32.星界の翼 1
32. Wings of the Cosmos
「止んだ、かな…?」
昼下がりは暖かな小春日和かと思えば、夕立が沁みる季節になったものだ。
雨宿りに寄らせてもらった屋根の下からそっと右手を差し出し、そのように呟く。
まだ少し怪しいかと引っ込め、その場で足踏みをして空の様子を窺う。
夕陽の色を纏った周囲の靄も、晴れる頃には消えてしまい、空には天辺だけを美しい橙に染めた雲が孤独に浮かんでいた。季節の変わり目の新しい色合いには、やはりこうしてはっとさせられる。
次第に外を出て道端を歩く人がぽつぽつと現れた。
もう、大丈夫そうだ。
雨だれを上目遣いに避けながら誰に向けてでもなく会釈をすると、自分もその中に溶け込むよう、両手を上着のポケットに突っ込んで家を後にする。
装いを変えねばならないほど、すっかり秋も深まった。森の景色は褪せるどころか、以前よりも目に映えるので、もしもこの季節まで旅を彼と続けていたのであれば、また別の土地を紹介してくれていたのかもしれない。
そんなことを考えるくらいだから、長夜は彼の毛皮が思わず恋しい。
尻尾を抱き枕に幸せな夢を見ていた日々はもう戻らないと思うと、どれだけ布団を身体に巻き付けても物足りないのだ。直になれるだろうけれど、人並みの温もりが欲しいと思ったのは初めてだ。
道中で、一輪の花を大事そうに紙に包んで抱える女性とすれ違った。
誰に送るのだろう。変哲もないように思える疑問だったが、それでいて空想は、なかなかに楽しい方向へ膨らんでいく。歩きながら、それは自分の興味を酷くそそったのだった。
話はつけてある、手はずは整っているだろうか。
「こんにちは。」
「ああ、Teus様。お待ち申し上げておりました。」
使用人と思しき女性は、笑顔で自分の来訪を出迎えた。
以前ほどの冷たさを、言葉の端に感じない。やはり効果はあったようだな。
何のことは無い。Vesuvaで持ち帰った装飾品の中にあった、民族衣装が思いのほか受けが良かったのだ。
互いに互いのことを良く思っていないせいか、あちら方の文化に一定の理解を示すことが予想以上に態度を変えた。似合うかどうかは、この際問題では無く、神族としての誇りやこだわりも一切ないから、ちょっとその服を身に着けてみただけなのに、友好の証と受け取ってくれたのである。
それを侮辱と捉えることも当然あり得たのだろうが、一月だけとはいえどっぷりと民族的な生活に浸かったお陰で、一応は鍍金の知識もついていた。装飾の模様にある動物だとか、あちらで良く目にした楽器を話題にあげるだけで、喜んでその話題を広げる。先方にも歩み寄りの意図が伝わっているのがわかった。
そんなわけで、この旅は恩恵として自分への悪印象を薄れさせ、友好のきっかけをもたらしてくれてもいたのである。今度は郷土料理もご馳走してくれるらしいし、はっきり言って良いことづくめである。
敵はつくっても良いことは何一つないし、はじめからこうすれば良かったのだろうが、また一つ学びを得たということにしよう。
「Gortさんは…長老様は、いらっしゃいますか?」
因みに珍しく名前も覚えた。親しみが少しでも湧けばよいと思って。
「ええ、ええ、こちらへ…。」
招き入れるのかと思いきや、女中は自分を外へ連れ出し、ぐるりと外周を回って、庭と言うには少々大きすぎる放牧地の方へと案内した。
