第65話 解職請求
開け放たれた書斎の窓の向こうから、セミの鳴き声が聞こえる。
時折、風が吹くと、一番上のボタンを外したシャツの首元に涼しさがもたらされる。
そんな将典の口から、
「おー」
感嘆の溜息が漏れた。
右手に持ったナイフで、小さく黒いそれを切ると、トロッと黒いクリームが中から溢れ出てきたのだ。
果物が使われた見目鮮やかなものとは、また違う体験に心が躍った。
ナイフで切った半分を、フォークで口元に運ぶ。焼き立ての香ばしい香りに、カカオの濃厚な香りが混ざって、鼻をくすぐった。
パクリ、と。外側の生地のサクリとした食感の後、温かいクリームがねっとりと舌を包み込む。甘さの後に、ほろ苦さが残り、そして、スッと口の中から消えてしまった。
食べ物の名をフォンダンショコラと言う。咲哉が作った新しいスイーツだった。
残り半分にフォークを刺し、溢れ出たクリームをナイフでかき集めたら、こぼれないように、パクリ。
わずか二口で皿が空になった。口の中もあっという間に空になる。
思わず、片眉をピクリと動かしてしまう。全て食べてしまった、と。
――もう1つ、食べるか。
――咲哉には、次作る時にはもっと大きくするように言おう。
カチャリ、と皿の横にティーカップが置かれた。
視線を上げれば、子供を見るような顔をした真宙がいた。
「……何が言いたい」
「いえ。私が紅茶を用意する前に、食べ終えてしまわれたな、と」
返ってきた言葉に、将典は思わず視線を逸らしてしまう。
「咲哉には、将典様が満足されていた、と伝えておきます」
「……美味かった、とも伝えておいてくれ」
「はい。それと、次はもう少し大きく作るように、とも伝えておきます」
「っぐ」
声にならないうめき声が口から漏れた。それで、身体ごと横を向いてしまう。
けれど、一通の手紙が視界に入ってくると、目を細めてしまう。机に置かれた手紙の差出人は、滄州にいる康嗣。手紙には、拓哉の幽閉が首尾よく行われたこと、ただし、江都での拓哉の確保が間一髪であったことが記されていた。汐入横丁では、将家の末端で裏仕事に関わる男の姿を見かけた、とも。
将典の中は、上辺は凪いで平静を保っていたが、奥底はホッとする感覚と虚ろな感覚、さらには康嗣に裏仕事をさせたことへの後ろめたさで、ぐずぐずに崩れそうになっていた。
「将典様」
だから、真宙からの呼びかけにも「うん?」と生返事を返してしまう。
「将典様!」
二度目で、ようやく振り返る。そこには真剣な顔をした真宙がいた。
「もしかして、礒橋様に裏仕事をさせたことを後悔なさってはおりませんか」
「……」
否定しなければならなかった。命令を下した当主として、全ての責任は負わなければならない。
けれど、将典の口は動こうとしなかった。
そんな将典を見た真宙の顔には、やっぱりとでも言うべき表情が浮かんだ。
「後悔される必要はありません」
真宙が語りかけてくる。
「将典様が当主として頑張られているように、私たちも将典様をお支えしたいのです。それが主従というものではないでしょうか。礒橋様も出発される前、私に同じことを仰っておられました」
『私は澤渡家と将典様に忠誠を誓っております。それこそ、魔獣の群れに徒手空拳で飛び込むことになりましても、最後まで将典様の供をする所存です』
かつて康嗣から捧げられた言葉も将典の中で浮かんできた。
目頭が熱くなるのを感じた。ぐずぐずに崩れ落ちそうだった心が、ひとつにまとまっていくのも感じた。
「……そうか。ありがとう」
ポツリとつぶやく。万感の思いを込めて。
ただ、つぶやいた後、なぜか真宙の顔を見られなくなって、代わりに手元のカップを持ち上げた。
果実のような甘く濃厚な香りが落ち着きを取り戻させてくれる。濃く美しい金色の紅茶を口に含むと、熟した果実のような深い甘みにコクが舌をまとう。かすかな渋みが味を引き立てる。
「美味い」
今度は真宙の顔を見ることが出来た。くすぐったそうな表情が真宙の顔に浮かんでいた。
束の間、穏やかな空気が流れる。セミの鳴き声が聞こえた。
すると、ふと思い出したように真宙が言ってきた。
「ところで、研究発表会が夏季休暇明けに待ち受けているわけですが、これも私たち4人だけで回すおつもりですか」
研究発表会は、一般にも公開される学園最大の行事。学友会は、やってくる外部の人の対応を一手に担わなければならない。
「今のままだと、そうなるだろうな」
将典がそう返すと、真宙の顔がかすかに引きつるのが見えた。年度予算を編成するために、徹夜続きになった毎日の苦労が蘇ったのだろう。
「だが、そんなに心配する必要は無いだろう」
「……本当ですか?」
