46.解毒 4
46. Antidote 4
眼にもとまらぬ速さだと評するのもばからしいので、僕はこんな喩えを思いついた。
まるで、こちらがよそ見をしているようなのだ。空腹のあまり、人間の方が手に取っている美味しそうな食べ物に釘付けになっていて、僕のお嫁さんに短く吠えられるまで、子供たちがあらぬ方向へ走り出しているのに気が付かないのと同じではないか、と。
最後に認めた彼らを再び視界に収めるまでの、僕の眼に映らない彼らの行動は、たとえ無限の時間がかかっても、一瞬の内に縮約されてしまうと言うことだ。
凄いぞ、なかなか他の狼だったら思いつかないんじゃないかなと自惚れてみる。
視界から外れたなと感じた瞬間に決まって彼の姿は霞むので、今度こそは目で追うぞと思っていても、いつもその初動すら見逃してしまったなという気分にさせられるのはそう言うことだったのだ。
僕が狩りの終わりに目の当たりした、狼らしからぬあの動き。
風ですらそれには追いつけず、遅れてTeus様の重たそうな外套をまくり上げるが、当の本人は少しも動じる様子が無い。
これもまた驚くに値しないと言うのなら、お二方はどれだけの深さで通じ合っていると言うのだろうか。
遠く離れてしまったところで、行われる会話を、僕は息を呑んで見守ることになる。
振り回された気でいるのは、僕だけなのですか?
Teus様は、遠目に僕のことをちらとだけ見たような気がしたが、それからすぐに自分に牙をかけようとする狼に向かってこう答える。
「ああ、そうだ。」
「俺がやったよ。」
“Teus様、なんでっ…”
彼がそのような返事をするとは思っていなかった。
僕はあの夜にTeus様がとった行動を、彼自身は覚えていないものだと確信していた。毒入りの酒に頭をやられたのに違いないと決めつけることは出来ないにしろ、僕に振った暴力は、少なくとも今ここにいるTeus様の意志ではない、と。
都合よく、彼の中の存在を認めることで、どこかあの事件を無かったことにしていたのだ。
自覚があると、そう言ったのだろうか。だから僕の考え方が揺らぐとかではないけれど、少しショックだ。
それともFenrirさんに気圧され、そう思うことにしただけ…?
「ふん、久しいかと思えば、こいつに鞭をふるってご主人様気取りとはな…」
皮肉もたっぷりに、Fenrirさんはその答えを聞いて満足げに笑う。
「狼は上下関係に厳しいと聞いていたけれど。それより何処で覚えたんだい? そんな物騒な…」
まるで因縁の再会を憎らし気に喜ぶように、彼らの台詞は含みを持って一触即発だ。
僕はいないものとして、互いが恐ろしい形相で相手のことを睨みつけているのだと声でわかる。
「それで、何の用だ? 俺も同じように虐げることが出来ると思っているのなら…ああ笑ってやるとも。」
「まあ…そうだね。」
薄く笑って流せるのだから、肝が据わっているという次元ではない。
彼は、落ち着き払ったと言うよりは、覚悟を持った口調でこう呟いた。
「償いに、来た。」
「ほう…?」
目の端で呆気に取られている僕を捉えると、Teus様は続ける。
「あれだけSkaを辛い目に遭わせたんだ。俺だって、何かしらの代償を払うべきだと思っているよ。」
「……。」
Fenrirさんの威圧的に立ち上がっていた尾から、すっと力が抜ける。
「ただ、奪われる側であるためには、誰かに奪って貰わなくちゃならないだろう?」
う、奪う…?Teus様何を…
「その為に来たんだ、やってくれるよね?」
その名を呼ばれた狼は、何も答えない。
「お願いだ、Fenrir。」
「…右腕だ。」
…?
「それでお相子と言うことにしてやる。」
み、右腕?
一体、何の話をしてるんだ?
