第43話 ステッキは手から滑り落ちる
将典は人力車に身を任せていた。
爽やかな秋の空気と車夫の駆ける足音が心地よい。けれど、地面の凸凹で大きく揺れるたびに、手に力がこもる。
気を紛らわせようとしたら、途中で見かけた行列を思い出してしまう。外国由来の菓子、洋菓子を扱う店の前にできたものだった。
思わず、眉間にしわを刻んでしまう。洋菓子を頬張り笑顔を見せる民には喜びが、スイーツ事業が足踏みしている現状には悔しさが、将典の中でないまぜになって浮かんできたからだ。
「着きやしたぜ、若旦那」
車夫の声とともに、人力車の走る勢いが弱まった。
そして、ある寺の門前で止まる。門の向こうには、小さな本堂が見えた。軒先の瓦は所々割れていたり、草が生えていたりする。ただ、この寺だけのことではない。門前に並ぶ他の建物も同じように荒れていた。
「寿慶院」と墨書された札が掲げられた寺の門柱の後ろから、幼い子供たちがこちらの様子をうかがっていた。「和尚様を呼んでくる」と言う子供の声が聞こえた。
将典は祖父譲りのステッキを右手に握ると、一人乗りの人力車から降りた。けれど、ぬかるんだ地面から跳ねた泥で、折り目がしっかりついた背広の足元が汚れた。片眉を跳ね上げてしまう。かといって、辺りを見回せば、どこもぬかるんでいた。
仕方がない、と気を取り直して、後続の人力車に向かう。
「……こちらが寿慶院ですか」
後ろの車から身を乗り出して、辺りの様子を見ていたのは、冨迫利奈子。
「思っていた以上のボロ寺で驚いたか」
「……いささか不用心ではないでしょうか」
彼女の目は、外れかかっているのか、片方が斜めに傾いた門扉に向けられていた。
「あの門は前からそうだった。私も同じことを言ったのだが、了成に言わせると修理に金を使うよりも面倒をみている子供たちのお腹を満たすことが最優先らしい」
角井了成。寿慶院の住職で、澤渡家の中では屋敷内にある持仏堂の堂主として遇している僧侶だ。澤渡家からの寄進で、寺全体を新しくすることもできるが、悪い意味で周囲の注目を集めてしまう。そのため、必要以上の寄進は了成から断られている。
――もう少し頼ってくれてもいいだろうに。あの偏屈者め。
そんなつぶやきを心の中に押し隠すと、利奈子に手を差し伸べた。着物姿の彼女に、ぬかるんだ足下に注意しろ、と告げながら。
さらに後ろに続いていた人力車からは、真宙と利奈子の侍女である久井行子がそれぞれ地面に降りていた。
「拙寺にようこそいらっしゃいました」
振り向けば、了成がいつものように人好きのする、だけど胡散臭い笑みを浮かべて、門から歩み寄ってきた。
「御坊、息災か?」
「おかげさんで、なんとかやっております」
彼の目の下に濃い隈が落ちているのを見て、将典は眉をひそめた。
本堂と門の痛み具合も、かつて来た時と比べると進んでいる。
というのも、槐州事変で将典たちが江都を留守にしていた間、江都でも嵐が襲っていた。被害は大きく、強風による家屋の倒壊、川の氾濫、海沿いでは高波による浸水があちらこちらで起こり、死傷者も多数出た。澤渡家の屋敷も風によって屋根が一部吹き飛ばされ、庭も荒れ果てた。今も、寿慶院の前の道はぬかるみ、所々崩れかかっている塀には泥の跡が残っている。時折、風に乗って、すえた臭いも将典の鼻を襲ってくる。
けれど、被害が今も残っているのは、海に近い汐入横丁と呼ばれるこの辺り一帯のみ。他は、すでに嵐の痕跡は残っていない。汐入横丁から外れた道路は綺麗に舗装されており、路面電車も新しく敷設された。夜になれば、街灯が明るく照らし出す。
汐入横丁だけが取り残されているのは、この辺りが地方からあてもなく江都へ来た者たちの集まる貧しい地域だからだ。
