43.離脱症状 2
43. Withdrawal 2
獣が痛みに呻くのを聞いたことがあるだろうか。
総じて金切り声なんだ、獲物かどうかに関らず。
死に瀕していると示すのに、僕らは言葉を持たないからだ。
身体の限りを尽くして痛みに暴れ回るのは、より酷く映った。
お供をさせて頂いた狩人の方が、狐を射抜いたのを見たことがあります。
想像するより、身を捩って跳ね回るのを見て、思わず僕は同情しそうになった。四肢を傷つけられ、持て余した胴で、逃げられない代わりにそうするんです。
僕は今、それに近いような敗北を認めたいのかも知れないと思った。
でも、僕らが腹を見せて許しを請うのは、命にかかわるような傷を負う前に不要な戦いを避けるためであって、少し意味合いが違ってくるような気もする。
そうした仕草ですら今は役に立たず、虚しい痛みを加速させるだけと言うのなら、やはり僕はこうやって声音を変えるしかない。
苦しいです、と。
“キュウウゥゥゥゥゥゥ…”
こうやって、震えながら。
聞こえていますか? Teus様。
殴られた衝撃自体は、幸いにもさして僕の脳天を揺さぶることはしなかった。
単純にそうしたダメージを受け流すのに慣れている、と言えば良いだろうか、狩りで訓練された能力が救った。
僕らよりも遥かに図体のでかい獲物を取り押さえるためには、群れの精鋭の内の一匹が果敢に噛みついて、走り続けることが困難になるような、深い傷を負わせなくてはならない。ちょうど僕がFenrirさんに誘われて子連れ鹿を駆り立てたときにそうしたように、群れの立ち回りによって与えられた機会を無駄にすることなく、加勢を促せるよう牙城を崩すのだ。
勿論相手も必死で、尻の肉に喰らいついた蠅を振るい落とすのに躍起になる。歯を食い縛っても牙が口からそのまま出て行ってしまいそうなほどの力に、意識が飛びそうになる。
それで頭を激しく揺さぶられ、うっかり振り落とされでもしたなら非常に危険だ。着地の余裕などなく地面に叩きつけられて、そのまま蹄の蹴りが頭蓋を直撃し、致命傷を負うことだってある。そんなに珍しい話ではない。僕の仲間に、そうして別れた命は実際にある。
僕らも狩る側でありながら、安全な立場で食事に預かれている訳では決してないと言うことだ。
それゆえ、頭がぐわりと揺れ、ズキズキと軋むこと自体に、僕は狼狽えなかった。
思ったよりも重たく響いた一撃ではあった。Teus様へ寄せていた信頼が、それだけ大きかったと考えるだけで、彼の影は潤んでぼやけてくる。だから違う、これはきっと中身の詰まった瓶を、割れるほど強く打ち付けられたせいなのだ。
“あ、ああ…あ゛ぅ…?”
でも、僕の顔面で焼けるように痛むこれは何だ?
右の額を強く打ち付けられ、どうやら僕は瓶に入っていたお酒を丸々かぶってしまったようだった。
それが毛皮を侵すほど強い酸であるかのように、激しく疼いて収まらない。
そのまま僕の顔を溶かし切ってしまうのではと恐ろしいことを考えるほど、熱い蝕みは続いて収まらなかったのだ。
傷に沁みただけで、この暴れよう。口に含みでもしたら、喉に穴が開いて遠吠えも出来なそうだ。
初めて感じる痛みの鋭さに、戸惑いの声を上げる。
これも、Teus様を殺すために仕込まれた毒のせい、なのか?
それとも、お酒は人間にしか飲めないようなお水で、僕らには毒だったのかな。
顔の感覚が朧気で、わからない。どのように傷ついて、どうしてこんなに痛いんだ?
己の痛みに精一杯になりながらも、きっと僕が見間違えただけの、囚われてしまった主人の姿を見上げようと、傷ついた方の眼を開く。
“あ゛あ゛っ、ぎゃうっっ!?”
ち、違う…これは…!
右目の中にじわりと流れ込んだ液体が、さらに激しい痛みを伴って僕を襲った。
慌ててきつく目を瞑り直し、先とは質が違う、痺れるような酷い痛みが背中を撫でて毛皮をよだつ。
う、嘘だ…
今、見えなかった、ぞ?
Teus様の姿、が。
い、嫌だ。そ、そんなはずない…。
きっと、血が目の中に入って、見えなくしているだけだ。
ちょっと息をするのを我慢して水に顔を浸せば、奇麗に戻るはずだから。今は痛くてたまらないけれど、きっと大丈夫、また見えるようになる。大丈夫、だから…。
四肢が震え、吐き気がした。
全てとは言わない、でもたったこれだけで、皆が羨むような狩りの力や、それ故に僕が誇れていた狼の群れの長としての威厳のどれだけが奪われるか知れなかった。
どうなっちゃうの? 片目だけでも、見えるならいつも通りに走れるのかな?