「外からくる客とのつながりを求める学生に声をかければ、人手は確保できるだろう。去年も募集をかけたと利奈子が教えてくれた」
「それならいいのですが……」
真宙の表情がホッと安堵したようなものに変わる。けれど、
「もっとも、学生が勝手なことをしでかさないように、目を光らせる必要はあるらしいがな」
将典がそう言うと、真宙は溜息を漏らした。大変なことは変わらなさそうだ、と言わんばかりに。
それを目にすると、将典の中に申し訳ない気持ちが積もってくる。だから、
――卒業すれば、真宙にも何か報いなければならないな。
――何がいいか……。利奈子にも意見を聞いてみるか。
頭の中の覚書に記す。
「それでも、研究発表会を終えれば、私たちも卒業だ」
さらに、明るい話題を口にする。
「将家の若君もここからは静かになされるであろう。今年の学年主席を取るためにも、研究発表会に集中されるであろうからな」
ところが、予想に反して、真宙の顔色は優れない。
「……そうでしょうか」
思わず、将典は首をかしげてしまう。
「真宙の考えは違うのか」
「私はむしろ……」
話しかけた真宙を遮るように、外から騒々しい物音が聞こえてきた。しかも、次第に書斎に近づいてくる。
思わず、将典は真宙と目を見合わせてしまうが、次の瞬間。
バン、と音を立てて書斎の扉が開かれ、利奈子が駆け込んできた。
――そう言えば、以前、同じように駆け込んで来た時は、まだおしとやかさがあったな。
つい、将典がこんな埒もないことを考えてしまうほど、礼儀も全てかなぐり捨てて。
利奈子の後ろには、行子も息を切らせながらついてきていた。
――学園から真っすぐ来たのか。
二人とも、普段、屋敷に来るときは着物姿だが、今日は袴姿だった。
そんな利奈子が将典の姿を捉えると、叫んだ。
「学友会会長の解職請求が出されました!」
解職請求。任期途中で辞めさせるための制度だ。学園事務局がその届け出を受理したら、1カ月以内に学生投票が行われ、過半数の賛成で成立する。つまり、クビだ。
ガシャン、とティーポットが床に落ち、割れる音がした。「申し訳ありません」と謝る真宙の声が聞こえた。
将典は、カップを持ち上げ、ゆっくりと紅茶を飲む。
それが気に入らなかったのか、利奈子の目がつりあがった。
「何をのんきに、紅茶なんかを呑んでいるんですか!」
「慌てても何もならないだろ」
そう口にしておきながら、将典は紅茶の香りが分からなかった。
「解職請求」は、ゲーム「パルヴニール」の中で、学友会会長の座をゲーム主人公に奪われた真一郎が引き起こすイベントでもある。だから、将典はその可能性を秘かに検討していた。ゲームの場合、真一郎は最終学年であったため、この解職請求を逃すと汚名返上の機会が無かった。ところが、今の真一郎は2年生であり、まだ来年、名誉を挽回する機会はある。学生投票に結果を委ねるという分の悪い賭けに出る必要性はない。むしろ、研究発表会に集中して、去年逃した学年主席を狙い、来年の学友会会長として汚名を返上する。このように、将典は判断していた。
もっとも、解職請求が出されたことは、将典にとって痛手だ。「学園成立以来初めて解職請求された学友会会長」の汚名は、将来にわたって付きまとうだろう。さらに、本当に解職されれば、このことを素行不良と解釈されて、皇国大学入学も許可されないのは確実。当然、将典が目指す故郷で亡き母の後を継ぐ滄州知事就任は、夢のまた夢となる。
将典のティーカップの水面が大きく波打っている。それでも、
――落ち着け。今、慌てても無駄だ。
己に強く言い聞かせる。
「ですが」
「解職請求は受け付けられたのであろう。であるならば、今は落ち着いて状況を把握するべきだ」
怒りが少し落ち着いたのか、代わりに動揺が露わになっている利奈子にも、言い聞かせるように将典は声をかける。顔に無理やり笑みを浮かべて。
「ほら、座るんだ。まずは落ち着こう」
言葉に従って、ゆっくりとソファの対面の席に座る利奈子を見ると、真宙にも声をかける。
「真宙も片付けは適当で構わない。まずは、利奈子たちに茶と菓子を出してくれ」
「はいっ」
バタバタと足音を立てながら、真宙が書斎を出ていった。その後ろ姿を見て、康嗣に怒られるぞ、と将典は思ってしまう。ただ、無理やり浮かべていた笑みが、少しだけ自然なものになるのも感じた。
改めて、利奈子と向き合う。
「それで、解職請求は誰が学園事務に出したのだ?」
「武樋貴郎です。ですが、実際に指図しているのは若君に違いありません!」
この答えを受けて、将典は利奈子の後ろに控える行子に視線を送った。行子はこうした時に落ち着いて周囲の様子を判断できる、と考えているからだ。その彼女が大きく頷いた。