「澤渡様」
利奈子の小声で呼びかける声に振り向けば、彼女は寿慶院の境内へ視線を向けていた。より正確には、嵐で家を失い寿慶院に身を寄せている者たちへ、だった。
「御坊。こちらの姫は治癒術の心得があってな。困っている者たちを救いたいと言うので、案内してきた」
治癒術に豊かな才能を持つ利奈子には、ひとつの懸念がまとわりついていた。医療機関はもちろん、前線で傷ついた兵士を診る軍医を求める軍、優れた癒し手を抱え込みたい有力家など、その才能を欲する諸勢力による彼女の奪い合いだ。けれど、その懸念も一応の区切りがついた。最近、彼女が学園を卒業した後は医学校への進学と、将来的には医療行政に携わることを目指す、と宣言したからだ。しかも、それを彼女の後ろに控える当代将家の長女、将美海が認めたため、第三者が利奈子の進路に口出しすることは不可能になった。
ただし、この場で彼女の名前を口にすることを将典は避けている。身元を明かして、余計な禍を招き寄せないようにするためだ。澤渡家の紋章を刻んだ最新の自動車を使わずに、一般的な人力車を使ったのもこのため。
「これはこれは。姫様のお情け、まことにありがたいことでございます」
合掌して深々と頭を下げる了成も、意を汲んでいた。
そして、子供たちの案内の下、利奈子は境内に入っていった。行子と真宙も手伝いと護衛のためについていく。
門前に残ったのは、将典と了成の二人。人力車の車夫たちは少し離れたところで休息をとっている。
「この辺りの復旧について、江都市に何か働きかけをしているのか」
「汐入横丁の顔役どもと連れ立って陳情に参りましたが、取り合うてもらえまへんでした」
将典の問いかけには、いつも通り訛りが強いけれども、溜息交じりの力のない言葉が返ってきた。
「それどころやあらしまへん。役人はんは、ここに住んどる者らを、どこぞへ追い出したいような様子ですわ」
了成の顔が横を向き、目線が遠くへ向いた。
「向こうの通りはきれいに舗装されて、市長はんの一声で路面電車まで新しく通ったいうのに、こちらは街灯ひとつありまへん」
「そうだな。まるで別の街のようだ」
「新しい路面電車の路線も、脇にある大店の主はんが願い出て決まったそうでしてな。その折には、まあ当然のように袖の下も渡された、いう話でございます」
将典は顔をしかめた。
「ほんまのところは分かりまへん。けど、敷設工事を請け負うた業者も、その大店の主はんの息のかかったところやったそうでして……。この辺りの者は、みな、そう信じとります」
「水道もだったな」
「幸いにも、拙寺には真水の井戸がございます。けど、いまだに、この辺りの多くの者は、海水まじりの井戸を使うか、真水を売りに来る行商を頼るよりほか、術がありまへん」
江都市長を務める堂上侯爵のことを、将典は高く評価していた。江都の上下水道の整備を進展させたこと。市中に広がっていた馬車鉄道の路面電車への切り替えと乱立していた事業会社の統合。その辣腕ぶりには目を見張るものがあると考えていた。一方で、堂上侯爵の黒い噂も耳にしていた。
――完璧な政治家などは存在しない。そう考えていたが……。
荒れたままの汐入横丁を前にすると、口の中だけで小さく息を吐いた。
しかも、了成の言葉はまだ続く。
「このごろは、ならず者どもがこの辺りで無法な地上げまでやらかしております。そのことを役人はんに告げても、なんの手立ても取ってはくれまへん」
「内務省はどうだ?」
中央省庁のひとつ、内務省は地方行政の監督を担う。時に、是正命令を出すこともできる強い権限を持つ。それは、枢府にも名を連ねる堂上侯爵が首長の江都市に対しても例外ではない。
