第53話 魔獣に化けた人
『はたして、かの方々を本当に政治の表舞台に引き出してよかったのだろうか』
将典の祖父の日記に記されていた続く一節である。
執務室の扉が開かれ、言い争いをしていた官吏と軍人が中から出てきた。将典の姿を目に留めると一礼はするものの、その目からは「どこぞの家の坊ちゃんか」とでも言いたげな色が見てとれた。
『祈りの世界から、欲望入り混じる表の世界に連れてきてよかったのだろうか』
将典の中で、再び、祖父の日記に記されていた一節が浮かんだ。
将典は執務室の中に入った。後ろで扉が閉じる音が聞こえた。
「久方ぶりですね」
部屋の主が座ったまま将典を出迎えた。和装には一分の隙も無く、皇国屈指の歴史を持つ家の当主としての威厳を肌に感じた。
堂上侯爵。江都市長という表の顔以外に、民権運動、魔獣騒動、夜烏組と裏で全てにつながっていることは、分かっている。
「御無沙汰しております」
将典が一礼しながら挨拶を返す。
「ちょっと立て込んでおりましてな。用件は手短にお願いします」
そう語るわりには、侯爵の机の上には書類が1枚もない。軍や警察、行政、あらゆる部署から指示を仰ぐ書類があってしかるべきなのに、全くない。
「江都に魔獣が現れたことですか」
「そうです。まさか、200年ぶりに江都に魔獣が現れるなんて。軍はどこで遊んでいたのか」
祖父の声が耳元で囁くように、日記の一節が将典の中で浮かんでくる。
『かの方々の尊き誇りが捻じ曲がることにつながらないだろうか』
「ですが、今は軍の責任を問うている暇はありません」
侯爵は神妙な面持ちで皇がいる宮殿の方へ顔を向けた。
「すみやかに宸襟を安んじ奉ることこそが肝要です」
そう言うと、顔を戻した侯爵が将典へ視線を送ってきた。暗くねっとりとした目だった。
「そう言えば、澤渡殿の屋敷は郊外にありましたね。ご不安でしょう。何でしたら、私の指示で軍の部隊を屋敷の防備に差し向けることもできますよ」
――まるで、御伽噺に出てくる魔獣のようだ。
――齢1000年を超え、人語も解する、本物の化け物の。
冷たい汗が、一筋、将典の背を伝った。
「なに。他のお歴々の屋敷にも部隊を差し向けています。安全を確保なされるのは当然のこと。ためらうことはありません。そのために、当主自らおいでになったのでしょう?」
薄笑いを浮かべる侯爵の言葉の裏には、欲深な思惑が潜んでいる。
――隙あらば、相手の弱みを握るつもりだな。
――そして、金と権力を奪う。
すべては侯爵が目指す頂へ至るために。その場所も、夜烏組の頭が持っていた手提げ金庫の中にあった紙に書き綴られていた。
『将家に取って代わらん。皇の御前に伺候し、皇国の采配を振るおう。祭家筆頭として、400年の時を超えて、今一度』
筆の勢いには、何者にも己の覇業を邪魔させない、という堂上侯爵の強い意志と驕りがにじみ出ていた。
――おそらくは、店の認可がなかなか下りなかったのも、侯爵の差し金か。
――打開のために直談判しに来たら、蛭のように利益を吸い取られていただろう。
――そして、そこを足掛かりに……。
将典は背筋を伸ばし、わずかに顎を引いた。
「部隊派遣は必要ありません」
「でしたら、何しにいらっしゃったのですか? 暇ではないのです」
堂上侯爵の表情は変わらないものの、その目には期待が外れたような色が浮かんだ。
ステッキを握る将典の右手に力が入る。侯爵の身勝手な欲望が魔獣を江都に引き込み、多くの民の命が奪った。
されど、そのことを断罪しても届かない。将典には力が無いのだ。
それでも、今、彼の前に立つのは、これ以上被害に遭う者が出ないようにするため。
そして、見極めたかった。記憶の中にある侯爵の歴史と誇りに満ちた姿は消えたのか、偽りだったのか。
だから、努めて、声は冷静に。
「軍をすみやかに突入させるべきだと進言に参りました」
けれど、堂上侯爵は、目を大きく丸くした後、庁舎全体に轟くように呵々大笑した。
「一体、何を言われるかと思えば……」
その表情にはっきりと蔑みが浮かんだ。現実を見ない夢想家の愚か者と。
「そんなことできるわけないでしょう」
現実を見ろ、と言わんばかりに両手が横に広げられる。その声は聞き分けの無い子供に言い聞かせるように。
その姿は、目的のためには手段を選ばず、立ちふさがる者は全て食い殺す歪んだ魔獣のようにも見えた。
だから、魔獣と相対した時のように、将典は意識を冷たく研ぎ澄ます。
「どんな魔獣がどれだけ現れたのかもわからないのに、むざむざ軍に突入を命じるなど、彼らに死ねと言っているのと同じことです」
「どんな魔獣がどれだけ現れたのか、侯爵はご存じのはずです」
侯爵の目がスッと細くなる。
霜が降りそうなひんやりとした空気が執務室に立ち込めた。
「お帰りはあちらです。私に会いたいと言われている方は他にも大勢いらっしゃるので」
入口の扉を指さして、侯爵が将典に退出を促してくる。
将典が後ろを振り返ると、覚えのある気配を感じた。
「確かに、人が来られたようですね」
扉を開けると、一人の男が立っていた。かつてと同じように、背広姿は着崩れ、気だるげな空気をまとわせながら。足元は泥で汚れている。
冨迫伯爵だった。
彼の姿を見て、心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを、将典は感じた。
――本当に、行燈は闇夜に輝くだろうか。




