第34話 国譲り状
1週間後、将典は滄州へ向かう船の舳先に立っていた。
船首が波を切り裂いている。
見渡す限りの大海原。波は穏やかでも、時折、船体が横に揺れる。
空は雲が垂れ込めているが、所々、雲の切れ目から傾き始めた日差しが降り注いで、海面がきらめく。
夜明け前に江都を発ってから、ずっと飽きることなく、将典は目の前の光景を眺めていた。
乗っている船は、千里の商会が所有する最新鋭の鋼鉄製貨物船。従来の船なら滄州到着は翌朝になるが、新型機関のおかげで夕方には着く。同じ距離を走る鉄道とほぼ同じ所要時間だが、あちらは故障や事故による遅れがたびたび生じて、予定が見込めない。
将典は、潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
『私は叔父上のような貿易商人になります! なって、船に乗って大海原に漕ぎ出したいです!』
幼いころに抱いた夢に、今、この時だけ浸っていた。
けれど、大切なひと時は途切れる。
「何をなさっているのですか?」
後ろから声をかけられた。声の主は利奈子。
彼女がこの船に乗っているのは、「私も同行させてください」と頭を下げられたから。
『私たちが貴族だからだ』
将典が言い放った後、利奈子は「これからどうなさるのですか」と言葉を絞り出すように問いかけてきた。
隠すこともはぐらかすこともせず、将典が「近いうちに槐州へ視察に行く」と答えたら、頭を下げて頼みこんできた。「視察」の意味を悟って、彼女は唇を噛みしめたが、すぐにかき消した上で。
『私と一緒なら、槐州での冨迫家の影響力を使うことが出来ます。……差し押さえも順調にいくはずです』
頼まれた将典は、最初こそ渋ったものの、彼女のこの言葉で首を縦に振ることにした。もちろん、彼女の父である冨迫伯爵の了承を取る、という条件を付けた。
――そこで挫折してくれることを、いくらかは期待したのだが。
翌日には、伯爵から手紙が届いた。娘の無礼を詫び、槐州行の同行を託す旨が書かれた丁重な手紙だった。体面を保ちつつも、娘を案じる親としての伯爵の苦悩が滲んでいるのを、将典はその手紙にかすかに見た気がした。
そんな彼女に大切な時間を遮られても眉をひそめなかったことに、将典は己にわずかな驚きを覚えた。
加えて、
――着物姿でよくここまで来たな。
乗船時に見た彼女の姿を思い出して、足元の踏ん張りがきかないにもかかわらず、揺れる船の上を手すりを伝いながら舳先まで来たことにも。
――広い海が心を穏やかにさせているからだろうか。
それでも、振り返らずに、大海原を見続けることを優先して、
「海を見ている」
一言だけ返した。
――そういえば、昔も向こう見ずなところがあったな。
――海へ落ちるなよ。そんなことになったら、ひどく厄介なことになる。
そんな感情も入って、愛想のない言葉にもなった。
「飽きませんか?」
「全く飽きない」
彼女の声に呆れが乗ったが、将典は気に留めない。
沈黙が漂い、船首が波を切り裂く音だけが響いた。
将典の真横に、利奈子が歩み寄ってきた。
「父と話をしました」
将典がちらりと横に視線をやれば、一人分ほど距離を置いて、着物姿の彼女は船が進む先をじっと見つめていた。
「槐州という不良債権を澤渡家に押し付けたのか、と私が聞けば、父は笑って否定しませんでした」
海への転落を防ぐために設けられた手すりを握る彼女の手に力が込められた。その様は、将典には父である冨迫伯爵への不満の表れに見えた。
――私からするば、その怒りの矛先は違うと思えるのだがな。
彼女から視線を外し、再び前を向く。
「不満を持つのは間違いだ。冨迫伯爵の選択は正しい」
「なぜですか! 槐州を捨てて、冨迫家に何が残るのですか。貴族として果たすべき責務を果たさずして、我が家は何のために存在するのですか」