けれど、了成の首は横に振られる。
「話だけは聞いてくれましたがな。さっぱり動いてくれませなんだ」
将典の眉間にしわが寄った。
内務省の長、内務卿を務めるのは戸梶子爵。代々将家に仕える家の当主で、当代将家からの信任が厚く、職務にも忠実とされていた。そんな彼の対応に、将典は落胆してしまう。
――あるいは、内務卿に報告が届くまでに、どこかで握りつぶされてしまったか。
とはいえ、ここで色々考えても無駄であるため、話題を少し変えることにする。
「地上げ行為と言えば、ここに来る途中でその場に出くわしたぞ」
陰鬱な色を漂わせていた了成の目の色が変わった。顔にも面白げな笑みが浮かんだ。
「素通りなさいましたか」
「明らかに暴力を振るっていたから止めに入った」
その時の光景が脳裏に蘇る。父親は殴られ、血を流して地面に倒れていた。その様子を恐怖で震えた幼子が隠れて見ていた。
「お前と同じようにならず者たちは、私を笑ったぞ」
笑う了成の顔は苛立たしかったものの、彼の目は笑っていなかった。
「いえいえ。拙僧がその場におりましたら、笑うたりはいたしません。そのならず者どもは、ご当主様のお顔を知らなんだのでしょう。拙僧なら、見た途端に逃げ出しますわ」
「どうだかな。だが、ならず者たちは私のことをそこらにいる金持ちの若造と見たらしい。女の前で良い恰好を見せたがっている向こう見ずな若造、とな」
「それで、お美しい姫様の御前で、見事なお働きを見せなさったわけですな」
了成の目に下世話な光が灯り始めていたことには無視する。
「違うな。ヤツらが暴力を振るってきたから、身を守っただけだ」
改めて、了成の目を見据える。
「もしも、ヤツらがこの寺に手を出して来たら、屋敷に使いを出せ。子供たちを守るために、人を出す。いいな」
「まことにかたじけのう存じます。その折には、なにとぞよろしゅうお頼み申します」
頭を下げる了成の坊主頭を見ながら、将典はまとう空気をさらに変える。
「ヤツらは用心棒として武士の末裔の男を連れていた」
声も低くなっていた。
「そんな用心棒を連れていたら、庶民はなすすべもないな。この辺りには警察の派出所はおろか、警官の巡邏も少ないであろう」
カチリ
将典の頭の中で歯車がかみ合った音が立つと、1つの情報が浮かんできた。それは、ゲーム「パルヴニール」の中で起きる1つのシナリオであり、この地上げ行為への介入がシナリオ発生のトリガーであることを告げるものだった。シナリオの内容は、ゲームの主人公が汐入横丁一帯を根城とする裏組織「夜烏組」と争うもの。主人公が夜烏組を倒すと、江都の治安向上に功績があったとして褒賞を受け正規ルートを進み続けるか、裏社会で成りあがっていくルートに分岐する。なお、汐入横丁に近寄らなければ、シナリオは自然消滅してしまう。
この知識を将典にもたらした「愚者」は、夜烏組と敵対すると何も考えずに倒していた。
将典は、表には出さずに、心の中だけで大きな溜息を吐くしかない。
平民であるゲーム主人公と同じことは、貴族である彼にはできない。もしも行ってしまえば、江都市長である堂上侯爵、宰相の加登伯爵、さらには皇国の統治を実質担う将家の面目を潰すことになる。そもそも、将典には、治安を維持し、裏組織を倒す権限がない。
柵という重い鎖が身体に絡みついてくる。
そんな将典の内心に気づいた様子を見せず、了成が口を開く。
「前からそうでございます。それに、警察に被害を訴えても、後回しにされるばかりでして」
将典の中で、今度は過去の記憶が浮かんできた。亡き母とともに堂上侯爵に出会った時のことだった。
その時の侯爵は、「祭家」の末裔として強い誇りを示し、江都を良くする、民の生活を良くする、そんな意欲に満ち溢れていた。幼心に将典は侯爵へ憧れを持ったものだった。