ああ、こっちにいたのか。それならわざわざ扉を叩く必要もなかったのに。
西日に輝く草をぼんやりと眺めながら、彼女のあとを歩く。
いたいた、突然の雨であったけれど、屋根付きのベンチでのんびり休んでいたようだ。
自分の姿を認めると、老人は杖に力を込めてゆっくりと立ち上がった。
「おお、そろそろいらっしゃる頃かと…。」
「どうも…。」
去り際の女中に頭を下げると、すぐに長老の傍らで座る動物へと目を向けた。
用があるのは、この狼犬だ。
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知らない匂いがするその男が現れたのは、穏やかな日差しが身体を温める、冷たい風の日の午後だった。
僕は妻と一緒に、木の枝を引っ張り合って遊ぶ子供たちを眺めて楽しんでいた。
今年は、5匹の子供が生まれた。願いも実って元気に育ち、ようやく彼らも大きくなって、顔立ちや毛並みがはっきりしてきた。ついこの間まで歩くのもままならなかったくせに、今では一丁前に、獲物に見立てた玩具を追いかけまわして遊んでいる。中でもそのうちの2匹は僕が牙をがしがしと鳴らして相手をしてやっても、臆することなくそれに向かって来るほど勇敢な子だった。きっと狩りでも活躍するような、立派な子になるだろう。ほかの子たちはまだまだお母さんに甘えっこと言ったところで、よく2匹仲良くお母さんにくっついて眠っているし、気立ても妻に似たのだろうと勝手に思っている。あとの1匹は、そのどちらでもなかった。ちょっと気弱で、僕にも妻にもあまり甘えたがらないし、他の子たちの遊びや食事にも、どここか引けを取りがちだったのだが、いやはや愛情と言うのは、寧ろこんな子に注がれるものなのだ。それが可愛くて堪らない。
僕と妻の大変な時期もひと段落と言ったところかな。総じてびっくりするほど元気でやんちゃな子たちだったから、こうしてのんびり見守っていられる長閑な時間も、随分と久しぶりな気がする。
妻も、同じことを考えていたようで、僕の方へ顔の毛皮をすり寄せてきた。目を細めてそれに応じると、二匹で身を寄せあっていた日々を思い出す。
家族を持つことが出来て本当に良かったと思う。だけど、僕は彼女のことを誰よりも大切にしたかったんだと、改めて感じるのだった。
とにかく、抱えきれぬほど幸せだったのだ。
長老様が僕らの暮らす寝床へ彼を案内してきたとき、直感的に僕は立ち上がって警戒の体勢をとった。
僕にはここにいるすべての仲間たちのリーダーとして、この男が自分たちにとって脅威であるかをすぐさま見抜かなくてはならなかったのだ。広い意味で、僕の家族だ。もしものことがあってはならない。
その様子を見て、他の雄たちも顔だけはあげて僕が睨む先を中止する。
誰だろう、この人…。
まずこの集落で見ない顔だったが、穏やかに交わされる会話からして、長老様の古い知り合いか何かだろうか。手には武器のようなものは何も持っていなかったから、僕らに危害を加えるような存在ではなさそうだえけど、最近この集落に訪れたと見て間違いない。
他の仲間たちもいるこの囲いの中を見渡すと、その男は指をある方へ向けて、長老様にこう伝えた。
「あの狼犬に、会わせて貰っても?」
…え、僕に?
