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28.月影の足跡追い 1

28. Moonlit Tracker


咥えていた流木は、その日こそ狼にお誂え向きの顎乗せ枕として重用されていたが、やがて彼の歯牙にかけられると忽ちその形を失っていった。

「くそっ…脆いな…。」

はじめは、その流木を巨大な動物の骨か何かのようにガシガシと噛んでいる姿を想像していたのだが、それはFenrirに限っては間違いだったらしい。ちょっと力を加えただけで容易く割れてしまうようで、ぱきっという子気味の良い音を立てては悪態を吐いている。

大斧で雛を愛撫するようだ、という実感の湧かない喩えは要するに、意気揚々と始めた彫刻は思いのほか難航していると言うことのようだ。

「なんだこれは…骨でももう少し歯ごたえがあるぞ…。」

「流木だから仕方ないよ…。」

彼が今まで平らげてきた獲物たちの骨が、まるでお菓子でできているかのように蹂躙されてきたのを俺は目の当たりにしてきた、余程手ごたえが無いのだろう。


それだけ加工もし易いんだから良いじゃないかと思うのは非力な人間の言い分だ。

流石にFenrirと同じスケールの木切れを彫り進めるのは時間がかかるので、手のひら大の木片をVesuvaから持ち帰っていた小刀で削っていくことにしたのだが、それでも未だ外形すら描けない。

「そちらはどうだ、首尾よく進んでいるか?」

「うーん…俺って不器用だから…。」

お前には、その手があるだろうに。それはその通りなのだが、こればかりは狩りのお陰で狼の方が手慣れていると思った。


それに、正直なところ、この作業に乗り気ではなかったのだ。

別段はっきりした理由がある訳ではなかったし、一度没頭すればそこそこ面白いのだろうが、折角こんな大海原を一望できる砂浜に来たのだから、もっと冒険めいたことを期待していたのだ。

彼の背中に乗ったまま、大航海時代を漕ぎ出すだとか、そうでなくても、波打ち際を一緒に歩いて、奇麗な貝殻を集めてみたり、魚釣りに興じるようなことがしたかった。

「ぐぬぬ…この木目は何とかならんのか…。」

やんわりとそのことを伝えたつもりだったのだが、Fenrirは口の奥で甘噛みをするのに没頭して、そのことに気づかない。

日中はやはり外出がしたくないのかなと思って黙っていたのだが、また日没を迎えても、俺を何処にも連れて行く予定はないらしく、延々と失敗作を積み重ねては、焚き木の肥やしにそれを投げ入れていた。


それにしても、一体どうして彼はこんなにも木彫りに夢中になっているのだろうか。

何でも良いから何かを創ってみたい意欲に駆られているのは、きっと自分が料理に目覚めつつあるのと同じであるから、それは理解できた。でもどうして、よりにもよって彫刻を選んだのだろう。

Fenrirの中で何か、Odinが成し遂げた偉業に張り合いたいという闘争心でも芽生えたのだろうか。だとしたら、端から上手くできっこないと決めつけている自分よりも遥かに素質があると言うものだが、その割には憎しみの感情を彼の中から嗅ぎ取れない。


そうなると、本当に暇つぶしがしたいだけなのか。そうならもっと、俺との会話が弾んでも良さそうなものだが。

「Fenrir…一つ気になっていたことがあるんだけど?」

「んん…何だ?」

荒削りの作業を終えたのか、彼は両前脚で獲物をがっちりと掴み、一番鋭くて長い牙の尖端で慎重に表面を削っている。

「前にFenrirが言っていた、宙に浮いた島の話なんだけど。」

それは、彼が始めてこの海を訪れた時に目の当たりにしたと言う絶望だ。

あの時はそれだけしか伝えてはくれなくて、追々話を聞かせてくれるかと思って待っていたのだが、彼はあれ以来口を閉ざしたまま、それを続けてくれない。

土地が意志を持って大きく揺れ動いた時のように、彼が語ってくれるその先で何処かに繋がるかもしれなかったし、何より憂さ晴らしに声を出したかったのだ。


「…ああ、そのことか。」

そう一言彼は零したきり、牙で彫刻をそっとなぞると、その部分に目を細めて近づけ、また繊細な作業に戻ることを繰り返した。

終ぞ返事もくれないかと少し拗ねて、手に持っていたナイフをそっと床に置きかけた時だった。

「嘘だ、と思わなかったのか?」

え…?