『将典は堂上侯爵のことをどう感じたかしら?』
侯爵と会った後、亡き母からその印象のことを聞かれた。
『……覇気がある人、でしょうか』
『あら? あなたのお爺様も似たようなことを言っていたわ。「覇気が溢れている人。少し溢れすぎているかもしれない」ってね』
幼かった将典は「溢れすぎている」の意味を理解できなかったが、それよりも尊敬する祖父と近い答えを出したことへの喜びの方が強かった。
――汐入横丁に住む民は、堂上侯爵にとって「生活を良くする民」の中には含まれていないのだろうか。
この考えを、将典は口にすることはない。会話を誰が耳をそばだてているか分からないから。言葉を都合よく切り取られて、新聞を賑やかせる可能性は排除しなければならない。
それでも、無意識のうちに表情が険しくなっていたのだろう。
「どうなさいました」
了成が心配そうに声をかけてきた。
将典は深いしわが出来て痛む眉間を左手でもみほぐす。そして、口に出しても問題ないことを話にする。
「用心棒の男に武士の末裔としての誇りは無いのか、と聞いたが、名誉だけでは食っていけないと言われたことを思い出していた」
酒の匂いを漂わせ、絶望に満ちた男の目を、将典は思い出す。他の男たちは紬のしっかりした着物を身にまとっていたが、その用心棒の着物は擦り切れていた。
利奈子は悲しげな表情を浮かべていた。槐州事変までの追い詰められていた自身の境遇と重ね合わせるものがあったのだろう。
将典にとっても他人事ではない。下条玄悔に洗脳され続けていたら、将典も似たような末路をたどっていた。
ただ、男が漂わせていた酒の匂いには苛立ちも感じた。常に酒を手にしていたあの男を思い出させるから。
「貧しさいうもんは、人の心を荒ませます」
了成の言葉が将典を現実に引き戻す。
目に憂いを浮かべた了成は、合掌して祈りの言葉を紡ぐと、
「今でこそ、ご当主様からの寄進によって、拙寺はやっていけております。せやけど、昔は拙僧も泥水をすするような思いをしたことが幾度もありました」
「そんなことがなくなるように、私は貴族として努めていかなければならない」
将典はステッキを持つ右手に力を籠める。
そこに、新聞を手にした港人足の男が駆け込んできて、寿慶院の門のところで叫んだ。
「おい、見ろ。市長は本気で汐入横丁を全部更地にして、勧業博覧会の会場にするつもりらしいぞ」
境内から人が男の周りに集まってきた。
了成に「知っていたか」と聞けば、「噂では……」と返ってきた。
再び、眉間にしわが寄るが、すぐに気にならなくなる。
港人足の男の次の言葉で、
「しかも、博覧会の目玉に生きた魔獣を展示するらしい」
右手からステッキが滑り落ちたからだ。
ふと、生暖かい吐息に頬が撫でられたような気がした。振り向けば、3対の紅い目が将典を睨みつけてきている。
幻だ。槐州で倒した三つ首の大蛇の。
港人足の男の周りに集まる者たちの会話が耳に届くものの、将典にはどこか遠くで響いているように聞こえた。
「生きたままなんて正気?」
「魔獣が逃げ出したらどうするんだ」
「どうもしないんじゃねえのか。祭家の市長様にとって、周りは袖の下を渡してくるヤツか、そうでない邪魔者か、それだけだな」
「江都の人たちにとっても、魔獣は見世物に過ぎないんでしょうねぇ」
「そうやって金集めか。祭家の市長様の手元には唸るほど金があるんだろうな」
「そりゃあ、天下を取るためには、金はいくらあっても足りねえよ。将家の当主を蹴落として、陛下の一番近いところで権力を振るうのが、祭家筆頭の堂上侯爵の願いなんだろうからな」




