない。殺意を纏わせている人間はいない。血のにおいを充満させ、体中からにおわせている人間などいない。怯えてはいない。ただ殺せない、そう思ってしまった。一目でそう思わせる力が奴にはあった。恐怖は、何も死に対してだけ生まれる感情ではない。
ルスカはまだ動かない。これでは追いつかれる。
「おい、おい! 走れ!」
レストは叫んだ。なぜ、叫んでいるのかわからなかったが、叫んでしまった。その声を聞き、ルスカは震えつつも、はっとした顔になった。
レストはルスカを離す。これで走れなければ置いて行くしかないと思ったが、ルスカは走り始めた。遅いが、荷物を持っているので仕方がない。レストは歯噛みし、ルスカの荷物を奪うと、背中に背負った。
「レ、レスト」
「走れ、殺されるぞ!」
ルスカの縋るような、泣きそうな、何か言いたそうな顔を、レストは見ないようにした。走って、走って、背後から迫る重圧に耐え、木々を縫う。ルスカが逸れそうになったからか、レストは咄嗟に彼女の手を握った。引っ張り、強引に走らせる。
――私は何をしている。なぜ、こんな奴隷を。
違う、助けようとしているのではない。ただ、まだ役に立っていない。教育も鍛練もさせているし、服や食事代、宿泊代と色々と浪費した。だからだ。その分を取り返していないのに、捨てるのはもったいない。そう思ったに違いない。
レストは無理矢理に思い込み、思考を遮断した。そのままルスカの手を引き、樹林を走る。一度通った道だ。この森ならばある程度の地理は把握している。
だが気配はまだ近い。離せない。ガルフリアは森には慣れていない様子だったが、それでも体力は相手の方が圧倒的に上のようだ。だが、こちらは狩人。森は庭のようなものだ。逃げる方法には詳しくないが、追う方法は知っている。それはつまり、追われにくくする方法も知っているということだ。
レストはルスカの手を離し、走りながら、くるっと振り向いた。そのまま、後ろ走りを始める。姿勢を維持して弓を構える。疾走したままの状態で、上下に激しく視界が揺れる。だが、その中――レストは大して時間をかけず後方を射た。走りながら矢を撃ったのだ。後ろ向きに。しかも。
「チィィィッ!」
当たった。
見えないが、気配は感じる。ガルフリアの移動速度、方向を鑑みて射撃した。見事に直撃したが、運任せでもあった。レストでも後方射撃の命中率はかなり低いからだ。止まれば命中率は上がる。だが、すでにレストが弓矢を用いることはガルフリアも知っているし、互いの足音は聞こえている。止まれば、警戒されることは目に見えていた。だからこそ走りながら射たのだ。その賭けには、とりあえずは勝った。
再びルスカの手を引き、樹林を駆けた。ガルフリアの移動速度は明らかに落ちており、足音と叫び声は遥か後方へと消えて行った。
「絶対に殺す、殺すゥゥッ!! 逃がさねぇぞぉぉォォッ!!」
ガルフリアの咆哮は森中に響いた。レスト達は雄たけびを聞きながら、ガルフリアから逃れるため、その一心で逃げ続けた。その間、互いの手を離すことはなかった。




