46.解毒 2
46. Antidote 2
身を力なく震わせる様子は、まるで子狼だ。
そぐわぬほどに覚束ない足取りで姿を現した狼が先刻の声の主でないことは、一瞬で分かった。
落ち窪んで充血した眼、
不気味なほどにやせこけた頬、そして艶を失ってへたった毛皮。
どの一つを取って見ても、僕が憧れ慕った彼の風貌は何者かに奪われてしまったようなのだった。
“あ…あぁ…”
あまりの変貌ぶりに、僕は落胆の絶句を持って後退る。
とりわけ僕の視点から注意を引いたのは、目を背けたくなるほどに凹んだ下腹部だった。
冬毛皮を立派に纏い始めた僕らは、もとの体型が分からなくなるほど見た目にもモフモフになる。
頬の周りにもいっぱいの毛を蓄えると顔の輪郭も少し変わって来るほどだし、耳の後ろから首回りへ靡く美しい毛並みは、魅惑的に揺れる尻尾と並んで異性を釘付けにするほど、僕らにとっては一種のステータスでもある。
それがどうだろう、本来ちょっとふくよかに見える筈だと言うのに、痛々しいほど目に見えて痩せ衰えてしまっているではないか。病気や飢餓に苦しんでいるのでもなければ、ここまで酷い有様には陥らないのに。
不可解だった。一応、先の鹿肉を頬張ることを放棄したことに符合はする。が、そうする理由が分からない。
戸惑いを隠せず、耳を寝かせて恐怖を露わにする。
明るみに出た彼の表情からは、憔悴しきった様子がありありと映し出されている。
虚ろながらも自分へと視線を向けたのを、向こうも辛うじて驚いているのだと読み取れた。
半開きになった口から洩れた言葉は、情けないぐらい弱々しい。
“なぜ、やって来たのだ…?”
この来訪は、俺には予定されていなかった、とでも言いたげだった。
それは、そうだろうとは思う。あのような別れ方をしておいて、2週間全く音沙汰が無かったのだ。
僕が心の底からこの狼のことを憎いと思うようになるか、或いはTeus様に最悪の結末を齎したことを言いだせずにいるのでなければ、音信不通にして彼を宙ぶらりんのままにしてしまうのは酷すぎる。
もう、繋がりの一切は断たれてしまったのだと諦念に至ってしまっていたのだ。
ごめんなさい。僕だって真っ先に貴方のもとへ駆けつけ、Teus様のことを報告したかったんです。
で、でもね…あの方は…
“何故やって来たかと問うているのだぞ? Skyline!”
“はっ、はいぃっ!”
心情を慮り、毛皮を寝かせて僕もしょげ返っていると、槍のように厳しい怒声が飛んできて我に返った。
少しだけ、いつものTeus様への辛辣な口調が思い出されて安心する。
しかし、本気で僕が此処に来るべきでは無かったのだぞという唸り声と、口からちらつかされる牙は、すぐに撤回してもらえるような感じではなかった。
“グルゥゥゥッ…”
うぅ…そんな怖い顔、しないでください。
ち、違うんです。話を聞いてくれませんか?
忽ち僕は耳と口の端を引き、されるがままに睨みつける彼から視線を逸らす。
衰弱した見た目とは裏腹に、あの喰い殺すような威圧感は健在と評すどころか、前よりも手負いの獣が如く獰猛だ。
狼の言葉を交わすことさえ拒み、完全に心を閉ざしてしまったのは、他でもない自分のせいだと思うと、胸が硝子の破片を含んだように痛む。
間違っても僕を傷つけようとする意思など一切無いのであっても、月明かりに魅せられたTeus様のように、彼も無抵抗なに自分に牙を剥くのだろうか。
尾を股の間に挟み込んでいる場合じゃないのに、植え付けられた恐怖心が毛皮を逆なでる。
これからもずっと、僕は恐い思いをするたびに、あの夜の傷口を弄ることになると怯えさせられる。
とりわけ鋭い言葉が、僕の耳を掠める。
“救えるのかと、聞いているのだぞ。”
そう迫られた時、僕は生意気にも貴方に向かって吠え返しましたね。
もっと怖い顔で、飛び掛かられると思っていたんですよ?
