後編
いつの間に? 何でここに?
そんな疑問が浮かんだが、それを気にしている余裕はない。
「ひっ、うわ、あ、あああああっ!」
雄大がパニック状態になってしまい、悲鳴をあげて資料室の方向、前方へと駆け出した。それにつられるように、晃も駆け出す。しかし、雄大とは別方向の左側の廊下を。
「ちょっ、待っ……!」
離ればなれになるのはまずいと思って呼び止めるも、聞こえないのかそのまま走り去ってしまった。
――くそっ!
思わず心の内で悪態をついてしまう。こんな時に離ればなれになってどうするんだよ!
一瞬呆然とするがしかし、そうもしていられない。
「…………い……の…………」
ブツブツ、ブツブツ。呟くソレ。距離が屋上の時より近いからか、さっきよりははっきりと聞こえる。しかし、まだ内容までは分からない。
「はぁ……はぁ……っく、そ……っ」
早く二人を追いかけたいのに、この場から逃げ出したいのに足がすくむ。じりじりと後ずさるが、ソレも少しずつ近づいてきているため意味がない。
「…………すけ……たす……け……」
少しずつ鮮明に聞こえてくる声。おぞましい。全身から冷や汗が流れる。
「たすけ、……けて……たす、けて」
――助けて? そう言っているように聞こえたが、気のせいか?
コレは所謂、幽霊というものなのだということはもう否定する必要はないだろう。幽霊ということは、死んでいるということで……なら、コレは何から助けてほしいというのか。死ぬときに苦しんで、それを今でも苦痛に思っているとでもいうのだろうか。
「……い、…………だ……」
すっとその青白い両手を俺に向けて伸ばし、頬にそえる。触れられた場所はひやりとした感覚と、例えようもない嫌悪感をおぼえた。
死んでなお苦しんでいる、というのならたしかに可哀想だとは多少は思う。しかし、この世のものでないものに対する嫌悪感はどうしても拭いされない。
ずしり、と肩が重くなったような気がする。ソレは顔を近づけてくる。顔を背けようとするが、手で押さえられているため出来ない。その濁りきった視線から逃れたいがために目を閉じてしまおうかとも考えたが、何をされるか分からないという恐怖が勝ってしまう。
「……た……痛い……いた……い……た……」
相変わらずブツブツと呟き続ける。その声が、目が、手の感覚が、俺を狂わそうとでもするかのように襲う。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
ひゅっ、とひきつった音が俺の喉から鳴った。
「ん、何なんだ、よ……何がしたいん、だよ……っ! 将大さん、死んだのって、お前のせいなんだろ……!?」
恐怖に耐えきれず、さっきから思っていたことを吐き出す。将大さんが飛び降りたのは、コレのせいなのではないだろうか。
俺がそう言うと、いきなり呟くのをやめた。しん、と辺りは静まり返り、響くのは俺の荒い息づかいのみとなる。
ソレはじぃっと穴が開きそうなほど、目を見開いて俺を見つめてくる。
一体何がしたいんだ。わけが分からない。気持ち悪い。
「…………」
無言で見つめあって、数十秒ほど経ったとき、俺の頬に痛みが走った。ソレに直接触られている感覚はないものの何かの力が加えられているらしく、ずきりと刺すような痛みが感じられる。
そしてその手をずらし、目や頭、腕などにも触れてきて、その場所からも同じような痛みが走る。最初は耐えられないほどでもなかったがだんだんと痛みが増し、今ではあまりの痛さに叫びだしてしまいたいほどだ。
「……っ、い、ってえ……!」
一番最初に触れられたからか、頬の痛みが特に酷い。喋ることすら苦痛だ。
目は抉られるような痛み、頭は鈍器で殴られているような痛み、腕は骨が折れている箇所を更に殴られているような痛み。
痛い、痛すぎる。さっきから目の前のコレは「痛い」と言っていたが、まさかこれがその痛みなのだろうか。
「…………い」
また、ソレが呟き始めた。と同時に痛みが更に増した。意識が遠退きそうになるが、その痛みで覚醒して気絶することもできない。
頭がうまく回らない。ソレが何かを言っていることは分かるが、何を言っているのか理解できない。
「********」
聞こえない。
意識が、目の前が白く、痛い、死にそう、逃げないと、逃げたい、動けない、この場に蹲ってしまいたい、体が、痛い。
「……だ、れか、助け、て……っ」
と、その時、痛みが消えた。何が起きたのか理解できないまま、ばたりとその場に倒れこむ。疲れと痛みの余韻とで力が入らない。