「冨迫の家が残る。伯爵は政府で要職を占めている。これ以上、何を望む?」
「父は民のことを全く見ていません。皇国のために働こうとしているわけでもありません。貴族として、富み栄えることしか考えていない。なのに富み栄えていない今に、不満しか持たず、私のことも栄えるための駒としか見ていないのです」
将典には、彼女の言葉が溜め込んだ不満の吐露に聞こえた。私はもっと自由に生きたい、と。
「滄州を栄えさせる澤渡家と、槐州を捨てる冨迫家では、何が違うのですか」
「選択の問題だ。澤渡家は滄州を選び、冨迫家は槐州を選ばず江都を選んだ」
「それだけですか」
「人の問題でもある。母上は滄州知事として働いた。叔父上も商会を通して滄州のために働いている。冨迫伯爵も槐州知事であったが何をした? 木造船から金属船に変わった時代に何をしていた?」
将典が横を見ると、利奈子は俯き、大きな溜息を吐いた。
「父も同じようなことを言っておりました」
将典の眉が上へ少し動いた。
『周りが口にするほど、冨迫伯爵は無能ではないです』
かつて聞いた千里の言葉だ。伯爵は槐州知事の在任中に何もせずに傍観していたわけではない。いくつもの施策を講じていた。
『ただ、時流を読むのが結果的に少し甘かったり、運を味方につけられなかったのです』
その時の千里の目も、将典は思い出す。「甘く見ると足元をすくわれます」と語っていた。
冨迫伯爵をはじめとする江都の大人たちに、己が見透かされている気がした。
けれど、続いた利奈子の言葉で、その感覚は雲か霧のように消えてしまう。
「その上で、澤渡様はなぜ槐州に救いの手を伸ばすのですか。皇国の支配を経済面から狙っているのですか」
――「皇国を支配する」?!
思わず、将典は笑ってしまった。あまりの突拍子の無さに。
彼女の顔に不機嫌さが露わになる。
「行動の理由は貴族だからだ、と先日答えたが、それでは納得しないのか」
笑いを収めて答えたら、利奈子の顔は縦に動いた。
「『他の貴族からは敬意を払われ、お坊さんたちからは尊重され、使用人たちから慕われ、民衆から愛される。そんな人になりなさい』」
彼女の顔にいぶかしげなものが浮かんだが、
「母の遺訓だ」
続いた言葉で、引き締まった。
それを見た後、将典は前を向いた。視界は大海原で満たされる。行きかう船は一隻も見当たらない。見渡す限り、海に浮かんでいるのは彼が乗っている船だけ。
「もっとも、他の貴族と僧侶からは遠巻きにされているがな」
糾問会で下条玄悔と対決した余波は今も続いている。事情をあまり知らない者からは、容赦のない人間、子供らしくない扱いづらい人間と見られている。
加えて、学園での呼び名「化け物」も、外へ広まりつつあった。将真一郎の側にもぐりこんだ武樋貴郎の手によって。真宙からの報告だ。
それでも、将典の声に己を卑下する響きは欠片も混じっていない。
空を悠々と飛ぶ1羽の海鳥が見えた。
「それは自分の身から出た錆では」
「その通りだ」
利奈子の言葉にも、そう答えたうえで、再び彼女に向き直り、胸を張って言う。
「家の名誉を守るためにしたことだ。後悔はしていない」
「だから、残った使用人と民衆に媚びるような行動をとるのですか」
口にしてから視線をそらした彼女の横顔には、自己嫌悪の色が浮かんでいるように見えた。「媚びる」ことすらできない自分を責めるように。
そんな彼女に、将典は「ひどいことを言うな」と笑いながら言ってから、語気を少し強めて続ける。
「媚びるつもりは欠片もない」
利奈子はその言葉に唇を噛みしめた。
「槐州に手を出すのは当家に余裕があるからだ。祥雲院へ寄進する分が丸々浮いているところに、槐州の話が転がり込んできたからな」