確かにその話には、幾ばくかの現実味すら無かった。地続きではない世界線があると言うだけでも、その目で見ないことには、頭の隅に追いやってしまえるようなおとぎ話にしかならない。だけど少なくとも、彼はそれに怯えたと言っていたのだし、自分自身にも似たような経験はある。この話には、もう少し枝葉がついて良いはずなのだ。

それがどのような意図があって、俺を揺さぶったのか。半ば混乱しつつ、腹立たしさを覚えた物言いで尋ねた。

「じゃあ、つくり話だったの…?」


「そうは言ってない。だが余りにも脈絡が、足りなかっただろう。」

でもFenrirが語ったのだから、それは信じるに決まっているではないか。

「それは嬉しいが…俺には、踏みつけるこの地平から遊離しすぎていて、自分が目にしたものが信じられなかったのだ。だから、寧ろ否定して欲しかった。それは子供が口にするような、空想上の友達と同じであると。そうでは無くても、それを何らかの啓示として、根拠もなく意味を一緒に語り合うようなものでしかないと。」

そんな、彼の心中をそこまで慮るなんてできなかった。

「でも、どうしてそんなに、信じたくなかったのさ?」

ここではない世界が、どこかにあっても良いじゃないか。干渉すらしてこないなら、それはあってもなくても同じなのだから、別にFenrirの頭の中に居場所を見つけても、追い出したいとは思わなくて良いのではないのか。


彼は視線を始めて手元の作品から逸らし、俺を見つめて、とても言いにくそうに嫌なのだと弱音を吐いた。

「…その世界に、逃げ場があってはならない、からだ。」

逃げる?

「俺は本を読むのが好きだし、その物語へ没入するのはとても楽しいと思っている。お前が俺にくれた機会は何よりも嬉しかった。…だがな、俺はいくらこの現実が厳しかろうと、本当にその理想の世界がここではない平面上にあって、そこに望郷の念を絶やさずにいるようなことはしたくないのだ。」

「…。」

「現を抜かすくらいなら、それも良いとは思うぞ。しかし絶対に、ここから逃れようと、俺が幸せに生きる世界などありはしない。…そう信じていなければ、俺はとても生きてなど、いられなかったのだ。」

彼が浜辺で聞いたあの問いかけを、俺ははぐらかして良かったと心から思った。

現実に撃ち抜いても、嘘で慰めても、どちらに転ぼうが、Fenrirは幸せではない。

「…俺は死後の世界も、信じたくないと思っている。その世界の果てで、また会えるのだと、固く信じても、この世界に別れを告げる勇気が無かった、その言い訳でしかないが…。」

つまり、Fenrirが出会ってしまった世界とは、そこから逃げたいようなそれであって欲しかった、と言うことなのか。

そして自分が、その平面を歩いたことがある神だということを、Fenrirは窺い知っている。

では、あのように答えたのは、間違いだったのか。

「だから済まないな、Teusよ。俺には、あの誘いに乗ることはできぬ。何もお前が渡ってきた世界を否定しようなどという気は毛頭ない。しかしそれでも…俺にはその淵を覗き見る資格はない。俺には、Vesuvaぐらいの、人間味に溢れた世界で、十分すぎるほどなのだ。どうか、この森で死なせてくれるか?」

死ぬ、と言う言葉を彼の口から久々に聞くと、握った手に力が籠る。

おずおずと頷くと、ではこの話は終わりにしようと彼は微笑んだ。

「ほら見ろ…!もうすぐ完成だ。」

「え、すご…!」


暗がりにぼんやりとした輪郭でも、それは既に何かを言い当てることが出来る完成度を誇っていた。

思わず身を乗り出して、その名を叫ぶ。

「Fenrirだ!」

それは、四肢を地につけて仁王立ちする狼の彫刻だった。

まだ顔や毛並みこそのっぺりとしていたが、耳や尾までしっかりと削り出されている。彼の小さな分身だと言って良かった。もっと良く見せてよと近寄り、とても牙と爪だけで成し遂げたとは思えない作品を褒めちぎった。

「別に、自分自身を彫り込んだつもりはないがな…。」

照れくさそうだが、まんざらでもない。やはりFenrirは何でもできる、才能の塊なのだ。これでもう何体目かわからないが、たった一日でこれだけのものが作れるだなんて。

俺は手に残していた木片をもう一度見下ろし、これがFenrirの木彫りのように姿を変えるのを想像した。自分にもできるだろうか。今まで興味を失いかけていた彫刻と言う退屈な作業が、俄然輝いて見せる。

と、そこで俺は、別の方向へと進む道を閃いた。

「…ねえ、Fenrir。俺に、その木彫りの狼くれない?」

「…? ああ、もちろん良いが、こんなもの一体どうするつもりだ?」

狼がいる世界なのなら安心だろうが、と首を傾げる。

俺は、彼がどうしてこんなことをしたかったのかを理解できたのだと思った。だからこの思い付きは、きっとFenrirを喜ばせることができるに違いない。

「良いから良いから…だからこんな所で牙で台無しになんかしないでよ。」

「そうだな、ここからが本番だ…。」

また自分の作品の出来栄えを見直すと、彼は真剣そうにつぶやいた。

「俺も、これ頑張ってみるよ。ありがとう、Fenrir。」

「貴様…何か企んでいるな?」

既にそう悟られるぐらいには、俺は笑みを抑えることが出来ないほど、その思い付きを自賛していた。

「…その彫刻も、動き出すかもしれないよってことさ。」


俺も、Fenrirの力を借りたなら。


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