「何が……?」
辺りを見回すと、アレは消えて俺だけしかいなかった。何故だ? 何故急に消えたんだ? あの激痛はなんだったんだ? 結局、アレは一体何がしたかったのだろうか。
しばらくそのままの状態で息を整え、体をむくりと起こす。
「なんだか分かんないけど、助かった、のか?」
わけが分からない。分からないがしかし、助かったというなら儲け物だ。
体を軽くほぐすが、特に異常は見受けられない。あの激痛も、今では余韻さえない。何だったのかと首を捻る。が、考えても分かる筈がない。とりあえず雄大と晃の二人を探すか、と足を踏み出す。
「たしか、雄大は資料室の方に行ってたよな……」
そう独り言ちて前方に見える廊下を歩き始めた。
***
コンコン、とノックする。中からは「…………頼斗か? それとも晃か?」と声が返ってきた。中に人間がいるのが分かったから室内に入る。蹲る影が一つ。そろそろとこちらを向いた人間の顔には、恐怖の感情が張り付けられていた。
手を伸ばして相手の体に触れる。反応が薄い。やっぱりさっきの男の方がいいな。涙を浮かべて、本当に痛そうにしていた。あんなに反応がいい人間は初めてだ。よほど相性が良いんだろう。
この人間はいらないから食べることにする。口を開ける。「ひっ」と怯えたように声をあげられた。失礼な人間だ。これでも生前は可愛い女の子だったのに、そんな風に怯えるなんて。まあいいや。いただきます。
あんまり美味しくないな、この人間の魂。この男の兄らしい人間のはまあまあ美味しかったのに。
こんなのじゃ、全然ダメだ。もっと、相性の良い魂が食べたい。相性の良い体が欲しい。今のは大分ガタが来てしまっている。痛くて痛くて仕方ない。体を替えないと。
そのために、力を溜めないといけない。体を替えるには力が必要だから。さっきの「ヨリト」とかいう人間の他にもう一人いたはず。あの人間も食べよう。
早く、この痛みから逃れたい。早く、体を替えたい。
誰か助けて。
***
コンコン、と俺は資料室の扉をノックした。
「雄大? いるか?」
資料室の鍵は鍵穴があるタイプではなく、回して施錠するタイプだ。その回す部分は部屋の内側にしかないため、普段は施錠されていない。誰でも自由に入ることができる。その鍵が今はかけられているから、多分雄大が中からかけたのだろう。そう思って確認のために声をかけるが、反応がない。
「雄大、いるなら返事をしてくれ。俺だ、頼斗だよ」
もう一度声をかける。しかし、変わらず何の反応もない。
鍵が施錠されているからここにいるはずなのに、どうしたのだろうか。まさか、アレに何かをされてしまったのではないだろうか?
そう思い至り、どうにか中に入れないかと考える。と、隣の図書室の扉が目に入った。たしか、図書室と資料室は中で繋がっていたはず。そして図書室の窓は、図書委員の怠慢で鍵がかかっていないことが多い。なら、ここから入れるのではないだろうか。
試しに窓を横に引いてみると、予想通りと言うべきか、簡単に開いた。その窓枠に足をかけて図書室に入った。そして図書室の隅にある扉を開けて、資料室へ。
「雄大? おーい、いるんだろ?」
薄暗い室内を見回して、その姿を探す。資料室には窓がないから、光がほとんど入らない。携帯電話で照らそうか、と考えながら足を一歩踏み出すと、何かを蹴ってしまったらしい。躓いて転びそうになるのを堪える。
「っと、危ねっ。何だ?」
ズボンのポケットから携帯電話を取り出して、それを何となく確認する。
それを目にした瞬間、は、と間の抜けた声が俺の口から漏れた。
「……雄大?」
雄大の体が、そこに倒れていた。
一瞬硬直してから、はっと我に返って雄大の体を揺さぶる。
「おい、雄大? どうしたんだよ、しっかりしろよ!」
何の反応もない。最悪の想像が頭に浮かゆだ俺は、恐る恐る雄大の手首をとる。いやに冷たいその体温に不安が高まる。
「…………脈が」
ない。
雄大は死んでいた。
「――っ! う、うわああああ!」
そう分かった瞬間、俺は資料室の外へ飛び出していた。パニック状態になったままひた走る。どこへ向かうかなんて気にとめず、ただ雄大が死んだという現実から逃れたいがために走った。
すると突然、悲鳴が聞こえた。この声はまさか、晃か?
聞き覚えのあるその声に恐怖を感じながらも放っておくことのできない俺は、それが聞こえてきた方向へ向かった。
走りながら、何故さっき俺を襲わなかったのかと疑問に思う。あの時俺は動けずにいた。絶好のチャンスだったろうに、何故?
