不可逆な演算、あるいは硝子の檻
観覧車という装置は、きわめて暴力的な構造を持っている。
地上から数10メートルの高さまで、密閉された鋼鉄と硝子の箱に人間を閉じ込め、逃げ場のない時間を強制的に共有させる。
その円環は、一度動き出せば、演算が終わるまで止まることはない。
志摩巧は、スマートウォッチが刻む正確な時間を視界の端に収めながら、向かい合わせに座る瀬戸亜弓を見つめていた。
亜弓さんの心拍数は、手首のデバイスを介さずとも、その強張った肩と、露出したうなじの赤みから容易に推察できた。
彼女の持つ威勢の良さは、この狭い立方体の中では、形を失って霧散している。
「志摩くん。……あの、さ。さっきの話の続きなんだけど」
亜弓さんの声は、打楽器を叩く時の迷いのないリズムを失い、幼い少女のように震えていた。
僕は観覧車の駆動音が響くたび、リミニス・ベースの地下にある5Gの届かない静寂を恋しく思った。
情報の真空地帯であれば、これほどまでに残酷な言葉を紡がずに済んだのかもしれない。
「瀬戸さん。結論から申し上げます。僕は、倉田デザインへ移籍します」
志摩さんの言葉は、静謐な論理に貫かれた標準語だった。
それは対話というよりも、すでに確定した数値を読み上げる作業に近い。
亜弓さんは、膝の上で握りしめた拳を震わせ、自分を奮い立たせるように顔を上げた。
「……なんで。あそこには、あの人がいるから? ずっと、あの人の過去に縛られてる、理花さんがいるからなの?」
「そうです。理花さんは、柳さんの残した不自由さを、唯一の繋がりとして生きています。最新の再生医療も、義肢も拒んで、止まった時間を守り続けている。僕は、その不自由さを管理し、彼女の足になることを決めました」
志摩さんの眼鏡の奥にある瞳には、一抹の迷いもなかった。
彼は、柳さんのデジタルフットプリントを追い続けるストーカー的な献身を、自分自身のアイデンティティとして再定義している。
それは、誰からも報われることのない、自己完結した呪いのような愛だった。
「そんなの、おかしいよ! 巧くんは、自分の人生を捨てちゃうの? ずっと影を追いかけて、一生を終わるつもりなの?」
「人生を捨てているわけではありません。論理的な選択です。僕にとって、理花さんの影として存在すること以上に、自分を正しく定義できる場所はない。瀬戸さんのような、前向きで健全な恋情とは、演算の基盤が異なるのです」
志摩さんの冷徹な敬語が、観覧車の空気を凍りつかせる。
窓の外には、情報の波に飲まれた都市の光が広がっていた。
ARのネオンが、硝子に反射して亜弓さんの頬を不気味に彩る。
彼女のスマートウォッチが、限界を超えた数値を警告するように微かに振動した。
「……あたしは? あたしがずっと、巧くんのことを見てたのは、どうなるの? 練習量をトラッキングして、少しでも追いつこうとしてた、この時間は?」
「アーカイブとして、大切に分類しておいてください。僕には、それを受け取るための領域がもう残っていない。僕の未来は、理花さんという過去によって、すでに完全に予約されています」
密室の中、亜弓さんの恋が粉砕される音が聞こえた気がした。
それは、律さんが打鍵の瞬間に生み出す、あの完璧な音の対極にある、修復不能な破壊の音だった。
日常の足元が崩れるような違和感が、観覧車の揺れと同調して僕の三半規管をかき乱す。
頂上を過ぎた観覧車は、重力に従ってゆっくりと下降を始める。
演算は終了に向かい、出力される結果は変えられない。
亜弓さんは、声を上げて泣くことさえ許されないような志摩さんの静謐な拒絶を前に、ただ唇を噛み締めていた。
「……わかった。巧くんがそこまで言うなら、あたしは、もう。……でも、後悔しても知らないから。あたし、あんたよりずっと、自分の足で立ってみせるから」
「ええ。あなたは、そうあるべきです。瀬戸亜弓という個体は、物理的な振動を世界に刻むことで、その実在を証明する人ですから」
志摩さんは、最後まで丁寧で、そして致命的に冷たかった。
地上の光が近づき、鋼鉄の檻が開く。
外気に触れた瞬間、亜弓さんは一度も振り返ることなく、人混みの中へと駆け出していった。
志摩さんは、その背中を見送ることもせず、スマートフォンを取り出した。
そこには、倉田デザインの事務所のログと、理花さんへ送信する予定のメールの下書きが、完璧な形式で保存されていた。
冬の冷たい風が、僕の体温を奪っていく。
メイプルシロップを塗ったチキンのような、偽りの平和が支配するクリスマスまで、あとわずかだった。