Teus様はゆっくりと頷くと、マントの中からぼろぼろの手袋が嵌められた右手を取り出し、首元のマフラーを緩めて埋めていた口元を晒す。
そのままゆっくりとその手を彼の顎の下へと運び、優しく摩った。
彼はそれに一切の反応を示さず、代わりに一段と声音を下げて囁く。
「…忘れるな。俺もまた、奪われなくてはならないのだ、と。」
「これ以上、君から何を奪えるって言うんだ…」
「でも、損な役回りをさせてることは分かってるつもりだ。済まないね。」
「お前の頼みだ、構わんさ。」
「ありがとう、Fenrir。」
Teusよ、と彼はふといつもの調子で呼びかける。
「一つだけ、聞かせろ。」
「…今までも、そうして来たのか?」
彼は狼狽える様子を僅かに語尾に滲ませると、そう尋ねた。
「最近、改めたんだ。」
「それで、そいつらが救われるとでも?」
「俺はこのまま、覚えていたいんだ、わかるだろ?」
「……そうだな。」
Teus様は自分の顎をぽんと彼の鼻面の上に乗せると、悲し気に溜め息をつき、長らく触れることが出来なかった毛皮を愛おし気に頬ずりする。
そこだけを切り取って見たならば、僕が期待していた感動の再会を静かに喜びあっているようにも思えた。
ちょっと涙が出そうになった。傍らで見守ることのできる僕にとって、こんなに嬉しいことは無いはずなのに。
できることなら、その間に割って入りたい。Teus様にはなでなでを強請り、Fenrirさんからは力強いお褒めの言葉を貰えるような日であっても、良いと思うんだ。
それなのに、彼らが纏う悲哀の深さが僕には推し量ることが出来ない。
Teus様とFenrirさんが飼っている、何かが僕には見えてこない。
やがて彼は、醒めた表情で彼から手を離すと、それを僅かに開いたFenrirさんの口の中へずぶりと突っ込んだ。
「…じゃあ、お願いするね。」
“グルルルゥゥゥ……”
Fenrirさんが、人間の言葉を失った。
それでようやく彼が何をしようとしているのかを理解できた。
毛皮が逆立ち、喉の奥に気持ち悪い唾が溜まる。
“や、やだ…”
Fenrirさんは都合よく、彼の考える狼になろうとしている。
僕への償いと称して、
右腕を、彼から奪うつもりなのだ。
Teus様が腹を括ったように、目をきつく瞑って俯く。
「……。」
“いやだああああああああああああああああっっっっ!!!!!!!!!”
右眼の奥で、何かが激しく疼いて弾けたような気がする。
次の瞬間、僕は処刑台に向かって衝動的に走り出していた。
乾いた叫びにより大きく反応を示したのは、Fenrirさんのほうだった。
狼の言葉が理解されてしまうのだから無理もない。
びくりと耳を弾かせ、とんだ邪魔が入ったと言わんばかりに後ろ足で地面を引っ掻く。
見るな、あっちに行っていろ、ですって?
そんなの言う通りに従いませんよ。
都合が良すぎます、だったら僕の目の前でこんなことをする必要ないじゃないですか。
今此処でやろうと言うのは…ある種、僕にその償いがなされたのだと見せたいからでしょう?
彼に少しでも逡巡の余地があったことに、心から感謝した。
まだ、終わってない。僕にもできることがある。
“僕にはっ…ちゃんと見えてますっ!!”
Fenrirさんの瞬発には遠く及ばないだろう、しかし僕はTeus様の腕を深くまで咥えた彼の眼に入る位置まで走り込むと、ばっと自分の傷ついた横顔を見せた。
“ほらっ…僕には、この眼でFenrirさんのことが見えます!”
難しいけど左眼だけをぎゅっと瞑り、もう一つの与えられた瞳で、狼の眼を見る。
彼のように睨みつけるような力は無いけれど、僕のこの眼は生きていると、分かりますか?
