8.
残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください。
――何か、いる。
思った時には、もう数メートルしか距離がなかった。
黒い塊。いや、獣。
「っ...」
犬...?
でかくない?
直後、それは明らかに私に狙いを定めて駆け出した。
逃げなきゃ。そう思うのに、動けない。
飛びかかってくる四足の獣。
剥き出しの牙が、低い唸り声が、生温い息が、目の前に迫っていた。
どんっ、と衝撃を受けて転がる。
地面に叩きつけられ、呼吸が止まった。
「...っ、ぐっ」
いやだ、死にたくない。
パニックだった。
あまりに恐ろしくて、無我夢中で身をよじった。
けれど、いくらもがいても身動きが取れない。
重い、苦しい、痛い。
助けて、誰か、たすけて…―
抵抗する体力が続かなくなり、諦めて全身から力を抜いた。
荒い呼吸が戻ってくる。少しずつ痛みは遠くなり、視界が鮮明になっていく。
生きてる...?
そっと首を動かして自分の体を確認し、息を呑んだ。
再びパニックになりかけて、目を閉じる。
「...っ」
落ち着け、落ち着け。
ゆっくりと目を開けて、もう一度、現状を確認した。
見えたのは黒い毛皮。というか、さっきの獣。
顔のすぐ横に、頭がある。動物特有の匂い。
開いた口から覗く鋭い牙と、だらりと垂れた長い舌。光のない、目。
「...っ...うぅ」
自分の体の上で、動物が死んでいるという事実。
生々しすぎる、死。
感情がかき乱される。涙が勝手に流れて止まらない。
みっともなく呻き泣きながら、必死に獣の下から這い出した。
上半身が少し楽になったところで、パーカーがじっとりと重く湿っていることに気づいた。
血だ。
私のじゃない。
生温かい、獣の血。
全身に嫌悪感が走って、吐き気が込み上げた。
「うっ...げほ、ごほっ...」
...いやだ、もう嫌だ。こんな所は。
ふと、強く握りしめられた自分の右手に目がいく。
拳は強ばって、自分の意思ですら解けない。
無意識に握りこんでいたのは、あの短剣。
赤く染った刃に血脂がべっとりとついている。
私の右手も、血まみれだった。