43.離脱症状 1
43. Withdrawal
ふらりと立ち上がった様子を見て、僕が喜びの一つも感じ得なかったのは言うまでもない。
それは、どうかご無理をなさらないでくださいという心からの願いが先だったわけでも、
未だに幻想の稜線を歩かされているのだと目の前の光景を信じられなかったからでもない。
いいや、疑っただろう。
既に彼が、自分の知らない姿へと変貌しつつあるのだと言うことを。
“Teus様、どうしたんですか…?”
僕は尾を大きく一つ揺らぎ、自分の姿を一応は認めて貰えるかと掛け合ってみる。
入用なものが、あるのですか? それなら、僕がお持ちしますよ?
…いいえ、それは、駄目です。
お水なら、僕が持って来てあげますから。
だから、ね?
“グルルルゥッ…バゥゥッ!バゥゥッ!”
「ん…? どうしたの?」
まるで僕が意味もなく警告の声を発して困ったなとでも言うように、彼は猫撫で声を繕う。
それを見て、僕はいよいよ吠え声を大きくする。
「大丈夫だよ、すぐベッドに戻るから…」
まるで僕の言いたいことがわかったとあやすようだが、それははぐらかしているだけだ。
いけません、僕は、見逃したりなんかしませんよ。
彼が手を伸ばしていたのは、あろうことか机の上に残っていた酒瓶だった。
手つきは迷いがなく、意図は読み取るも何も明らかで、どうしてだという困惑はもはやあり得なかった。
Teus様がお酒に酔いつぶれているところは日常で見たことが無い。本当は一度飲んだら止まらないほどに好きなのかどうかも、Fenrirさんならまだしも、僕は知らない。
けれども、この嗅いだことの無い臭いのするお酒が漂わせる不思議な力のせいで、Teus様が本能的にそれを欲しがっているような感じに受け取れなくも無かった。そして不思議なほどに吸い寄せられると言うのなら、この飲み物に毒を仕込ませることは非常に理にかなってはいる。
彼がまともな状態なら、全力で抗っていたはずなんだ。
そうさせないほど、Teus様をこんな目に遭わせた策略は狡猾だと、恐ろしく思う。
…でも、もし。
Fenrirさんの言う通り、Teus様が…。
彼が飼いならしていたはずの意志で、自分自身をそうさせているのだとしたら?
こんなことをして迎える帰結をよくよく知った上で、なおその臭い液体を口に近づけているのだとしたら?
Teus様が、自分自身を殺そうとしているのだとしたら、どうする?
そんな不安に怯えなければならないなんて、今までに対峙してきたどんな恐ろしい獣たちも、僕の尾をこんなに尻の間に隠れさせようとはしなかっただろう。
Fenrirさんを始めて見上げた時だって、押しつぶされそうな威嚇からは、すぐさま解放して貰えたと言うのに。僕はこれから一生、誰かの笑顔の裏に、そんな願いを垣間見なくてはならないのかな。
嫌だなあ。
僕はすばやく前脚を浮かせてテーブルの縁にしがみつくと、卓上に伸ばされた彼の腕に噛みついた。
“ガゥゥッ!”
少々手荒な真似をしてでも、止めさせなくてはならない。
いや、どんな手を使ってでも、Teus様を死の淵から引き摺り出さなくてはならない。
僕がどれだけ頑張っても、心が変わることは無いのかもしれないけれど、それでも僕は貴方に生きていて欲しいんです。
生きて、もう一度彼に会って欲しいんです。
「いっつ…」
Teus様は、反射的に声を上げて僕のほうを見降ろす。
それだけで僕は怯んで、耳を寝かせ、目を潤ませる。尾を力なく垂れ、媚びるように揺れた。
こんなこと、人間の方になんか絶対にしちゃいけないのに。
僕が仮にどれだけ飢えていたとしても、僕の大事な方を守るために襲わなければならなかったとしても、
…牙の抜けた、飼われた存在だとしてもだ。
“ピィィィィィィィ…。”
上目遣いに、これは甘噛みなんですと情けない声を喉から漏らす。
どうか、分かってください。Teus様。
顎の力でがっちりと抑えながらも、牙だけは喰いこませないように細心の注意を払ったつもりだ。
それでも僕の口は、大きな鹿の腿を容易く引き裂いてしまうぐらいだから、こんな所作ですら人間にどれだけの恐怖を植え付けてしまうか分からない。
手の力を抜いてください、そうしたらすぐにでも離しますから、ね?
噛みついたところを舐めて、許してもらえるんだろうか。嫌われて、しまうかなあ。
「大丈夫だよ。すぐベッドに戻るから安心して?」
暗がりに見上げた表情は、どのようにも受け取ることが出来て恐ろしい。
主に手を上げた僕に単純に怒り心頭であるだとか、可愛げのないことをすると冷たい笑みを浮かべているのか…それとも、別の意志に僕はもういらないと無表情であるのだろうか。
「喉が渇いたんだ…ちょっと飲むだけさ。」
“ぐるう゛ぅぅぅ…”
宥めすかすような言葉にも僕が態度を変えないのを見ると、彼は今度ばかりは困ったなと溜め息を吐く。
そんな辛い態度を示されても、こればっかりは譲れません。
「…わかったよ、Ska。」
肩を竦め、ようやく諦めると言ってくれた。
「だから、放してくれないか?」
…だめ、です。
「なあ、お願いだよ、Ska。」
…ごめんなさい。本当にごめんなさい。
Teus様のお言葉が、信じられないです。
僕の言うことを聞いてくれるんだったら、どうして口の中に入っている右腕から、力を抜いてくれないんですか?