でもFenrirさんは、そんなことしなかった。僕が知っている、泣くほど優しい狼だったから。
はい、僕は今日、答えを口に咥えてやってきたんです。
いつもTeus様から預かった言伝を述べる時のようにすっと背筋を伸ばして座り込むと、
今の彼を唯一救い、元気にさせるかもしれなかった言葉を口にした。
“Teus様の意識が未明、戻りました。”
“…はい、ご無事です。”
彼は造られた狼の彫り物のように、一切の動きを止めて固まった。
僅かに口角が上がったように読み取れなくも無かったが、尻尾の先までぴたりと呼吸するのを止める。
どうしたんです?
聞こえなかったんですか、Teus様が元気になられたんですよ?
僕の言葉の意味がゆっくりと沁み込んで、やがて凍った表情が笑顔に変わって行くぞと期待したのは、Fenrirさんに関して言うのなら、見当違いだったのかもしれない。
憎しみは薄れたように見えた。が、残された感情が余りにも惨めだったのだ。
“…それを俺に報告して、どうすると言うのだ。”
“え…?”
予期せぬ言葉に、思わず目を瞬いて聞き返す。
“俺には、もう関係のない話だ。”
“そんな… ど、どうしてそうなるんです?”
“俺には、あいつが救えなかった。”
“……。”
“そしてお前は、やり遂げたのだろう?”
“それだけのことだ。”
“そ、れだけ…?”
口の中で、牙が痛い程噛み合わされる。
僕は、Fenrirさんに、Teus様のことを託されたのだと思っていた。
あの方の生死が僕の奮闘の果てに委ねられていると。
でも、彼の中ではどうやらもっと酷い意味で、Teus様のすべてを僕に放り出していたのだ。
Fenrirさんは、あの方と一緒にまた笑いながら季節の訪れを待つ幸せな日々さえも、希望と受けとらず、寧ろ拒絶しようとしていた、だなんて。
そんなものまで僕に押し付けて、もしも二度と誰も来なかったら、貴方はどうするつもりだったと言うんですか?
“悪いが、無駄足であったようだ。お前の報告に、有益な情報は何一つない。”
“……。”
嫌いだった。どうしてこうも、Fenrirさんは、淡々と自分の傷口を広げて平気そうな顔をするんだろう。
狩りの出来栄えがいまいちであったと告げるような口調で、お遣いの任務に落第点をつける。
“当然のことだからだ。お前がTeus‘様’ のことを救ったことは驚くに値しない。”
“よく頑張った。”
“……。”
Fenrirさんは、それから優しく僕のことを労った。
“報告ご苦労であった、ありがとう。もう帰るが良いぞ。”
……。
嫌です、嫌ですよ。
僕が何のために来たと思ってるんですか?
もっと、褒めてくださいよ。
口元に、貴方の鼻先が触れてくれたって、良いんですよ?
普段滅多に褒めてくれないFenrirさんだからって、今日ぐらい出し惜しみしなくて良いと思いませんか?
“まだ、報告が御座います。”
わかりました、Fenrirさんが驚くようなこと、言ってあげます。
もうちょっと、黙っているつもりだったんですけど。時間の問題ですからね。
これなら、どうですか?
“Fenrirさんに、お会いしたいとのことです。”
“何……?”
今度は、明らかに心が動いた。
ええ、そうですよ。
ずっと、待っていたんでしょう?
僕は、今度こそ自信たっぷりに声を弾ませ、満面の笑みで言伝の内容を彼に聞かせた。
“Teus様が間もなく、いらっしゃるんですよ!”