「くそっ、何がどうなってるんだよ……っ!」
苛立ちが口からこぼれる。肝試しに来たと思ったら将大さんが飛び降り、変な幽霊が出て、死にそうなくらいの激痛に襲われて、かと思ったらいきなり消えて、雄大が死んでいて、今度は晃らしき悲鳴が聞こえてきて。わけが分からない。
そんな苛立ちを感じたまま足を動かす。声がが途切れ途切れ聞こえてきて、そのどれもが苦しげなものだから余計に俺を焦らせる。
「晃っ!?」
声の発生源に近づき、俺は晃を呼びながら角を曲がる。
「……っよ、りと……。助け……っ」
黒い何かに巻き付かれ、息も絶え絶えな状態の晃の姿がそこにあった。その黒い何かは、屋上で見たアレそのものだった。
「晃、晃っ! 大丈夫か!?」
かなり怠そうに見える。腕を動かすことさえ困難らしく、手を俺に向けて伸ばそうとしたが途中でぱたりと床に投げ出してしてまった。
傍に駆け寄ろうと一歩踏み出すも、黒いソレが邪魔をするなと言うかのように行く手を阻む。少し躊躇いつつどうにか勇気を振り絞ってソレを通り抜けようと試みたものの、弾力のある壁に遮られているように前に進めず、晃が弱っていくのを見ていることしか出来なかった。
「あ、ああ……っ! や、だ。死にたくな……っ助け、助けてくれぇ……」
「くそ、くそっ! 何で、何も出来ないんだよ……っ!」
さっきの悲鳴のようなものでなく、かすれてしわがれた声で俺に助けを求めてくる。しかし、俺にはどうすることも出来ない。
「……う、あ……」
晃は小さな声で唸り、そのまま静かに動かなくなった。
「こ、う」
ショックで立ちすくむ俺を、黒いソレが体中を這うぞわぞわとした感覚が我に返した。
「――ひっ!」
――逃げないと。そうしなければ今度こそ、きっと俺は生きていられない。
そう直感で思った。まとわりつく黒いソレを振り払うように身をよじり、さっき来た廊下を戻る。振り向かなくても、追いかけてきているのは分かる。だからただひたすら走ることだけに集中した。幸い、あまり速くないためソレを振り切ることはそう難しくなかった。
しかし、そうして逃げたは良いものの、どこに向かえば良いのか分からない。晃は、鍵のかかった室内で死んでいた。アレがわざわざ鍵をかけて行くとは思えない。ということは多分壁をすり抜けるか何かしたのだろう。幽霊だからそういうこともできると思う。だとしたら、どこかの教室に入ったとしても意味はない。
「どうしたらいいってんだよ、くそっ」
こんな廊下のど真ん中で突っ立っていたら見つかるのも時間の問題。なら、意味はないけどどこか教室に入った方が時間が稼げる、か。
「ここから近いのは……体育館か。それなら体育倉庫か?」
右側の体育館に繋がる廊下を見て決断する。俺は体育倉庫に隠れようと足を向けた。
一分ほどで目的地に着いた。体育倉庫の中に入り、扉をぴったりと閉める。鍵はついていない。今はその方が逃げるときに楽で良いだろう。壁には小さな窓がついているが高い位置にあるし、十字の鉄格子も嵌まっている。あそこから出ることは無理だろう。一応窓が開くかどうか確認してみたが、案の定びくともしなかった。
どうやったら外に出られるのだろうか。外に出られないのは、十中八九アレが原因だ。幽霊パワーだか何だかで閉じ込めているのだろう。一種のポルターガイスト、ということか。
だとしたらアレを撃退するなり何なりしなければならないだろうが、俺にはそんなことはできない。ただの高校生にそんなことができるはずもない。とすれば、朝まで逃げ切る、くらいしかないのではないだろうか。朝になれば幽霊的な力が弱まる、と思う。実際はどうだか知らないが、その可能性はあるのではないだろうか。少なくとも夜より出れる可能性が高くなる気がする。
携帯で現在時刻を確認すると二時ちょっと過ぎだった。六時から朝だと仮定するなら、あと四時間。今の季節は日の入りが早いからもう少し短いだろう。
そこまで逃げ切れば良い、と一応の目安ができたことで少し余裕が出てきた気がする。そこで何気なく窓の方を向く。と、再び少女の形をとったアレが見えた。
「――っ!?」
声が出そうになったが、必死に堪える。大丈夫、まだこっちには気付いていない。
アレは反対側の校舎の窓を一つずつ覗きこんで確認している。こちらとの距離は大体十メートルほどか。その内こっちにも来るだろうことが予想できたため、窓からは見えないような位置、体育用具の影に隠れる。
じっと息を潜めていると、ひたひたと足音が近づいてくる。ぶつぶつと何かを呟いているのも聞こえる。また「痛い」だの「助けて」だのと言っているのだろうか。
気配が近づき、もうすぐそこまで来ていることが分かる。と、窓から入る微かな光が陰った。気付かれないように体をできる限り小さく丸める。数秒、数十秒が経ったとき、ソレは窓から離れていった。ひたひたという足音が小さくなっていく。足音も呟く声も聞こえなくなったとき、俺はようやく息をついた。どうやら気付かれなかったようだ。
よかった、と安堵のため息を口からこぼした。
――ダンッダンッダンッ!