もし、今まで通りに狩りが出来なくなって、人間の皆さまにも、群れ仲間にも認めて貰えなくなったら、どうすれば良い?
僕のお嫁さんは、今まで通りの彼女でいてくれる? 子供たちは、僕のことを憧れの眼で見ていてくれる?
僕は、必要とされる存在であり続けることが、できるのかな?
僕は、生きていられるのかな…?
“……。”
何も、見えなくなった。
たった一度の過ちで負わされた怪我は、僕の一歩先の未来でさえ、暗雲で覆いつくしてしまったのだ。
「なんだっ…これ?虫が飛んでるな…。」
その言葉にはっとして、まだ光の残っている左目で声の主を見上げる。
一瞬、ばらばらになった本能的に、殺されると身構えた。それが僕に向かって吐き捨てた侮蔑で、まだ平伏さぬ愚かな獣へ今度こそ確かな追撃の鉄槌を下してやるぞと示しているように思えたからだ。
しかしどうやら、もう既に僕に対する興味は失せ、彼は自分で無駄にしてしまった凶器の柄を捨て、中身の詰まったもう一本の酒瓶を手にしたいらしかった。
実際、彼の邪魔をする煩わしい狼はもう死んだも同然で、これでようやく好きなように欲しいものを手に取ることが出来る筈だったのだ。
が、様子がおかしい。
“…?”
籠にまだ2,3本残っているのに手を伸ばすのだが、それから急に手を引っ込めると、顔を仰け反らせて、ぶんぶんと手で何かを払うような仕草をしきりに繰り返している。
「うわっ…ったく…!」
人が変わったように舌打ちと悪態を吐き、苛立ちを露わにする。
その様子は、おおよそ彼が正気でないことを示すのに十分な挙動だと言えた。
やがて彼は痺れを切らしたのか、強引にお目当ての瓶の尖端を握って引っ張り出すのだが、そのせいで視界を覆うほどに集られたのか、両手で頭を覆って身を屈めながらベッドの上に転がり込む。
「やめろっ!こっちにくるなっ!」
それでも、手を振り回すのを止めようとしない。
何が、Teus様に見えているのだろうか。
突如現れたらしい大群が、彼を頻りに苛んでやめない。
僕には見えなくなった代わりとでも言うようで奇異だ。
独り芝居の不気味さに呆気に取られていると、振り払うことのできない虫たちと格闘し続けていたTeus様は、僕に垣間見せた苛立ちを同じようにそいつらに向かってぶつけだした。
「…いい加減にしろよっ!!」
またも瓶の細くなった口側を持ち手に変えると、いよいよそれで、群れで姿を形作っていたらしい誰かを殴りつけようとする。
“うわっ…!?あぶないっ!”
ベッドの上に全力で叩きつけられた瓶の先は、衝撃を急襲してくれたお陰か、鈍い音を立てただけで済んだ。
が、二発目はそれで済まなかったのだ。
バキンッ…
耳がビクンと弾かれた。まるで自分がもう一度殴られたような気持になる。
思わず右目も一緒にきつく瞑り、痣を突いたような痛みで跳び上がりそうになった。
瓶の破片が飛び散る音とともに、Teus様の動きもぱったりと止んだ。
そ、そんな。
い、今、自分の脚に向かって…。
思わず傷が疼いて、口の中に溜まった唾が酸っぱくなる。
僕の顔面を襲った、毛皮を溶かすような痛みがTeus様の切り裂かれた傷口に入り込み、内側から暴れ回る様を想像してしまったからだ。
“T、Teus様…?”
