第26話 婚約事情
将典と利奈子の婚約は互いの祖父たちによって決められた。表向きは、大政奉還前から続く両家の血盟を再確認する、情の一面が強調された。裏では、豊かな滄州からの一層の支援を期待する冨迫家と、槐州の山々にある森林資源とそれを活用した木造帆船の造船能力を交易に生かしたい澤渡家の利害の一致があった。
けれど、婚約から15年。わずか15年でも、社会は目まぐるしく変化している。一番大きい変化は、金属製汽船の飛躍的な成長と、それによる木造帆船の価値の暴落。
『父上がその流れを見極められてなかったとは考えられませんから、つまりは、利よりも情を優先させたのでしょう』
とは、糾問会後に江都へ来た叔父の千里が、将典に語った言葉。
『あるいは、父上にはご自分が死ぬ予感があったのかもしれません。少し前に母上を亡くされて、気落ちされてましたから。その意味では正解でした。父上が亡くなり、姉上がほぼ一人で澤渡家を背負っていくことになってからは、先代の冨迫伯爵様には色々と支えていただきました』
澤渡家を一人で背負っていた母の姿を、将典ははっきりと思い出すことが出来る。多くの人に支えられていたことも見てきた。
だからこそ、母を助けよう、支えよう、背負う物を少しでも分けてもらおう、日々頑張ってきた。
その母はもういない。
『ですが、その借りはもうすでに全て返し終えています』
将典と千里、二人の間に広げられた槐州の地図の上に置かれていたのは、冨迫家から送られた1通の手紙。
千里はその手紙に一瞬だけ、不愉快そうな視線を向けた。
『むしろ、最近はあちらの借りが増える一方』
糾問会の一件で送られた手紙で、中身は婚約の破棄をほのめかしたもの。
当時の新聞でも取り上げられた。将典たちは新聞記者に話していないから、どこからその情報が流れたのかは……。
糾問会が冨迫家の思惑通りに運んでいたら、沈没船からいち早く脱出できたのだが、現実はそうならず。
残されたのは、冨迫家に足蹴にされた澤渡家、という構図。
「世紀の薄情者」「涙もない人でなし」などと、一部の新聞では冨迫家を非難する記事が書かれた。
もちろん、向こうからは関係改善の意向も届いているが、
『なので、将典殿の婚約の件は、将典殿の自由になされて結構です』
わずかに前のめりになった千里の目には、婚約破棄を促す色があった。
――私のあずかり知らないところで、叔父上と冨迫家の間で不愉快なやり取りがなされたのか。
それでも、将典は冷静に結論を下す。澤渡家当主として。
『現状維持でお願いします、叔父上』
千里の目がわずかに見開かれ、次いで、探るような目つきへと変わった。
『理由をお聞かせ願えますか』
『冨迫家に利用価値があるからです。槐州の窓口のひとつとして使うにせよ、中央への伝手として使うにせよ』
当代の冨迫伯爵は、2年前まで槐州知事を務め、今は政府の要人だ。加えて、「枢府」、名目上は国家元首「皇家」の諮問機関であり、「将家」を長として貴族当主で構成される実質的な国家指導組織、にも名を連ねている。
『……よろしいのですか?』
ところが、冨迫家の誇りであった造船業は今では瀕死状態。広大な森林は、船という付加価値を失い、安価な丸太しか生まない。伯爵が新しく手を出した事業は次々に失敗。政府要人と扱われても、実際は権限のない名誉職。
伯爵家と言えども、実態は砂上の楼閣なのは、事情通なら知っていること。もちろん、将典も、千里も。一部の新聞では「公森家の次に没落する貴族は冨迫家」などと書かれる始末だ。
千里の問いかけに、将典は頷きで返した。
利奈子や冨迫家に情があるからではない。
むしろ、逆。感情はない。
江都住まいの利奈子に対して、将典は学園に入るまで江都に来る機会が少なかったせいで、婚約後も接点はほとんどなかった。けれど、それよりも大きい理由は、
――貴族の当主の結婚は政略。