ただし、先日開かれた軍関係の会議の場でされた真一郎の発言によって、今年中の軍の槐州派遣の可能性は潰えた。
槐州は単独で魔獣討伐にあたらなければならない。滄州から出来ることは支援だけ。
「行き当たりばったりでございますね」
「巡り合わせの運だ」
彼女の八つ当たりのような言葉には、さらりと受け流す。
船が左へぐらりと揺れた。
利奈子が後ろへよろめき、手すりにしがみつく。将典は何事もなくやり過ごすが、万一を考えて助けの手を差し伸べる用意はする。危ないな、とわずかに眉を顰めながら。
けれど、何かが彼女の感情を逆なでしたのか、トゲのこもった声になった。にらみつけても来る。
「澤渡様には野心はないのですか」
将典の心には響かない。
――私の全ては澤渡家のために。
だから、淡々と返すだけ。
「野心? そんなものはない」
利奈子の目が細められた。つまらない男、あるいは意気地なし、とでも言いたげに。
将典には、家によってがんじがらめにされた彼女の不満の裏返しのようにも見えた。
「野心はない」と答えたが、将典は己の天命を見定めている。
それを、元使用人でもない、家の外の人間に堂々と明かすのは初めてのこと。
『将典様! お庭を案内してくださいませ!』
己の境遇にもがく古い知り合いへの、将典なりの優しさだったのかもしれない。
「だが、目標はある。華やかで新しい菓子、スイーツをこの皇国中に広めるという目標を持っている」
利奈子の目が大きく丸くなった。だが、すぐに……。
突然、船が大きく揺れた。
「きゃっ!」
着物姿で足元の踏ん張りがきかない利奈子が、身体を揺らして、大きく傾く。
海への転落を防ぐ手すりの外へ。掴んでいた手すりから手が離れる。
利奈子の瞳に、船に当たって砕ける白い波しぶきが映り、恐怖が浮かんだ。
だが、すぐに反対側に引き寄せられる。力強く。
勢い余って、彼女の身体は将典の胸の中へ納まった。
潮の香りに混じって、ほのかに甘い香りがした。とはいえ、将典の中で生まれたかすかな感傷は、海への転落という厄介事を避けられた安堵によって、瞬く間に上書きされる。
「あ、ありがとうございます」
逆に、利奈子は将典から身体を離したが、その顔を紅く染め、下を向いた。
そのまま、己を落ち着かせるように、胸元に手を当てて、一度二度と大きく息を吐く。
そして、顔を引き締めると、
「澤渡様へ、父より手紙を預かっております」
懐から一通の手紙を取り出して、差し出してきた。
受け取った将典は、
「断ち切れ」
短い詠唱を唱えて、わずかな量の彩気を操る。
水が飛沫となって手紙の封を切った。
利奈子が驚いたように目を見開いたのを横目に、将典は中身に目を通す。眉間に深いしわが寄る。
「手紙に書かれてあることは知っているのか」
問いかけに、利奈子は首を横に振った。
「存じませぬ。伺ってもよろしいでしょうか」
「国譲り状だ」
正確には、将家から槐州知事より上位の命令権が与えられる無期限委任状。最後に出されたのは、大政奉還がなされる前の60年ほど前になる。
同時に、冨迫家による澤渡家への恭順宣言でもある。
利奈子の目が大きく見開かれた。
「時代錯誤なものだが、今でも法的に有効なもの。なにより、当家にとって極めて有用だ」
そう口にしておきながら、将典の眉間のしわは深いまま。誰かの操り糸でかすかに引かれた気がしたから。
けれど、将典はそんな不愉快さを手紙と一緒に胸のポケットに仕舞い込み、前を向く。
夜の闇に覆われ始めた水平線の先に、灯が見えた。
灯台の灯だ。滄州州都・瀾昌に入る湾の入口にある、あの灯に違いない。
将典の手すりを握る右手に力がこもる。
――大人たちに踊らされても、振り付け通りには動かない。
――私はただ目の前の難題を片付けるだけだ。