返事はない。それどころか、痛がる様子すらもない。
辺りは、彼が目覚める前と同様、静寂に包まれてしまった。
“あ、ああ…”
次の瞬間には、Teus様があの笑顔で、また僕のことを両手を伸ばして迎え入れようとしてくれていたのだ。
「おいで、 Ska!」
今度こそは幻覚であるに違いなかった。
切れかけた何かに対する渇望が、彼の中で最高潮に達していたのだろう。
Teus様を暴れさせて、僕を傷つけてしまったのはきっとそのせいだ。
そして僕が垣間見たのは間違いなく、Fenrirさんの知っていた、彼の飼い太らせている、自分を喰らいつくしたがる獣だった。
狼だと形容しなかったのは正しかったと思う。僕がFenrirさんに初めて睨みつけられた時に覚えた恐怖とは、違うものを感じたからだ。
殺される、と言うよりは、自分の中に入ってくるような。
酒瓶を失ったことで、その獣は再び微睡んだのだろう。それが憑き物が取れたように、今は穏やかな表情を浮かべているのだ。
「どうしたの? Ska。」
まるで、僕が言葉を直ちに理解してくれなかったことを心配しているかのように、Teus様は首を傾げて目を瞬かせる。
「おいでよ!」
“……。”
僕は、Teus様の命令に従うことが出来なかった。
今あったことは、何一つ僕が知っているTeus様を貶めることは無いと思う。
それらは全て、僕が目を瞑っていれば良い話。
まるで森の中で誰かが影を見かけただけの怪物の仕業だ。
言いつけを守って良い子にして、お家じっとしていたなら、決して襲われることなんてない。
そんなものは信じたくない噂で終わる。
だから今のTeus様を見て、あの獣を思い出すことはないはずなんだ。
また先と同じように毛皮をそっとすり寄せて、口元を舌で舐めれば、彼はぎゅっと抱きしめ返してくれる。
殴られたりなんて、されるはずがない。瓶で僕の大事な眼を奪うようなこと、Teus様がするはずないんだ。
大丈夫、このお方は、とても優しく僕に接してくれるのに。
「…Ska?」
“…ごめんなさい。”
どうしても、脚が竦んで近づけない。
うぇ、うぇと、喉の奥からしゃくりあげるような泣き声が漏れる。
怖くなんかないです。そんなこと絶対にないんです。
それなのに、僕は笑顔で両腕の中に飛び込めない。
人間の方の要求に従えないと思った時、決まって僕はゆっくりと顔を背けて、それからちらりと相手の次の反応を窺っていた。
残念そうな顔を認めたくは無くて、それでも次の指示を受け取らねばならないと、覚えてしまったずるい仕草だ
“あぅ…… ”
あろうことか、僕は左に顔を背けたのだ。
何をしているんだ。
それじゃあ、Teus様が、見えないだろう?
自ら傷口を抉ってどうするのだ。
ふざけるなよ。
相対したTeus様は、僕が応えるのを知っているかのように、不安げな表情を隠さない。
「Ska…はやくおいで?」
「もう、水位が迫ってる。溺れちゃうよ?」
溺れる…?
何の話でしょうか、Teus様。
「ほら、すごい勢いで水が…! 此処まで登ってこれば大丈夫だから、ね?」
ああ、やはり悪い夢を見ておられるのですね。
聞いたことがあります。確かTeus様は泳げなかったのでしたね。
彼が怖いものとは、それに飲み込まれるような体験に現れるのだろう。
分かります、僕がヴァン川で引きずり込まれそうになったときにも、同じような怪物を目にした気がします。
Fenrirさんの背中に乗せて頂くまでは、それが幻想だと思えませんでした。
同じように、僕が触れたなら、貴方は救い出されると信じていたのに。
Teus様は、こうして幻に浸された部屋に溺れかけたまま。
そして僕が守ろうとした彼の姿も、所詮は幻想であったようだ。
「だから…だからお願いだよ、Ska。こっちに来てよ…。」
「ねぇ、Ska。」
「助けて…?」
僕が再び、両腕の中に納まるのを確かめると、Teus様はもう離さないぞと言わんばかりの愛情で抱きしめると、そのまま力が抜けたように床に伏した。
僕は彼の言うことを聞いてはならなかったのだと思った。
その望みだけで生きていたと言うのなら、満たしてあげるだけで命の糸が切れてしまうなんて思いもしなかったのだ。
けれどももう、狼狽えて彼の頬を舐める気力もない。
助けを探し求めるのに奔走する勇気も失せた。
ベッドのそばに横たえた椅子に背筋を伸ばして座ると、彼に視線を落として見守り、僕は待ち続けた。
だんだんと、景色の輪郭が露わになって来る。
白んだ窓辺に、乱れたシーツの血の跡は良く映えた。
夜明けがこんなにも絶望的であったとは、昨日までの僕には想像もつくまい。
家族のみんなに顔をすり寄せ、仲良くご飯を食べてから、うきうきとした気分で尾を立て、Teus様とFenrirさんに会いに行く。それがどれだけ楽しみで目を冴えたことだろうか。
…眠いな。
僕は、これから群れの元へ戻って眠り、夜更けに目を醒ますだろう。
きっと暗いままだ。陰鬱な気分のまま、身を寄せて丸くなった仲間が点々とした寝床を抜け、貴方のことを彼の狼に謝りに行きます。
守れませんでした、と。
彼はどのように叱ってくれるだろう。
Teus様から滲み出た怒りなど比べ物にならないほどの憎悪を露わにして、僕の喉を噛み切るだろうか。
勿論、それを受け入れるように、初めから腹を見せるつもりだ。
でも貴方がTeus様の獣を理解できると言うのなら、それすらも怖いです。
まさか、Fenrirさんまで後を追うなんてこと、しませんよね?
…そうしたら僕は、どうやって長い夜をもう一度超えれば良いのですか?
光を宿さなくなってしまった右目から涙が流れる。
なるほど。
自分にさせまいとしていた、看取る、と言う彼の言葉の意味を知った。
僕は瞼の裏にこびりついた最後の顔を笑顔に変えようと、思い出を子細に語り、そして星に失われた色を塗り始めたのだった。