その時、体育倉庫の扉が激しく叩かれた。びくっ、と肩を大きく跳ねさせる。バクバクと心臓の鼓動が速くなる。
何でまた、まさか気付かれたのか、さっきまで窓の方にいたのに、何でいきなり正反対の扉の方に。ぐるぐると疑問が渦巻く。
耳を澄ますと、たしかに扉の方からぶつぶつと呟く声が聞こえてくる。扉越しのためくぐもってはいるが、「痛い」「助けて」と言っていることが分かる。
すると、再度ダンッ! と大きな音が響いた。振動でここの空気も揺れる。
怖い。ドンドンと扉を叩く音が恐怖をあおる。そのせいで荒くなってしまう息が聞こえてしまわないように手で口を塞ぐ。
ソレは暫く扉の前に立って時折扉を叩いていたが、ひたひたと足音をたててどこかに立ち去ったようだった。それでもしばらくは気を抜かずに隠れていたが、数分たっても何もないことからようやく息をつくことができた。
「なん、なんだよ……」
さっき、何となく余裕が出てきたような気がするとか思ったが、あれは嘘だった。余裕なんてない。怖い。アレが怖くて仕方ない。恐怖のあまり涙が出て、視界がぼやけてしまうほどだ。
――誰か、助けてくれ。
アレは「助けて」だのと言っているが、それはこっちの台詞だ。こっちこそ助けて欲しい。
しかし、そう思っても誰も助けになど来たりはしない。この状況は変わらない。その現実に思わず項垂れてしまう。
あとどれくらい耐えればいいんだと携帯で時刻を確認。二時半だった。さっき確認したときから三十分しか経っていないことに驚き、時間の流れにまで苛ついてしまう。早く、早く、朝になってくれ。早くここから逃げ出したい。この恐怖から逃れたい。早く、早く、早く――。
「――見つけた」
と、すぐ近くから甲高い声がした。
「っひ、うわああああ!?」
その声に顔をあげると、目の前にアレの顔があった。俺は悲鳴をあげてそこから飛び退こうとしたが、それより早くソレにがしりと体を掴まれてしまった。
「離せ、離せっ!」
「……痛い、痛い、痛い……」
必死に抵抗して逃げ出そうとするが、力が強くて出来ない。
俺が身をよじって抵抗を続けていると、ソレの手が俺の頭を両手で挟み込むように掴んできた。と同時にソレの体があの黒い塊に戻り、ぞわぞわと蠢くソレが俺の体中にまとわりついてきた。
ソレが俺の体を包み込むように広がり、ソレに飲み込まれたような形になる。俺の視界は真っ暗になった。ソレの甲高い声が四方八方から今までよりはっきりと響く。
「私を助けて。苦しい。体が痛い殴られた痛い痛い痛い蹴られた痛い痛い痛い痛い骨が折れた痛い痛い痛い痛い息ができない痛い痛い痛い痛い火であぶられた痛い熱い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
気が狂いそうだ。コレの感情が俺の中にまで入り込んでくる。怖い。痛い。痛い。痛い。
ああそうかあの時の痛みはコレが経験した痛みだったのか記憶が入ってくるいじめられて死んで幽霊になって体が痛いから新しい体が欲しいのか俺の体が欲しいのか痛い痛い痛い涙が出る誰か誰か誰か誰か誰か。
「助けてくれ……っ」
俺の言葉は、生きている人間には届かなかった。
「痛い痛い痛い痛い痛い。だから――」
今まで何人か、すでに取り込んできたのだろう。元々の少女の声だけでなく、別の女の声や男の声など複数の声が聞こえてきた。
――お前の体を私に僕に俺にちょうだい。
それでこの痛みから逃れられるなら、いいですよ。
痛みのあまりそう答えた俺を、目の前のソレは嗤った。
俺の意識はここで終わった。