「ええ、勿論ですとも。」
長老様はそう快諾すると、僕の名を呼びつけてこちらに来るよう手招いた。
妻は、不安げに僕のことを見上げている。どうやら、同じ憂いを覚えているらしい。
大丈夫だよと彼女にもう一度鼻をぴたりと押し付けると、軽く尾を上げて、小走りで飼い主のもとへ走っていった。
長老様の傍らで座ると、頭に手を置いて優しく撫でてくれた。
「凄い!思ったよりも大きいんですね…!」
「ご覧になるのは初めてでしたか。そうです、犬のようにはいきませぬぞ。立ち上がれば人間を押し倒すほどでございます。」
「なるほど、この子なら…。」
尻尾をゆらゆらと揺らしながら、その会話を聞き流す。首を傾げて、その男のことを具に観察していた。
長老様の口調からして、気心の知れたというよりは、目上の立場であるみたいだけど、そんなに凄い人なのかな。強そうな感じもしないし、ちょっとでも変な素振りを見せたなら、牙を剥いてやるだけで腰が引けそうなくらいだけれど。
「しかし、貴方はお目が高い…。この子はこの群れの中でも一番優秀なやつでしてな。」
いつものように、お決まりの自慢話が始まる。
「ええ、彼は特別なのですよ…狩りに向かわせれば名のある狩人も顔負けの活躍をしてくれるのです。群れのものたちは、彼がまとめ上げておりまして…そうです、これだけの数をですよ。」
もう聞き飽きてしまったけれど、本当のことだし、全然悪い気はしない。
この人が驚きの声を上げて僕を見るので、ちょっと誇らしくもあった。
「そして、何よりも頭が良い…。」
長老様は、ぼくの眼を覗き込んで、とびきり嬉しそうにそのことを伝えた。
「彼は、人語を解します。」
「なんですって!?本当ですか…!」
僕はここぞとばかりに、話を聞いていますよと伝えるために、小さく吠えて見せた。
「私どもには彼らの言葉はわかりません。しかし、この子は私の言うことを聞いて、他の仲間たちに伝えてくれるのです。そして彼らは、それに従う。だからこそ、我々こうして一緒に暮らしていられるのですよ…。」
これだけ褒め倒されると、何だか顔が勝手に、僕は賢いんですよという表情になってしまう。
「決めました!…彼を、お借りしても良いですか?」
借りる?これは寝耳に水だ。
家族との時間が減ってしまうのは堪らなく嫌だけれど、既に話はついていたようだ。どう言うことだろうか?
「勿論ですとも。きっと、貴方様のお役に立てることでしょう。」
「やった!あいつもきっと喜ぶと思います…。」
長老様は、もう一度眼を合わせると、ゆっくとした口調で僕にこう告げた。
「良いか、今日からお前はTeus様にお仕えするのだ。必要とあらばお傍にいて、このお方の言うことをしっかりと聞くのだぞ…。」
代わりにお仕えする、か。
どうやら、この人は何か困りごとを抱えていて、長老様のもとへ助けを求めに来たと言うことだろうか。
今までにも似たようなことは何度かあった。狩りの頭数が揃わないだとか、害獣を追い払うのに適役だからとか。お見合いもあった気がするけれど、生憎僕には、もう先約がいるけどね。
でも差し詰めそんなところなのだろう。どんな任務かは分からないけれど、お安い御用だ。
そして僕は、長老様の言葉の端に、“こいつから目を離すな”という意味が含まれていることを瞬時に読み取った。
なるほど、監視役というわけだ。どうやらこれは僕にしかできない、重要な責務でもあるらしい。
それだけ分かれば十分だ。僕はゆっくりとその男の前まで進み出ると、顔を見上げて小さな声で吠える。
「ウッフ…。」
「凄いや、ほんとに言うことを理解してるんですね。」
「もう貴方様の顔も覚えたでしょう。入用になりましたら、お立ち寄りになって彼の名を呼んでくださいませ。」
「ありがとうございます。助かります…。」
何度か礼を言い、もう一度僕の方を見降ろすと、感嘆した様子でこんな独り言を呟いた。
「かっこいい!…ほんとにそっくりだなあ。Fenrirもびっくりだ…。」
Fenrir?誰のことだろう。
まあ良いや。どれだけ褒めちぎられても、あんまり心を許してはならない。僕のご主人は長老様なのだから。
何なら、長老様よりも偉いと言うのがちょっと気に喰わなくもあった。変なことを企てていたら、すぐに知らせなくっちゃ。
しかしそんな偏見に満ちた第一印象は、すぐさま吹き飛んで行った。
彼は僕の目線まで腰を下ろして合わせると、鼻をちょんと近づけて笑顔で挨拶をしてくれたのである。
「Teusって言うんだ!よろしくね!」