千里からは「幸せな結婚」を望まれていることは察しているが、
――叔父上が幸せなら十分だ。
2年前に千里が結婚した際の、彼の幸せに満ち溢れた顔を思い出すだけで、将典の心は温かくなる。
相手は、秘書として千里をずっと支え続けていた女性。
『本当。あの子たちったら、手がかかるんだから。でも、これで大丈夫でしょ』
横で母がにこやかにつぶやいていた言葉も一緒に思い出す。
今年には彼らの間の子供も生まれる。だから、
――私の全ては澤渡家のために。
そして、将典が千里に明かしていない、冨迫家とのつながりを断たない理由、それも最大の理由がある。
「槐州事変」。
「パルヴニール」の序盤にあるシナリオの1つである。ゲームの主人公が魔獣の脅威にさらされる槐州を救うもの。救う方法は様々。主人公が一騎当千を行う、傭兵を雇うか、などだ。逆に、主人公が何もしなくても、来年の軍の遠征で鎮圧される。「愚者」はこのシナリオを通じて冨迫家を没落させ、利奈子を無理やり愛人にするルートを好んでいた。
だが、将典にとって問題はそこではない。
注目したのは、軍の遠征で鎮圧された際に表示される文章の中に「隣州にも被害が及んだ」の一節があること。槐州は深い山と海に囲まれている。接している州は滄州のみ。
――滄州の民に火の粉が降りかかるなら、
――澤渡家当主として、その火の粉は払わなければならない。絶対に。
だから、将典の中の優先順位は、自分の婚約よりはるかに上。スイーツの天命も下に置く。
『それよりも、叔父上。槐州へのテコ入れは念入りにお願いします』
実際、二人の間に広げられている槐州の地図には、いくつものバツ印が書き加えられている。黒のバツ印は魔獣が討伐されたことを示し、朱色のバツ印は魔獣の討伐に失敗し被害が出たことを示す。毎日届けられる情報から、黒のバツ印は日に日に数を増やし、範囲も広がっている。その中に、ぽつぽつと朱い印が灯っている。
『承りました』
将典の求めに二つ返事で千里がうなずくのは、「パルヴニール」のことは明かせなくても、槐州の危機感を共有できているから。
そうしたことを思い返しながら、将典は屋敷の書斎で紅茶のカップを傾けていた。
窓の外は、とうの昔に夜の帳が下りている。フクロウの鳴き声がかすかに聞こえた。
カップをソーサーに戻しクッキーに手を伸ばしたとき、目に飛び込んできたものに眉をひそめた。
仕事机の上に広げられているのは、槐州の地図。千里と話をした時よりも、朱色のバツ印は大きく数を増やし、まるで血がにじむように赤く広がっている。
クッキーに伸ばしていた手を戻し、腕を組んで、地図を覗き込む。
今日の新聞の整理をしていた真宙がいぶかしげに見てくるが、将典は無視する。
――この状況は明らかに異常だ。
もともと、槐州は、発明された銃火器によって初めて魔獣が掃討され開拓された土地が半分を占めている。深い山々はいまだに魔獣が跳梁跋扈する地。
――だから、見過ごされているのか?
澤渡家から見ると、隣の槐州は本拠地の滄州を魔獣の被害から守る大切な緩衝地。それは今も変わらない。
――叔父上をはじめ、滄州の者たちは危機感を抱いている。
澤渡家、冨迫家、両家ともがその血で地面を染め、多くの悲劇が起きた地でもある。
――なのに、冨迫家からは危機感が感じられない。
――槐州から援助を求める声は届いているはずだが。
――応える余力がないのか?
身体を起こすと、美海が去った後のことを思い出す。
「冨迫家の姫は何ゆえ、ああも頑なな態度をとっていたのか」
――家の財政は逼迫。地盤の槐州には危機が迫っている。
――状況を理解しているなら、上辺だけでもいいから、愛想よくすればいいものを。
――それとも、理解できない愚か者なのか。
美海と別れた後、将典たちが読書室に戻り作業を再開しても、利奈子は何もせず、ただじっと同じ机に座ったままだった。