「そうか。勝算もなく勝手に動いた、そういうわけではないのだな」
「残念ながら、学生投票で過半数を取るかもしれません」
去年起きた、身分を背景にした学生たちの争いから、真一郎の人気は芳しくなかった。これも将典が解職請求はなされないと判断した理由の1つ。だから、過半数を取ると言う行子に、「その理由は?」と将典が問いかけようとしたが、
「恥知らずにも、武樋は学生たちに金をばらまいているのです」
その答えを、利奈子が吐き捨てるように言った。将典は眉間にしわが寄るのを感じた。
「……買収は禁止されていなかったか」
禁止はされていないが、褒められることでもない。ただ、将典にゲーム「パルヴニール」の知識をもたらした「愚者」は、主人公としてゲームを遊ぶ時、常にこの方法をとっていた。名声に傷はつくものの、効果は大きかったからだ。
「そもそも解職請求などという仕組みがなぜあるのでしょうか」
解職請求が為されたのは今回が初めて。そもそも、学生たちの多くがこの制度の存在を知らない。それゆえに生まれたのであろう行子の疑問に、将典は自分なりの答えを話す。
「さて? 一番考えられるのは、学園が設立した際、仕組みを海外から持ち込んだから、その際に紛れ込んでいた、といったあたりか。そして、解職請求という仕組みが実際に使われることもあまり考えていなかったのだろう」
と、その時、バン、とテーブルを叩く音がして、
「そんなことはどうでもいいです!」
叫んだ利奈子の目には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
「将典様はなぜ怒らないのです? こんなに務めに励んでおられるのに、若君たちは将典様の邪魔をするばかり。予算案の時もそうです。今度の解職請求では将典様のお顔に泥を塗りました」
利奈子の右頬を一筋の涙が伝うのを目にすると、将典の心はギュッと締め付けんばかりの痛みに襲われた。それでも、将典は利奈子から目をそらさず、彼女の涙を胸に刻む。
「そこは私が『化け物』の汚名払拭を積極的に行っていなかったせいだ。隙を見せてしまった」
そう言って、利奈子に向けて頭を下げる。
解職請求の提起は一人で出来る。だから、貴郎の行動を止めることは出来なかった。それでも、「化け物」の汚名を払拭しておけば、真一郎と貴郎の牽制にはなっただろう。
「そうではないのです。若君たちは卑怯です」
今度は、利奈子の左頬を涙が伝っていった。将典は彼女にかける言葉を見つけることが出来なかった。
ただ、彼女の涙をぬぐいたくて、手を伸ばしたが、テーブルの反対側にいる彼女には届かなかった。
皇国大学に入学できなければ、貴族の当主として身を起こしていく手段は軍に入る他なくなる。将典が凡才であれば、それも悪くないのだが、彩気の使い手としては非凡だ。槐州で倒した三つ首の大蛇と戦って生き残れるなら、それだけで軍に重宝される。出世もできる。
問題は、軍が将家の縄張りであること。
将典が魔獣との戦いで武功を挙げて、軍の中で信奉者を集めれば集まるほど、将家との軋轢は不可避となる。真一郎が彩気の才に秀でているという話を聞かない今、未来の対立は決定的となる。
その時、叔父、千里の言葉が将典の中で浮かんできた。
『滄州に逃げてこられてもいいのですよ』
『なに、裸一貫でまた商売を始めるのもいいものです』
――叔父上の下で、商人になるのもいいかもしれないな。
ふと、大海原を進む船の中で舵を握っているような気がした。潮の香りが清々しかった。
けれど、横を見れば誰もいない。真宙も康嗣も。当然、利奈子もいない。
一人だった。
急に、手足が冷え、身体が重くなるのを感じた。
「若君は、何もしなくても、来年には会長の地位が転がり込んでくるのに。どうして、こんな理不尽な仕打ちをなさるのでしょう」
利奈子の言葉で現実に引き戻されるが、
「私は悔しいです」
そう言うと、利奈子は顔を両手で覆い、声を上げて泣き始めた。将典は頭が真っ白になった。
何か声をかけようとしても、言葉が全く浮かんでこない。うろたえることしかできない。
助けを求める視線を行子に送るが、彼女は無言で首を横に振るのみ。
だから、先ほど届かなかった手が今度は確実に届くように、利奈子の横に移動する。おずおずと彼女の肩に手を伸ばす。
そうしたら、利奈子が身体を寄せてきた。力なく将典の胸を叩いてくる。トン、トン、と。力は込められていないから、痛くはない。けれど、叩かれるたびに、心が痛んだ。
それでも、何もできることはない。かける言葉も見つからない。
将典にとって、こんなことは初めて。
ただ、利奈子が泣き止むのを待つしかなかった。