僕の声、届いていないんですか?
Teus様は、僕のような動物が、目を合わせ続けられるのが嫌であることを当然知っていた。
睨みつけることは即ち威嚇であって、その意図が無い以上、一度合わせた目を長くはそのままにすることはない。
仲間内であっても、群れの上位者とそうなった場合には、気晴らしに腹を見せるよう牙を剥かれる前に、結局こちらから目を逸らさざるを得ないなんてこともある。
人間の皆さんはあまりそのような意識は働いていないようだけれど、僕らからしてみればやはり居心地が悪く、言うことを聞いていると示したくても思わずそうしてしまうのが常だ。
彼がそうした点にまでとことん気を配ってくれているのは常々本当にありがたいと思っていたし、きっとFenrirさんと過ごしていく上でもその心遣いが濃密な潤滑油になっていることは間違いないと感心もしていた。
それが今は、声の温もりに反して全く持ってその無感情な視線を僕から逸らす様子が無く、相手が嫌がるのを承知でやっているという意思表示にさえ取れる。
まるで人間の方に怒られている、窘められているときみたいだ。
そんなとき、僕は申し訳なさを全身で示したくて、耳先と髭から尾や背の湾曲まで、体中が萎れたようにげんなりとさせて俯いてしまう。同族で通じるような、お腹を見せることでの服従が、伝わらないからだ。人間との暮らしを通じて、そうすべきことを覚えてしまった。
だから、そうされると二重の意味でたまらない。
僕は最後まで訴える視線を彼に送り続けたが、光の抜けた視線を送り返すTeus様に折れ、とうとう礼儀正しく、ゆっくりとそのお顔から目を逸らしてしまった。
ほんの少しだけ、僕の顎の筋肉が緩む。
「チッ…!」
“…っ!?”
その直後に、彼の口元が歪み、鋭く舌打ちをする音が聞こえたのだ。
もちろん、そんな形で苛立ちを示されたことに対するショックもあったが、動じたとて口元で捕えかけた獲物を逃すようでは群れの統率者が聞いて呆れる。
しかし、彼が何のためらいもなく、僕の机に両前脚を乗せて空いた腹部に強烈な蹴りを入れたことは、流石に予想の範疇を超えていた。
重ねて皮肉だ。飼い犬に手を噛まれるとは、主人も想定していまいが、逆もまた然りと言えるだろう。
“キャウゥッッ!?”
柔らかな弱点に確かに与えられた衝撃は、痛みと言って良いのかわからず戸惑ったが、それでも僕に情けない悲鳴を上げさせるのに十分だった。
巨体を弾き飛ばせるほどでは無いものの、後ろ足立ちで仰け反り身を捩る。
そしてその時を待っていたかのように、牙を噛み合わせて拘束していた右腕は素早くその間から引き抜かれ、迷いなく霊気を纏った瓶の一つへと伸びた。
ああ、そんな。
じわりと腹部に鈍痛が広がり、そして漏れるのを抑える手はなく、歯を食い縛って地面に平伏す。
やっぱり、それが目当てなんですね。
狙いは明白であり過ぎて、それだけにこんな隙を見せてしまったのが馬鹿みたいだけど…。
激しい恥辱に震えながらも、必死で今のTeus様はまともではないのだと言い聞かせ、僕は彼の非道な行いにそれ以上の描写を追求したがるのを抑えた。
遂に本性を現し、人間の傲慢で横暴な態度が振り翳されただとか、良いんです、それは良いんです。
そもそも、僕が先に牙を剥いたんですから。貴方に危害を加えられるのだって当然の報いです。
でもそれ以上に、僕は心の底から、愛すべき人に向かって叫びたかった。
先とは別の個所から、涙が込み上げてしまう。
…怯んだ僕は、間違っていますか?
貴方が好きでいられるのには、確かな理由があると思っています。
だからこそ僕は、今こうして反撃の狼煙を上げられずに、一歩後退って牙を鞘に納めたんだ。
でもそうやって見上げたTeus様に、また与えられると思っている、
無条件の愛情のようなものに、僕もこうやって喉から血の味がしてこなくてはならないのですか?
彼の大狼は、どこまでも僕に正しい助言を与え続けてくれていたらしい。
痛感させられた。どうやら、彼の忠告に対して、何一つ十分な覚悟を持ち合わせていなかったのだと。
これはやはり、幻なのだろう。
最初から気が付いていたのなら、幾らか鼓動も収まると言うものだろうに。
影を濃く纏われて表情を隠された主の眼に射竦められ、呆然と立ち尽くす。
このまま黙って、焦る手つきで瓶の口を開くのを見守っている訳には行かないのに、もう殆ど与えられた役割を思い出せない。
まるで、これから牙で急所を貫かれ、どうか捕食に至るまでに絶命させてもらえるかと思考を明瞭に張り巡らせてしまった獲物のように、脚が根を伸ばして言うことを聞かない。
ああ、だから僕は、最後まで瓶の描く切っ先を眼で追い続けることができた。
あろうことか、瓶を高々と振り掲げ、追撃の罰だと言わんばかりに振り下ろされたそれは、
“ギャウウウゥゥゥッ…!!”
僕の顔面で、子気味の良い音ともに弾け、耐え難い痛みと悲鳴でTeus様を不気味で満足げに笑わせたのだった。