Fenrirさんは動くことが出来ない代わりに、僕のことをぎろりと見下ろす。
“Freyaさんに、治してもらったんです! 最初はもう見えないかと思ったし、今もまだちょっと濁ってるかもしれませんが…大丈夫なんです!”
「Ska…?」
Fenrirさんは苦い顔をし、Teus様はけたたましく吠え続ける僕に困惑の表情を浮かべる。
“僕はこれぐらいの傷で諦めませんっ! ”
“これぐらいどうってことないっ…!!
少し見えづらくなったって、耳も聞こえます、鼻だって効きます。人間の言葉だって、僕は分かるんですっ!Fenrirさんみたいに、もっと速く走って森の中を駆け抜けることだってできる!
…僕は今まで通り、群れの中で一番の狼でいられます!!
僕は貴方とTeus様に選ばれた、狼なんですっ!!
まだもっと頑張れます! 今度はもっとすごい狼になって、Teus様のこと、今度こそお守りしますから!!
だから…だからぁ…!!”
“ぼくのFenrirさんとTeusさまにてをだすなああああああああああっっっっっっ!!!!!!!!!!”
“びぃゃぁあああああああああああああ…………”
糸が切れた。僕はぺたんと尻餅をつき、空に向かって鼻面を高く突き上げ、甲高い鳴き声と地声を滅茶苦茶に行き来して吠え、泣き喚いた。
もう駄目だったのだ。僕を受け止めてくれる誰かが、僕は欲しかった。
僕に産まれた傷を、理解してくれる存在が。
それを、彼らが知ってくれていたかなんてわからない。
でも、良いんです・
僕を泣き止ますことが出来るのは、やはり彼の怒声と、彼の優しい手のひらだとだけ、知り尽くしていたようだったから。
“…良い加減俺の質問に答えろっ、Skyline!!“
「ちょっ…そんな怒鳴らくてもいいだろ、Fenrir…。」
気が付けば、Teus様がマントの裾を降ろして僕の頭を右手で撫で、Fenrirさんが僕の涙を鼻先で拭っていた。
“ぅえっ…ぅう…?”
どうやらお二方で、どうにかしてこの困った狼を泣き止ませようと手を焼いているらしいのだ。
まるで欲求の分からぬ赤子をあやすように、狼狽えている。
Teus様に厳しくたしなめられ、Fenrirさんは耳を引いてやりづらいなと呟くと、本人は猫なで声を繕ったつもりのようでこう囁いた。
“耳まで壊れているとは聞いてないぞ…? 頼むから教えてはくれぬか、Ska…”
“うぅっ…は、はいっ…なん…で、しょう…?”
僕が反応を示したのに安堵の色を浮かべると、彼はTeus様に通じる筈もないのにも拘らず、声を潜めてこう尋ねた。
“どれだけ落ちた?”
“お、ちる…? ”
何の、はなし…ですか?
“視力だ。”
“シ…リョク?”
すみません、良く分からないです。
“…どれだけお前の眼が見えづらくなったのかと聞いているのだっ!”
「Fenrirっ…!!」
Teus様の両手が僕を強く抱きしめる。
ど、どうだろう? 実際にどれぐらい目が悪くなったのかな?
走るのに眺めた地面と接地した脚の間には微妙な感覚のずれがあるし、右目の端に捉えた獲物の位置を確かめるのに、いちいち顔を大きく傾けなくてはならなくなったけれど、一言でその不便を現すことはできないだろうか。
“え、えっと…”
どう答えたものかと思案して逸らす目の端に、Teus様の横顔が映り込む。
“そうですね…”
僕は、腕輪の中からちょっと首を伸ばして顔を出すと、思いきりの笑顔でこう叫んだんだ。
“Teus様の顔が、見えやすくなったんです!”
「それならば、十全だ。」
Fenrirさんは、僕の答えに目を細めると、やがてそれを微笑みの表情に変えてくれたのだった。




